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新 世 界

 目の前に下ろされた下着がある。白い下着。便器に座った倉田佐祐理は膝と膝の間から腕を引き抜いた。妊娠検査薬がその手の中にある。『−』はいっこうに浮かんでこない。佐祐理は顔を近づける。小便の臭いがする。
 大きく息を吐きだして、水を流した。洋式の便座に座ったまま、妊娠検査薬を床に叩きつけた。ドアノブ。トイレットペーパーと生理用品が置かれた棚。敷かれたカーペット。佐祐理は上半身を前に倒す。狭い小部屋。スティック状の妊娠検査薬が転がっている。長い髪の毛が床に垂れ下がる。汗が全身に滲んでいた。トイレの薄いドアを挟んだ向こうで電話が鳴り始めた。


 緑色の電話機に潰れたチェリーの箱が置かれていた。相沢祐一は蒸し暑い電話ボックスで電話機を人差し指でとんとんと叩いていた。呼び出し音はしばらく続き、祐一は乱暴に受話器を電話機に戻した。戻ってきた小銭をジーンズのポケットに突っ込んで、ボックスから外へ出る。強い風が吹き、蒸し暑さを一瞬忘れた。
 祐一は強い日差しに目を細めながら、駅までの道を歩いた。すでに夕方だったが、夏の日差しは強いままだった。祐一は早足で駅へと急いだ、往来の学生たちの間をすり抜けるようにして。


 電話はやがて静かになった。佐祐理はソファーに横になっていた。テーブルを挟み、向こう側にテレビが置かれている。小さいブラウン管型のテレビで電源はついたままだった。しかし黒い画面には自分の顔が映っている。テレビの上に砂時計。ペットボトルのおまけキャップのハイジ。
 不意にテレビの画面に男の姿が現れる。佐祐理は寝返りをうち、テレビに背を向ける。声だけが耳に入ってくる。「何してんだよ。映画館の暗闇の中でそうやって腰かけて待ってたって何も始まらないよ。スクリーンの中はいつでも空っぽなんだよ。ここに集まってる人たちだって、あんたたちと同じように何かに待ちくたびれてるんだな。何か面白いことはないかってさ」。
 佐祐理はソファーの枕元にあったリモコンをテレビへ投げつける。テレビの脇に積み重ねられているCDが崩れる。床に落ちた拍子にボタンが押され、テレビの電源が落ちる。男の声が消える。


 運ばれてきたビンのコーラを手に取った。氷でいっぱいのグラスを脇へ押しやり、そのまま口をつけた。炭酸が喉を通った。
 祐一はビンを置くと、鞄から出した求人誌を広げた。そこにナポリタンが運ばれてくる。フォークを手に取ったが、すぐに元に戻した。広げた求人誌をじっと見つめた。
 隣の席では数人の中学生が地図を広げて、あれこれと話をしていた。大声でげらげら笑いながら。テーブルには人数分のグラスとフライドポテトの皿が三枚ある。たまにポテトをつまんでは、学生服の上着やズボンで指先を拭いている。
 祐一はナポリタンの皿を引き寄せ、フォークを突き立てる。くるくると回してパスタを巻きつけるが、そこで手を離した。フォークがぱたんと倒れる。コーラの瓶に手を伸ばし、唇を湿らせる。


 渋谷駅までの道を川澄舞は歩いていた。左手に持った大きめのショルダーバッグには教科書やノートが詰め込まれている。日が暮れかかっていた。
 大学を出てすぐのところにある地下鉄の駅から電車に乗れば、数分で渋谷駅だった。しかし川澄舞は行きと帰りの道を歩くことにしていた。電車代を節約するということもあるが、身体を動かす機会をわずかでもいいから欲していたのだった。歩く速度を上げると、チュニックの裾がひらひらとなびいた。
 人でごった返している渋谷を横切り、舞は井の頭線のホームへ向かった。佐祐理、祐一と共に住むアパートへ帰るつもりだった。久我山と三鷹台の中間くらいにあるアパートは古く汚かったが、居心地はけっして悪くなかった。
 各駅停車の座席の端に座り、手すりに軽く身体を預けた。手すりの冷たさが左腕から身体に伝わった。二人は今日もいないだろう。二人とも仕事のはずだった。舞も子供のための水泳教室でインストラクターのアルバイトをしていたが、この日は休みだった。舞はストローハットを深くかぶり直し、車両の揺れに身を任せる。


 喫茶店のレジの近くにある古臭い電話機の前に立った。求人誌を開いたまま、小銭を入れてダイヤルを回した。間もなく男の声で応答がある。祐一は面接の予約を取り、電話を切った。テーブルに戻ると、ちょうど隣の中学生たちが店を出るところだった。
 彼らがいなくなると店内は静かになった。元々流行りそうもない店だった。祐一は冷たくなったナポリタンを食べ始めた。それはひどく味気なく、祐一はただ機械的に飲み込んでいった。


 服を着替え、化粧をした佐祐理は姿見の前に立った。どこにでもいそうな女が映っている。フローリングの床。佐祐理は壁にもたれかかり、掛け時計を見る。間もなく出発の時間が刻まれる。背中に感じる打ちっぱなしのコンクリート。かつては綺麗な灰色だったが、今では染みが多くできてしまっている。アパートが建てられた数十年前は斬新過ぎて買い手がつかず、今は汚くて敬遠されていた。まるで地下室のような2LDK。窓の外に曇り空、かすかに太陽の光が見える。
 佐祐理は台所へ向かう。冷蔵庫には舞のために用意した夕食がある。メモ用紙に伝言を書きつける。温めて食べてというただそれだけの伝言。居間に戻る。壁には世界地図が貼られている。佐祐理は地図を指でなぞる。ウラジオストク。ナホトカ。ハバロフスク。ヤクーツク。イルクーツク。キリル文字で書かれた、どこか遠い場所の名前。


 舞が帰宅したとき、部屋は真っ暗だった。台所にサランラップがかけられた皿が置いてあった。そばに佐祐理からの手紙がある。いつものように温めて食べてと書いてあった。舞はそれらを電子レンジで温め、テーブルの上に置く。
 崩れていたCDを積み直し、テレビをつけた。食事をとりながら、報道番組を眺める。川遊びをしていた子供がクラゲに刺されて搬送されたと報じられていた。本来は淡水にいないはずのクラゲに刺されて。
 舞はふと袖をまくり、左腕を見る。白い肌に赤い虫刺されがふたつできている。彼女は思い出したように駅前で買ってきた蚊取り線香をビニール袋の中から取り出した。


「いや、あのね、私もね、あなたが悪いって思っているわけじゃないんだよ。それはわかってる。あなたが不良品を作ったわけじゃないし、検品の担当ってわけでもないってこともわかってるし、責任があなたにないってこともわかってる。私も別にあなたが憎くてこう文句を言っているわけじゃないんだから、そこんところはわかっててもらいたいんだよね」
 佐祐理はパソコンのモニターを見ている。口やかましくごたくを並べる客の個人情報が表示されている。名前。住所。電話番号。メールアドレス。注文履歴。おおまかな性格。
「ただあなたは窓口で、私たちの意見を聞いて報告する義務がある。そうでしょ。だってそれがあなたの仕事なんだから。だからさっきみたいに気のない対応は良くないと思うし、ポーズでもいいから誠心誠意謝ってみることが大事だと私は思うんだよ。だってあなたは苦情係でしょ。苦情を受ける、不手際を認め謝る、その後の対応を考える、それが正常な流れですよね。でもあなたは謝る前にいきなり今後どうするかを提案した。その順番はおかしいよね」
 その男が電話を切ったのはおよそ三十分後だった。佐祐理はSVに呼び出され、対応の遅さを指摘された。一件の問い合わせに要する時間が長すぎる。佐祐理はただ頭を下げ、席に戻る。ヘッドセットをつけるが、すぐに外す。電話機の状態を後処理ではなく離席へと変え、席を立つ。
 トイレは無人だった。二十四時間対応のコールセンターではあるが、夜間の人員は少ない。佐祐理は便器に座り、頬杖をついた。五分以上の離席はペナルティになるという噂を聞いていたが、真偽のほどは知らなかった。佐祐理は立ち上がり、水を流して個室を出る。
 手を洗い、トイレを出ようとしたところで足を止め、再び個室に駆け込んだ。夕飯として食べたものをほとんど吐き出し、大きく咳き込む。しばらく蹲っている。吐瀉物を流し終えてから、洗面台に向かった。口元をゆすぎ、鏡の中の自分と見つめ合う。


 テレビからは十年か二十年くらい前の歌謡曲が流れている。舞は雑誌を読んでいる。祐一が好んで読んでいる音楽雑誌だったが、その手の知識のない彼女にとってはちんぷんかんぷんだった。ただ紹介されているレコードのジャケットを楽しんでいた。
 ふと掛け時計を確認した。すでに日付が変わろうとしていた。舞は雑誌をテーブルの下へ置き、佐祐理と共同で使っている部屋へ向かった。寝たり着替えたりするだけの部屋。彼女はたいていの時間を居間で過ごす。
 敷いた布団にあぐらをかいた舞は自分の髪に触れた。高校のときよりも短くなっているが、大学では長くて綺麗だと言われることが多い。電気を消して、横になった。夜がひっそりと静まり返っている。彼女は胎児のように身体を丸めて眠る。


 終電も深夜バスももう無い時間だった。吉祥寺駅から歩いて帰宅した祐一はトートバッグとビニール袋を床に置き、真っ先にシャワーを浴びた。長い距離を歩いたせいか、身体中が汗ばんでいた。汗を流し、下着とジーンズだけを穿く。
 ビニール袋から卵とツナのサンドイッチとマウントレーニアのコーヒー、煙草を出し、テーブルの上に置く。トートバッグからは十枚近いCDを取り出し、チェリーを吸いながら一枚一枚を確認していった。どれもサンロードのドラマで、一枚数百円で買ったものだった。ロックでもパンクでもない、ひと昔前に流行った歌謡曲。
 祐一はサンドイッチを食べ終えてから、買ったばかりのCDをかけた。特に意味はなく、適当に選んだ一枚だった。ヘッドフォンをつけてソファーに横になる。耳元で薬師丸ひろ子が歌う。もっともっとあなたを、もっともっと知りたい、いま何してるの、いま何処にいるの、そして愛してる人は――。祐一の意識はそこで途切れる。


 始発の電車から、まだ動き始めていない町を見るのが好きだった。車内はがらがらだったが、佐祐理は座席には座らずに窓から外を眺めていた。まだ目覚めきっていない朝の街並みがある。
 アパートに戻るとすぐに、ソファーから落ちて眠っている祐一が目に入る。佐祐理はタオルケットを取りに部屋へ行く。暗い部屋。穏やかに眠っている舞。彼女を踏まないように佐祐理は恐る恐る足を進める。すらりと長い彼女の手足はどこへ伸びているかわからないときがある。
 タオルケットを手に部屋を出たとき、佐祐理の視界の隅っこから影が消える。消えていった先には無人の台所がある。小さな冷蔵庫。食器棚。流しの向こうの窓枠に置かれたサボテン。動くものはない。佐祐理は視線を外し、祐一の元へ向かう。上半身裸の彼にタオルケットをかけてやる。その瞬間、寝苦しそうに寝返りをうつが、目覚めることはなかった。
 佐祐理はテーブルに置かれたままのチェリーの箱から一本を抜き取り、台所で火をつける。サボテンに触れないように窓を開けてから、煙を吐きだした。煙草をくわえたまま居間に戻り、コーヒーのチルドカップを手に取った。少しだけ中身が入っている。水道水を足し、その中に煙草を落とした。火が消え、灰がゆるやかに水面を黒く染めていく。


 目覚めた舞はすぐに背後を見やった。佐祐理の華奢な背中がある。なんでもない無地のTシャツが汗ばんでいて、肌が透けていた。規則正しく背中が上下していた。はいでいた布団をかけ直してから、舞は部屋を出る。洗面所で顔を洗うと、ようやく意識がはっきりとしてくる。
 ソファーで祐一が眠っている。ヘッドフォンがずれていて、音が漏れてしまっている。一瞬何かがソファーの下に潜り込んだように見えたが、確認してみると当然のように何もいない。舞はCDラジカセの電源を落とし、テーブルに残ったゴミを捨てる。
 台所で朝食の用意を始める。冷蔵庫から卵とベーコンを出す。米が炊き上がるまでは数分だった。味噌汁は昨夜の分がまだ残っていた。火をかければ、まだ食べられるだろう。舞はフライパンにサラダ油を垂らし、コンロの火をつける。ベーコンを焼き、卵を落とす。香ばしい匂いが室内に漂う。
 朝の匂いに祐一が目を覚ます。寝ぼけ眼をこすりながら、煙草をくわえて火をつけた。一息吸い込んで、すぐにげほげほとむせ込んだ。ぼさぼさの頭をかきながら、ベランダへ出る。早朝だった。珍しく涼しかった。頬を引っぱたくと、頭がすっきりした。室内では舞がテーブルに食器を並べている。舞と祐一、二人のための食器。佐祐理の分は台所の流しにあって、ある程度冷えるのを待っている。祐一はくわえていた煙草をベランダの手すりでもみ消し、外に投げ捨てた。それからゆっくりと室内へ戻る。



フ ロ ン テ ィ ア

いつか夢に見たような
ガラスの街心に抱く
今にも壊れそうな明日を願う時
――中谷美紀『フロンティア』

 目を覚ましたとき、店内はほとんど無人に近い状態だった。眠ってしまっていたようだった。交通整理のアルバイトが終わってから、空腹に耐えかねた祐一はマクドナルドで遅い夕食をとった。それから眠ってしまったようだった。日付はとっくに変わってしまっていて、電車があるわけがなかった。
 祐一はマクドナルドを出て、吉祥寺駅に向かった。歩いて帰るのには慣れていた。無人のアーケードを歩く。ほとんど明け方に近い夜中、通りかかる人は皆無だった。そこは普通に歩けば五分やそこらで通り抜けられる道だった。しかしいつもは気にならない横道が不意に彼の視線に入った。
 祐一は立ち止まり、視界に入った一軒の店を眺めた。ただのリサイクルショップのようだったが、中からはどたばたと音がしていた。窓ガラス越しに覗きこんでみようとした瞬間、そのガラスが割れて人が転がり出てきた。祐一の身体が硬直する。
 男はランニングに短パンというラフな格好をしていた。しかしそのランニングはぐっしょりと血で染まっている。それを追うようにして数人の少年が店から出てくる。彼らは両手に様々なものを抱えていて、落っことしては拾いながら、その場から遠ざかっていった。が、すぐにその中のひとりが戻ってきて、倒れている男の腹部を思いっきり蹴っ飛ばした。そして祐一を見て、持っていたモデルガンを向けた。
 祐一は少年から視線を外さなかった。彼が来ている黒い服は学生服のようだった。視線が絡み合う。やがて少年はモデルガンを下に向け、男へ向けて連射した。男はほとんど反応を示さなかった。少年はじっと男を見下ろしていたが、やがて踵を返して走り出した。片手に抱えていたものを投げ捨てて。
 祐一は少年が捨てたものを拾い上げる。古臭いカメラだった。少年が走り去っていった道の向こうを見ながら、それをバッグに押し込んだ。それから男の脇にしゃがみ込む。息はしているようだったが、祐一が近くにいることにも気づいていないようだった。祐一はリサイクルショップの中に入る。
 内部には商品やガラスの破片が散乱していて、ひどい有様だった。一歩足を進める度に靴の裏でガラスが音を立てた。祐一はまっすぐレジカウンターに行き、向こう側にある電話機に手を伸ばした。一一〇番をダイヤルし、目にしたことを伝えてから店を出た。男は倒れたままだった。祐一は男を一瞥してその場を後にした。


 かごの中身をビニール袋に移し終えた佐祐理はスーパーマーケットを出た。まだ夕暮れまでは時間があった。主婦や学校帰りの学生にまぎれて、家路を急いだ。急ぐ理由はなかったが、人混みにいるのは気分が悪かった。
 部屋のドアに鍵はかかっていなかった。佐祐理は首を傾げながら部屋に入る。居間では祐一が地べたにあぐらをかいて、何かをいじっていた。広げられた新聞紙。工具。空っぽのペットボトル。布切れ。灰皿。祐一は佐祐理にあ、おかえりと言うが、作業に没頭したままだった。
 佐祐理はビニール袋を流し台に置き、中身を冷蔵庫に移し始める。野菜。肉。魚。牛乳。烏龍茶。かなりの量を買い込んでいて、すかすかだった空間があっという間に埋まっていく。
 佐祐理は居間へ行き、ソファーに座る。テーブルの上のチェリーの箱を手に取った。灰皿をつまみ上げ、煙草に火をつける。灰皿をテーブルに置く。煙を吐き出す。祐一がくわえている煙草には火がついていなかった。ただくわえているだけだった。祐一は眉間にしわを寄せて、手元のカメラをただいじっていた。
 佐祐理は煙草を口にしたままベランダに出る。住宅街。灰色の雲。背中から手すりにもたれかかる。胸を反らして、はるか上空を見上げる。雲。薄日が差し込んでいる。佐祐理は夕食を作りに台所へ向かう。


 朝からあった熱っぽさがひどくなっているようだった。その上、舞は雨で身体をぐっしょりと濡らしていた。アルバイト先に病欠の電話をした後、急いで帰ろうとした矢先の夕立だった。
 電車では濡れた身体のせいで座ることができず、ずっと立っていた。久我山の駅で降りたとき、熱っぽさは明らかな発熱に変わっていた。舞にはそれがわかった。雨は止んでいた。駅前の薬局に入る。ふらつく頭では薬を選ぶことができず、薬剤師に声をかけた。今の症状をどうにか伝えると、白地の箱を彼は選んだ。何事か説明をしてくれたが、舞の頭には入らなかった。その薬を買って、店を出た。
 アパートの部屋は無人だったが、祐一が帰ってきているようだった。居間に新聞紙が広げっぱなしになっていた。舞は悪寒に身体を震わせながら、冷蔵庫の中のこんにゃくゼリーを数個口にした。それから風邪薬を飲む。吐き気をこらえて飲み込んだ。
 それから自室に行き、服を脱いで身体を拭いた。寝間着に着替える。普段は感じないスキニージーンズの窮屈さから解放されて、少しだけほっとする。それで気が緩んだのか、舞は敷きっ放しになっていた布団に倒れ込み、すぐに意識を失った。


 フィルムが回り始める。錦糸町まで買いに行ったフィルム。ファインダーを覗く。見慣れた室内が映っている。祐一はカメラを構えたまま、舞と佐祐理の部屋へ足を向けたところで影がフレームを横切る。祐一はファインダーから目を離し、室内を見渡す。動くものはない。祐一は舌打ちをして、再び目をファインダーに戻す。
 眠っている舞を撮影する。部屋は暗く、粗くざらついているいるように見える。舞が目を覚ます。いつもの癖で枕元の目覚まし時計で時間を確認する。十一時五十八分。それから祐一の姿に気づく。一瞬驚いたように凍りつくが、祐一だとわかって表情を柔らかくする。自分が撮影されていることを知ると、恥ずかしそうに顔を背ける。
 祐一はいったんカメラを置き、玄関から懐中電灯を持って戻ってくる。まだ目覚めきっていない舞の顔を照らし、カメラを向ける。こらえきれずに祐一が笑い出す。心底愉快そうに。つられて舞も笑う。懐中電灯の光が舞の身体を這う。足先から首元へ。舞は困ったような顔をして、祐一に背を向ける。そのときフィルムが終わる。二分三十八秒間の川澄舞が記録されている。


 佐祐理が帰宅したとき、祐一が居間のテーブルに伏せっている。祐一の手の下には古ぼけたカタログがある。映写機のカタログ。隣に8mmカメラ。お茶が注がれたコップ。煙草の箱。電話帳。
 そのとき足音が耳に入る。振り返ると、舞と佐祐理の部屋の方へ影が消えていく。子供がかくれんぼをしているようだった。佐祐理はその影を追う。長い髪の毛がなびいているように見えた。
 二人の部屋では舞が眠っている。身動きひとつせず、仰向けになって規則正しく胸を上下させている。他の人の姿はない。佐祐理はバッグを置き、着ているものに手をかける。長袖のカットソー。汗でぴったりと肌に吸いつき、手首や首筋を隠している。


 撮影したフィルムに月宮あゆが映っている。十年近く前の幼い姿のままの月宮あゆ。フレームの端っこに彼女は曖昧に映り込んでいた。クランクを握る手に汗が滲んでいる。交通整理のアルバイトを始めた夜、すぐ近くでマンホールの中を覗き込んでいた月宮あゆを思い出す。
 不意に肩に手が置かれた。反射的に振り払う。背後には誰もいない。祐一は煙草に火をつける。しかしすぐにもみ消して、テーブルを殴りつける。


 佐祐理はバッグから雑誌を取り出した。ページの片隅に書かれている地図と店名を目の前の景色と見比べる。『キリコのこーぼー』という手書きのプレートがアパートの一室のドアにかかっている。佐祐理はノブを握るが、すぐに離してノックをした。


 数日寝込んだ結果、調子はだいぶ良くなっていた。舞は寝床を抜け出す。佐祐理も祐一も出かけていた。佐祐理が用意した食事をとった。テーブルにはおもちゃのような映写機が置かれている。
 時間の感覚が曖昧になっている。何の気なしに映写機のクランクを回すと、打ちっぱなしのコンクリートに自分の姿が映し出される。恥ずかしそうに笑っている自分を見るのは照れくさく、舞はすぐに手を止めた。


 コンビニから出た祐一はふと立ち止まる。ビニール袋の中には金槌やドライバーのセットケースが入っている。たむろしている小学生か中学生くらいの若者たちの間に割って入り、ごみ箱へそのほとんどを捨てた。金槌だけを手に持って、その場を後にする。夜のコンビニの駐車場で少年たちが呆気にとられている。
 祐一は吉祥寺駅から井の頭公園へ向かって歩く。道なりに歩いていけば到着する。迷うはずがない道だった。とっくに日付は変わっていて、森は静まり返っていた。昼間は人通りも車通りも多いが、深夜に人影があるわけがなかった。祐一は白い無地のシャツとハーフパンツ、ベースボールキャップという服装だった。帽子は深くかぶっている。
 祐一はジブリ美術館の裏手を歩いていた。月は出ていない。立ち並ぶ街灯には消えかかっているものもあり、どこか心もとなかった。公園内を通っている道の半ば、祐一はいきなり後ろを向いて金槌を振り下ろした。背後にいた月宮あゆの頭めがけて。金槌はおでこのあたりに命中し、月宮あゆはその場に倒れる。祐一は馬乗りになり、あゆの頭を何度も何度も金槌で殴りつけた。頭蓋骨が陥没し、口や鼻から血が噴き出した。
 彼女の顔が原形をとどめなくなった頃、祐一は殴るのをやめた。金槌をズボンと尻の間に挟み、あゆの死骸の足を掴んでずるずる引きずり始めた。夥しい量の血液や体液が一筋の線を作る。やがて玉川上水のせせらぎが聞こえてくる。祐一は橋の上からあゆの死体を川へ放り投げた。脱いだTシャツで顔や手を拭い、金槌といっしょに投げ捨てる。それから欄干にもたれかかり、煙草をくわえた。
「君、何やってんだ」
 懐中電灯の強い光が顔を照らす。警察官が目の前に立っている。
「散歩ですよ、夜の」
 ぼそぼそと答える。警察官の持つ懐中電灯は全くぶれずに祐一を照らしている。
「こんな遅くにか」
「夜だからいいんじゃないですか」
「その格好は」
「暑くて。いいじゃないですか、上くらい裸でも」
 祐一は煙草に火をつける。ライターの炎が逆光になっていた警察官の顔を浮かび上がらせた。
「ポケットは?」
 その問いかけに祐一は答えない。代わりにポケットに突っ込んであったライターと煙草、アパートの鍵、それから小銭を足元に投げた。懐中電灯の先端が地面に向けられる。
 警察官はつまらなそうにふんと鼻を鳴らしてその場を去っていった。祐一は足もとに散らばった所有物を拾い集める。煙草を欄干にこすりつけて消し、玉川上水へ指ではじいた。
 それから再び欄干へもたれかかり、大きなあくびをした。しばらくその場に佇んでいた。


 夜中に目を覚ました舞は台所でコップに水道水を注いでいた。喉がからからに乾いていた。一息で飲み干し、息を吐いた。口元を手で拭った。ちょうどそのとき、祐一が帰宅する。祐一の姿を見て舞の眠気が吹き飛ぶ。祐一の全身に乾いた血液がこびりついていた。舞は声をかけることができず、ただ茫然と祐一を見た。
 祐一は恥ずかしそうに笑って、風呂場へ行った。服を脱ぎ、湯ぶねのお湯を身体にかけた。血が本来の赤さを少しだけ取り戻す。ボディタオルを手に取るが、それに血がつくのは嫌だった。ボディタオルを元に戻し、祐一は指で身体をこすり始める。
 下着姿になった舞が浴室に入ってくる。舞は何も言わずに祐一の背中に手を這わせた。濡れた血に手のひらがぬるりと滑った。爪と指の間に流れ込んだ血液をじっと見つめる。それから叩くように祐一の背中を洗い始める。


 居間で祐一と舞が手をつないで眠っている。佐祐理は二人にタオルケットをかけてやり、部屋を出た。ドアに背中を預けて、祐一のカバンから抜き出した煙草を口にくわえる。まだ早朝だった。彼らが住むアパートの住人は総じて朝が遅く、夜の影が残っているこの時間には彼女はひとりでいられた。
 しかし視線を感じた。顔を向けると、階段を駆け下りていく子どもの背中が見えた。彼女たちの部屋は二階の角部屋だった。佐祐理は立ち上がり、その姿を追う。
 階段を降りると、そこは無人だった。アパートの敷地を出て、路上に立つ。子どもの影が向かいの雑居ビルへ消えていく。佐祐理は慌てて後を追うが、そのビルはもうずっと前に捨てられてからは無人で、出入り口は施錠されている。
 開かないドアに手をやったまま、一弥と呟いた。左の手首がずきんと痛んだ。右手でそっと手頸に触れる。彼女はいつも長袖の服を着ていて、そこは常に隠されている。一弥。今度は声に出さず唇だけを動かす


 子どもたちが帰ってから、舞はプールに残る。仰向けに水に浮かんでいる。等間隔で並ぶ蛍光灯を眺めている。夕方と夜の間はクレバスのように断裂していて、ほとんど無人に近い時間帯ができあがることがある。だから舞は水面を漂っていられた。
 水面に浮かんでいるのはとても楽なことだった。身体の重みを感じない。過去と現在、幻想と現実の衝突地点に縛られていた昔が溶け出していくようだった。


 女は肩くらいまで伸ばした黒い癖っ毛をエクステンションで装飾していた。白いキャミソールの胸元から赤い下着が覗いている。レザーのミニスカート。ところどころ破れている網のストッキング。佐祐理の左手首をしげしげと見つめ、何度も指先を這わせた。
「ああ大丈夫、これくらいなら。でもこれすごいね」
 彫り師の女は舌っ足らずな話し方で続けた。
「すごい綺麗な肌なのに。どうしたの、これ」
「おいキリコ」
 その部屋はただのアパートの一室だった。彫り師の女の恋人は窓枠に座ってアコースティックギターを奏でながら、非難するようにその名を呼んだ。
「なに?」
「お前、それプライバシー」
「あのさあ、あんたバカ? コミュニケーションだよコミュニケーション。ね、倉田さん」
 佐祐理は曖昧に笑って頷いた。
「あんまり深いとあれなんだけど、でもこれくらいなら大丈夫だよ。うん背中も大丈夫」
 彫り師の女はデザインのカタログを引っ張り出す。佐祐理は丹念にページをめくる。動物。植物。ロゴ。文字。分類別に無数のデザインが掲載されている。佐祐理は手首の傷を見ながら、百合の花で目が止まる。花言葉は純潔。佐祐理は自嘲するような笑みを浮かべた。


 暑い夜だった。祐一は支給された制服を着て、下水道工事の現場で交通整理をしている。誘導棒を手に、研修で教わった通りに車両の流れを振り分けている。すでに五時間半、同じリズムを繰り返していた。
 車通りの多い道路ではなかったが、皆無というわけでもなかった。厚い生地の制服は通気性が悪く、立っているだけで気分が悪くなりそうだった。誘導棒を振っているときだけは暑さを忘れられた。
 祐一の真横を男がふらりと通り過ぎた。ただの酔っ払いのようだった。そのとき、ちょうど車両の流れは途切れていた。祐一の視線はその男の背中を追った。千鳥足で工事現場の脇を通り抜けようとしている。つまらなそうに視線を外そうとしたときだった。酔っぱらいは掘られた溝に向かって嘔吐し、中を指差してげらげら笑い始めた。溝の中には作業員がいるはずだった。
 祐一はおもむろに男に近づき、誘導棒で殴った。男は姿勢を崩しながら、振り返って祐一を見た。祐一は続けて二度三度と殴りつけた。それからわき腹のあたりを蹴り、男を溝へ落した。水が跳ねる音がした。
 地面に転がったアスファルトの破片を掴み、腕を振り上げたところで後ろから羽交い絞めにされた。祐一は全身でもがくが、彼を掴む腕の力は強かった。やがてあきらめ、掴まれたままの恰好で溝の中を覗き込んだ。男は倒れたままうめき声を上げている。


 佐祐理は警察署の前の階段に座り込んでいる祐一を見つけ、駆け寄った。息が切れていた。佐祐理の足音に気づいた祐一が顔を上げる。心配そうな顔を見て、かすかに微笑む。佐祐理は祐一を抱きかかえるようにして立たせ、平手で頬を二度ひっぱたいた。二度目で祐一はバランスを崩し、その場に倒れる。佐祐理は再び祐一を引っ張り上げ、その場を後にする。
 しばらく歩くと公園があった。佐祐理は公園の入口の車止に祐一を座らせる。夜。無人の公園。点滅を繰り返す街灯。ぼんやりと発色する自動販売機。佐祐理は自販機でビールを買い、片方を祐一に渡す。祐一は渡された缶を見て、何でロング缶と吹き出した。佐祐理も釣られて笑う。
 祐一は含み笑いを続けていたが、その笑い声には鼻をすする音が混ざり始め、やがて嗚咽へと変わる。隣に腰を下ろした佐祐理は祐一の頭を抱き寄せる。祐一はビールの缶を握り締めたまま、佐祐理にしがみつくように泣きじゃくり始める。佐祐理は何も言わずに祐一の肩から背中にかけてを撫でてやる。痩せた背中。ごつごつとした肩。わずかな癖っ毛。夜の静けさの中に祐一のすすり泣きだけが響いていた。


 二人は公園のベンチで夜を明かす。折り重なるようにして眠り、朝日に目を覚ます。近くのバス停まで歩き、始バスで吉祥寺駅へ向かった。路線バスは公園の前を通る。祐一は吊革につかまって、進行方向を見ていた。窓際に座った佐祐理はついさっきまでいた公園を見つめる。
 幼い少年がベンチに座っている。手つかずのまま残された二つの缶ビールをもてあそんでいる。少年と目が合う。舌先が渇いた。倉田一弥の姿がそこにあった。佐祐理はまさぐるように衣服の袖をまくり、左の手首に巻かれたサランラップを撫でる。


「傷を見るたびに、触れるたびにわたしは過去を思い返す。東京に出てきた今も、鮮烈に思い出すことができる。東京に住んでいても、わたしはあの町の住人なのだろう。本籍、青森県上北群六戸村大字犬落瀬。名前はいつかなくなる、きっと。わたしは女」


 高いコンクリートの壁にもたれかかり、舞は佐祐理を待っている。壁には半ば消えかかっている落書きがある。舞はバッグから手鏡を取り出し、自分の顔を見る。色の白い女の顔がある。最近は表情が柔らかくなったとよく言われる。サークル活動はせず、大学では講義に出るばかりだが、いつの間にかそれなりに親しい知人ができていた。自分を知らない人間ばかりの土地で暮らすことは彼女を気楽にさせた。
 佐祐理が目の前に立っていた。柔らかく微笑んでいる。佐祐理は舞の手を取る。細い手首。白い肌。艶やかな肌。シルバーの腕輪が揺れる。佐祐理は舞の背後の落書きを目にする。失われた文字を頭の中で埋め、佐祐理は苦笑する。舞はそんな佐祐理を不思議そうに眺める。
 舞の手を引いて、佐祐理は歩き始める。二人が向かっているのは郊外のショッピングセンターだった。舞は佐祐理の首筋を何となく眺めていた。ぴったりと首を塞いだ襟元からビニールのようなものがはみ出している。二人はバス停で足を止め、路線バスが来るのを待つ。


 アパートを出た祐一は向かいの雑居ビルの入口に立った。ノブを回そうとするが、しっかりと施錠されている。ガラスに手を当てる。爪の先でこつこつと叩く。汚れで曇っているが、辛うじて向こう側が見てとれる。
 祐一は部屋から持ってきたドライバーでガラスを突いた。みしっという音がするが、傷はつかない。しかしそれを繰り返していると、やがてガラスに波紋状の亀裂が走る。祐一はドライバーをカーゴパンツのポケットにしまい、拾った石ころでガラスを破った。それから向こう側のノブへ手を伸ばし、鍵を外した。ドアが開く。
 まだ真っ昼間だったが、ビルの内部は薄暗かった。ところどころ日が差し込んでいるが、廊下や部屋の隅には影が広がっている。床にはコンクリートやガラスの破片、ほこり、ちり、そしてゴミだらけだった。ゴミはひどく年数を経過しているようだった。祐一は足でそれらを廊下の端へ押しやりながら、階段へと足を進めた。
 階段が無事かどうかを一歩一歩確認しながら上っていった。ところどころ床材が剥がれてしまっている。手すりに手をやると、壁紙ごと床に落下した。そのまま階段を滑り落ちて、一階の床に転がった。衝撃でほこりが舞い上がる。祐一は口元を押さえながら、階段を上り続けた。
 屋上への鉄扉には南京錠がかかっていたる。祐一はドライバーでそれを壊そうとするが、わずかな傷がつくばかりで外れない。踊り場に転がっていたコンクリートの塊で何度か殴ると、錆びついて劣化した金具ごと外れた。祐一は扉を開く。太陽の光が全面に広がる。


 佐祐理はショッピングセンターの二階にある広場のベンチに腰を下ろしていた。舞はトイレに行っていた。佐祐理の隣には舞が買ったスニーカーと洋服が入った手提げ袋が置いてある。以前は佐祐理や祐一が選んだものを身につけていたが、今では自分で選ぶようになっていた。舞が好むものが自分たちの趣味と大きく異なっていることもあり、二人はよく苦笑した。
 舞はなかなか戻ってこない。佐祐理はベンチで買い物客の流れをぼんやりと眺めている。家族連れ。友達同士。恋人たち。それぞれが楽しそうに歩いている。広場のベンチで休んでいるのは佐祐理と、隣のベンチにぽつんと座っている男の子だけだった。佐祐理は何の気なしに少年を横目で見ていた。
 少年はじっと前方を見つめていた。悲しそうな瞳で。自然と佐祐理の視線もそちらへ向く。セサミストリートのグッズを売っている店。人だかり。ほとんどは家族連れだった。睦まじくあれこれ話している親子を男の子はじっと見ていた。
 その視線をまたぐように舞が戻ってくる。舞は佐祐理の目が男の子に、男の子の目がセサミストリートに向いていることに気づく。佐祐理に声を掛け、それから少年の目の前にしゃがみ込んだ。二言三言言葉を交わし、佐祐理に向かって迷子と困ったような表情で言った。


 廃墟となったビルの屋上で、祐一は新聞紙を敷いて横になっていた。寝返りをうったとき、ポータブルのCDプレーヤーから伸びるイヤホンが外れる。音が漏れる。バカみたいな馬力のドイツ車の中で、おれは自分が生きていることに驚く。エアバッグがおれの命を救った。トム・ヨークの美しい歌声。


 佐祐理と舞と男の子は手をつなぎ、母親を探し歩いていた。しかし広いショッピングセンターの中で巡り合うのは高い確率ではなかった。だから二人は案内所へ連れて行き、母親が来るのを待った。その間、舞は男の子と遊んでいた。プールでのアルバイトの経験が活きているのか、対話は少ないながら男の子の緊張はしっかりと溶けていた。
 やがて母親が姿を現す。憔悴しきったような顔で案内所に現れ、男の子の名前を大声で呼んだ。そして駆け寄って抱き締める。今にも泣き出しそうな雰囲気だった。舞は男の子の元を離れ、佐祐理の隣へやってくる。男の子は母親の抱擁から逃げ出し、二人へと駆け寄ってきた。佐祐理はしゃがみ込んで目線の高さを男の子に合わせようとする。不意にその顔が倉田一弥そっくりになる。佐祐理の表情が凍りつく。
 次の瞬間には一弥とは似ても似つかない男の子の顔に戻っている。佐祐理は踵を返して林で歩き出す。舞は慌てて佐祐理を追いかけようとするが、礼を言おうとする母親に捕まってしまう。
 佐祐理は歩調をさらに強め、もうほとんど走っているようになる。センター内に立ち並ぶ店が目に入る。洋服。靴。帽子。下着。化粧品。玩具。レコード。家電。本。食品。キャラクターグッズ。金券。あらゆるものが手に入るフロアを横切ると地上の駐車場に出る。広大な土地に無数の車が並んでいる。
 佐祐理は森に迷い込んだように闇雲に足を進めていた。車と車の間をすり抜けるようにして、どこへ向かうというわけでもなく走っていた。息が切れることも厭わなかった。ただ走っていた。深い色のシボレーの脇を通り抜けようとしたとき、車の上に座っている少年が目に入った。一弥。かすれる声で佐祐理はその名を呼んだ。一弥は佐祐理を見下ろしている。
 立ち止まった佐祐理は肩で息をして、一弥と視線を交わした。一弥の瞳はただ佐祐理を見るばかりで、感情は込められていないようだった。佐祐理はもう一度一弥と呼ぶ。声を発したとき、車内で寝ている子どもが目に入った。不自然に赤い顔色をして、息も絶え絶えの様子だった。佐祐理は声を失う。ルーフの上にはもう一弥はいない。
 佐祐理はドアガラスを両手で叩くが、車内の子どもが反応することもなかった。佐祐理の手のひらが真っ赤になる。拳を握り締めて叩き続けるが、やがて力が入らなくなっていく。周囲を見渡しても人影はなかった。佐祐理はバッグの中を漁る。食品売り場で買ったペットボトルのお茶が入っている。それを使ってドアガラスを叩くが、やはり反応はなかった。ペットボトルを入れていたビニール袋がバッグから落ちた。佐祐理はそれを拾い上げ、思案する。すぐに財布を出し、小銭を全てビニール袋に移した。そしてくるくるとねじり、それをドアガラスを力の限り叩きつけた。ガラスにひびが入り、警報機が鳴り始める。佐祐理は唾を飲み、ペットボトルとビニール袋をバッグに放り込んで、転げるようにまた走り始めた。


 祐一は貼られた世界地図の真ん前であぐらをかいている。手元には白色のペンキの缶がある。それからいくつかのスプレーペンキ。世界地図の真下あたりの壁に試し塗りをする。
 その色合いを確かめた祐一はペンキ缶とはけ、ローラーを持って部屋をでる。雑居ビルに侵入し、まっすぐ屋上を目指す。
 屋上に置きっ放しにしていたCDプレーヤーをポケットに突っ込み、イヤホンをつける。誰もいない海。ふたりの愛を確かめたくて。あなたの腕をすりぬけてみたの。曲に合わせて鼻歌を歌いながら、ペンキ缶を倒す。べっとりと流れ出した白色をローラーで伸ばしていく。


 舞は佐祐理をバス停近くのトイレで見つける。入口の脇で蹲り、俯いたまま地面を見ていた。目が赤くなっていることに気づく。舞は声をかけずに、ただその頭を抱き寄せた。
 佐祐理は舞の背中に手を回す。自分と同じように華奢な背中。


 花火大会の夜、祐一は雑居ビルの屋上のへりに座って煙草を吸っている。アパートの窓からも廊下からも見えないが、ここからだったら邪魔するものなく花火を見物できた。舞と佐祐理はレジャーシートを広げていた。
 花火が佳境に入ったところで、佐祐理は一旦アパートに戻る。生理だった。しびれるような鈍痛。便座に腰を下ろし、身体を前に傾ける。そうすると、少しだけ楽になるような気がしていた。
 トイレを出て、向かいの廃墟に戻る。懐中電灯で足元を照らしながら、屋上へ向かう。舞は祐一の隣に座っていた。肩を寄せ合うというわけではなく、ただ隣に座っている。佐祐理も二人のところへ向かおうとするが、舞と佐祐理が腰を落ち着かせていたレジャーシートに一弥が座っている。佐祐理へ向けた視線をゆっくりと屋上のへりにいる二人へと動かした。つられて佐祐理も祐一と舞へと視線をやる。後頭部。肩。背中。顔を見なくても、それだけで二人であることがわかる。
 今ちょっとでも押したら、二人は落下する。一弥の視線はそう物語っていた。佐祐理は恐る恐る二人に近づいた。足音を隠すように忍び足でゆっくりと、しかし一歩一歩確実に。そして二人へ手を伸ばす。首筋。うなじ。佐祐理は唾を飲み込む。わずか数センチの距離。
 佐祐理は二人の腹部に両手を回し、手前へ引きずり下ろした。そして笑いながら、そんなとこ危ないですよと言った。祐一と舞は驚いた顔をしていたが、やがて笑い出す。そのとき一際大きな花火が上がり、三人は笑うのを止める。花火が夜の闇に溶けてから、顔を見合せてまた笑い出す。


 アパートに戻った祐一と舞はシャワーを浴びるとすぐに寝てしまう。佐祐理は一人起きている。夜勤のせいで夜の浅い時間には寝付けない身体になっている。佐祐理は懐中電灯を手に雑居ビルへ戻る。
 一階が無人だとわかると、すぐに二階へ上がった。かつてオフィスだった一室があり、吊るされた透明のビニールシートの向こう側に倉田一弥の姿がぼんやりと見えた。佐祐理はビニールシートを掴み、引っ張って床に落とした。窓の外を見ていた一弥は驚いたように振り返る。そして佐祐理の顔を見て、にっこりと微笑んだ。
 佐祐理はつかつかと一弥に歩み寄り、平手でその頬を引っ叩いた。一弥はその場に倒れる。佐祐理は馬乗りになり、その細い首に手をかける。力を込める。細く白い首筋。一弥の両目は佐祐理をただじっと見据えていた。
 手の力が緩む。佐祐理は一弥から離れ、わっと泣き出した。それから一弥を起こし、抱き寄せる。強く抱き締める。まだ子どもの肩。子どもの背中。子どもの頭。それらがとても小さかったことを佐祐理は思い出す。
 気がつくと、佐祐理は虚空を抱き締めている。そのままうつ伏せに倒れて、泣きじゃくる。


 佐祐理はアパートに戻り、服を脱いで浴室に向かう。手には鋏が握られている。左手首に刃を這わせる。冷たい感触がある。手首から離し、今度は自分の髪の毛にあてがった。そして髪を切り始める。浴室には鏡があったが、確認すらせずにざくざくと髪を切っていく。
 最後に前髪を揃えるように切った。おかっぱ頭の、まるで自分とは思えない女が鏡に映っている。首と背中、そして首に巻いていたサランラップはもう取っていた。左手首に百合、右手首にチューリップのタトゥーがある。純潔、そして誘惑。
 佐祐理は首を回し、首筋の刺青を確認する。涙を拭うように顔へ手をやっている少女のシルエット。LOST CHILDというアルファベットがその下にある。そして肩甲骨には天使の翼が彫られている。佐祐理はそれらを指でなぞる。両耳のピアスが揺れる。左耳にドクロ、右耳にキューピー。
 ぬるいシャワーを浴びながらしゃがみ込み、祐一がよく聴いていた歌を口ずさむ。息もできないくらい。早く強くつかまえに来て。好きなんだもの。私はいま生きている。お湯が排水口へ流れ込んでいく。絡まった髪の毛。石鹸。カビがこびりついたタイル。


 祐一と舞が目覚める前に佐祐理はアパートを出る。キャリーバッグに荷物を詰め込もうと思ったが、持っていくべきものは何一つないことに気づいた。ただトートバッグに化粧品などの日用品を入れた。それから壁に貼られた世界地図を折り畳み、床に転がっていたスプレーペンキといっしょに放り込む。
 佐祐理はアパートを出る。ロングスカートにサンダル、上はたった一枚だけ持っていた真っ白いノースリーブのブラウス。
 コンクリートの壁が続く道にさしかかる。バス停へ行き、始バスの時刻を確かめる。当分は来ない。歩いた方が早そうだった。佐祐理は壁へ向き直り、スプレーペンキを取り出す。消えかかっていた落書きを書き直す。『町は開かれた書物である。書くべき余白が無限にある』。
 スプレー缶を投げ捨て、駅までの道のりを歩いた。駅前のベンチに横になり、電車が動き始めるまで仮眠を取る。


 朝がやってくる。舞は祐一よりも早く起き、朝食を作る。白米、味噌汁、卵焼き、納豆、ありふれた朝食。祐一はポストに新聞を取りに行き、すぐに戻ってくる。寝ぼけ眼を覚ますために顔を洗う。佐祐理がいないことに気づく。世界地図が剥がされている。
 二人は朝食を食べ始める。味噌汁をすすり、かき混ぜた納豆をご飯にかける。祐一は口を大きく開けて、納豆ご飯をかき込む。電話が鳴る。二人は食事を続ける。テレビをつける。電話の呼び出し音は途切れ、留守番電話に移行する。
「もしもし相沢? まだ寝てんのか? オレだよ。北川。久しぶりだなあ。お前さ、たまにはこっち遊びに来いよ。みんな会いたがってるんだぜ。まあ、それはいいんだけど、オレさ、今度東京に――」
 祐一は電話線を引っこ抜く。そして自分の場所に戻り、味噌汁を口にする。鼻を啜る。舞が立ち上がり、炊飯器からご飯のおかわりを持ってくる。
 不意にテーブルの上に置きっ放しだった映写機が回り始める。祐一が中途半端に白く塗ったコンクリートの壁に映画が映る。緑色に染められた映像。映画の出演者とスタッフがフレーム内にひしめきあっている。真ん中に立った男が言う。
「俺はもうスクリーンの中の家には帰ることができないな。ポランスキーも大島渚もアントニオーニもみんなもう電気がつけば消えてしまう世界なんだ。だいたい真っ昼間の町に、ビルの壁に、映画なんかが映るかよ! さいなら。俺はもう帰らないよ。撮影日数が二十八日の家族。たった二十八日の国家。たった二十八日の親父。たった二十八日の幻滅と怒り。たった二十八日の灰と希望。俺はもうこんな衣装なんか脱いじゃって、どっか別なとこへ出ていくよ。たった二十八日の人力飛行機――」
 祐一は映写機を持ち上げて、思いっきり床に叩きつける。映像が途切れる。祐一は茶碗を取り、米をよそいに行く。味噌汁の残りをぶっかけてずるずると食べる。舞は空になった食器を重ねて、流しへ持って行く。


 佐祐理はエスカレーターに乗って、四階へ向かう。成田空港北ウィングのチェックインカウンター。前には旅行客、背後には出張と思われるビジネスマン。佐祐理の脇を子どもが駆けていく。
 手続きを終えてからロビーの椅子に腰を下ろした。変化し続ける電光掲示板を見上げていた。それからバッグから世界地図を取り出す。ニューデリー。カルカッタ。チェンマイ。ムンバイ。ハイデラバード。地名だけを目で追う。
 剥き出しになった両腕や首筋の刺青への、他人からの視線はずっと感じていたが、いつしか気にならなくなっていた。手首と首から背中にかけてできた傷はすっかり目立たなくなっている。LOST CHILDの文字を見て、外国人の子どもが笑っている。佐祐理は笑顔で応える。
 佐祐理は自分の太ももで頬杖をついて、人々の流れをじっと見ていた。やがて立ち上がり、出国審査へ向かう。出発ロビーを後にする。佐祐理がいなくなった椅子にはしばらく彼女の残り香が漂っている。二人の子どもがその場に駆けてきて、椅子の上でぴょんぴょん飛び跳ねる。父親に叱られて大人しく座るが、すぐにこらえきれなくなって二人でじゃれ合う。
 やがて母親がやってきて、その一家も出国審査へと赴いた。喧噪が去り無人になったロビーにはもう何も残っていない。静止した空白。ただ無人の空間だけが広がっている。


 Sayuri Kurata
 Mai Kawasumi
 Yuichi Aizawa
 in  

boading gate



DEDICATED TO RICHARD AND MARIO


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