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だよもん娘の血は騒ぐ

This short story was inspired by a film by Kiyoshi Kurosawa, called "Barren Illusions".


 一九九八年、わたしは十七歳でした。

(Part 1) Lost in a Glasshouse

 浩平がいなくなったのは本物の春が近い三月のことだった、と記憶している。恥ずかしいことに、浩平という存在がわたしの中からかき消えていることに気づいたのがその頃だった。あるいは、かつて折原浩平という人間がいたことを思い出したと言い替えてもいいのかもしれない。確実に言えるのは、わたしは少なくとも一度は彼を忘れたということだ。
 高校二年生の一年間が終わるとき、わたしは彼がいないことに気づいた。浩平が消えることで生まれた教室内の空白は、わたしたちが歪むことで埋められていた。わたしたち生徒の座席の列数、並びが乱れていることにわたしは気づいた。ふと気づいたのだった。
「住井くん」
「え?」
「あ、うん、あのね」
 そのとき、わたしは自分の椅子に座っていた。教科書もノートもない。鞄の中には筆記用具しか入っていない。その日は終業式だった。わたしたちは高校二年生を終えようとしていた。そんな朝だった。
 わたしは自分の席について、ただじっとしていた。それが常だった。目立たず騒がず、わたしはわたしのするべきことをする。でもそのするべきこととは何だったっけ。そう疑問に思ったとき、窓際の列の一番後ろで物思いにふけって窓の外を見下ろす七瀬さんが目に入った。え、一番後ろ?
「七瀬さんの後ろって、誰かいなかったっけ?」
「え?」
「あ、うん、思っただけなんだけど」
「いや、七瀬さんが一番後ろだろ。転校のときからずっとそうじゃない?」
「うん。あ、そうだよね。うん」
 そうじゃあないだろう。そうは言えなかった。住井くんは怪訝そうな顔をしたまま、黒板に落書きをしている南くんの元へと駆け寄って、飛び蹴りをした。南くんは黒板に頭をぶつけて、どうと倒れた。いつもある光景のように思えたが、何かが足りないようにも感じられた。
 担任が来て、わたしたちは体育館への移動を始めた。浮かない顔をしていたのか、佐織がわたしの顔を不思議そうにのぞき込んできた。どうかした、と言いたげだったが、彼女は何も言わなかった。クリスマスパーティーなんかをしてしまうくらいに仲の良い友人たちと固まって、体育館へ向かった。
わたしはほとんど声を発しなかった。もともと話すことが多いのは佐織や他の子で、わたしは彼女たちに着いていくような役回りだったから、不自然ではなかった。ただ、そのときのわたしはうわの空だった。そのことだけが普段と異なっていた。それは終業式の間も、ずっと続いた。
 とりとめのない思考の流れはとどまることを知らなかった。式の後に遊びに繰り出したクラスメイトを尻目に、わたしは体調を崩したふりをしてひとり家に帰った。仲の良い友達に嘘をつくのは忍びなかったが、今何かをつかみつつある自分を見失うのはもっと嫌だった。
 ベッドに横になり、瞳を閉じた。すると何かが腹の上に乗っかってきた。猫だ。わたしは瞳を閉じたまま、その毛並みを撫でた。なでしこだった。どの猫かは触れればすぐにわかった。三毛猫がごろごろと喉を鳴らしているようだった。わたしは繰り返し彼を撫でながら、埋められていた空白に思いを馳せた。窓際の一番後ろの席、あそこには誰かが座っていたはずだ。七瀬さんの後ろの席、そこには誰かが座っていたはずだったのだ。それが誰なのか、わたしは本当の過去と歪められた過去をどうにかしてわけなければならないと思った。過去、記憶、わたしは上半身を起こした。猫はするりとわたしの腹から逃げていった。
 たとえば模様替えだ。わたしは室内を見渡した。この部屋はたしか一年くらい前に模様替えをして今に至っているが、わたしはかつてこの部屋がどう彩られていたかをはっきりと記憶していない。ただ模様替えをしたという記憶があり、模様替え後の今の部屋がある。しかし以前の痕跡はない。それと同じ、誰かがいたというおぼろげな感触があり、しかしその感触を産むべき空白はすでに埋められてしまっていて痕跡が見えない。わたしは確かな証を求めている。感触なんて曖昧なものでは不安に耐えられない。何かかけがえのないものを忘れてしまったかもしれないという不安に。
 その午後わたしは緩やかな眠りに落ちた。母の声に目を覚ましたとき、もう夜になっていた。階段を下りて食卓へ向かうと珍しく父がすでに帰宅していて、親子三人が揃っての夕食となった。
 テレビにはどこか遠い異国の紛争地帯が映し出されていた。わたしたちは他愛もない会話を交わした。お父さんがこの時間に帰ってくるなんて珍しいね、そういえば終業式はどうだったの、週末釣りに行くことになったから釣り竿とか出しといてくれないか、どうって別にいつもと同じだよ卒業するわけじゃないんだから、また行くのどうせ釣れないんだからやめておけばいいのに、トラブルが何も起こらなければこれくらいの時間には帰ってこられるんだよ、次は大物を釣り上げてみせるさ、ねえあのさ。
 よどみない会話を断ち切るようにわたしはこう切り出していた、ほとんど一息で。
「何か大事なことを忘れてしまったんだけど、何を忘れてしまったのか思い出せないことってある?」
 そのとき、それこそ本当にたった一度の瞬きくらいの短い間、時間が断裂したようにわたしには感じられた。父はしばし考えてから、こう答えた。
「あるよ。大人になればそんなのの一つや二つはあるもんだ。なあ?」
「そうね。瑞佳だってもう高校生なんだから、忘れてしまったことくらいあるでしょう」
「うん。でもそうじゃなくて」
「父さんにだってあるよ。思い出したくないこともね。昔は無茶をしたもんだからな。でもな瑞佳、無理に思い出す必要はないんだよ。忘れていたままの方が、薄れていたままの方が美しい記憶かもしれないんだから」
 わたしは曖昧に頷いた。わたしの訊きたいことは何一つ伝わっていないとわかったからだった。両親はそのまま昔話を始めた。二人が初めて出会ったのは大学生のときだったという。その頃の話を目を細めて続けていた。わたしは食事を終え、食器を流しに片付けてから、自室へ戻った。
 またベッドに横になる。今度は目を開けたまま、天井をじっと見つめていた。いつもと変わらないはずの天井だったが、不思議と歪んで見えるようだった。あるいはいつの間にかこの部屋もいびつになってしまっているのかもしれない。身体を起こし、ベッドに座った。枕を胸に抱いて、身を丸めた。瑞佳、お風呂入れるわよ。母の声がした。  お風呂に入れば、少しは頭もさっぱりするかもしれない。わたしは枕を置き、立ち上がった。クローゼットからパジャマと下着を取り、電気を落として部屋を出ようとした。蛍光灯のスイッチに指が触れたとき、ふと残像がちらついた。それはきっと模様替え前のこの部屋の様子だった。わたしは振り返り、見慣れているはずの自分の部屋を眺めた。クローゼットの前に戻り、そっと手をかけた。冷たさが指先から伝わってきた。
 わたしは両手に力を込め、クローゼットを思いっきり引っ張った。中身を出してからにすればよかったかもしれない。重さに少しだけ後悔をしたが、動かせないこともないようだった。クローゼットの裏にわずか十数センチほどの空間ができあがった。わたしはそこを覗き込む。その暗がりには室内灯の光が届かず、目を凝らしてもはっきりとは見えなかった。わたしはベッドの枕元から目覚まし時計を持ってきて、文字盤のバックライトを光らせた。そこには柱があった。ながもりとわたしの名字が不器用に彫られている。その数センチ上におりはらこうへいさんじょうという文字が見えた。
「浩平、お母さんに見つかったらわたし怒られちゃう」
「安心しろ。それが大人になるってことなんだ」
「意味わかんないよ!」
 わたしは手を伸ばし、その名に触れた。わたしは彼のことを知っている。折原浩平。たしかに知っている。何忘れてんだよ、長森。まるで彼の声が聞こえてくるようだった。わたしはゆっくりと手を引き、クローゼットを元に戻そうとした。しかし力が入らずに、その場にへたり込んだ。そのとき初めてわたしは、自分が涙をこぼしていることに気づいた。


 翌日佐織から電話があって、せっかくの春休みなのだから皆で遊ぼうということになった。昼食を取ってから待ち合わせ場所に行くと、住井くんたちもいっしょだった。昨晩オールでカラオケをするつもりが当然のように追い出されてしまったので一度は家に帰り、夜が明けるのを待ってもう一度暴れようという魂胆らしい。変なところで真面目なのが良いところなのだと思う。
 お昼過ぎにカラオケボックスに着くともうみんなは揃っていて、ちょうど広瀬さんが熱唱しているところだった。シャウトした瞬間にわたしがドアを開けたから、広瀬さんはちょっと照れたような顔をした。佐織に手招きされ、彼女の隣に腰を下ろした。「ドリンクどうする?」と訊く彼女にウーロン茶と答える。互いにいつもよりも大きな声を出していた。わたしはこの喧噪の中にいることが、あまり好きではなかった。歌う子、合いの手を入れて盛り上がる子、歌とはまったく無関係に大声で話し込んでいる子などが入り乱れている中、わたしは借りてきた猫のようにちょこんとソファーに座って、いつの間にか運ばれてきたウーロン茶で舌先を湿らせていた。この日はいつもにもまして、なんだか居心地が悪かった。きっと浩平の不在に誰も気づいていないことが、わたしの喉元でくすぶっているのだ。
 そんなわたしの様子を見かねたのか、佐織はしきりと「だいじょうぶ?」と気にしてくれた。わたしはそのたびに「うん。あ、いいよ、わたしの代わりに歌って」と適当に受け流した。佐織の優しさは嬉しかったが、あまり続けられると「佐織こそだいじょうぶ? なんか忘れてることない?」なんて口走りそうだったからだ。やがてマイクを握った佐織の歌声がやけに耳に残った。たしか、ちょっと前のアイドルが歌ったポップソングだったと思う。
 昨夜、浴槽の中で、あるいは布団の中でわたしは浩平のことを思い出そうとしていた。小学校や中学校の卒業アルバムはてんで役に立たなかった。信じられるのはきっとわたしの脳みそだけだった。
 折原浩平という人物がいたということだけははっきりしていたが、その顔や声、そしてたしかに感じた彼の体温を思い出すには至らなかった。どうして忘れてしまったんだろう。そんな疑問が浮かぶたびにわたしの瞳からは涙が流れた。誰よりも大事な人だったのに。わたしは顔を枕に埋めて、夜通し自分を責め続けようとした。でもその内に、大事なのは自分を責めることなんじゃなく、きちんと思い出す、記憶したままでいることなのだとわかった。以降、けっして歪められることのないように。
 しかしその思いは早くもくじけそうになっていた。居心地の悪さを感じているといえ、仲の良いクラスメイトたちといっしょにいるのは楽しいはずなのだ。だからいっそ彼らと同じように、といつか考えてしまいそうな自分が怖かった。わたしだけが特別であることにわたしは耐えられるのか、不安でしょうがなかった。
 わたしはトイレに立った。わたしたちは駅前のカラオケボックスで、三部屋分を占領していた。住井くんなどは各部屋を適当に行き来しているようだったが、わたしはずっと座っていただけだった。何もせずにただドリンクを飲んでいただけだったから、便意を催すのも当然だった。用を足したわたしは洗面台の鏡を覗き込んだ。少しやつれたようなわたしがいた。昨晩の涙のせいで、わたしの顔はひどくむくんでいた。簡単に化粧をしてどうにかごまかそうとしたが、あらためて見てみるとどうにもうまくはいっていないように思えた。カラオケボックスの薄暗い室内にいたから、誰にも気づかれていないのだろう。
 わたしは鏡の中のわたしの目じりを指でなぞってみた。濡れたままだった指先の水滴が鏡について、わたしの姿が少しにじんだ。わたしはハンカチで手を拭き、その水の跡も拭き取った。
「長森さん」
「え? あ、住井くん」
「なんか今日元気ないね。今日っていうか昨日から?」
「うん。体調が良くなくて、あんまり」
「大丈夫?」
「うん。あ、ありがとう」
「あ、いや。うん」
 わたしは顔を伏せたままだった。顔を見られたくなかった。それは住井くんだけじゃない。佐織や他の友達にも、きっと。
 そのときトイレのドアが開く。わたしは目線だけを動かして、鏡を視界に入れた。七瀬さんが立っていた、ひきつったような顔をして。彼女はわたしと住井くんを見ていた。そして一瞬の間を置いて、大声を上げた。
「ぎゃああ! す、住井……あ、違、キャー!」
「ちょ、七瀬さん、どうしたんだいきなり。だいたいどうして悲鳴を上げ直したんだ」
「やかましい! ていうか、あ、あんた、ここ女子トイレじゃない!」
「え?」
「いや、えじゃなくて」
 詰め寄る七瀬さんに、住井くんはしみじみと女子トイレを見回してから答えた。
「あ、間違えました」
「何をよ!」
「フロントと」
「この変態が!」
 クラスメイトたちや店員が悲鳴を聞きつけ集まっている中、七瀬さん渾身の左ストレートが住井くんのお腹に入った。住井くんは「ぐぇ」とカエルみたいな声を上げてその場に崩れ落ちた。人混みをかきわけて、佐織がわたしに駆け寄ってきた。
「瑞佳、どうしたの?」
「え? あ、うん」
 わたしは口元を押さえるふりをして、手で顔を隠していた。佐織に小声で「わたし先に帰るね。お金、いくらかな?」と言うと、佐織は心配そうな顔をして「あ、立て替えとくからいいよ。ていうか瑞佳、大丈夫なの?」と逆に訊いてきた。
 全然大丈夫じゃないよ、とは言わなかった。わたしはただ、うんと頷いただけだった。わたしは倒れた住井くんを取り囲んでいる人たちの間をすり抜けて、廊下に出た。そのまま出口へ向かう。コードレスの電話を持っている店長らしきおじさんとすれ違う。彼はわたしに目もくれずに、女子トイレへ向かっていった。
 外はもう夕暮れだった。数時間はあのカラオケボックスの中にいたことになるが、時の流れをわたしは全く実感していなかった。血がにじんだような空を見上げて、帰路につくつもりだった。しかしわたしはどこか上の空だった。居心地の悪さから解放されたからなのだろうか。まっすぐ帰る気が起こらなかった。
 それでも足は自宅へ向かっていた。近所の住宅街の一角にわたしはいた。目の前には朽ちたような家があった。表札には小坂とある。わたしは呼び鈴を押すが、まったく反応がない。音すらもしていないようだった。木製の開き戸に触れてみる。指先に汚れがついた。埃がこびりついた。
「浩平? これ、何?」
 そう呟いていた。もう何年も人が住んでいないような、そんな様子だった。ささやかな庭は草木が伸び放題になっているし、割れている窓ガラスもある。しかし何より生活の臭いがいっさいしないのが不思議だった。ここに住んでいたのは浩平だけではないはずなのに。
 不安になって踵を返すと、人の姿があった。逆光になっていて、一瞬それが誰であるのかわからなかった。光に手をかざし、目を細めた。見知った顔であることにわたしはほっとする。しかしそれもつかの間だった。
「由起子さん」
「瑞佳ちゃん」
「あの……ここってどうして」
「あれ、私何でここに?」
「え?」
「ここって……あれ……?」
 由起子さんは首をかしげて、わたしと家とを見比べていた。やがて、興味を失ったかのように「私もう行くわ」とわたしに言った。
「由起子さん?」
「じゃあね、瑞佳ちゃん」
 わたしはそれ以上声をかけることができなかった。ただ由起子さんの背中を見送った。光に飲み込まれるように由起子さんの後ろ姿は見えなくなった。その場に残されたわたしはしばらくの間ただ突っ立っていた。奇妙なことに、通りがかる人はいるというのにわたしに興味を示す者はいなかった。
ようやくわたしにもわかりつつあった。この家は忘れられた場所なのだ。だから誰も気にしないし、目にも入らないのかもしれない。時の流れから完全に取り残されている。しかしわたしは気づいてしまった。夕焼けが家屋を真っ赤に染めていた。わたしはドアノブを握った。鍵はかかっていなかった。あっさりと扉は開いた。
 屋内はくすんだように暗かった。わたしは明かりをつけようとスイッチを押したが、反応はまったくなかった。電気が来ていないのだ。おぼろげに見える室内の様子がわたしの記憶をほじくり返す。一階のリビングではソファーが倒れて、中のウレタン材がはみ出していた。まるで内蔵のように。テーブルに置かれたままのコーヒーカップには真っ黒い液体が少し残っていた。コーヒーのようだったが、ひどい臭いがした。倒れたソファーを元に戻そうとすると、降り積もっていた埃が粉雪のように舞って、わたしはせき込んだ。
 わたしは靴を脱いでいなかった。ところどころ床が剥がれているのに加え、ガラスや木片、コンクリートの破片が至るところに散らばっていたからだった。まるで人間の侵入を拒絶しているかのようだった。わたしは二階に向かう。一段一段を確かめるように踏みしめた。あるいは腐っているのではないかとも考えたけれど、行き来するくらいだったらとりあえず問題はないようだった。十数段の階段の中途でわたしは足を止めた。そのわたしの背後から、浩平の名前を呼びながらいつかのわたしが階段を駆け上がっていった。制服姿のわたしの背中をわたしは追いかける。
 二階の廊下の奥に夕陽の赤が差し込んでいた。浩平の部屋のドアが開けっ放しになっている。わたしはブラウスの袖で口と鼻を押さえながら、恐る恐る先へ進んだ。ぎしぎしと床が軋んだ。崩れることはないだろうけれど、どうにも嫌な音だった。顔だけで室内を覗き込んだ。浩平がそこにいる、なんて都合のいいことはなかった。無人だった。垂れ下ったカーテンと割れた窓ガラスの向こうに沈みつつある太陽が見えた。その輝きが室内に充満している埃をはっきりとわたしの瞳に映し出していた。床には本や漫画、衣服の類が散乱していた。漫画本を一冊つまみ上げると、背の部分からばらばらと崩れ落ちてしまった。埃のせいで目がショボショボする。
 一階に戻り、台所や浴室のある奥へと向かった。あいかわらず床はぎしぎしと鳴き声を上げている。風呂場の壁や床のタイルには風呂垢みたいなものが所せましとこびりついていて、浴槽には茶色い水がたまっていた。台所には食べ物の類はほとんどなかったが、カビだらけになった菓子パンが食卓にひとつ置いてあった。
「直さなきゃ」
 わたしは菓子パンの包みを手に取り、それを持ったまま家を出た。手の中のパンが消えるということはなかった。空間は続いている。誰もが見ないようにしているけれど。自分の家までは数分だったが、わざと遠回りをした。公園のベンチに座り、すぐ近くのくずかごにパンを捨てた。夕焼けの短い時間はもう終わっていた。


 古い新聞紙を床に広げ、陶器でできた猫の貯金箱を置いた。わたしの手には金槌が握られている。まさかこの貯金箱を壊す日が来るとは思わなかった。小学校の頃に母に買ってもらい、以来小銭を餌のように放り込んでいる、理由があってお金を貯め始めたわけではなく、ゲームみたいなものだった。そしてそれはいつからか惰性になっていった。だから、貯金箱を開ける日のことをわたしは考えもしなかった。
 わたしは金槌を振り下ろした。力はさほど込めていなかった。貯金箱はあっさり砕けた。一円玉から五百円玉まで、たくさんの小銭が中にあった。指を切らないように注意を払いながら、新聞紙の上にできた山から陶器の破片を抜いていった。残った小銭を新聞紙ごと机の上に置いた。正確にはわからないが、結構な金額になりそうだった。でも、足りない、きっと、わかんないけど。


 翌日、わたしは自転車で国道沿いにあるホームセンターへ向かった。当然、硬貨の山は財布には収まらなかったので、先に銀行へ寄った。全部で六万円くらいだった。わたしはホームセンターでゴミ袋、ほうき、ちりとり、マスク、エプロン、雑巾、タオル、バケツを買った。どれも、色気も何もない地味な大量生産品だった。その足で浩平の家へ行く。
 とりあえず玄関に荷物を置き、今度はスーパーへ向かう。確認はしていなかったが、電気が通っていないのなら、水だって出ないだろうと確信していた。二リットルのミネラルウォーターを三本買い、浩平の家へと戻った。
 まずは玄関口から掃除を始めた。わたしはマスクとエプロンをつけ、家から持ってきたバンダナで髪の毛をまとめた。軽くドアを拭いてみると、雑巾はあっという間に真っ黒になった。はあ、とわたしはため息をついた。
 もっと本格的に用具が必要かもしれない、と思ったのはお昼を過ぎたときだった。玄関口だけはきれいになったが、屋内のひどさはこの比ではない。少なくともモップは必要だろうし、壁や天井の汚れを取り除くためには脚立が必要だ。ただ漠然と初めてしまったが、そのときやっとわたしは計画性こそが何より必要なのだとわかった。ただがむしゃらに進んでいけるわけがない。思いは大切だけれど、理屈もまた大事なのだろう。
 わたしはドアに背中を預け、その場に座り込んだ。「巻尺、画用紙、ノート、マジック、あと何だろう……」。頭の中で、必要なものを整理していく。わたしはバンダナを取り、自転車のかごに入れっ放しにしていたカバンから財布を引っ張り出した。


 日が暮れる前にわたしは浩平の家を後にした。埃と塵、そして一旦は失われた思い出が充満した家の中でわたしは大雑把ながらだいたいの間取りを画用紙に描きつけた。もちろんプロの設計士ではない。大掃除に必要な情報があればいい。わたしの手や指は油性マジックでひどく汚れていたが、着ていた洋服もまたひどい有様だった。人目を避けるようにわたしは自室に駆け込んだ。
 考えなければならないことはたくさんあった。その前に着替えて、顔を洗いに階下へ降りた。慌てて自分の部屋へ向かってしまったが、母は買い物に行っているようで不在だった。もちろん父は仕事なので帰っているわけがなく、わたしはひとりだった。顔や手を洗い、また自室へ戻った。
 床に数枚の画用紙を広げた。一階と二階の間取りが描かれている。どういう順序で進めるべきか、合理的に考えなければならなかった。ただ闇雲に突っ走るだけではいつか行き詰る。わかってる。いや、わかっていないとならない。わたしはまた油性のマジックを握り締めた。
 わたしが真っ先に行ったのは家の中を区切るということだった。ブロック分けをして、ひとつひとつを順番に片付けていく。目標が目に見えるし、休憩や一日の終わりをどこに設定するかという点からも都合が良いだろうと考えた。
 すでに終わった玄関を始点として、一階、二階、そしてもう一度一階という順番で行おうと決めた。二階への行き来を考えると、二階を掃除している内に再び一階に汚れが広がるだろうことは容易に想像できた。玄関から中央の廊下をまず片付ける。その後、広い居間をなるべく早く終わらせる。荷物を置ける拠点が必要だった。路上に荷物を広げていては、いくらなんでも不審すぎるだろう。
 わたしはその夜、極めて深い眠りに落ちた。朝の陽射しで目を覚ましたとき、不思議と気分がとても良かった。やるべきことがはっきりしたからなのかもしれない。クローゼットの裏側に浩平の名前を見つけ、得体の知れない不安に襲われて以来、初めての快適な睡眠だった。目を覚ましたわたしは母の用意していた朝食を食べ、家を出た。どうしたの、楽しそうね、瑞佳。母の声にうんと答えながら。


 廊下に散乱していたガラスや崩れた壁の破片、あるいは外から入ってきたと思われる石や砂を取り除くことから始めた。吸引力の強い掃除機があれば楽だったのかもしれないが、電気が来ていない今は自分の手足に頼る他なかった。ほうきとちりとりでのその作業はひどく原始的であるように感じられた。
 家の中心を通る道筋がようやく見えてきたのは昼過ぎだった。歩くだけでもおっくうだった廊下に人間の生活の断片がおぼろげに浮かび上がってきたようだった。この家におまけのようについている庭は狭いが、ゴミ袋の置き場にはちょうどよかった。昨日買ったゴミ袋は当然のように足りなくなった。
 日が暮れるまでは一階の各部屋を仕切ることに費やした。埃や塵のせいでビニールテープがすぐにはがれてしまうのには閉口したが、どのような順番で処理を進めていくかのだいたいの方向が見えてきたのは良かった。
 急ぐ必要はなかった。慎重かつ正確にことを進めていけば、いつかは終わりがやってくる。この世に永遠に続くことなんてない、とわたしは確信していた。


 しかし、実際はトントン拍子というわけにもいかず、空中を漂っている粉塵の類がひどくわずらわしかった。屋内の粉っぽさがいっこうに消えず、今に喉や肺に悪い影響が出るのではないかと思ってしまうくらいだった。この家との邂逅から一週間くらいが経過していたが、わたしはまだ一階の掃除を続けていた。一つの部屋を終えたと思っても、翌日や翌々日には元に戻ってしまっている。不思議で仕方なかったが、階段に座ってぼんやりと屋内を眺めていると、結局のところ不純物がただ循環しているだけで、外に出ていないということがわかった。
 放水という手段が浮かんだが、どこから水を引っ張ってくればいいのかがわからなかった。霧吹きや柄杓で水をまくのがせいぜいだった。わたしは途方に暮れた。いつの間にか夕方になっていて、家の中にも赤色が差し込んでいた。わたしは頬杖をついたまま、開けっ放しにしてある玄関の戸のはるか向こうに沈みつつある太陽をじっと見ていた。
間もなく日が沈んで、夜が広がる。その切り替わりのためのあいまいな時間帯だった。不意にわたしは対策を思いついた。そのあいまいさを取り除けば良かったのだ。はっきりと部屋と部屋を区切る。今きっとこの家の中に境界線は存在しない。住む者の不在が時間の断裂線をあいまいにしている。だからどこかのぼんやりとした光景がゆるやかに他を侵食してしまう。外れかかったドアや襖の代わりに、はっきりとした仕切りを作ればいいのだ。
 帰り道、わたしはホームセンターに寄り、なにか都合の良いものがないかどうかを見て回った。店の隅っこにぽつんと置かれていたビニールシートを見つけた。透明なものと青いものがあり、わたしは透明のビニールシートを選んだ。筒状に丸められているが、広げればかなりの量になりそうだった。値段もそれなりにした。わたしは財布の中身を確認する。そこにはため息がたっぷりと詰まっている。


 銀行で貯金の半分くらいを下ろしたわたしはその足でホームセンターへ向かった。まだ開店前だった。まるで恋人を待っているかのようにそわそわしていた。あれが買われていたらどうしようという不安があった。しかし広い店の片隅でそっと佇んでいたあの筒は、もしかしたらわたし以外の目には入らないのではないかとも思えていた。その矛盾の中、わたしは開店を待っていた。
 結果的にビニールシートは買われてはいなかった。前日と同じように壁に立てかけられていた。ショッピングカートの下部にそれを置き、他にも必要なものを買うために店の中を回った。開店直後で店員以外はほとんど無人の店内を。
 わたしは自転車の荷台にビニールシートの筒をくくりつけた。おかげで後部が妙に重くなったが、漕げないほどではなかった。わたしは急いで浩平の家へ向かった。じきに春休みが終わってしまう。今後の見通しがはっきりするところまで、工程を進めておきたかった。
 浩平の家でわたしが行ったことは極めて単純な作業だった。部屋と部屋との敷居のサイズを測り、それにあわせてビニールシートを切った。切り分けたビニールシートの上部に穴を開け、カーテンレールのリングに通した。そして壁に貼り付けたいくつかの粘着フックにカーテンレールを置いた。見栄えはあまり良くないが、仕切りにはなってくれた。
 透明を選んだのは正解だった。色のついたビニールシートだと、きっと屋内の見通しが悪くなるし、外からの光の通り具合にも影響が出るだろう。電気が来ていない以上、自然光は大事だった。
 その作業を続けている内に、浩平の家は温室のようになっていった。からっからに乾いていて、我がもの顔で飛び回っていた粉塵たちも徐々に生まれた湿気の中でその勢力を喪失しつつあった。その日の内にわたしは二階を含めたすべての空間を区切る作業を終えた。
 いつものように訪れた夕焼けの中、わたしは昨日と同じように階段に腰を下ろし、持ってきていた紙パックの牛乳を飲みながら、やはりぼんやりと家の中の様子を見つめていた。心なしか室内の温度が上がったような気がした。この場で育まれるものがわたしの想いとか愛とかそんなものであればいい。そんなことを考えていた。


(Part 2)また会う日まで。


 新しい年度が始まり、新しい教室へ向かうときの緊張感がわたしはとても苦手だった。始業式だった。前夜、寝るのが遅かったためにわたしは寝坊気味だった。今までは浩平を起こす必要があったから、わたしが寝坊をするわけにはいかなかった。でも今は違う。
 廊下を歩きながら、制服の袖からほんの少しだけ覗いている包帯に触れる。わたしの利き腕には包帯がぐるぐると巻かれていて、まるでミイラのようになっている。
「瑞佳、おはよう!」
 振り返ると佐織が駆け寄ってきていた。少し髪の色が明るくなっているようにも見えるが、いつもと同じ佐織の顔だった。わたしをぎゅっと抱きしめて、顔を離して「ひさしぶりだねえ」としみじみ言った。
 考えてみれば、春休みの間はほとんど誰とも会っていなかった。わたしは浩平の家を元に戻すことで精いっぱいで、他のことのすべてをないがしろにしていた。しかしそれだけの価値のあることだったとわたしは確信していた。
 わたしたちは並んで教室へ向かった。ひとりで向かうときは心細さを感じるものだが、同じクラスに知り合いがいるとわかったときの心強さといったらない。それが仲の良い友人であるなら、なおさらだ。
「ねえ、瑞佳。何か良いことでもあったの?」
「え?」
「なんか、楽しそう」
「そんなことないよ」
 教室の黒板には名前順に席に座るよう指示が書かれていた。佐織の名字は稲城だから、わたしとはかなり離れてしまう。しかし教室の中を眺めてみると、見知った顔がいくつもあった。高校三年生、選択科目の都合もあってか、クラス替えも最小限になっているようだった。
 わたしは自分の席に座った。窓際の列の一番前だった。わたしは窓の外を見下ろす。桜はもう散ってしまっていて、緑の葉が目立ち始めている。何かの拍子でひょっこり浩平が歩いて来ないか、などとくだらないことを考えてしまう。
「くっ」
「え?」
 背後から歯軋りするような音が聞こえた。振り返ると、後ろの席にはちょうど今来たばかりなのか、鞄を持った七瀬さんが立っていた。制服はもうわたしたちと同じものになっている。
「瑞佳……あんたってほんと」
「何? どうしたの?」
「な、何でもないわ」
 七瀬さんは悔しそうな表情を浮かべたまま、すとんと腰を下ろした。
「ねえ、瑞佳」
「何?」
「何かあった?」
「え? 何で?」
「だって、顔が笑ってる」
 わたしは自分の頬に触れた。撫でるように指先を這わせた。そんなことで自分が笑っているかどうかわかるわけがなかったが、どことなく柔らかな曲線が指先に触れた気がした。
「別に、何もないよ」
 そこで担任が入ってきた。わたしは身体を前に向けた。先生が新年度の挨拶を始め、すぐに体育館に移動するが始まる。わたしは誰にも見られないように制服の上から利き腕を撫でた。制服越しに包帯の感触がたしかにあった。


 それは昨夜の出来事だった。ビニールシートの効果は目覚ましく、最初は何年もの間、人が足を踏み入れていないような有様だった浩平の家もせいぜい泥棒に入られたくらいの散らかりくらいになっていた。ここから先は掃除ではなく修繕が必要になると思っていたが、その前に細かいところをもっと綺麗にしておきたかった。どこからか入ってきた土や泥が特に部屋の隅っこにこびりついていることが多かったからだ。
 しかしそのためには灯りが必要だった。自然光だけでは無理があったし、日が暮れるとそれらの汚れは暗がりに同化してしまうのだった、まるで逃げていくかのように。わたしは例によって階段に座って、どうすればいいのかを考えていた。灯りが必要なのだ。例えば電気が通る前の社会のように、行灯やろうそくを使えばいいのかとまず考えたが、火事が怖かった。特にドアや襖の代わりにしっかりと吊るし直したビニールシートに火がついたらひどいことになるだろう。
 そこで考えたのは懐中電灯だった。電灯を縦に固定すれば、光源になる。それを家中に設置し、加えて手持ちで照らせば、暗くなってからも作業ができるかもしれない。わたしは唯一手元にあった懐中電灯を床に置き、無数の懐中電灯が屋内を照らす様を想像した。すっかり日が暮れて、真っ暗になった家の中で自分のひらめきに満足していた。
 そのとき、ぽたぽたと何かが滴るような音が聞こえた。台所か浴室の方からだった。水は止められているから垂れるわけがない。浴槽に残っていた腐った水はすべて流して、汚れは全部落としてやった。だから水が落ちるわけがなかった。わたしは立ち上がって、音が聞こえた方へ急いだ。
 不意に温度が下がったように思えた。そしてすぐにこれだとわたしは確信した。浴室の洗面台の鏡が海のように波打っていた。灯りがないせいではっきりとはわからなかったが、外から差し込む弱々しい月の光がその揺らめきをたしかにわたしに見せていた。
 そこに映っていたのはわたしの顔だったが、表面が波打つたびに誰か別の人間の顔が浮かび上がっては消えた。その照れたような顔をわたしは網膜に焼き付けた。間違いなく浩平だった。わたしははっきりと思いだした。
「浩平!」
 そう叫んで、わたしは水のような鏡に右腕を伸ばした。表面に触れると、そこは見た目通り液体のようだった。プールに腕を突っ込むみたいに、わたしは鏡の中の浩平へ手を伸ばした。浩平は困ったように笑った。鏡に映っているのはもうわたしではなく、浩平だった。口元が動いたが、声は聞こえなかった。でもわたしには彼が何を言おうとしたか、はっきりとわかった。
 ごめんな、長森。
 わたしは反射的にまた叫んだ。
「謝らないでよ!」
 浩平は諦めたように首を振った。そして困ったように笑うのだった。わたしも思わず笑ってしまう。声を出さずに、二人して目を見合せて笑う。しかしすぐに浩平の目つきが鋭くなる。
 そのとき水面の揺らめきが弱くなった。わたしは驚いて腕を引こうとするが、元の鏡に戻ってしまう方が早かった。凝固する鏡から、わたしは無理矢理右腕を引き抜いた。その結果、化粧鏡は粉々に砕け散ってしまった。わたしはそんなことに構わずに、大きな破片を覗き込む。そこに浩平の顔はなかった。
「浩平……謝るのはわたしなのに」
 ぽたぽたと音がした。さっきわたしが聞いたのはこの音? わたしの右手は血まみれになっていた。砕けた鏡がわたしの腕にいくつもの傷をつけていた。台所に行ってキッチンペーパーで傷口を押さえたが、あっという間に真っ赤に染まってしまった。わたしはその場に座り込んだ。しかし傷の痛みなんかより、浩平の顔を目にすることができた喜びが勝っていた。だからわたしは泣きながらも、なんとなく笑っていた。


 ふと誘われるように入った駅前の雑貨屋で、わたしは蛍光灯のランタンを見つけた。白く力強い光に引き寄せられたのだった。それを浩平の部屋の机に置いてみると、元々あったものであるかのようにぴったりとはまった。わたしはその灯りの下で、ノートにペンを走らせていた。日が暮れつつある時間帯だったが、家中に置いた懐中電灯の光のおかげで心細さはほとんどなかった。
 浩平の家で過ごす時間はわたしの日常にはっきりと組み込まれた。学校帰りに寄り、三十分から一時間くらいの短いときを過ごす。それはわたしにとってはささやかだが、たまらなく幸福な時間だった。彼との思い出と戯れているような心持ちでいられるからだった。
 浩平との思い出を紙に書いておく作業もけっして辛いことではなかった。浩平が今ここにいないという事実は悲しいことかもしれなかったが、わたしの中で彼との記憶がひとつ、またひとつと息を吹き返すたびにわたしの心は穏やかになっていった。きっとわたしはそうすることで、笑っていられるのだろう。
 その一方で、新学期に入ってからの一週間くらいが経過し、わたしは教室の中に居場所を見出せないでいた。わたしがいるべき場所はここではないのではないだろうかと思うことが多かった。もちろん佐織や七瀬さんといった友達はいるし、住井くんや南くんとも同じクラスのままで、彼らは何ら変わっていない。変わったのはわたしなのだろう。わたしは、いやわたしだけはあの空間に気づいてしまったから。なかったことになった空白。学年が上がり、クラス替えが行われた結果、浩平の居場所はこの高校から完全に消え失せてしまった。わたしが居場所を掴みかねているのは、わたし自身が浩平に近付こうとしているからなのかもしれない。
 授業を受け、部活動に参加し、回り道をして浩平の部屋で安らかな空気に溺れる。それはわたしにとっては幸福そのものだったが、他人の瞳には奇異に映るようだった。わたしはいつものように浩平の家に寄って、ちょうど帰るところだった。玄関から堂々と家を出たわたしの前にいたのは南くんだった。ぎょっとしたような顔でわたしを見ていた。
「な、長森さん」
「え、南くん? どうしたの?」
「あ、いや、稲城に頼まれて。あ、頼まれたっていうか」
「うん」
「最近、一緒に帰らないからどうしたんだろって言ってて」
「あ、うん。え? 佐織が?」
「ああ、そう。で、お前ちょっと後つけてみろって、それで」
「え、佐織……あ、そうなんだ」
「ここって……」
 南くんは背伸びをして、わたしの肩越しに浩平の家を眺めていた。興味深そうな顔ではあったが、仲の良い友人の家を見る目では決してなかった。
「意外だな。長森さんって、こういうの好きなんだ」
「え?」
「廃墟っていうんでしょ、こういうの。俺よくわかんねえけど」
「違うよ」
「え?」
「巣だよ」
「巣? え、そうなの? 何の?」
「愛の、わたしたちの」
 わたしはそう言って、歩き出した。呆けた顔の南くんの真横を通り抜け、自宅へ向かった。背後で南くんが笑い出していた。
「おもしろいこと言うんだね。じゃあまた明日、長森さん」
 わたしは振り返って微笑んだ。冗談のつもりではなかったが、南くんはジョークと受け取ったようだった。わたしとしても、その方が気楽でよかった。それにいずれにせよ、南くんはこの出来事を忘れるだろう、きっと。


 翌日、学校で南くんと顔を合わせたが、昨日会ったことすら憶えていないようだった。南くんは佐織に頼まれたと言っていたが、佐織本人から訊かれたのだった、「ねえ瑞佳、最近変じゃない?」と。
 わたしは「え、そう? 変かな」と七瀬さんに話を振ってみた。物憂げに窓の外を見下ろしていた七瀬さんは「え? 何?」と慌てていた。まったく話を聞いていなかったようだ。
「何の話?」
「瑞佳がね、最近付き合い悪いなっていう話」
「え? そうなの?」
「悪くないよ」
「えー、悪いよ、何言ってんの」
 佐織は紙パックのぶどうジュースを啜りながら、大げさな声色と身振りで七瀬さんに最近のわたしを説明する。言われてみれば、確かに付き合いは悪かったかもしれない。友達と遊ぶ時間を最近のわたしはほとんど取っていなかった。でも、それがはたして本当に大事なことなのか、わたしにはわからなかった。
 わたしは箸を置いた。お弁当の中身は半分くらい残っていたが、食欲がほとんどなかった。疲れがたまっているのだろうか。精神的な安らぎは得られているが、体力的には際どいところまできているのだろうか。一日か二日、完全に身体を休める必要があるのかもしれない。わたしは佐織と七瀬さんの会話をうわの空で聞いていた。たまに口を挟みながら。
 学年が上がり三年生になってから、教室の空気は少しずつ変わりつつあった。昼休みなどは浮き足だったような騒がしさで満ちていたが、今まではただやかましいだけだった。今はどこか違っていた。そのやかましさの裏に焦りや苛立ちが含まれているように感じられた。
「瑞佳、彼氏でもできたの?」
「うん」
 わたしはその言葉をほとんど聞かないまま適当に相槌をうった。会話が止まり、自分の答えの恥ずかしさを知る。何を言っているのだ、わたしは。
「え? ホント?」
「あ、うん」
 正確にはできたのではなく、いたのだ。折原浩平。わたしは口先でその名前を弄ぶ。彼の存在はこの世からかき消えてしまっているが、わたしの心には残っている。いや、取り戻したのだ。
「え? ちょっと誰なの? 名前は?」
「ていうか、なんでそんな大事なことを黙ってたの?」
 動揺したように訊ねてくる七瀬さんと呆れたようにわたしを見ている佐織はどこか対照的だった。すべてが腑に落ちた、と佐織は眼で言っていた。一方の七瀬さんは、どこか無邪気だった。わかったような気になっている二人にわたしはちょっとした怒りを感じた。決して表に出すことはなかったけれど。
 わたしは覚悟を決めて、浩平の名前を出すことにした。どうせ二人は「誰それ?」という反応を見せるだろう。それでも良かった。わたしはきっと表明をしたかったのだ。自分の胸にしまっておくだけにとどめず、浩平を一度はなかったものとしてしまった何かへの宣言を。わたしは忘れていない、これからも忘れないぞ、と。それはきっと自分への決意表明だった。
「浩平っていうの。折原……」
 言葉に詰まったのは泣きそうになったからではなかった。舌が回らなかったのだった。名前を出させまいという見えざる力が働いているようにも感じられた。それに負けそうな自分が悲しくて、わたしは泣きそうになる。
「瑞佳……」
 そんなわたしを佐織も七瀬さんも心配そうに見ていた。二人の瞳にわたしはどう映っているのだろうか。どう映っていても構いはしないが、友達に心配をかけることはしたくなかった。だからわたしは努めて明るくふるまおうとした。
「ごめん。秘密なんだ。彼とわたしの」
「あ、ああ、そうなんだ」
 七瀬さんは無理矢理自分を納得させようとしているようだった。佐織は何も言わずにわたしを見ていた。わたしたちは見つめあう。小学校の頃からの、長い付き合いだった。わたしが、わたしの日々が変容しつつあることをきっと彼女は見抜いているのだろう。
「佐織」
「え? あ、うん、何?」
「うん。何でもない」
 そのときチャイムが鳴った。佐織は笑って「またね」と言った。椅子を片付け、自分の関へ戻っていった。七瀬さんも黙って、わたしたちが占拠していた机や椅子を元に戻している。わたしは七瀬さんに声をかけられないまま、午後の授業の始まりを待った。


 風のない穏やかな夕暮れだった。わたしは窓ガラスにそっと手を触れていた。浩平の部屋、濃い群青色のカーテンを閉じて、わたしは椅子に座る。机の上にはノートが置かれている。束で売られていた、ただのキャンパスノート。
 近くに引っ越してきた男の子は家に閉じこもったままあまり外に出てこなかった。学校でもずっとふせっているような有様だった。わたしは子ども特有の好奇心から、彼のことが気になり始めていた。そもそも引っ越してきた当初から話題になっていた。難病を抱えているというのが一番根強い噂だったが、まるで風車小屋に隠れるフランケンシュタインの怪物のように彼を言う者もあった。わたしはあるとき発起して、その子の家に行ってみた。見上げていると、ある部屋の窓ガラス越しに男の子の姿が見えた。わたしはうれしくなった。
 思い出を油性のマジックでノートに書きつけていった。鉛筆やシャープペンシルでは不安があった。最もふさわしいのはカッターナイフか何かを使って、傷をつけることだった。わたしの部屋の柱のように。今思えば、浩平はこの世に決定的な証を残すためにわたしの部屋を傷つけたのかもしれない。自分の家ではなく、究極的には他人であるわたしの部屋を。
 ある日、わたしは石を投げた。窓ガラスに向かって、小さな石を。しかし反応はなかった。少し悲しくなった。しかしわたしにも意地があった。ましてやわたしは幼い子どもだった。大きめの石を投げつけたとき、窓ガラスが開き、顔を出した男の子の顔に石は見事に命中した。男の子の顔はすぐに見えなくなった。
 ランタンの灯りがちかちかとし始めていた。電池がないのだ。他の懐中電灯もそうだが、数時間でバッテリーがなくなってしまうというのは考えものだった。週に何度かは取り換えなければならない。電池代もばかにならなかった。
 そのときの浩平をわたしははっきり覚えている。怒った男の子があって、わたしはほっとしたのかもしれない。当たり前のことだけれど、フランケンシュタインの怪物なんていなかった。いたのはわたしと同い年くらいの普通の男の子だった。男の子はとても怒っていた、額から血を流しながら。しかし彼自身は出血に気づいていないようだった。
 わたしは電池を取り替えた。切れた電池はゴミ袋に放り込んだ。ランタンの白い光はまた強く頼もしくなった。わたしはマジックを握り直し、指先でくるくると弄んだ。
 浩平の額には小さな傷が残った。それは注意深く見なければわからないくらいのものだったし、傷が目立たなくなると同時に浩平本人は忘れてしまったようだった。しかしわたしには忘れることはできなかった。毎朝、彼を起こす前の束の間、その傷を眺めるようになった。わたしが彼につけた傷。戒めのようにそれを見つめたのち、わたしはカーテンを引く。そして大声を出す。「ほら、起きなさいよーっ」と。
 そこまでを書いて、ページを破った。ほとんど無造作に破ったわりには綺麗な断面だった。それを浩平の部屋の窓ガラスに貼り付けた。けっして剥がれないように四隅をガムテープで留めた。


 外を見ている時間が長くなった。勉強がまったく身に入らない。今までの、優等生としてのわたしの外面に惑わされて、誰も注意しようとしないけれど。きっと誰もがわたしがおかしいことに気づいているはずだ。もしくは、わたしも浩平がいる彼岸に片足を突っ込んでしまっているのだろうか。現実感というものが徐々になくなりつつあるのかもしれなかった。わたしの視界に入るもののほとんどが揺らいでいる。
「長森さん。話があるんだけど」
 隣の席の中崎くんが話しかけてくる。休み時間だった。わたしはちょうど白紙のノートに例の油性のマジックで、人の顔を書いていた。デフォルメされた浩平の顔。しかし中崎くんはそのイラストを見て話しかけてきたわけではないようだった。思いつめたような顔をしていた。
 わたしたちは教室を出て、人気のない階段の踊り場までやってきた。鈍感なわたしでも、これは告白なのではないかとうすうす感づいていた。でもわたしは自分からは何もせず、中崎くんが話を切り出すのを待とうとした。つもりだった。
 不意に右手が痙攣し始めた。
「え?」
 タイミングを計っていた中崎くんはぎょっとしたように目を見開いた。右手はまるで別の生き物のようだった。
「長森さん?」
 わたしはその場に転倒した。両足がぶるぶると震えていた。まったく言うことを聞かない、わたしの足なのに。意識ははっきりとしていた。そのせいでわたしは全身に痛みを感じていることに気づいてしまった。
「ちょ、誰か!」
 中崎くんは慌てたようにわたしに駆け寄って、大声を上げた。
「おい! 誰か! 長森さんが!」
 わたしに触れようとしても、どうすればいいのかわからないようだった。わたしはきっと怯えた瞳で彼を見ていた。中崎くんと視線が合う。中崎くんもまた、怯えているようだった。
 浩平だったら、こういうときどうするのだろう。そんなことを考えた。
「長森、それは釣られた魚の物真似だな」
「違うよ……」
「活きのいい魚は叩いて気絶させるんだ」
 と、浩平はわたしの額を指でちょんと突く。それはとてもやさしい。浩平が意味のない暴力をふるわないことをわたしは知っている。
 そのときわたしはふとした拍子で側頭部を廊下の冷たい床に打ちつけてしまう。鈍い痛みが脳天から指先までを一息で駆け抜けて、やっとわたしは意識を失う。一瞬だけ火花が散って、あとは真っ暗になった。


 白で統一された病室が夕焼けで赤く染まっていた。わたしの耳に喧噪がうっすらと入り込んでくる。複数の足音が聞こえる。わたしは首を回して、枕元のテーブルに置かれた花を見る。クラスメイトたちが持ってきてくれたもの。少しだけ元気を失っている。
 わたしは破傷風に感染していた。薬漬けのわたしの意識に入るものはこの病室の景色と見舞いに訪れる友達たちだけだった。どれだけの時間が経過したのか、それさえもわからなくなっていた。ただ全身が重い。過ぎ去ったはずの時間がその場にとどまって、わたしにのしかかってきているかのようだった。
 わたしは横になったまま、右手を上げる。包帯が巻かれている。患部と手術痕がその向こう側にある。いつも目をそらしているから、わたしはまだそこがどうなっているのかわからない。
 そのとき扉がノックされる。「はい」とわたしが声を出すと、「瑞佳、どう? 元気?」と言いながら、佐織が入ってくる。続いて七瀬さん。毎日ではないが、二人は頻繁に見舞いに来てくれていた。佐織がテーブルの花瓶を取って、病室を出ていく。七瀬さんはぐるっと室内を見回して、「あいかわらず殺風景ね」と呟く。
「うん。でも何年もいるわけじゃないから」
「それにしたって、瑞佳」
 言いかけて、止まる。七瀬さんはわたしの顔を覗き込んでいた。
「大丈夫なの? 顔色悪くない?」
「ずっと寝てるからかも」
 わたしは身体を起こさず、首だけを回して七瀬さんを見る。まるで赤ん坊にでもなったみたいだ。
「ずっと」
「暇そう。あたしなら耐えられないな」
 七瀬さんは窓際に立って、外を見下ろした。そこからは病院の中庭が見える。天気の良い日は入院患者の気晴らしやリハビリに使われている。窓から差し込む強い光が春を感じさせていた。
「いい天気」
 七瀬さんが言う。
「なんか、もったいないくらい」
 佐織が戻ってくる。花瓶にさしたカーネーションの色がやけに鮮やかに見えた。「母の日みたい」とわたしが呟くと、佐織は笑って「そうだね」と言う。
「でも、きれいだったから」
「うん。ありがとう」
 わたしはその花を眺める。佐織が花瓶をテーブルにことんと置いた拍子で水中の花の茎が静かに震えるが、すぐに停止した。花びらも葉も揺らめきを失って動かなくなる。佐織はそんなことはまったく気にせずに、床に投げ出されていた鞄から紙の束を引っ張りだした。
「瑞佳、ノートのコピー」
「え、あ、ありがとう」
「いいのいいの。ていうか、七瀬さんが言いだしっぺだから」
「あ、そうなんだ。ありがとう」
 とわたしが言うと、七瀬さんは照れ臭そうに顔を背けた。
「コピーしたのは私だし、ノートも私のなんだけどね」
「ちょっと、稲木さん」
「うん。字でわかったよ」
 あらかじめ人に読ませることを前提にしたような端正な文字だった。佐織の書く文字は昔からそうだった。わたしの字も読み易いと言われることがあるけれど、丸文字過ぎて佐織には負ける。
 わたしはダブルクリップで閉じられた紙の束をめくる。ここ何日かの授業の断片が書きつけられている。
「ねえ」
 そう声を出したとき、一瞬ときが止まったかのようだった。佐織も七瀬さんも驚いたようにわたしを見ていた。それはきっと、わたしが自発的に何かを話そうとすることが今までなかったからだろう。
「学校、どう?」
「どうって」
 丸椅子に座っている佐織が言う。
「別にいつもといっしょだよ」
「いつもと?」
「うん。まあ、受験生だからちょっとピリピリしてるけど」
 言いながら、佐織は爪を指の腹で撫でていた。色はついていないけれど、短く切られて磨かれているその爪はとても綺麗だった。
「佐織、爪綺麗だね」
「え? あ、ははは」
「あたしも前から思ってた」
「え? 何いきなりふたりとも」
「いや、綺麗だから。ね、瑞佳」
「うん。爪じゃないみたい」
 わたしには石のように見えていた。そのときのたった一瞬だけ、佐織が鉱物のように見えた。
「瑞佳?」
「え? あ……何でもない」
 夕陽の赤い光が落ちる前に二人は病室を後にした。他愛もない無駄話がわたしの心を穏やかにしたが、わたし自身は終始ベッドに横たわったままだった。このような生活が続いていると、ベッドに横たわっている姿が自分の本来あるべき姿なのではないかという錯覚を抱くようになる。お見舞いに来てくれる両親や友人たちととりとめのない話をし、ただ時間が流れていく。時が過ぎれば過ぎるほど、わたしの中の毒素は薄れていく。今もときおり痙攣するこの手や足も、いつかはきっと良くなることだろう。わたしはそのような時間の中に埋もれていた。
 ずいぶんと長い時間が経過したようだった。わたしはテーブルに置かれたデジタル時計を見る。真夜中だった。ろくなものを口にしていないはずなのに、不意に尿意がこみ上げてきた。
 真夜中の病棟の廊下はどこか不気味だった。緑色に発光している非常口の案内がその雰囲気を作り出すのに一役買っているのかもしれなかった。わたしは片手を壁においてもつれそうになる足を支えながら、トイレへ向かった。
トイレで用を足し、洗面台の前に立った。一点の曇りもない鏡にわたしが移っている。以前よりも頬がこけ、やつれているように見える。乏しい照明のせいではなく、実際にやつれているのだろう。
 わたしは窓に歩み寄る。半透明の窓ガラスを引き上げると、夜の冷たい空気がさっと流れ込んできた。わたしはそのかすかな風を身体で感じる。薄手のニットを通して、冷気がわたしの身体をそっと撫でる。わたしは瞳を閉じた。瞼の裏には何も映らない。
 遠くで犬の鳴き声がして、わたしはわれに返る。わたしは女子便所にひとり立っている。外にも内にも音はなかった。わたしが洗面台の蛇口をひねったとき、その静寂が割れた。手を洗ったところでハンカチもタオルもないことに気づく。手を振って水滴を落とし、パジャマのズボンで拭いた。わたしはトイレを出た。廊下は無人だった。耳を澄ますと、じじじじという電灯の唸り声が聞こえた。
 通院患者や来客用ではない出入り口がどこかにあるだろう。そんなことを考えながら、一階へ向かった。途中にあったナースステーションには人の姿はなかった。わたしの履いているサンダルのぺたぺたという音だけがやけに大きく響いていた。
 病院の外へ一歩足を踏み出した瞬間、視界がぱっと開けたような感覚にとらわれた。中庭を通らなければならない中央玄関とは異なり、裏口の向こうはすぐに車道になっていた。サンダルの裏がアスファルトに触れたとき、ぴちゃんと音がした。眼を凝らすと、地面が濡れていることに気づいた。寝ている間に雨が降ったのだろう。
 そこはまるで裏通りとも言えるくらいに物寂しいところだった。街灯すらなかった。しかし病棟内の恐ろしいほどにはっきりとした明暗とは異なる自然な暗さがそこにあった。わたしは両手を広げてみた。手のひらに触れるものは真夜中の空気だけだった。今はもう雨は降っていない。
 バスはもう通っていない時間だった。タクシーに乗るお金は持ち合わせていない。歩く他なかった。わたしはまだ憶えているのだろうか、あの家がある場所を。それだけが不安だった。真っ暗な路地を出ると、二車線の道路に出た。方向感覚がなくなっていた。掴まるものが何もないから、ゆっくりとした歩調で進まなければならなかった。気持ちだけがわたしの身体の五メートル先くらいを歩いていた。
 駅前に辿り着き、見慣れた街並みに安堵する。しかし商店街のお店はどこもシャッターを下ろしていて、わたしが普段目にする景色とはまったくの別物だった。ひっそりと静まり返っている。その場から急いで逃げ出そうとしたわたしは転がっていた空き缶に躓いてしまう。からからと乾いた音を立てて、空き缶は軒先の暗がりへ吸い込まれていった。
 駆け出したくても駆け出せないのはもどかしい。わたしは浩平の家の一部を遠見に見つけたとき、心のそこからそう思った。徐々に近くなってくるその空間が、愛しくてたまらなかった。わたしはためらわずに玄関のドアを開けた。
 わたしは暗闇の中、手探りで靴箱の中の懐中電灯を引っ張り出した。廊下や室内に電気の代わりに設置したものとは別に、予備としてしまっていたものだった。スイッチをつけると、白い光線が屋内を走った。わたしはその場に立ったまま懐中電灯をぐるぐると回して、家の中をじっと眺めていた。少しだけ、また埃っぽくなってしまっているように見えるけれど、ほとんど何も変わっていないように見えた。
 わたしは二階へ向かった。サンダルを脱ぎ、素足で階段を上る。靴も靴下もない状態で家の中に入るのは初めてのことだった。二階の部屋も、やはり何も変わってはいなかった。わたしが窓ガラスに貼り付けた紙切れさえも、そのままで残っていた。わたしはその紙に、文字に触れる。やわらかい丸文字で、浩平の名前が書かれている。
 不意にわたしの手から力が抜けた。手だけではない、全身から。懐中電灯を落っことし、玄関に蹲る。身体が強い熱を帯びているようだった。涙がこぼれた。大粒の涙が頬をつたって落ち、こらえきれずにわたしは声を上げて泣き始める。
「忘れなかったよ、浩平、わたし、忘れなかった、今度は」
 そんなことを口にするが、嗚咽に絡みつかれた声は明瞭な言葉とはならなかった。わたしはその場でただ泣きじゃくっていた。泣き疲れて眠ってしまい、気がつけば早朝の強い陽射しが窓から差し込んでいた。
 青空だった。目を覚ましたわたしは大きく伸びをして、心地よい日光を全身に浴びた。


 路線バスに乗って、わたしは病院へと戻った。浩平の机に置きっ放しにしておいた釣り銭があったのが幸いした。わたしを除けばたった数人の客しかおらず、がらんとしていた。わたしは一番後ろの座席に座って朝の街並みを眺めていた。つい数時間前に手探りで歩いた道とはまったく別の場所であるように思えてならなかった。
 いつの間にか足の不安はなくなっていて、身体が自分の元に戻ってきていた。ただ右手の指の何本かが少し痺れたままだった。機能がほんのちょこっとだけ失われてしまっている。それがいつまでも続くものなのかどうかはわからなかったが、あまり気にはならなかった。考えてみれば、わたしの体内に侵入したバクテリアはあの家の中で遭遇した唯一の生き物だった。浩平の家を元通りにしようとしていた間、わたしはゴキブリもダンゴムシも蟻の一匹すらも見かけなかった。ちっぽけな虫どもにも見捨てられた場所なのかと思っていたけれど、そうではなかったことにわたしは安堵した。あるいは、わたしが手を加えることによって現れたのかもしれない。でもそれは歓迎すべきことなのだろう。
 病院の前のバス停で降りた。わたしはくたびれたパジャマ姿の自分が奇異の目で見られていることに気づいていたが、気にせずに病院の正面玄関へ向かった。わたしの姿を見るなり、看護婦さんが慌てて駆け寄ってきた。「どこ行ってたの?」と問われたわたしはただ一言、「散歩です」と答えた。


 数日後にわたしは退院した。唐突な回復ぶりに主治医はびっくりしていたが、わたしはその説明を他人事のように聞いていた。経過を見るために通院が必要という話だった。しかしわたしは今後わたしの身体に異常は起こらないだろうと確信していた。根拠はないけれど。
 自宅の居間にある日めくりカレンダーを見て、一ヶ月以上のときが経過していることがわかった。実感はまったくなかった。ただ翌日、学校の下駄箱で靴を履き替え、教室へ伸びる階段と廊下を歩いているときに懐かしいと思えた。わたしは歩調を緩めた。何人もの生徒がわたしを追い抜いていった。廊下で壁に寄りかかって談笑している佐織と七瀬さんの姿が見えた。二人もわたしを見つけたようだった。にっこりと笑って手招きをした。
「瑞佳、もう大丈夫なんだ」
「うん。大丈夫」
 七瀬さんにそう答えようとしたところに、佐織がわざとらしく抱きついてくる。
「良かった! 本当良かった、瑞佳」
「ありがとう。お見舞いとか」
「ちょっと、親友じゃん、うちら」
 わたしはうんと頷いた。そのときチャイムが鳴った。「あー」と佐織は残念そうな声を上げた。お見舞いに来てくれていたとはいえ、それは本当に限られた時間だったし、積もる話もあったのかもしれない。
「あー、でも良かったよね。本当に」
「うん。皆心配してたもんねえ」
 心底ほっとしたようにそう言い合いながら足早に教室へ入っていく二人を追う。あいかわらずわたしの歩調はのろかった。もう足の異常はなくなっているはずなのに。教室に入ると、皆の視線を一身に浴びたような気分になった。異物を見るような視線。
 しかし実際はそんなことはなく、「あ、長森さん」、「長森さんだ!」、「もう大丈夫なの?」といった声が飛びかった。わたしは「うん。ありがとう」と答え、自分の席へ向かう。椅子に座ったとき、疲れが出たのか軽いめまいを覚え、前のめりになりそうになってしまう。しかしここで倒れては余計に心配されてしまうだろうと思い、しっかりと顔を上げ、鞄から一時限目の科目の教科書とノートを取り出した。
「おっ、どうしてたんだ、久しぶりだなぁ」
「病気でもしてたのか?」
 何人かの生徒が、驚いたような声をあげる。
 「え?」と声を出しそうになった。今のは何? わたしは教科書とノートを置き、教室内を見回す。ちょうど担任が教室に入ってきたところだった。今聞こえたような声を出しそうな者は教室内にいなかった。
「七瀬さん、七瀬さん」
「え? あ、何?」
 わたしは後ろの席の七瀬さんに小声で話しかける。
「わたしの他にも病気してた人っていた?」
「え? いないよ。休みはここんとこ瑞佳だけだもん」
「あ、そうなんだ」
「どして? 何かあった?」
「あ、うん、いや、何でもない」
「……そう?」
「うん。あ、ごめんね」
 わたしは前を向く。担任の話に耳を傾けているふりをして、先程の声を思い返していた。誰の声だったか、誰へ向けてのものだったのか。まったくわからなかったが、少なくともわたしへ掛けられた声ではなかった。
 しかし確かにあれは、長い不在を経て戻ってきた者へ掛けられるような言葉だった。わたしの脳裏に浮かんだのは浩平の情けない笑顔だった。きっと浩平は「あー…ごほんっ」などとわざとらしく咳払いをしてわたしに話しかけてくるだろう。
「長森、ごめんな」、とは言わないに違いない。
 わたしの前に立って、浩平は口を開く。
「えっと…長森…」
「あー…えっとだなぁ…」
「………」
「ずっと前から好きだったんだ…」
「…オレともう一度…付き合ってくれっ!」
 そんなことをいきなり言うだろう。口にしてから自分で勝手に恥ずかしがるのだ。わたしにはわかる。ひねくれていそうで、根は真っ直ぐでバカ正直なのだ、浩平は。
 そんなことを思っていると、自然と頬が緩んでしまう。不意に視線を感じた。わたしとは対照の位置にある席、つまり廊下側の一番前の席に座っている佐織がわたしを見ていた。目が合うと、佐織はにっと笑った。心底うれしそうなその笑顔にわたしはわずかな寂しさを感じる。


 夕食のときにわたしは母に言った。
「ねえ、お母さん。アルバイトしたいんだけど」
 父はまだ帰宅しておらず、わたしと母は二人で夕食を取っていた。カチャカチャと食器の音が響いていた。テレビのニュースを見ていた母は一瞬の間を置いてから、「え?」と聞き返してきた。
「アルバイト」
「どうして?」
「え?」
「どうしてアルバイトなんか。それにあなた受験生でしょう」
「うん。そうだけど。まだ皆部活やってるけど、わたし」
「手のこと?」
「うん。弦持てるけど、うまく弾けなくて」
 母はテレビから目を離さずに、器用に手と口だけを動かしながら夕食のハンバーグを食べていた。
「だから部活やめようかなって。でも暇になるかなって」
たどたどしく言い訳をするわたしの言葉が遮られる。
「お金?」
「え? あ、あの」
「……」
「うん。そう」
「何に使うの?」
「うん。必要なの」
「だから……あ、そう」
 わたしは使い道を答えなかったが、母は納得したようだった。あるいは聞き出すことを諦めたのかもしれなかった。わたしははなから説明をする気はなかった。分かってもらえないことは見当がついていたし、わたし自身わたしが何をしているのかを説明しきれる自信がなかった。
わたしは何のために、何をしているのか。たまにわからなくなるときがあったが、それでもけっして間違った道ではないのだと自分を信じる他、わたしに選ぶべき選択肢はなかった。そしていつか浩平に辿り着けるということも。
 うやむやの内にわたしはアルバイトの許可を得た。父には母から話すと言っていた。わたしは休日の日に新聞に折り込まれる求人チラシを見比べながら、駅前のファストフード店に電話をかけた。面接の日時が指定され、結果わたしはあっさり採用となった。土日の人手が欲しい店側と土日だけ働きたいわたしの思惑がかみ合ったからだった。


 チェロは自室に置いておこうと考えた。わたしは部室に赴き、校内で倒れた日以来置きっ放しになっていた楽器を持ち帰るついでに退部することを告げた。この春からの新しい部長は面食らったような顔をしたが、この一ヶ月くらいの間、わたしがどういう状況にあったかをよく知っていた。隣のクラスだったから。
 当然のように引き留められ、退部ではなく休部という扱いにしてもらえばいいという話になってしまった。悲しそうな目をする後輩たちに「じゃあ、そうするよ」とだけ答えて部室を後にした。その足で職員室に向かい、退部届を出した。顧問の先生もまた、わたしを翻意させようとあれこれと自分の経験談を語り始めた。
 どうしてわたしがここまで必要とされているのかわからなかったが、結局休部という扱いとなってしまった。もう戻るつもりはないのだけれど、帰る場所があるということには少しだけ安心できた。「いつでも来なさい」という先生には初めて優しさというものを感じた。職員室を出て、昇降口へ向かう道すがら、ただやはり戻ることはないだろうなとぼんやりと考えた。
 駅前の商店街のはじっこの方にぽつんとある花屋に寄った。鉢植えのサボテンとポトスを買った。ポトスはまだ小さく、赤ん坊のようだった。鞄と二つの鉢を持って、わたしは浩平の家へ向かった。サイクルが戻ってきたことを実感した。
 二つの鉢をベランダに置いて、その場にしゃがみ込んでぴくりとも動かない植物をしばらく眺めていた。夕方の風が心地良かった。ベランダも屋内もひどく殺風景だったが、少しずつ変えていこうと思った。浩平が帰ってきたときに腰を抜かすくらいの色をつけてやろうと考えた。そのためには数を増やさなければならないだろう。乏しくなった財布の中身にはわたしはため息をついた。
 わたしは浩平の部屋に行き、机に向かった。この部屋の窓に貼りつけたものと同じように、思い出を書きとめておくつもりだった。幼い時分の浩平とわたしを思い返す。ふとした拍子になくなってしまいそうな古い何気ない記憶から、しっかり保存しなければならない。油性のマジックと紙を手に、わたしは一階へ降りた。リビングで立ち止まる。
 浩平はだらしのない男の子でした。よせばいいのに居間で歯を磨いて、辺りを歯磨き粉だらけにしてしまったことがある。あのときは拭き取るのが大変だった。朝だというのに。あの日、わたしは日直の当番だった。だから少し早く浩平を迎えに行った。制服に飛び散った歯磨き粉を拭き取ったときに触れた胸元の温かさが、今もこの手のひらにあるような気がしてならない。
 わたしは紙切れを居間に置かれたガラスのテーブルに置いた。置いただけでは飛んでいってしまいそうだったので、セロハンテープで貼り付けた。ガラスのテーブルは最初は埃を目一杯かぶったひどい有様だったが、磨いている内に元の清潔感を取り戻していた。どんなものにも修繕の余地はあるのだと知った。それはきっとわたしたちの関係にも言えることなのだろうとわたしは考える。


 ファストフード店のレジ打ちの仕事はさほど難しいものではなかった。指の動きが不安ではあったのだけれど、繊細な動きが要求されることはなく、どうにか誤魔化していられた。二週間、三週間と時間が経つと、ほとんど惰性で動けるようになった。慣れというもののおそろしさに触れた気がした。
 レジカウンターは入口の正面にあり、出入り口の自動ドアが開けば、客の人相が一目でわかる。その日、見覚えのある少女が店にやってきた。椎名繭だった。彼女の顔を見るのは本当にひさしぶりだった。彼女が本当に通うべき学校へ帰っていってからは疎遠になっていた。
 しかし彼女はわたしを憶えていてくれたようだった。目があった瞬間、「あ!」と目を見開いたのだった。そのまま「長森さん!」と言いながら、カウンターまで一直線に歩いてきた。一緒に入ってきた女の子を置き去りにして。
「繭、ひさしぶりだね」
「うん」
 慌てたように追いかけてきた女の子が驚いたような顔で繭の肩に手を置いた。
「ちょっと、繭、どうしたの?」
「うん」
「いや、うんじゃなくて」
「長森さん」
 と、繭はわたしを指差して言った。女の子が訝しげに「お知り合いですか?」と訊ねてくる。わたしは頷いて、「昔いっしょのクラスにいたの、繭と」と答える。女の子はどういうことだか理解ができずに、ぽかんと口を開けていた。
 繭が注文したのは照り焼きバーガーひとつとストロベリーシェイクだった。明らかに食べきれない量を注文していた過去の繭の姿はそこにはなかった。お友達と楽しげに話をしながら、ハンバーガーを頬張っている。
 帰り際、店を出る前に繭はわたしに笑いかけた。それはまるでいたずらっ子のような笑みで、感情の起伏が激しく、ときに手の施しようがなかった繭とは別人のようだった。わたしは徐々に増えてきたお客の対応に追われながら、じゃあねと笑い返した。繭は声に出さずにありがとうと口元を動かしたようにわたしには見えた。


 初めての給料で買ったのはジョイント式のウッドデッキのセットだった。ベランダに置かれていたすのこは割れたり変形したりとひどく劣化していて、状態も見栄えも良くなかったからだった。ベランダのすべてを整えるところまではいかないけれど、ささやかな鉢植えの植物を並べられるくらいのスペースは作ることができた。
 浩平とわたしはベランダへ繋がる引き戸のサッシに並んで座っていました。その当時、ベランダからは街並みが少しだけ見渡せた。わたしたちは漫画本を読んでいました。浩平はドロロンえん魔くんを読んでいて、わたしはリボンの騎士を読んでいた。
 わたしは当時のようにサッシに座っている。今見ているのは漫画ではなく植物だった。
 浩平は、わたしたちが出会った最初のときこそ怒っていたけれど、それからしばらくはやっぱり静かにしているときの方が多かった。遊ぶといっても、浩平の部屋で漫画を読んだりトランプをしたりするだけだった。浩平が打ち解けるまでしばらくかかった。わたしにだけは意地悪だったけれど。それはきっとわたしの特権だったのだと今になって思う。
 わたしはそのまま廊下に仰向けに横になった。制服のブラウス越しに心地良い冷たさを感じた。しばらくそうしているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。外はもう暗くなっていて、当然のように屋内は真っ暗だった。空に浮かんだ月が唯一の光源だったが、たいして期待できるはずもなかった。わたしは勘で浩平の部屋まで戻って、懐中電灯を探した。
 家中に据え置いた懐中電灯のスイッチを入れて回った。直線的な光は屋内を照らすには至っていないけれど、わたしひとりがここにいるくらいならそれでじゅうぶんだった。空間を仕切っている半透明のビニールシート越しに見えるその光はおぼろげで、そのあいまいさはわたしをほっとさせた。


 家に帰ると、電気はすべて消えていた。キッチンのダイニングテーブルにはラップで包まれた夕食が置かれていて、『温めて食べてね』という母のメモ書きがあった。わたしは野菜炒めが盛られた皿を電子レンジに入れ、味噌汁を温めた。炊飯器からご飯をよそって、冷蔵庫で冷やされていた豆腐と漬物を取り出した。それぞれを並べて、食べ始める。咀嚼する音、食器のこすれる音、そしてわたしの呼吸ばかりが静まりかえった家に響いていた。その夜聞こえた人の声はわたしの「いただきます」と「ごちそうさま」のたった二言だけであったように思える。


 包帯が解かれたときの医師の驚いた顔といったら、とても医大を出たインテリには見えなかった。それくらいに慌てていた。わたしの右手には傷も手術痕も残っていなかった。つるんとした肌が、本来傷があるべき場所にあった。年老いた医師はずいぶんと前に自らの目で確認した傷を探すように、わたしの右手を指でなぞった。しかしそこには健康的な白い肌しかなかった。
 首をかしげながら、医師は診察室の裏へ回った。そこは看護婦さんが行き来できる廊下になっていて、看護婦さんを呼んでいるようだった。わたしは狭い診察室にひとりで残される。敷居は壁になっているが、出入り口はただの薄いカーテンだった。だから待合室の話し声や、裏で談笑している看護婦さんたちの声がうっすらと聞こえる。  しかしそのときはやけに静かだった。わたしは脱いでいた上着をキャミソールの上に羽織って、顔だけを待合室に出した。そこは無人だった。混雑していたはずだったが、人っ子ひとりいなかった。医師が消えた廊下へ出る。そこも無人になっていた。わたしは診察室を出た。袖の上から傷があった場所を撫でながら、病院を後にした。受付にも薬局にも人の姿はなかった。
 自転車に乗って帰路についた。途中、コンビニエンスストアに寄った。パックの牛乳と卵とツナのサンドイッチを手に、レジへ向かった。レジには誰もいなかった。わたしは「すいません」とレジの奥に声をかけるが、ついに店員が現れることはなかった。わたしはカウンターに牛乳とサンドイッチの分のお金を置き、店を出た。つり銭のことは頭になかった。


 放課後、わたしは軽音部の部室を訪れる。鍵はかかっていない。浩平がいつか言っていたはずだ、「所属するにはしているが…幽霊部員、いや、部自体が幽霊船と化しているからな」と。ドアを開けると、そこはかつての浩平の言葉通り、無人の教室だった。無人どころか、ここしばらく人の出入りがないかのようにひどく汚れている。
 わたしは浩平とほぼ毎朝通学をしていたが、浩平が楽器を持って家を出る日は皆無だった。そして部屋にはない。だから浩平の使っていた楽器はここにあるはずだった。弦楽器なのか管楽器なのか打楽器なのか鍵盤楽器なのかもわからなかったが、きっと見つけられると確信していた。
 軽音部の部室は特別教室だった。普通の教室の二倍くらいの広さがある。教室の後ろの方に様々な楽器が無造作に置かれていた。正確に言えば、置き去りにされていた。数年前の設立当初は活気があったのかもしれなかったが、今はその想いが瓦礫となってしまっている。わたしは窓際に置かれたピアノのカバーを取った。その瞬間、埃が土煙のように舞った。不覚にも吸い込んでしまったわたしは激しくせき込んでしまう。慌てて窓を開ける。校庭で練習をしているサッカー部員や陸上部員たちの大声がここまで届く。
 手で埃を払い、椅子に座った。鍵盤を人差し指で叩き、ぽろんぽろんと音を出した。忘れ去られたような教室内に音が響くと、まるで生気が戻ったかのように少しだけ空気のよどみが薄くなった。わたしは立ち上がって、楽器の墓場みたいな教室の後部を見下ろした。目的の楽器を目で探した。それはすぐに見つかった。ひときわくたびれたソフトケースが目に入ったのだった。わたしはそれを手に取り、中のアコースティックギターを取り出した。ボディに『折原』という文字のステッカーが貼られていた。間違いなかった。わたしはそれを抱き締めるようにして、その場にしゃがみ込んだ。傷だらけだったし一弦と二弦は切れていたけれど、浩平の痕跡がまだあったことがとても嬉しかった。
 わたしはソフトケースを背負って、軽音部の部室を出ようとした。しかし立ちあがる瞬間に目に入ったものがあった。それはピアノの真下に置かれていた大きめの巾着袋だった。わたしは手を伸ばしてそれを取り、中身を見た。オカリナが入っていた。強い青で塗られたオカリナだった。わたしは巾着袋をソフトケースに括りつけ、部室を出た。  昇降口で靴を履き替えていると、七瀬さんに声を掛けられた。七瀬さんは鞄を持っておらず、たまたま通りかかっただけのようだった。
「瑞佳、帰るの?」
「うん」
「あ、何それ? ギター?」
「あ、うん、そう」
「瑞佳ってギターも弾けるの?」
「え? あ、わかんないけど」
 トントンと爪先で床を叩きながら、ローファーを履く。
「七瀬さん部活?」
「ん? あ、いや、違うけど」
「あ、そうなんだ」
「うん。あ、ていうか瑞佳、もう七瀬さんっていうのやめてよ。余所余所しいよ」
「あ、うん。でも何か慣れなくて」
 わたしは外の様子を見る。天気予報では一日中曇りのようなことを言っていたが、夏を思わせる強い日差しが照りつけていた。
「何でだろうね、もう結構経つのに」
 と振り返ったとき、七瀬さんはもうそこにはいなかった。ただ無人の昇降口が佇んでいた。その静寂はガラス戸を挟んで広がっている校庭の喧噪を押し潰すくらい強固なものだった。


 楽器店は最寄り駅近辺にはなく、隣の駅まで行かなければならなかった。わたしは荷物を浩平の家に置き、電車に乗って隣町へ向かった。駅を出てすぐのところにあるデパートの中に小さな楽器店がある。そこでスチール弦とクロスを買った。他に用もなかったので、すぐに引き返した。
 弦を張り替え、ボディやネックの汚れを落としている内に日が暮れてしまった。わたしはランタンのスイッチを入れ、作業を続けた。春から夏へ季節が移り変わり、ずいぶんと日は長くなったが、日が落ちてしまえばどの夜も似たようなものだった。わたしはコードを押さえたところで、左手の爪が邪魔なことに気づいた。チェロに触れもしない日々の中で、爪が伸びてしまっていた。
「切らなくちゃ」
 そう呟いていた。爪切りはこの家にあっただろうか。できればやすりもあればありがたいと思った。浩平はどうやって爪の手入れをしていたのだろう。そんなこともわからない自分が悲しかった。


 「部活ねえ」と面倒くさそうに答えた浩平にわたしは「楽器やってみたら」と何気なく言いました。その日、浩平から電話があった。「長森ぃ、腹が減って死にそうだ」。わたしは慌てて、総菜の残りや自宅の炊飯器に残っていたご飯を持って浩平の家に向かった。温めた食べ物をキッチンテーブルに置くと、浩平ががつがつとそれらを食べ始めた。高校に入ったばかりの頃でした。
 スタンドにぶら下げたランタンの光がちかちかと点滅していた。電池が切れかかっているようだった。台所には二つのスタンドがあって、かなり明るく照らしている。わたしはボンベ式の卓上用コンロを持ち込んで、たまに料理を作るようになっていた。水が通っていないこともあり、大したものは作れなかったが、自分ひとりが食べるためにはさほど気にならなかった。しかし浩平が帰ってきたときは、水も電気も通さなければならなくなるだろう。
 わたしはいかにもおいしそうに食べる浩平を見ながら、水を飲んでいました。会話の話題は春からの新生活でした。吹奏楽部への入部を決めたわたしとは異なり、浩平は部活動を決めかねていた。しかし一応はどこかの部に籍を置かなければならないという決まりがあった。わたしは迷わず楽器をやることを勧めてみた。「楽器ねえ」。わたしが淹れたお茶をすすりながら、浩平はしみじみと繰り返した。「楽器ねえ」。本気で考えてはいないように見えていたけれど、浩平はあっさりと軽音楽部への入部を決めた。「長森ぃ、どの楽器がいいと思う?」と訊ねられることをちょこっとだけ期待していたわたしは拍子抜けだった。
 わたしはそこまでを書き、布テープでキッチンテーブルに貼り付けた。暑かった。冷たいものを口にしたい気分だったが、あいにく何もなかった。わたしは冷蔵庫を眺めた。それは完全に空っぽで、冷気すら入っていない。ただ紙きれが一枚貼ってある。
 暑い暑いと言いながら、浩平は冷蔵庫を開けっ放しにしていた。そのせいで中の野菜やお肉やお魚が全部傷んでしまった。浩平が毎日のように日が暮れるまで冷蔵庫の前に座っていたからだ。由起子さんはわたしに請求書の額を見せながら言った。「今度やってたらぶん殴っちゃっていいから」。わたしは微笑んで「うん」と頷いたけど、そんなことできないってわかってました。


 繭の友達を見かけたのはちょうど夏休みに入った頃だった。わたしはアルバイトの時間を増やし、昼間は働き、夕方から夜は浩平の家で過ごすという日々を送っていた。駅前のファストフード店とはいっても、首が回らなくなるくらい混雑するということはなかった。鈍行しか止まらない、さほど大きくない駅だったからなのかもしれない。
 カウンターの前に立った彼女にわたしは「いらっしゃいませ。今日、繭はいっしょじゃないんだね」と言った。
「え?」
「……え?」
「あ、あの、ポテトのMとオレンジジュースのS」
「あ、はい、かしこまりました」
 わたしはレジを打ちながら、キッチンに向かって注文内容を大声で言う。調理担当の人のおうむ返しの返事がある。それから「先にお会計失礼します」と金額を告げる。彼女はかわいらしい財布から小銭を出した。
「あ、ちょうどいただきますね」
「……はい」
「レシートです。少々お待ちください」
 と言いながら、わたしはオレンジジュースを用意する。
「あ……あの」
「……はい?」
「繭って誰ですか?」
「……え?」
 そのとき、ワンポテトと声がかかる。わたしは振り返って紙ナプキンでポテトの紙ケースを包んで取り、トレイに置く。そして「お待たせしました」と言う。  もう、そのときには少女の姿はない。それどころか、店内も妙に静かになっていた。わたしはトレイの上のドリンクとポテトを廃棄処分にするために、レジの真横に『他のレジへ〜』と書かれた札を立てて、その場を離れた。


 記憶を書いた紙をわたしは浩平の部屋の真ん中に落とした。紙はひらひらと揺らめきながら落下した。わたしはしゃがみ込んで、紙に書かれた文字群を手持ちの小さいマグライトで照らした。思い出が記録されている。
 浩平は椅子に座って、わたしのノートを睨みつけていた。わたしはベッドに腰を下ろして、逆に浩平のノートをぺらぺらとめくっている。とても汚い字だったし、途切れ途切れで何の役にも立ちそうになかった。そう言うと、浩平は苦笑した。「長森が油断してさぼらないように、わざとそうしてるんだよ」と無茶な言い訳をした。わたしは呆れながらも内心は笑ってた。浩平らしくておもしろかった。
 帰宅すると、家中の電気は消えていた。食卓には何も置かれていなかった。わたしは自分の部屋に行き、ベッドに倒れ込んだ。そのまま眠ってしまいそうだったが、庭の手入れをしたおかげで体中が土や葉っぱの匂いでべたべたしていた。芝刈りは思っていたよりも億劫な作業だった。
 シャワーを浴びてから、今度こそベッドに横になった。家の中も外も静かで、わたしはあっという間に眠りに落ちた。泥のような眠りだった。目覚めたとき、驚くほど疲れが取れていた。顔を洗い、鏡の中の自分をまじまじと眺めた。血色が良く、不気味なくらいに健康的なわたしがいた。


 翌日、庭やベランダを整備しようと思い、ホームセンターへ向かった。自転車ではなく路線バスを使った。ウッドデッキやプランターなどは自転車には積めそうもなかったからだった。
 バスの車内にはわずかな人しかいなかった。わたしはいつか乗ったときのように、一番後ろの座席に腰を落ち着けた。そして外の景色を眺める。いつもと変わらない光景のように見えたが、人の姿がほとんどなかった。
 信号でバスが停車した。ドッドッドッドッとエンジンの音だけが響いている。わたしは頭の中で、家庭菜園やささやかな植物園をどう作ろうかと考えていた。ノートとペンを鞄から取り出し、イラストを描いていく。そして記憶の断片も。
 わたしは庭の朝顔が枯れていることに気づいた。だから浩平に「観察記録どうするの、浩平」と訊ねた。浩平は何を言っているんだとでも言いたげに答えた。
「いや、観察中だから」
「何を?」
「朝顔が朽ちるまでを」
 浩平はノートをわたしに見せてくれた。弱り枯れていく朝顔が写実的に描かれていた。胸を張る浩平にわたしはため息で答えた。

 バスが発車しない。わたしは筆記具をしまって、車内を見渡した。乗客はわたしひとりになっていた。恐る恐る歩いていくと、運転席にも人の姿はなかった。わたしは手を伸ばして、ドアの開閉ボタンを押した。プシューという音と共にドアが開いた。


 わたしはカーゴ台車を押していた。中にはガーデニング用の道具がみっちり詰め込まれていて、とても重かった。汗を拭いながら、浩平の家を目指した。すれ違う人も車も皆無だった。帽子をかぶってくればよかったと思った。夏の陽射しが強かった。
 見慣れた住宅街のT字路を右に曲がったとき、「瑞佳!」と声をかけられた。振り返ると佐織が立っていた。夏休みだというのに制服を着ていた。わたしは「佐織?」と答えた。
「瑞佳、何それ?」
「え? これ?」
「うん。ていうか、何か人がいないんだよね。皆いなくなっちゃった」
「あ、うん。そうだね」
「瑞佳がいてよかったよ」
「うん」
「ねえ、私も消えちゃうのかな」
「え?」
「どこまで行くの? 手伝うよ」
 わたしはこれまで台車を押して運んでいたが、佐織が後ろから押し、わたしが前から引っ張ることとなった。二人で炎天下の住宅街を進む。佐織が後ろから押してくれるおかげでずいぶんと軽くなったように思えた。
「これ、ガーデニングのだよね」
「うん。そうだよ」
「へえ、何か意外だなあ。瑞佳がガーデニング」
「え? そう? そうかな」
「うん。あんまりイメージがない」
 佐織は息を切らしているようだった。確かに夏の暑さの中、この重さのものを押していれば疲れもするだろう。わたし自身、肉体的な疲れを感じていた。長い距離を押して歩いてきたからだった。
 もちろん、精神的には充実しきっていた。浩平の家が見えてくる。着いたら一休みして、まずは庭からだ。そう決めていた。「ここでいいよ」と言いながら、足を止めた。 「瑞佳、私たちさ」
「うん」
「親友だったよね」
 不意に背中にのしかかる重みが強くなった。
「うん。親友だよ」
 と言いながら振り返ると、そこに佐織はもういなかった。空虚になった住宅街に、わたしがひとりで突っ立っていた。


 わたしは浩平の部屋の窓枠に座って、オカリナを吹いている。メロディーも何もなく、ただ音を出しているだけだった。庭を見下ろす。荒れ果てていた庭が息を吹き返すまでに三日くらいかかった。今は元気な姿を見せている。
 真夏の強い太陽の光に目を細めた。かすかな風が吹いている。わたしは立ち上がってオカリナを浩平の机に置いた、紙の束の上に。あらためてわたしは浩平の部屋の中を見渡した。至るところにノートの断片が貼られている。いや、浩平の部屋だけではない。
 鞄を肩にかけたわたしは麦わら帽子を手にして、浩平の部屋を出た。廊下、ベランダ、階段、一階のリビング、キッチン、トイレ、洗面所、風呂場、庭、あらゆるところにキャンパスノートの断片が貼り付けられていた。そのすべてにわたしがマジックで書きつけた思い出がある。どの部屋も窓は開けっ放しになっていた。カーテンと敷居代わりのビニールシートが時折揺れた。
 わたしは玄関の段差に座る。帽子を置いて、ノートとマジックを鞄から取り出す。ノートの最後の一枚を前にしばし考え込む。今から書くのは思い出ではない。わたしの中にあるすべての思い出はすでに記録された。
 浩平、わたしは待ち続ける。いつ帰ってくるかわからないあなたを。わたしはまだここにいる。浩平、あなたが消えたこの世に。わたしはあなたを待つ。十年、二十年、五十年、百年、わたしは待ち続ける。その年月はきっと、わたしにとって価値あるものになるだろう。そしていつの日かまたあなたと巡り合う、浩平、今わたしはそう確信しました。
 そこまでを書き、玄関のドアに貼った。決して剥がれ落ちないようにガムテープで四方を止めた。わたしは麦わら帽子をかぶり、小さな鞄を肩にかけた。そして扉を開けた。そのとき風が吹き込んできた。
 強い風が吹き込んだ瞬間、家中の壁や床に貼られた紙に書かれた思い出がいっせいにさんざめきはじめる。わたしは愛しい記憶たちのささやきを耳にしながら、わたしたちの家を後にした。


(Part 3)Planet Paradiso


 わたしは道路を歩いている、ステップを踏むように軽やかに。不思議なくらいに身体が軽く、気分が高揚していた。ときおり吹く風にワンピースの裾が揺れる。
電柱に突っ込んだ車が見える。運転席にも助手席にも後部座席にも人の姿はない。ただクラクションが鳴り続けている。ボンネットから煙が出ている。そんな光景を尻目にわたしは歩く。
 どこへ向かっているのかはわからなかった。ただ気持ちの赴くままに歩いていた。帰る場所はあっても、行き先はなかった。わたしにできるのは待つことだけだった。わたしだけになったこの惑星で、浩平の帰りを待つことしかできなかった。しかしそれができればじゅうぶんだった。
 大通りでは玉突き事故が起こっていた。何台かの乗用車が炎上していた。横断歩道の白いペンキに赤い血がこびりついていて、倒れたベビーカーの車輪がくるくると回り続けていた。わたしはコンビニエンスストアに入り、牛乳のパックを手にとってその場で口にした。
 駅の改札を抜けた。ホームのベンチに座って、コンビニから持ち出したサンドイッチとゆで卵を食べた。味気ないものだったが、お腹はふくれた。目の前をかなりの速度を出した電車が通り過ぎて行った。髪の毛が風になびいた。
 ゴミを捨て、またベンチに戻った。次に電車が停まる日はいつになるだろう。きっとそれは浩平が戻ってくるときで、停車した車両から恥ずかしそうな顔をして降りてくるに違いない。そのときの浩平の顔があまりにも簡単に想像できるので、わたしは頬を緩めてしまう。
ベンチにだらしなくもたれかかり、空を見上げた。真っ青な空がどこまでも広がっていた。いつかどこかのカラオケボックスで誰かが歌っていた唄の一節を適当に口ずさむ。「さよならさえ上手に言えなかった。ああ、あなたの愛を信じられず、おびえていたの。時が過ぎて、今、心から言える。あなたに会えてよかったね、きっと、わたし」。


 一九九八年、わたしは十七歳でした。
 ××××年、わたしはまだ生きています。


(了)



<参考、引用>


『Cure』
『大いなる幻影 Barren Illusions』
『カリスマ Charisma』
『回路 Pulse』
(以上、黒沢清監督作)

『ゆけゆけ二度目の処女』(若松孝二監督作)
『砂の影』(甲斐田祐輔監督作)
『接吻』(万田邦敏監督作)
『詩人の血』(ジャン・コクトー監督作)

『あなたに会えてよかった』(作詞:小泉今日子)

ラストダンス殺人事件
http://yabusaka.moo.jp/nerima-ol.htm



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