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911ユモレスカ


すべての楽器を武器に。
――『独立少女紅蓮隊』

 椎名さん、何やってるの!
 その声は教室内に極めてヒステリックに響いた。教室前方のドアのところで、椎名繭が転んでいた。両手で持っていたプリントの束が散乱していた。彼女は涙をこらえるように唇をかみしめて、笑みを浮かべている男子の顔をきっと見た。足をひっかけられたのだった。
 しかし担任の女教師は繭が勝手に転んだものと判断した。繭は背中越しに担任の叱咤を受けながら、プリントをかき集めて立ち上がった。が、また転んだ。足がうまく動かなかった。「いたい」と小声で口にした。くるぶしのあたりが腫れ始めていた。わざとらしい舌打ちが、頭の上から聞こえた。
「うるせえよ、知障」
 誰かがそう茶化して、教室中がどっと沸いた。繭はその意味を理解できていない。プリントをそのままにして、痛む足を庇いながら教室を出た。教師が「椎名さん! 待ちなさい!」とまた金切り声を上げた。
「おめーが身障に頼むからだろ、ブス」
 別の誰かが教師にそう吐き捨てた。冷たい声質のよく通る声だった。はっとしたように担任教師は教室内に残っていた生徒たちを見た。そのとき初めて、自分が凍ったような目で見つめられていることに気づき、彼女は足早に教室を出た。プリントの束が教室前方に散乱していた。

「ほぇー」
 繭は自分の足首を見る。湿布が貼られ、包帯で巻かれていた。「大丈夫? 痛くない?」と養護教諭に問われ、「うー、うん」と答えた。実際、よろめきながら保健室に辿り着いたつい十数分前に比べれば、たいした痛みではなかった。そのままベッドに寝させられた。繭はちっとも眠くはなかったが、柔らかく暖かい布団の中でやがて睡魔に包まれた。
 チャイムの音で目を覚ました。両目をぱちくりさせながら、保健室の中を見渡した。養護教諭の姿はなかった。繭はベッドから降り、机に置かれた手紙を読んだ。風で飛ばないように、上に脱脂綿の箱が置いてある。そこには『椎名さんへ。会議があるので外します。教室に戻るのがいやだったら、ここにいてもいいからね。給食置いておきます』と書かれていた。繭はその紙を手にしたまま、ベッドに座った。よくよく見てみれば、入口のあたりに二人分の給食が載せられた配膳台があった。繭はトレイを取り、またベッドへ戻る。座って、ふとももの上にトレイを置いた。シチューとフランスパン、ビンの牛乳だった。
 お姉ちゃん――彼女の名前は長森瑞佳といった――はよく牛乳を飲んでいたっけ。繭は楽しかった学校のことを思い返す。あのときは皆が優しくしてくれて、とても楽しかった。でも今は……。泣き出しそうになるが、どうにかこらえた。泣くのは今ではない。誰かが耳元で囁いた。
 ビニールを剥がし、紙の蓋を小指の爪ではがして取った。一口飲んだ。あまりおいしいとは思えなかった。フランスパンは食べ辛かったし、ビーフシチューは冷めてしまっていた。繭は大きくため息を吐きだした。その拍子でトレイごとすべてを床に落としてしまう。牛乳のビンは手前に向かって倒れた。中身が繭のスカートやベッドのシーツになみなみと注がれる。「あ!」と思ったときはすでに遅かった。びちゃびちゃと床に牛乳が広がっていく。
 繭はそのまま静止してしまう。どうすればいいのかさっぱりわからなかった。しかし自分の真下から「冷たい!」という声がして、反射的に飛び上がるようにベッドを離れた。そしてしゃがんで、ベッドの下を覗きこんだ。薄っぺらい本が数冊あって、それらに取り囲まれるようにしてひとりの女の子が床に散らばった給食の残骸をじっと見ていた。その視線が床から繭へ移動する。
「ほぇ?」
「あ、あなた、同じクラスの」
 少女はもぞもぞとベッドの下から這い出した。見覚えがないわけでもなかったが、はっきりと覚えている顔ではなかった。繭は首を傾げた。彼女は「汚い……あと、臭い……」と言いながら立ち上がった。スカートの下にジャージを穿いていた。ブラウスの上にセーターを着ていて、さらにコートのような上着を羽織っている。
「覚えてないかあ。そうだよね。あんまり教室にいないもんね、私」
 少女はジャージを脱ぐ。そして繭にスカートを脱ぐように促し、代わりにジャージを穿かせた。「乾かさないと風邪ひいちゃうよ」。それから床に落ちた給食を片付け始める。それを見て、繭も慌てて手伝う。「あ、ありがとう」と言う。
 それが繭とみあの出会いだった。

 翌朝、繭が教室へ入ると、クラスメイト全員の視線が彼女を捉えた。中にはにやにやと笑っている者もいた。繭は薄気味悪さを感じながらも、自分の席へ向かおうとした。そのとき、黒板が目に入る。黒板は落書きで埋め尽くされていた。知恵遅れ、白痴、知障といった言葉が無数に並んでいて、卑猥なイラストを目にしたところで繭は顔を背けた。意味はよくわからなかったが、嫌なものだということはわかった。
 そんな繭の様子を見て、誰かが声を上げて笑った。その笑い声は教室中に伝染した。ノイズのような笑い声の中、繭がその場にしゃがみ込んでしまいそうになったとき、教室のドアが開き、みあが入ってくる。笑い声が止む。ほとんどの生徒がぎょっとしたような顔でみあを見た。繭もまた、みあを見る。みあは「あ、繭、おはよう!」と軽く声をかけるが、彼女の様子がおかしいことに気づく。そして黒板を見た。一瞬息を飲んで、すぐに教室内の生徒の様子と黒板を見比べる。
 そしてみあは自分のすぐ近くで薄ら笑いを浮かべている男子生徒の椅子をいきなり蹴っ飛ばした。昨日繭の足をひっかけた男子生徒だった。みあは無言のまま、隣の席の椅子を持ち、殴りかかろうと振り上げた。突然のことに驚きと痛みの表情を浮かべていた男子生徒の顔に恐怖が映った。教室内はいつの間にか静寂に包まれていた。
「だめ!」
 動いたのは繭だった。みあに駆け寄って、後ろから抱きついた。
「いい、もう」
 繭がそう言うと、みあはゆっくりと振り返った。
「でも」
「だめ」
 そのとき、担任が現れる。椅子を持ち上げているみあを目にしてビクンと身体を震わせた。一瞬の間の後、「な、何やってるの!」と声を上げた。みあに抱きついている繭を、そして黒板を見て、「し、椎名さん、またあなたなの?」と言った。
 みあは椅子を投げ捨て、教室から駈け出して行った。待ちなさいと制止する担任を突き飛ばすようにして。繭は彼女を追おうとするが、昨日のねんざの痛みで走れない。「みあ……」と決して届かない、か細い声を出した。

 放課後に空き教室の掃除を命じられる、そんな日が何度かあった。みあはたまにしか教室に行かなかったが、教室にいるときは繭にちょっかいを出す男子に仕返しをした。繭が止める間もないほど、その動きは素早かった。しかしそれでもクラスメイトたちは二人を邪魔者扱いすることをやめなかった。
 だから担任に叱られ、二人はセットで罰を与えられた。完全に目の敵にされているようだ。トイレや空き教室の掃除がもっぱらだった。みあはぶつくさ文句を言っていたが、繭はみあと一緒に何かをできることを楽しいと感じていた。
 みあは言った。
「友達になろう、繭。何か、今更だけどさ」
 繭は「うん」と頷いた。友達は、とてもいい響きを持った言葉だった。
 友達と一緒にする掃除は退屈なことではなかった。繭は不器用に床を掃いていた。みあは退屈そうに教室内をうろうろしていた。そこはかつて音楽準備室として使われていたが、校舎を建て直したときに移転して以来、立ち入る者のない教室だった。みあが教室の隅に置かれた黒い暗幕を引っ剥がすと、いくつかの楽器が埃をかぶったまま放置されていた。
 その宝の山へ手を伸ばそうとしたところで繭が振り返り、目があった。みあはにっと笑った。そしてその場にすとんと腰を下ろした。スカートがめくれて、膝から太股のあたりが露わになった。包帯が巻いてある。教室から逃げだしたときに転んでできた傷だった。心配そうな繭の視線に気づいたみあは自嘲するように笑い、ぼそっと呟いた。
「繭は強いよね」
「ほえ?」
「ほえじゃなくて。強いんだよ、繭は。私はダメだなあ。すぐカッとなっちゃって」
「……」
「繭、座って」
「うん」
 繭はみあの隣に座る。
「私は、繭は誰よりも強いんだと思うよ。私は繭がうらやましい」
「うらやましい?」
「うん。だって、繭はどうしてそんなに我慢できるの?」
「我慢?」
「うん。我慢。どうして」
「わかんない。けど」
「けど?」
「待ってる、浩平」
「ああ、彼氏さん。だから繭は強いんだね」
 みあは俯く繭の頭に手をやり、抱き寄せる。
「わかんない」
「強いんだよ。皆よりも先生よりも。繭は強いからいいんだよね」
「……」
「でも私は弱いから。戦わないといけないんだ」
「……みあ」
「私は弱いから、ピストルが必要なの。手りゅう弾も。地雷も、きっと」
 目を閉じて、みあは"How we survive in the flat field"と歌うように呟いた。うっとりとするような声色だった。
「ねえ、繭。あの教室に私たちの居場所を作ろうよ」
「……でも、だめ」
「うん。だから、そう、別の方法で」
「……べつ?」
「うん。できるよ」
「……うー、うん」
「でもその前に掃除をしなくちゃね」
「うん!」
 繭はぴょこんと立ち上がり、再び床を掃き始めた。みあも箒を手にするが、集中力は全く続かず、転がっている楽器をいじりはじめる。繭がもくもくと掃除をする中、みあは太鼓とバチを見つける。数セットの中から繭と自分の分を用意する。勝手に持ち帰っていいものかどうか迷ったが、どうせ使われていない、不要なものだろうと勝手に判断した。みあは手提げ袋にそれを詰め込んだ。

 休みの日、繭はみあと待ち合わせをした。遊ぼうと誘われたのだった。二人はファースト―フード店で昼食を摂った後、公園へ行った。
「繭、ほら、これ」
 みあが手にしていたトートバッグに入っていたのは先日音楽準備室より失敬したタンボリンだった。みあは太鼓とバチを繭に手渡し、「おもしろいよ。叩いてみて」と促した。繭はどうしたものかと戸惑いながら、タンと鳴らした。そのままタンタンタンタンと続けて太鼓を叩く。
「うまいよ、繭。うまい」
 繭の単調なリズムに合わせるようにみあも太鼓を叩き始める。二人は束の間、不器用なセッションを楽しんだ。公園の中を歩き回りながら、太鼓を叩いていた。いつの間にか、サンバのリズムが響くようになっていた。リズムを奏でる二人の少女を、たまたま居合わせた人々は微笑ましげに見ていた。二人にも自然と笑顔が浮かんでいた。気分が高揚していた。繭はこの世に、こんなにも楽しい瞬間があるなんて知らなかった。
 やがて二人は倒れ込むようにベンチに腰を下ろした。動きながら太鼓を叩いただけだが、ひどく疲れていた。しかし、心地良い疲れでもあった。二人は顔を見合せてにっこりと笑った。途中、コンビニエンスストアに寄って買ったジュースを二人して飲んだ。
 公園は穏やかさを取り戻していた。散歩に来ている老人やベビーカーを押した夫婦がいる。そして小さな子供を連れた母親たちが談笑していたりする。繭はそのゆったりとした空間に目を細めた。子供が吹いたシャボン玉が二人の頭上でふわふわと揺れていた。
 みあはそのシャボン玉の軌跡を見ていた。すると不意に閃いた。自分に何が欠けていたのか、そのときわかったのだった。みあは隣の繭の横顔を見た。視線に気づいた繭が不思議そうに首を傾げた。みあは「わかったよ」と言った。「私、わかった」、と。

 翌朝、みあは教室に姿を現さなかった。繭は友人のいない教室でたった一人だった。一時間目が終わった後の休み時間、みあを探しに保健室へ向かった。しかしみあはいなかった。養護教諭に頭を下げて、保健室を後にする。
 みあがどこにいるのか、繭にはわからなかった。しかし校内で他に縁がある場所といえば、空き教室が並ぶ一角くらいだった。繭はそこへ足を向けた。授業の開始をチャイムが知らせたが、彼女の耳には届いていなかった。
 どの教室も鍵がかかったままだった。仕方なく繭はトイレに行った。するとそこにみあがいた。トイレの床にはピストルが二丁置かれている。
「あ、繭。どうしたの」
「探してた」
「あ、そうなんだ。私ね、今から繭を探そうと思ってたの。ありがとう」
「みあ、それ」
「うん。行こう、繭。次は英語の時間だよね。あの先生の時間だから、ちょうどいい」
 みあはピストルを繭に手渡す。それはずっしり重かった。みあは公園に持っていったのと同じトートバッグを持っていた。その中にはあのタンボリンが入っている。太鼓に紐を括りつけて、背負えるようにカスタマイズされていた。みあは繭にそれを背負わせ、自分も担ぐ。
「繭、これはね、武装だよ」
「ぶそー」
「うん。武装」
 みあは立ち上がる。トートバッグを持って。そして歩き始める。繭がそれに続く。みあの足はまっすぐ自分の教室へ向かった。繭が横に並ぶ。一歩一歩、確実に足を進めた。急ぐことはなかった。そして言葉もなかったが、繭はみあがどこへ向かっているかわかっていた。
 歩きながらみあはピストルの引き金を軽く引いた。繭に見せつけるように。真っ赤な液体がぴゅっと出た。それは食紅を溶かした、ただの水だった。みあは繭に言うわけでもなく、ぼそっと呟いた。「暴力は許されない。だったら、ユーモアしか残らない」。繭が「ほぇ?」と問うが、みあは答えない。ただ優しげな視線を投げかけた。
 やがて二人の教室の扉が見えてくる。みあが口ずさむ、"How we survive in the flat field"、彼女がドアに手をかけたとき、繭がタンボリンを力いっぱい叩く。その音に緊張が緩み、二人は顔を見合せて大声で笑った。そしてみあは勢いよく扉を開けた。

(了)


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