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いろは仮名EMPTINESS


太十  昼間買った鼠取りを鯰の中へ入れて食わしたのだが、滅法利きゃアがった。
     人を長斎坊にした罰だ。三十両出しゃアいいものを。
(宇野信夫「巷談宵宮雨」)



 こたつの上に置かれている原稿用紙は黒々とした色濃い文字で埋め尽くされている。ルイス・ブニュエル・ブライテスト・デイズ、題名が刻み込まれている。彼はこたつに半身を埋めながら、握ったボールペンを走らせている。尖ったペン先が薄っぺらい原稿用紙の向こうをカツンカツンと叩いている。つけっ放しになっているテレビには中東の現状が映し出されている。こたつに突っ込まれた彼の両足には、絹のようになめらかな彼女の両足が絡みついている。しかし彼女はこたつの中の奔放さとは裏腹に頬杖をついて、口を開けてテレビを見ている。夜更けの都市をミサイルが切り裂いている。彼女はそれを眺めている。
 彼は手を止める。小指の第二間接から手首にかけてが真っ黒く汚れている、インクの色、白かったはずの原稿用紙はすっかり染め上げられている。蜃気楼の中で、そんな書き出しで小説は始まる。蜃気楼の中で一糸纏わぬ男女がまぐわっている。砂漠の砂。逃げ水が熱波の中で蒸発する。したたる汗が沸騰し、露出した地肌が火傷で爛れる。彼は自分の文章を目で追う。露出した地肌が火傷で爛れる。赤黒く爛れる。だがそれは火傷のせいだけなのか? こめかみ辺りから噴き出した汗が頬をつたって顎から垂れ、原稿用紙に染みをつくる。大学ノートの紙よりも薄いぺらぺらの原稿用紙に、汗はいとも簡単に滲んでいく。彼は髪の毛をかき上げる。額にもべたついた汗が浮かんでいる。
「くつがへされた宝石のやうな朝、何人が戸口にて誰かとさゝやく、それは神の生誕の日」
 彼女は彼の周囲に積まれている単行本や新書や文庫本や綴じ本の山から一冊の本をつまみ上げ、こたつに覆いかぶさるように上半身を投げ出し、両腕を伸ばしたままでページを開いている。印字されている詩作を音読する彼女の声は力なく、ブラウン管を通して伝えられる中東での銃撃戦にかき消される。彼女は口をだらしなく半開きにしたまま、弛緩しきった姿勢でその詩集のページを捲っている。先に進んでは後に戻り、また先へ進む。しかし彼女は結局、その詩集の冒頭に書かれているたった三行の詩に戻ってくる。
「くつがへされた宝石のやうな朝、何人が戸口にて誰かとさゝやく、それは神の生誕の日」
 彼はマグカップに注がれていたブラックコーヒーで舌を湿らせ、ゆっくりと立ち上がる。詩集に目を落としたままの彼女はその動きに全く気づかない。彼は何も言わず、彼女の肩口を蹴り飛ばした。無防備な形で蹴飛ばされた彼女はいきなりのことにぱちぱちとまばたきを繰り返す。はっきりとわかるくらいに力を込め、今度は正面から腹部を蹴飛ばした。枯葉のような体躯の女は背後にあった三段の本棚に身体を叩きつけられ、本棚の上に置かれていた写真立てがばらばらと床に落ちた。それらはどれも二人で撮影したものだった。肩を寄せ合ったり、手を繋いだりしている二人の写真。腹を蹴られて咳き込んでいる彼女はうつ伏せに倒れるが、彼は力ずくで彼女を仰向けにし、無言のまま覆い被さる。彼女はむせてはいるが、抵抗はしていない。目を開いて、自分を見下ろしている男を見ている。そのとき、二人のいるアパートの脇を東急東横線の車両が走り抜け、轟音でアパート全体が軋む。彼は平手で彼女の頬を引っ叩き、立ち上がって洗面所へ向かう。彼女は動かない。仰向けになったまま、くすんだ天井に描かれた、人の顔のような染みと見つめ合っている。剃刀を手にした彼が戻ってきて、再び彼女にまたがる。剃刀の刃を二度三度と指先で撫で、柄ではなく、刃そのものを握る。彼女の身体が硬直する。握った剃刀を彼女の瞳に近づける。瞼を掴んで、無理矢理にこじ開けている。歯をむき出してぜえぜえと音を立て呼吸する彼女を意に介さず、彼は剃刀を瞳に近づける。黒目に鋭い刃がはっきりと映っている。再び電車が近くを走る音がするが、やがて静寂が訪れる。休日の真っ昼間、子供達の笑い声が遠くから聞こえている。彼女の鎖骨の辺りに一滴の汗が落ちた。彼の汗だ。しかし彼女は何も感じない。彼が構える剃刀が瞼よりも彼女に近付く。角膜に柔らかく張り付いているコンタクトレンズに触れた瞬間、全身から力が抜け、硬直しきっていた身体から緊張が失われる。彼は剃刀を取り落としている。注意はテレビに向けられている。
 白い防護服を見につけた男がカメラに語りかけている。吹き替えのたどたどしい声が聞こえる、『今では、ここは管理されていません。中はもぬけのからになっています。生活に役立ちそうなものはすべて近隣の住民に持ち出され、その他のものは放置されています』、男が手に持っている玩具のような放射線検知器の液晶画面の数値は移ろい続けている。何の役にも立っていないくらいに朽ちたフェンスを通り抜け、男は建物の中へ姿を消す。画面が変わり、小さな川が映し出される。ドラム缶を抱えた若い男が面倒くさそうな表情を浮かべている。『ああ、貰ったよ。だって、もう誰も来ないじゃないか。もったいないだろう。おれたちは、水を貯めておかなきゃならなかったんだ。だから、失敬したんだよ』。川の水がたっぷりと注がれたドラム缶は相当な重さになっているはずだが、男は平然とそれを抱えている。『しょうがないじゃないか。おれたちは何も知らなかったんだから』。男がぼりぼりと頭をかくと、髪の毛がごっそりと抜け落ちる。
 彼は彼女から離れ、もといた座布団に腰を下ろす。そしてボールペンを手にしたまま、テレビに見入る。彼女には興味も示さない。目を見開いたまま大きく息を吐き、ようやく普通の呼吸を取り戻した彼女はむっくりと半身を起こし、くしゃくしゃになったスカートの裾を直しながら、大きな瞳を閉じ、すぐに開いた。何も変わらぬ光景が目の前にある。彼女は散らばったフォトスタンドを拾い上げ、棚の上に戻す。吉野山や戸隠山の、桜や紅葉の中で撮影された写真の中で二人は恥ずかしげにはにかんでいる。彼女は目を細め、口元を崩す。振り返ると、彼は身を乗り出すようにテレビを覗き込んでいる。
 十五インチのブラウン管の中では頭の禿げ上がった褐色の男が殺風景なリビングで椅子に座り、四歳か五歳くらいの男の子が紙を折っている。『この子が見つけたんだよ』、男が言う、『皆でな、そう、子供たち皆で探検してたんだ。今までは人がいたが、あんなとこ、無人になったら真っ先に行きたくなるような場所じゃないか。あんたもそう思うだろう?』、男は擦り寄ってくる男の子を膝に乗せる、『水が止まったんだ。きっと爆撃の影響だろうって皆は言ってる。おれは知らないよ。皆が言ってるだけだ』、男は息子の髪を撫でる、『だから水を貯めなきゃならなかった。わかるだろう? だから、皆で手分けしてあれを持ち出したんだ。瓶になると思ったからね。何一つ悪いことをしていないはずだ。だって、そうだろ? 水は必要なんだから』。画面は変わり、防護服の男が施設内を歩いている。カメラは男ではなく、壁や床を向けられている。無機質なコンクリートが冷気を発しているように見える。防護服の男は一際広い倉庫のような部屋へ入っていく。暗室のようになっているその空間にはもはや備品すら残されていない。薄暗さの中で、男の白い防護服だけがやけに目立っている。しゃがみ込んだ男は、床を指差す。『ここにキャニスター容器の中身があらかた撒き散らされていました。すでに洗い流されてしまって、今では何もないように見えますが、通常以上の放射線レベルが明確に計測されます。住民たちはここから全てを持ち出しました』。分厚い生地の手袋をはめた手で床に触れる。いまだに湿っているように黒ずんでいる。『中身はほとんど出されましたが、住民たちは一度川で容器を洗浄した上で使用しました。その川からも高いレベルの放射線が検知されています』。放射線検知器がガリガリと音を立てる。その音は、無人の静寂でいっぱいになった広い空間に染み込んでいく。
 火傷のせいだけではないだろう、と彼は原稿用紙に書きつける。汗だくになった二人は瓶に貯めておいた水を頭からかぶり、また汲み直す。濡れた衣服がぴったりと身体に張り付き、ラインがはっきりと浮かび上がる。瓶を担いで、家へ戻る。古びたレンガ造りの家の軒下で、一人息子が木の樽の中に手を突っ込んでいる。そこには盗み出した瓶の中に詰め込まれていた粉末が入っている。何かに使えないかと思い、残しておいたのだった。舐めてみたが、わずかな苦味が舌に残るだけだった。息子はそれを腕や胸に塗りたくって遊んでいる。近隣の子供たちも似たようなことをしているのを男は見ている。ある子供は桶に注いだ水で粉末を溶かし、それに頭を突っ込んで髪の毛を黄色に染めていた。妻は料理の色合いを整えるために何度かスープにふりかけてみたものの、苦味が強く出過ぎてしまい、どうにもうまくいかなかった。「今帰った」。瓶を軒先に置いた男は息子に声をかけ、小さな身体を抱き上げる。か細い腕に付着していた粉末が風に乗り、輝きながら消えていった。彼は線を引いて書き直す、輝きながら消えていく、そして真新しい原稿用紙をビニール袋から引っ張り出す。八十枚がパックされていたが、残っているのは十枚くらいだった。しかしすでに埋められた原稿用紙のマス目のどれほどをおれはこれまで無駄にしてきたのだろう。彼は台所へ水を飲みに行く。薬品塗れの生温い水だった。舌先に残る粘り気はそのまましばらく居座りそうだった。彼女は元のように座り、彼の本を読んでいる。彼は声をかけることも視線をくれることもなく、再び原稿用紙と対峙する。何も書かれていない白紙の原稿用紙。彼はペン先を押し当てる。、とまず簡単な平仮名を書きつけ、先を続ける。いたずら者はいないかな、岩見銀山鼠取り――。
 彼女は顔を上げる。再び彼が原稿用紙に言葉をこすりつける音が室内を満たし始め、彼女の耳にはテレビの音声が届かない。どこかの部屋の中で、マスクを外した防護服の男が身振り手振りを交えながら、何事かを説明している。しかし吹き替えはおろか、男自身の声さえも聞こえない。彼女は本を置き、彼の近くに散乱している原稿用紙を集める。文章を読みながら、順番通りに重ねていく。どの原稿用紙の左下にも、赤い字で数字が書かれている。一度ビニール袋から出し、彼女がふった通し番号だった。その番号はときおり抜けてしまっている。欠番になってしまった番号がどこにあるのか、彼女は知らない。彼が吐き出した言葉といっしょに永久に欠落することだけはわかっている。束ねた原稿用紙を折りたたみ、彼の脇にそっと置く。彼は気づかない。手を止めたまま、ぼんやりとテレビを見ている。子供を抱いた男が何かを話しているが、走り抜ける電車の轟音が音声での伝達を妨げる。彼はふと思い出したかのように言う。
「犬でも猫でも人間でもこいつを呑んだひにゃア事だ。薬が強えから、五体すっかり焼けちまう」
 中年の男の口の動きに合わせて、ぼそぼそと続ける。
「こいつが風が吹いて目に入ると眼が真っ赤にたゞれちまう」
 彼女ははっとしたように目を見開き、彼を見る。彼はテレビから目を離し、書き物を再開している。女は眼に痛みを感じている。子供の腕から離れた粉末が目に入ったが、あれのせいだろうか。鍋をかき混ぜながら、目をしょぼしょぼとさせているが、違和感は一向に消えようとしない。それどころか痛みは増し、焼けるような熱さすら感じ始めている。女は勝手口に置かれた盥の水を覗き込む。ゆらゆらと歪む水面に顔が映る。心なしか、赤みを帯びているように見える。発熱しているのだろうか。手で水をすくって、顔を洗った。水で流したというのに、頬や額は熱くなったままだった。胸元に息苦しさを感じ、その場に蹲る。かごいっぱいの野菜を持った男がやってくる。「悪く蒸しゃアがるから、一雨くるかも知れねえぞ」。男はかごを床に置き、女の肩に触れた。そのときの異様な熱さで異変に気づく。「何だ。どうしたんだ」。回り込んで、女の顔を覗きこむ。蒼白の面体は健康な人間のそれには見えない。「腹でも痛えのか」。だが、そのような度合いのことではないと、男は直感している。こいつは、おれと同じようなことになっている。そう確信している。男がTシャツを捲り上げると、胸部から腹部が真っ赤に爛れ、白濁した膿みが蠢いていた。ここ数日は咳き込んだだけで、胃液が舌まで湧いてくる。これはきっと風邪じゃないだろう。
 トラックに積み込まれたたくさんの真新しいドラム缶がひとつひとつ降ろされている。銀色に輝くステンレスが青空の下に並べられていく。その作業を続ける数人の異邦人を集まった子供たちは遠巻きに、珍しそうに眺めていたが、やがてその周りを賑やかに駆け始めた。大人たちは自宅から腐食したような箇所もあるキャニスター容器と引き換えにそのドラム缶を受け取っている。コットンのズボンを穿いた、くたびれた男がそれを地面に置くと、子供が中に入り込んだ。心のそこからの笑い声をマイクが拾うが、その子供の顔には赤い発疹ができている。笑いながら、そのできものをぼりぼりと掻く。男は手のひらを掴んで、子供を止める。鼻の頭にうっすらと血が滲んでいるが、すこぶる楽しそうにドラム缶の中でぴょんぴょんと跳ねている。『失われたキャニスター容器はおよそ五〇〇ほどであると言われています。現状ではその半分も回収されておらず、いまだに使い続けている住民もいるでしょう。何も知らずに水を汲み、飲み、洗う。彼らはそんな極めて日常的な、全く逸脱していない時間の中で被曝しました』。子供の無邪気な笑顔をカメラは映している。前歯が抜けていて、永久歯の到来を待っている。
 彼女はマグカップを手に台所へ向かい、流し台にそれらを置く。棚から急須と茶葉を取り出す。それは彼が銀座プランタンの地下食品売り場で買ったアルゼンチン産のマテ茶の茶葉だった。電気ポットから吐き出される熱湯が茶葉に触れると、強い香りが鼻をくすぐった。金閣寺と銀閣寺が描かれているペアの湯呑に注ぎ、お盆にのせて、居間に戻る。音もなく、彼の前に湯呑を置く。彼は反応しない。彼女は自分の座布団に戻り、正座を崩して座る。そして淹れたばかりのマテ茶を口にした。温かかった。温もりが身体中に染み込んでいくようだった。彼女はスカートから生えている素足をこたつの中へ伸ばす。彼の足先に触れる。その肌は、こたつの中だというのに、真冬の朝のようだった。死体のように動かず、彼女が両足の小さな指を絡めようとしても、一切反応しない。しかし触れるたびに感じる弾性は生命力そのものだった。足に繋げていると、彼の利き腕のバイブレーションが直接的に伝わってくる。そこには言葉が込められている。彼女は彼の身体の躍動からその言葉を感じ取れている。「まだ四ツにはなるめえが、滅法世間が静かになった。雨気で今夜は涼しいから、久し振りに寝心地が――」。男は足元を見下ろす。息子の死体が転がっている。全身に引っかき傷ができている。口から血を吐いて、事切れている。男は遺体にすがりついて泣く。泣いているうちに咳き込み始め、口を押さえた手のひらに胃液をぺっと吐き出した。赤いものが混ざっている。胸部に痛みを覚えた男は唸り声を上げる。全身の力が抜け、その場に崩れ落ちる。寄り添うように子供の隣に横たわる。大きく息を吸っては吐いて、呼吸を整える。しかし息を吸い込むたびに、胸や腹がきりきりと痛んだ。そういえば、妻はどうしただろう。
 彼は目の前の湯呑を取り、茶を一服やった。だいぶぬるくなってしまっていたが、猫舌の彼にはちょうどいいくらいだった。ごくんと喉を鳴らす。彼女と目が合った。こたつに突っ伏して顔だけを彼へと向けている。黒い艶やかな髪の毛が顔にかかっていた。彼は手を伸ばし、その髪をどかしてやる。彼女の顔がはっきりと見える。眠そうに目を細めている。彼はリモコンを手に取る。テレビのチャンネルではなく、ビデオデッキ用のものだった。再生を続けているビデオテープを停止させ、巻き戻す。テレビの画面はブラックアウトする。外部入力という文字が一面の黒の中で緑色に発光している。それは深い黒だったが、二人の姿が反射している。リモコンを向けている彼と、彼女の後頭部がうっすらと映っている。デッキの中で何かがはじけるような音がして、巻き戻しが終了する。彼はすぐに再生のボタンを押す。先程まで見ていた同じ映像が再生される。今度は原稿用紙に向かわず、マテ茶を啜りながら、ただじっと画面を睨みつけている。最初、ワゴン車の助手席に乗った、ラフな格好の男をカメラは捉える。男はこのドキュメンタリーの中で、防護服を纏って廃墟のような施設を取材する男と同一人物なのだが、この段階ではリラックスをし、顔を綻ばせている。広大な大地をワゴン車は走っている。カメラに向かって男は語りかける、歴史があった上での現在を。しかし彼は早送りをする。大きな、しかし決して澄んでいるとは表現し難い川が映像に入り込んだところで、早送りを止める。キャニスター容器が転がっている。『ほら、あれだ』、男は言う、『でも、ここだけじゃないんだよ』。何の役に立つのかもわからぬマスクをはめ、容器に近付く。放射線検知器をかざすと、耳障りな音を上げた。『ひどいな』、言いながら大きなリュックサックを足元に置き、デジタルカメラでそのままの光景を撮影する。地図に印をつけ、『行こう』と運転手やカメラマンに声をかける。ワゴンの中で男は帽子を取り、額にたまった玉のような汗を手の甲でごしごしと拭った。『今日も暑くなりそうだ』。画面の外から飛んできた魔法瓶を受け取り、一杯の水で喉を潤した。窓の外を見ながら帽子を被りなおし、拾われないくらいの小さな声で吐き捨てる、『この国に何があるっていうんだ』。
「トイレ」
 彼女がそう言って立ち上がるが、彼はいささかも反応をみせない。見向きもせずに、空になった湯呑をどかして、再び原稿用紙を広げる。握ったボールペンのキャップはもう数日前からどこかへ消えている。ペン先を人差し指の腹に這わすと、黒いインクが線を作った。すぐに原稿用紙に文字を書きつける、、と。
 ブラウン管の中では、ワゴン車の一行が民家を訪ねている。すでに空は薄暗くなっており、星々がその姿を現している。灯りが一切ないために映像自体がひどく暗い。レンガ造りの平屋の民家の戸は閉ざされている。男は一度戸を叩き、声をかける。『夜分遅くすいません。どなたか、いらっしゃいませんか』。カメラマンは民家の様子を撮影しているが、どれもこれも光源が足りず、何が映されているか、目を凝らしたところで高が知れている。『暗い』という声が拾われる。民家の中には灯りがあるようだが、それだってぼんやりと灯っているだけで、彼らにとっては心許ないものだった。
 はっと女は声に気づき、「ハイハイ、あけるよ。今あけるよ」と答える。こんな遅くに誰だろう、いや……遅く? ふと周囲を見渡すと、真っ暗になっている。女は流しにすがるように倒れていた。どうしたことだろう……? 弱々しく立ち上がって、台の上に置かれた盥で顔を洗った。うがいをすると、嘔吐感がこみ上げてきたので少量を吐いた。相変わらず、全身が焼けるように熱かった。外から声がかけられている。「今行くよ」と怒鳴ろうとするが、喉からの言葉は音声になる前に大部分が気化してしまい、燃えかすのようなかすれた声がふにゃふにゃと虚空を漂った。女は壁や柱をつたい、玄関へ向かう。足元はよたつき、意識も薄くなり始めていた。どうしてしまったのだろう……? 雨の音が聞こえていた。びちゃびちゃと汚らしい音を立てている。そういえば……あの人は……? 女は夫の姿が見えぬことに気づくが、崩れそうになる身体を支えるだけで精一杯の女はただ、誰とも知れぬ声に向かっていた。助けが欲しいと感じていた。「行くよ。すぐに行く」。さほど広くもない家だというのに、暗闇の中を進むのは骨が折れることだった。ようやく玄関の戸に手が触れたとわかったとき、女は心底ほっとした。扉を開けると、帽子をかぶった男とカメラを担いだ男が立っている。二人はにこやかな笑顔を浮かべ、握手を求めてくる。そして何事か話しかけているが、知らぬ言語であったため、女は理解することができない。「何を言ってるんですよ」。女は困ったようにそう言うが、不意にごほごほとむせ込み始め、口元を押さえる。月明かりだった。広げた手のひらにはべったりと血がついていた。「あっ」と小さな悲鳴を上げ、頭を上げた。その瞬間、目眩を覚え、その場に倒れそうになる。男は慌てて女の姿を支えるが、腰に回した手の先がぬるりと滑ったことにぎょっとする。ゆっくりと蹲った女を尻目に、男は月光に手をかざす。血液で真っ赤になっている。カメラを回し続けていた男は開け放たれた扉の向こうを映している。床や廊下に線が引かれていて、まるで死体でも引きずったかのようだった。「何だい、この」、とカメラマンはレンズが捉えているものを指差すが、男は女の着物を剥いでいる。「何をしやアがる」。カメラマンはそう怒鳴るが、男は黙って女の下腹部を見るように促す。出血が続いていた。女は身体をびくびくと仰け反らせ、そのたびに女の陰部から鮮血が吹き出す。それはびちゃびちゃと地面に降り注ぎ、染み込んでいく。カメラマンは悲鳴を上げて二歩三歩と後ずさり、男もその場を離れようとする。そのとき足音が聞こえる。汚れたシャツとズボンを纏った男が亡霊のようにふらふらと近寄ってきている。「あッ、お前は――」。カメラマンはその異様な風貌に仰天して、その場に尻餅をつく。立ち上がろうとしていた男は中腰の姿勢のまま動きを止める。男は軒先の樽に手をかけるが、勢い余って樽を倒してしまう。「不思議に利きやすぜ」。中にたっぷり入っていた粉末が二人の外国人にぶちまけられる。二人は頭からそれを被り、ごほごほと咳き込む。「まアそれだけありゃア鼠は根だやしになりやすぜ」。男はそう言って、おかしくておかしくて仕方ないと言わんばかりに笑いながら膝からがっくりと崩れ落ちた。「黄色い粉だな」。男は帽子で全身をはたきながら、今度こそしっかりと立ち上がる。腰を抜かしているカメラマンを尻目に、男は民家に侵入する。人の気配はない。女が残した血液の痕跡を辿ると、台所に突き当たる。そこに水が貯められたキャニスター容器を発見し、男は喉が壊れんばかりの悲鳴を上げた。
 顔を上げると、ビデオは再生を止めている。目の前の原稿用紙は真っ黒になっていて、穴が開いてしまっている箇所まである。喉がからからに渇いていた。戻っていない彼女の湯呑に手を伸ばし、中身を一息で飲み干した。すっかり温くなってしまっていた。トンと湯呑を置いたとき、その音がきっかけのように彼を取り囲む光景が生活を再開した。東急東横線の車両の唸り声がまた聞こえる。彼女が何事もなかったかのように戻ってくるが、しきりと腹をさすっている。空になった湯呑を見て、「あ」と声を上げるが、すぐに台所から盆を持ってきて、二人の湯呑を下げる。彼が床に置いた湯呑を取るためにしゃがんだとき、苦痛で顔を歪めた。しかし声には出さずに、台所へ向かう。振り返りもせずに、彼は声をかけた。
「エリカ」
「あ……え?」
「夕飯」
「あ、うん」
 彼女も振り返らない。湯呑を片付け、冷蔵庫を開ける。ろくなものが入っていない。炊飯器を確認すると、朝に炊きあがるようにタイマーをかけておいた分がそのまま残っていた。彼女は冷蔵庫に残っていた卵を数個取り出す。フライパンをコンロに置いて加熱し、サラダ油を垂らす。
 雨が降り始めた。窓に雨粒が強く叩きつけられている。彼は猫背をいっそう丸めている。テレビのチャンネルを変えると、アルゼンチン前期リーグが放送されている。ボカ・ジュニオルスとベレス・サルスフィエルドの試合だった。南半球の季節は逆、暖かそうな日光の下で歓声が飛び交っている。何もかもが対照的であるように感じられた。彼は広げた原稿用紙に目を落とし、そこに水が貯められたキャニスター容器を発見し、男は喉が壊れんばかりの悲鳴を上げた、汚い文字を目だけで読む。そして続ける。カメラのレンズが割れていることに気づく。まるで己の魂のように砕けている。カメラマンの意識はそこで途切れ、以降全く甦らなかった。男はぴくりとも動かない妻の身体へ手を伸ばす。温もりはまだ、そこにあった。しかし彼女もまた、意識を失っていた。男は妻を抱き寄せる。その首には力がなく、男の胸元へだらしなく垂れ下がる。口からこぼれる弱々しい息が男の胸を撫でる。男はわっと泣き崩れる。嗚咽は真夜中の静寂によく響くが、きっと誰の耳にも届かない。彼はペンを置き、しかしすぐに持ち直す。マス目を無視し、『(了)』の文字の後に物語上、最も古い三十一文字を横書きで連ねる。『や雲立つ 出雲八重垣 妻隠みに 八重垣作る その八重垣を』。そしてようやくペンを置く。台所から味噌汁の香りが漂ってくる。雨はいっそう強くなっている。
 調理を終えた彼女が盆に食器を載せて戻ってくる。彼の前に白米と味噌汁を並べ、自分の場所にも同じように置く。箸は色違いのものだった。一度正座をし、彼の前に広げられていた原稿用紙を手にとって、文章の連なりとページ数ですばやく整理し直し、束ねたものを彼に渡す。彼は一枚目から順々に読み始める。彼女は台所へ戻り、冷凍食品の唐揚げが添えられた目玉焼きとふりかけ、そして先程の出涸らしで淹れたマテ茶を注いだ湯呑を運んでくる。こたつにそれらを並べ、「いただきます」と言う。彼は原稿用紙に目を落としたままだった。湯呑に手を伸ばし、一口すする。彼女はフットボールの試合を見ている。箸で目玉焼きの目玉を刺すと、半熟の黄身が赤子の涎みたいにどろりと溢れた。焼き上げた直後にふっておいた胡椒はあっという間にそのドロドロに飲み込まれた。彼は自分が綴った文字を見据えたまま、小分けにされたふりかけに手を伸ばし、ご飯にぱらぱらとかけた。着色料で黄色に染められたふりかけを箸で混ぜ、茶飯をかき込むように口にした。その間、乱雑に書き連ねられた文字を見ていたのだが、ふと茶碗の米が目に入った。黄色い粉末がもはや取り除けぬくらいにしっかりと混ぜられていた。出し抜けに吐き気がこみ上げ、乱暴に茶碗を置いた。両手で口元を押さえるが、吐き気の元はすでに食道を駆け上がっている。
 彼の変調に気づいた彼女は慌てて彼に近寄り、背中をさすった。固まってしまったような身体はすぐに彼女に寄りかかるが、嘔吐感の強さはおさまらず、あっけなく吐瀉する。口を塞いだ二つの手のひらから溢れた吐瀉物は太ももの上に置かれていた原稿用紙に垂れ落ちて、淀んだ黄色に染まっていった。彼女は原稿用紙をひったくって、彼から遠ざける。嘔吐はなかなか止まらなかった。彼女は彼を抱えるように不浄へ連れて行き、便器に吐かせるようにする。彼は胃の中が空っぽになるまで吐き続けた。鼻水や涙が流れていた。便器に身を乗り出したままの体勢で動きを止めていた彼を抱き締め、立ち上がらせる。居間に戻ると、彼は力なく仰向けに横たわった。呼吸が乱れていた。彼女は馬乗りになって、エプロンで目じりや鼻や口元を拭ってやる。それから彼の髪の毛を撫でながら唇を押し当てて、舌を入れた。口の中は酸っぱさで満ちていた。すぐに彼の舌を探りあてる。胃液の残滓を舌先に感じた。

(了)




作中の引用は以下によるものです。

・『巷談宵宮雨』 宇野 信夫
・『天気』 西脇 順三郎
・『古事記』


また以下の雑誌に掲載されたいくつかの記事から着想を得ましたことをここに記します。
・現代思想4月臨時増刊 2003 vol.31-5「総特集 イラク戦争」(青土社)

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