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マユホランド・ドライブ


 自転車の後輪がくるくるとうつろに回っていた。

 クラクションの音が耳に残っていた。椎名繭は塀で身体を支えながら、びっこをひいて歩いていた。あんまりスピード出しちゃダメだよ、危ないんだから。親友の声が今更蘇り、彼女は途方に暮れる。
 痛みは身体中にあったが、特に足の痛みがひどかった。振り返ると、雪に埋もれるように倒れている自転車はずいぶんと遠くにあるように見えた。え、こんなに歩いたっけと繭は思った。そしてこれ以上は無理だと直感する。激痛が走る足と雪の積もった足元。彼女のか細い両足に与える負担はかなりのものだった。ぼーしっと、と親友の口癖の真似をする。
 小坂という表札が見えたところで倒れた。身体の痛みだけではなく、もうずっとめまいを感じていたのだった。血が足りない? 積もった雪へ身体が沈む。白に染まる視界の中に、見覚えのある女が傘をさして立っている姿を見つけた。

 磔になったフェレットへ手を伸ばした。柔らかかった毛並みはごわつき、体温はほとんど失われていた。前足に刺さった釘を抜き、せめてこれ以上は冷たくならないようにとマフラーで亡骸を包んだ。
 温もりの消失を指先に感じたとき、繭の目に涙が浮かんだ。耐えられなかった。泣き声こそ上げなかったが、流れ始めた涙や鼻水には際限がないようだった。
 彼女はその場に突っ立ったまま、顔を歪めてしばらく泣き続けた。積もった雪の中で。腹部の鈍痛がひどくなっていた。

 繭は目を覚ました。ひどく嫌な夢をみた。一年くらい前の夢。身体を起こすと、全身に激痛が走った。どこかのベッドに寝かされていたようだった。見覚えのない部屋だった。ベッドを降りようにも身体が痛くてどうしようもなかった。誰かを呼ぼうとしたが、腹に力が入らないために声はふにゃふにゃと歪んで扉にすら届かなかった。
 そのままベッドに座っていると、やがて足音が聞こえてきた。それは確実に彼女がいる部屋へ近づいてきていた。不意に不安が頭をもたげた。いったい誰だろう。ここはどこだろう。わたしは動けない。ついに部屋のドアが開かれたとき、避けるように目を閉じた。こわかった。しかしすぐに聞こえた声に、繭の瞳はぱっと開いた。
「起きたんだ。ねえ大丈夫? びっくりしたんだよ、倒れてるから。でもどうして? 由起子さんと知り合いだったっけ? そんなわけないか」
 長森瑞佳は盆にマグカップとタオルを載せていた。ひさしぶりに見る彼女の顔に繭は頬を緩めた。瑞佳は繭の頭に触れながら、「こぶとかはないみたいだけど。繭、大丈夫?」と言う。繭は頷き、渡されたお茶を飲んだ。苦かったが、温かさがうれしかった。
 瑞佳は部屋を出ていった。繭は再び一人になった。ベッドに横になったものの眠気は皆無だった。天井を眺めながら、「でもどうして?」という瑞佳の問いを考えた。

 机に伏せっていた。風景の中に埋もれてしまいたかった、でも足をかけられたり蹴っ飛ばされたり、あるいは机や椅子を引っくり返されたり隠されたりした。教科書やノートが無くなったり破られたりするのはもっとありふれたことだった。たまにそのような行動をたしなめてくれる者もいたが、いつもというわけではなかった。
 だからいつも机に伏せっていた。組んだ両腕に顔を押し付けていた。耳は閉じることができなかったが、どんな言葉も無視するように努力をした。しかし、見たり聞いたりしないようにするのは怖いことだった。自分の周りで何が起こっているかわからない。だから、そのときも最初は何が起こったのか、彼女はわからなかった。
 恐る恐る顔を上げると、男子が一人倒れていた。頭部をおさえている。繭の目には彼を見下ろしている少女の後ろ姿が映っていた。彼女は振り返って繭を見た。繭の心臓がとくんと跳ねた。すぐに目をそらし、倒れた男子の腹を蹴っ飛ばした。こもったようなうめき声が聞こえた。
 その声をきっかけに教室中が喧噪に飲み込まれる。おまえ何やってんの、ふざけんなよ、痛がってんじゃねえかよ、居合わせた者が口々に彼女を非難する。彼女は静かな声で答える。
「わたし知ってるよ」。
 その冷たい声に沈黙が広がる。
「ひとでなし」
 彼女は苦痛に顔を歪めている少年を見下ろしていた。

 帰り道、繭は後ろから背中を蹴られて転倒する。彼女への悪意が止まったのはその日の休み時間のほんの一瞬だけだった。ホームルームが終わり、彼女は逃げるように教室を出た。しかし昇降口でもたついている内に――もたつくのはいつもだった。靴紐が抜かれていたり、画鋲やゴミや虫が入れられていたりするのが常だった――追いつかれてしまう。繭は彼らを無視して歩き出す。走ることはなかった。露骨に逃げるそぶりをするのは嫌だった。
 倒れた繭はいったん動きを止めるが、すっくと立ち上がりまた歩き出す。クラスの男子たちはしつこく彼女につきまとう。汚い言葉を投げたり、背中を押したり、胸や尻に手を伸ばしてはげらげら笑っていた。
 繭は泣くことも怒ることもせず、ただ無表情を装っていた。何の反応も示さなければ、いつか彼らは通り過ぎるだろう。そう信じていた。唇を噛みしめるようにして、彼女は歩き続けた。
 不意に隣を歩いていた少年がぎゃっと声を上げてすっ転んだ。少年の身体が唐突に自分の目の前に投げ出されて、驚いて足を止める。はやし立てていた男子たちの声がいつの間にか消えていた。振り返ると、自転車にまたがった少女の姿があった。少年たちを見つめて、ふぁっくおふと吐き捨てた。
 沈黙がその場を支配した。少女は繭を見て、「椎名さん、ここ」と言った。その手は繭へ向けられていた。夕陽が逆光となり、彼女の表情はよく見えなかった。わずかな躊躇のあと、繭は細い腕を伸ばした。

 少女――みあが乗っている自転車はいわゆるママチャリで、繭は荷台に後ろ向きで座っていた。背中に温かさを感じている。進行方向が見えないのはスリリングだった。片手で荷台につかまり、もう一方の手で髪の毛を押さえていた。
「じゃあ、繭が学校に来られるようになったのも、その人のおかげなんだね。長森さんかあ。どんな人なんだろ」
 繭は頷く。長森瑞佳は優しい人だった。初めて出会ったときのことに思いを馳せて、繭は目を細めた。困ったような大声が今にも聞こえてきそうだった。

 悲しいことがあった。だから出会った瞬間のことはあまり憶えていない。ただ瑞佳を追って、高校へ侵入したことは記憶している。泣きながら校舎を走り回って、何度か転んだ。そのとき生まれた痛みを包み込んだ瑞佳の指先が、一番鮮やかな最初の記憶だった。
「繭、今日からね、わたしたちと同じ教室で勉強するんだよ。わかる?」
 瑞佳は学校指定の制服を渡しながら、そう言った。明らかにサイズは合っていなかったが、瑞佳は「しょうがないね」と苦笑いを浮かべるだけだった。
 冬の到来と共に繭の新しい生活は始まった。不安げな母親の視線をよそに、繭は初めての登校日を迎えた。迎えにきた瑞佳と一緒の通学路は、一人ぼっちで歩いていた数日前とは全くの別物であるように感じられた。やがて校舎が見えてくる。本来の学校はくすんだ色をしていたが、瑞佳たちの学校は澄んだ白色をしていた。

 みあは土手に寝ころんでいた。制服が汚れるのも厭わずに。すぐ横に自転車が倒されている。繭は身体を起こしている。草の匂いがなんだか苦手だった。二人の後ろを犬の散歩やマラソンをしている人が行き交っていた。
 二人は無言だったが、その沈黙はけっして悪いものではなかった。繭は夕暮れの風を感じている。季節は夏に向かっていたが、朝晩の空気はまだ冬のように冷たい。

 夏の終わりに自転車に乗ってみたいと思うようになった。さっそうと自転車を乗りこなす親友の姿に憧れて、隠れて練習をした。自転車が欲しいと言い出したときは反対されるかとひやひやしたが、むしろ母はうれしそうな顔をした。
 しばらくみあの前では乗れないふりをしていた。いきなり乗れるようになっていれば、びっくりするだろうと考えたからだった。不器用な上に隠れて練習をしていたものだから、親友へ披露する頃にはもう冬になっていた。
 みあは純粋に喜んでくれたが、注意をすることも忘れなかった。
「あんまりスピード出しちゃダメだよ、危ないんだから」
 雪の中、親友の言葉が脳裏によぎった。でも大丈夫だろう。雪はうっすらと道を白く染めているばかりで、積もっているとはいえない。大丈夫。繭はそう考えた。その直後、目の前に現れたトラックに驚いてブレーキを握り、バランスを崩して空中に投げ出された。
 アスファルトが硬いということをずっと忘れていた。地面に身体が打ちつられけたとき、それを思い出した。全身に痛みが走った。幸福だった日々に亀裂が入ったような感覚に囚われた。

 目を覚ますと身体の重さは消えていて、痛みもなくなっていた。繭はベッドを抜け出し、部屋を出た。
 歪んだ扉は力を込めないと開かなかった。廊下に吊るされた豆電球の光が天井や壁にまとわりついた蜘蛛の巣を照らしていた。繭は階段を降りる。ささくれだった段板を足の裏に感じていた。
 一階に人気はなかった。瑞佳が持っていたはずの盆がテーブルの上に置かれていたが、もう長いこと誰も触れていないかのように埃をかぶっていた。薄暗い室内はひどく気味悪かった。繭は玄関に向かった。彼女が着ていたコートが無造作に置かれていた。
 外は完全な雪景色だった。繭はコートを羽織って、路上に歩み出た。ほとんど無音の世界だった。新雪を踏む音さえも、白さに飲み込まれていった。何も聞こえない。不意に寂しさに襲われた。誰か、と思ったときに声が聞こえた。彼女は誘われるように歩きだした。

 椎名繭が逃げていた。怯えた目は背後を見ている。同じクラスの数人の男子が彼女を追いかけている。彼女はその光景を目にし、一瞬その場に立ち尽くした。しかしすぐにその後を追う。
 男子たちは背後から繭を蹴っ飛ばしたり、拾った缶や石を投げつけたりしていた。彼女は彼らの行動を見つめていた。繭は彼らから逃げているつもりだったが、実際は彼らに追いつめられているだけだった。彼らの行き先は公園だった。
 例年よりも早く雪が降るだろうといわれた冬の始まりの日、一九九八年十二月六日の夕暮れだった。天候のせいで公園は無人だった。ぶ厚い雲に覆われた空を彼女は見上げる。
 繭は林の中へ逃げ込んだ。乾燥した落ち葉が靴の裏でぐしゃぐしゃと潰れた。息が切れていた。いつの間にか繭は走り出していた。降り始めた雪が肩で息をする繭の目に入った。繭は太い幹の影に隠れた。しかし足音と陽気な笑い声が聞こえてきて、また繭は走り出した。が、すぐに立ち止まる。
 彼女は目を背けた。繭は全身から力が抜けるのを感じた。そこには一際太い幹の木が生えていて、ちょっとした空間が広がっている。木の幹にフェレットが磔になっていた。前足に釘が打たれている。繭は親友の名を呼ぼうとしたが、声は出なかった。
 不意に後ろから突き飛ばされた。雪で湿った地面に倒れ、土が顔や手や足にこびりつく。振り返ると、そこには繭を追いかけていた男子が立っている。六人。その中の一人が汚っねえ顔と笑った。誰かが寒ぃ、さみーと言った。汚えんだよ、お前と言いながら、一人が地面をえぐるように蹴り上げた。
 彼女は痛みを感じていたことを思い出す。腹部の鈍痛。
 繭はうずくまったまま、昼間食べた給食をげっと吐き出した。咳き込みながら胃の中身を吐き終えると、木につかまるようにして立ち上がり、彼らを見た。その様子に少年たちの顔に初めて怯えの色が生まれる。あ、と一人が声を上げる。スカートから伸びる生白い足に血の線ができている。
 なんかやばいんじゃないのこれ。誰かが言った。出血に驚いた繭は助けを求めるように彼らへ近づく。腹が痛いことを伝えようとするが、意味を持たない声しか出ない。少年たちにはそれがいっそう気味悪く、一歩また一歩と後ずさる。一人が石を拾って投げつけるが、震えた手のせいで命中しない。
 生理って痛いよね、むかつく痛さだよね、あー女ってば不幸とみあは言った。そのときは思い出せなかった、この日のことを。彼女は木に寄りかかり、一部始終を見続ける。
 繭が男の子の背中にしがみつくとすぐに彼はパニック状態に陥った。繭を振り払い、押し倒した。仰向けに倒れた繭は頭を木の根に打ちつける。意識が薄くなる。誰かが繰り返した。なんかやばいんじゃないのこれ。少年たちは無言で逃げ出す。
 意識が戻ったとき、裏山は真っ暗になっていた。繭はふらつきながら元の場所へ戻り、磔になったフェレットへ手を伸ばした。柔らかかった毛並みはごわつき、体温はほとんど失われていた。前足に刺さった釘を抜き、せめてこれ以上は冷たくならないようにとマフラーで亡骸を包んだ。
 温もりの消失を指先に感じたとき、繭の目に涙が浮かんだ。耐えられなかった。泣き声こそ上げなかったが、流れ始めた涙や鼻水には際限がないように感じられた。
 彼女はその場に突っ立ったまま、顔を歪めてしばらく泣き続けた。積もった雪の中で。腹部の鈍痛がひどくなっていた。スカートの中に手を突っ込むと、手首の先まで真っ赤に染まった。繭は下着を脱ぐ。ぐっしょりと濡れていて、生臭かった。繭は下着をその場に投げ捨てる。雪に赤い染みが広がる。
 繭はフェレットを抱いたまま、降り積もった雪に身体を預けた。ひどく眠かった。彼女はそのかたわらに寄り添って、繭が眠りにつくのを待った。間もなく、繭は眠りに落ちた。

 翌朝は晴天だった。日光で雪が輝いている。彼女は雪に埋もれたままの繭の隣に静かに座っていた。やがて声が聞こえた。長森瑞佳の声だった。
「んー、やっぱりゆっくり歩くと、見えるものも違うよね」
「そうだな」
 俯いていた彼女が顔を上げた。
「ほら、向こうに開けた場所があって、春になるとよくいったよね」
「昼休みになると学校抜けだして、だろ」
「浩平そこでも眠るから、起こすの大変だったよ」
 浩平。声には出さず、その名を頭の中で繰り返す。どうして忘れていたんだろう。ひどい。わたしは忘れてしまった。わたしをずっと見守ってくれる人だったはずなのに。
 そのとき、かすかに残っていた椎名繭の意識が途絶える。片目から涙がこぼれて、頬をつたった。
 でも思い出せてよかった。せめて。
「あれ…」
 瑞佳が足を止める。
 椎名繭は微笑んだまま事切れた。折原浩平と長森瑞佳が遺体へ駆け寄る。浩平は彼女を抱き起こすが、すでに生命が失われていることを知り、言葉をなくす。
 二人の目に映るのは白夜のような、椎名、おまえの横顔。

(了)


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