×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

HOME   テキスト倉庫   めくるめく世界   DIARY

カウリスマキの友人

 一八八一年七月十四日、ビリー・ザ・キッドは保安官パット・ギャレットに射殺された。


 トレイを片付ける理樹の後ろ姿を見ていた。返却口にはカップやグラスがたまってしまっていて、どう返したものか迷っているようだった。鈴は店を出てすぐのところに立っていた。
 濃いグレーの中折れ帽をかぶった長身の男が店に入っていった。男は煙草をくゆらせていた。その喫茶店は入口から入ってすぐのところにレジがあり、まず注文と支払いを済ませるシステムになっていた。男はレジの前に立ち、ピストルをカウンターに置いた。レジは二台あり、店員もそれぞれについていた。共に若い女だった。二人は顔を見合せて、苦笑した。
 理樹がそのやりとりを横目で眺めながら、鈴の元へ向かってきていた。「行こ」と声をかけた。二人は並んで歩き出したが、鈴がすぐに立ち止まった。振り返った。ちょうど男がカウンターに置いたピストルに手を伸ばしたところだった。
 男はピストルを手に取り、目の前の店員に向けた。彼女たちの笑顔がひきつった。向けられた銃口の深さが目に入ったとき、それが本物であると知った。女は黙ってレジの紙幣を男に手渡した。男はかすかに微笑んで、拳銃をもう一度カウンターへ置いてからくるりと身を翻した。店内の人間は凍りついていて、男だけが身体を動かせていた。
 店を出ようとした男と目が合った。男は立ち止まり、しばらく鈴と見つめ合った。それから上着の内ポケットへ手を入れ、ゆっくりと抜いた。右手でピストルを形作っていた。銃口を模した指先がゆっくりと鈴へ向けられた。「バン」と言って、指先を上へと動かした。
 鈴は何も言わずに、男をじっと見ていた。隣で理樹がおろおろとしていたが、ほとんど気にならなかった。男はくすりと笑って、そのまま悠々と歩き去った。鈴は小さくなっていく背中を見送った。見えなくなっても、しばらくその方角へ視線をやっていた。


 大変だったんだよ、と心底うんざりしたように理樹は言った。正面にでっぷりと座っている真人がコーヒーを啜りながら「そうかそうか」と返した。全く興味なさそうだった。コーラをたっぷり注いだグラスを持った恭介が戻ってきて、理樹の隣に座った。
「さて」
 と、恭介は店内を見渡しながら切り出した。ありふれたファミレスだったが、それは昨日までのことだった。鈴がアルバイトを始めたのだった。視線がぐるりと動いている間に真人がグラスを取って、コーラを一気に飲み干した。 
 数時間前、恭介は言った。ミッションだ、鈴の様子を生温く見守ってみる、と。恭介の視線が一周して目の前の真人に戻った。空っぽになったグラスとむせている真人を見て、無言で真人の向う脛を蹴っ飛ばした。「うおっ、痛え」と真人は嬉しそうに痛がった。
「くだらんことやってないで、ほら、見ろ」
 ウエイトレスの恰好をした鈴は窓際の四人がけの席へ水を運んでいるところだった。脇にメニューを挟んでいた。席にはおそらくは他校の男子生徒が四人いた。水の入ったコップを四人の前に置いてから、メニューを手渡した。鈴はそのまま厨房へ戻ろうとするが、すぐに呼び止められた。振り返って、前掛けのポケットからハンディターミナルを取り出した。
 三人は話をしているふりをしながら、その様子を見守っていた。恭介は改造携帯を用意していたが、苦渋の決断の末、鈴に仕掛けることはしなかった。そのためどのような会話が行われているのかはわからなかった。しかし、鈴のたどたどしい指先と小馬鹿にしたような少年たちの顔を見ていれば、だいたいのことは想像できた。
「恭介、いいのか、あれ」
「お前な、ここで助けたんじゃ、あいつのためにならんだろう」
「ま、そりゃそうだな」
 真人は机に頬杖についたまま、「しかし貧弱な筋肉共だな」と呟いた。誰も突っ込まなかった。鈴の指先が震え始めていた。メニューを読み上げる時間が明らかに長かった。彼らが鈴をからかっているのは確かだった。たぶん、料理を頼んではその場で取り消しているのだろうと理樹は考えた。いたずら半分で、きっと。
「我慢のしどころだ。客商売なんだから、これくらい普通のことだ」
 高校生たちの笑い声は大きくなる一方だった。鈴のリアクションがよほど気に入っているようだった。恭介はその様子をじっと眺めていた。妹が嘲笑の対象になっているのにもかかわらず、ひどく冷静だった。理樹はそんな恭介の態度に感心していた。
 男子生徒の一人が何気なく鈴の尻を触った。鈴は目を見開いて、その少年を睨みつけた。「おっ!」という声が三人のテーブルまで聞こえてきた。鈴はすぐに顔を伏せて、また注文の操作に戻った。
 恭介は言った。
「ミッション変更だ」
「切り替え早っ!」
「もう我慢ならん。何なんだあいつらは」
 ぬるくなった水を飲み干して、叩きつけるようにコップを置いた。それから「見ろ」と窓の外へ顎をしゃくった。
「あいつらの自転車だ」
「めちゃくちゃにしてやるんだな」
「いや、それだと時間がかかってばれる。とりあえず動かせないようにするだけだ」
「なるほど」
 さすがは恭介だと真人が感心する。
「で、どうするのさ」
「いいか、順番で行動する。まず俺が外に出て、あいつらの自転車に細工をする。その間、理樹は会計を済ませる。食い逃げをするわけにはいかないからな」
 「オーケー」と理樹が頷いた。
「それから真人があいつらにちょっかいを出す」
「ちょっかい?」
「幸いここにコショウとか七味とかマヨネーズがある。こういうのを使えばいい」
「……オレだけ、なんか大変じゃないか」
「お前にしかできないから頼んでるんだ」
 真人はフッと笑った。さわやかな笑顔だったが、それ故に薄気味悪かった。
「聞いたか、筋肉たち。オレが必要だとよ」
「ついでにそのハチマキ貸してくれ」
「いいけど、何に使うんだ?」
「細工に使うんだ」
「ジャスコで二十枚くらいしか売ってないハチマキだ。大事に使ってくれ」
「結構な数さばいてるよね、それって」
 三人は視線を男子生徒たちのテーブルへと戻した。鈴がふらふらになりながら、厨房へ戻っていくところだった。どうにか解放されたようだった。ちょうどいいタイミングだった。
 「よし、スタートだ」と言い、恭介が立ち上がった。手には真人の赤いハチマキがあった。恭介の後ろ姿を見送りながら、「あれ、マッスルワークハチマキっていうんだ」と真人が言ったが、理樹はまったく反応しなかった。とぼとぼと歩く鈴に気を取られて、完全に聞き流していた。
「マッスルワークハチマキっていうんだ」
 繰り返してみても同じことだった。


 恭介と真人は肩を並べて歩いていた。理樹がその後ろに続いている。夕暮れの住宅街だった。昼と夜の間の短い時間が広がっていた。人の姿はあまりなかった。夕陽の赤が強い景色の中にいるのは自分たちだけなのではないかと理樹は錯覚した。
「まさか一日しか持たないなんてな」
「三日坊主どころの話じゃなかったわけだ」
「お前らのせいじゃ、ぼけーっ!」
 鈴が空き缶を二人に向かって投げつけるが、バランスを崩して転びそうになってしまう。空き缶は路上に転がり、電信柱にぶつかって止まった。鈴はひとり、ブロック塀の上を歩いていた。つい二十分ほど前に「もう来ないでいいよ」と店長に言われたのだった。
 理樹が鈴を見上げたとき、彼女は片足立ちになっていた。けんけんをするみたいにぴょんぴょん跳ねていた。器用なものだと理樹は思った。
「お前らみんな、どうにかなれ!」
 そう言い残して、鈴はブロック塀の上を走り出した。今に落ちるのではないかと三人はひやひやしたが、その後ろ姿が見えなくなるまで身体の軸がぶれることは一度もなかった。
 三人は呆気にとられて鈴を見送ったが、その姿が見えなくなると真っ先に真人が口を開いた。
「なんなんだ、あれ」
「どうにかなるのか、俺たち」
 悩み始める二人を尻目に、理樹は数歩前に進んでいた。二人を追い越し、鈴がいなくなった先を見つめた。そして呟いた。
「ねえ、鈴さ、ちゃんと我慢してたよね」
 不思議なほど、よく通る声だった。理樹は呟いたつもりだったが、二人の耳へはっきりと届いていた。恭介が「そうだな」と頷いた。
「探してくるよ。謝らなきゃ」
 理樹は振り返ってそう言った。恭介と真人の返答を待たずに駆け出していた。


 左右のブロック塀に目をやりながら、さまようように歩いた。住宅街を抜け、バス通りに出ていた。息が切れていた。真っ直ぐ歩けば十五分くらいで駅前に出る。理樹はバス停に設置されたベンチに腰を下ろした。ふと顔を上げると、目の前のブロック塀に鈴が座っていた。
「理樹、どうしたんだ?」
「鈴、やっと見つけた」
 鈴は軽やかに飛び降りて、理樹の隣に座った。しかしすぐに立ち上がり、歩き出してしまった。理樹は慌てて彼女を追った。
 バス通り沿いには色々な店があったが、鈴はそのどれにも興味がないようだった。隣を歩くことは躊躇われたので、理樹は鈴の後ろを歩いていた。傍から見れば、不審者だったかもしれない。
 なかなか言い出せなかった。どう切り出したものかと迷っていたし、そもそも鈴はもう気にしていないようにも見えた。タイミングを計りかねていた。
 名画座の前を通りかかった。券売機の脇には立て看板があり、『本日迄』のポップが踊っていた。看板には上映作品のポスターが両面に貼り付けられていた。『サラーム・シネマ』。『ワンス・アポン・ア・タイム、シネマ』。鈴はそれを横目で見て、「つまんなそうな映画だ」とばっさり切り捨てた。立ち止まることすらしなかった。
 困ったような表情を浮かべた理樹が鈴の後を追って、映画館の前を通り過ぎた。人通りはもうほとんどなかった。煙草をくわえた男がポスターを脇に抱え、外に出てきた。彼は支配人だった。外壁に貼られたポスターを剥がし、『ヒカリ座次回上映』という手書きの紙を画鋲で止め、二枚のポスターと雑誌や新聞の切り抜きを貼り始めた。古めかしいポスターには『ウエスタン』、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』という題名が刻まれていた。
 ランドセルを背負った男児が二人、小走りで男の脇をすり抜けていった。わざとぎりぎりのところを駆け抜けて、しばらく走ったところで振り返って笑った。その手にはチョークが握られていた。職員室から勝手に持ち出してきたものだった。支配人は二人に向かって、「おーい、落書きなら別のとこでしろよ」と怒鳴った。


 青信号が点滅を始めていた。駅前の交差点だった。片側二車線の道路を渡った先に銀行があった。四人はだらけた様子で目の前を行き交う車を見ていた。夏日だった。
 「あぶくぜにだ」と鈴は言った。「だから昼飯おごってやる」と続けた。それは理樹だけに向けられた言葉だったが、その場にいた恭介と真人も加わることになった。鈴は「お前らには言ってない」と一度は首を振ったが、結局押し切られてしまった。しかし満更でもないような顔をしていた。
「思ってたのと違う」
 鈴は前を向いたまま、理樹に話しかけた。
「え?」
「給料って封筒で貰うのかと思ってた」
「鈴、発想が昭和だよ……」
 信号が変わり、四人は銀行へ向かって歩き始めた。中央分離帯にさしかかったとき、防犯ベルの音が聞こえてきた。四人は一様にぎょっとして、足を止めた。銀行の入口が開いて、ボストンバッグを手にした男が姿を現した。
 鈴が「あ!」と声を上げた。理樹もその姿には見覚えがあった。喫茶店ですれ違った中折れ帽の男だった。ボストンバッグの口は開いていた。紙幣が詰まっているのが、距離を置いていてもはっきりとわかった。男は銀行を出てすぐに周囲を伺い、やがて鈴に目を止めた。
 そのとき路肩に停められていた乗用車から数人の男たちが走り出て、帽子の男を取り囲んだ。彼らの手にはピストルが握られていた。男は空いている手を挙げ、ボストンバッグを地面に置こうとした。鈴たちは呆然とことの成り行きを見守っていた。逃げ出そうとしても、身体が動かなかった。
 男はボストンバッグを地面に置くと素早く紙幣を一掴みして、上空へと放り投げた。風が吹き、紙幣がひらひらと舞った。その瞬間、わずかな隙が生まれた。男は腰にさしていた拳銃を抜き、一番近くにいた警官へ発砲した。警官の身体は糸が切れた人形のようにその場に沈んだ。直後に数発の銃声がこだました。男は弾かれたように仰向けに倒れた。帽子が飛んだ。
 警官たちは銃口を男に向けたまま、すり足でゆっくりと距離を詰めていった。絶命したのかどうか、判断しかねているようだった。男の頭からは離れた帽子が背後の自動ドアに引っかかっていた。自動ドアは機械的な開閉を続けていた。不意に男がむっくりと上半身を起こした。白いワイシャツが赤く染まっていた。警官たちはぎょっとして後ずさった。銃を持つ手が震えていた。
 男の目は鈴に向けられていた。鈴もまた、男を凝視していた。男はジャケットの内ポケットに手をさしこんだ。弱々しく緩慢な動作だった。そして、おそらくはやっとの思いで手を抜いた。再び銃声がした。男のこめかみに穴が開いた。男の手には何もなく、指と手のひらが拳銃のふりをしているだけだった。その銃口は鈴に向けられていた。男の口がかすかに動いた。笑みを浮かべていた。男はそのまま後ろへ倒れた。


 警察署を出る頃にはすでに日が暮れてしまっていた。鈴は真っ先に周囲を見渡したが、恭介や真人はおろか、理樹の姿もなかった。薄情者めと鈴は思った。
 喫茶店での強盗事件にも遭遇していた鈴は聞かれることが恭介や真人よりもはるかに多かった。それは理樹も同じだったが、鈴と違い、質問と回答の流れが滞ることはなかった。鈴はいちいちしどろもどろになっていたから、聴取には長い時間がかかった。
 路上に転がっていた空き缶を蹴っ飛ばした。空き缶は電柱にぶつかり、くるくると回転した。田中には選挙のポスターが貼ってあったが、黒いマジックでメガネと鼻毛と髭が書き加えられていた。
 鈴は携帯電話を取り出し、「迎えに来い」という文面のメールを理樹へ送信した。送信完了の文字が液晶画面に表示されると何故だかほっとした。迎えに来いと言いながらも、鈴は寮への道を進んでいた。じっとしていられなかった。公園の前を通りかかった。
 道路を挟んで向かいに商店があった。すでに店は閉められているが、自動販売機がいくつか設置されていた。そこでジュースを買っていた男がプルタブを開けながら振り返った。
 鈴は構わずに先を急ごうとしたが、男は「あ!」と声を上げた。鈴は反射的に後ろを向いた。男が鈴の顔を覗きこんでいた。
「お前、こないだのファミレスの」
「……?」
 聞き覚えのある声ではなかった。鈴が「何言ってんだ、お前」と返すと、男は公園へ向かって声を張り上げた。鈴はその声に釣られて公園を見やった。入口のところに設置されている車両止めの柵に同年代くらいの男が二人座っていた。
 そのときやっと、彼らが先日ファミレスで恭介たちにからかわれた学生たちであることに気づいた。鈴は逃げ出そうとしたが、すぐに囲まれてしまった。
「ふざけやがって、あいつら。お前、知り合いだろ」
 彼らは鈴ではなく、恭介たちに用があるみたいだった。しかし鈴は首を振った。
「知らない」
「嘘つけ!」
 一人が大声を出した。身がすくみそうになったが、視線を逸らすことはなかった。
 いつの間にか一人増えていた。鈴は四人に取り囲まれていた。ちかちかと点滅している街灯の光は心許なく、彼らの顔はほとんどわからなかった。
 ふいに脳裏をよぎったのは銀行の前で射殺されたあの男だった。鈴はあの男の真似をして、ポケットに手を入れた。上着の内ポケットではなく、スカートのポケットだった。学生たちは鈴の行動を嘲笑うかのように眺めていた。
 立てた親指が撃鉄だった。か細い人差し指は前方に向けられていた。曲げられた中指と薬指と小指がグリップ代わりだった。右手を真っ直ぐに伸ばし、ひとりの少年へと銃口を向けた。鈴は「バン」と口にした。少しだけ伸ばした爪に電気が走ったような気がした。
「こいつ馬鹿かよ」
 と背後から声が掛かるのとほぼ同じタイミングで、鈴の前に立っていた少年がばたんとうつ伏せに倒れた。帽子の男に撃たれた警官が路上に倒れたときとよく似ていた。
「おい、どうした」
 残された三人は倒れたままぴくりともしない一人に声をかけた。しかし反応はまったくなかった。一人がしゃがみ込んだが、すぐに「うわっ」と叫んで尻餅をついた。そのまま数歩後ずさり、よろめきながら立ち上がって、すぐに逃げ出してしまった。
「おい、待てよ!」
 逃げて行く後ろ姿を怒鳴りつけながら、倒れている少年を見下ろしてぎょっとした。口元に血が見えた。鮮血だった。アスファルトと確かに赤く染めていた。深い色だった。残った二人は顔を見合わせ、鈴に向かって舌打ちをしてから、無言のまま駈け出していった。
 彼らの姿が見えなくなってから、鈴は倒れた少年に近寄った。少年を見下ろし、「何やってんだ、理樹」と声をかけた。少年はぱっと瞳を開けた。鈴と目を合わせ、にっと笑った。
「いや、迎えに来たんだよ。そしたら、なんかこう、流れで」
「その血……」
「唇と口の中切ったみたい。転んだ拍子に。痛くないけど、変な味」
 理樹はペッと唾を吐いた。真っ赤な血が白線に落ちた。鈴は理樹の手を引いて、公園の水飲み場へ連れていった。
「何してんだろって思ったんだけど、でもすぐわかったよ、鈴」
 口をゆすぎながら、理樹は撃たれた人間のふりをした。鈴は何も言わずに恥ずかしそうに顔を背けた。
 血はなかなか止まらなかった。いくらうがいをしても、赤いものが混ざってしまう。鈴はその場にしゃがみ込んでそっぽを向いていたが、理樹が「なんか、びりびりしてきた」と呟くと、そちらへ顔を向けた。
 立ち上がって、理樹に近寄った。口をもごもご動かしている理樹の肩を片手で押さえ、もう一方の手で口をこじ開けた。「何すんの、鈴」と言おうとするが、口が変に開いているからまともな発音ができなかった。
 鈴は理樹の口内を覗き込んだ。ちょうど右頬の裏側あたりに大きな傷があって、出血が続いていた。鈴は自分の唇を理樹に押し当て、舌を入れた。傷口へ舌を伸ばし、血液を舐めとった。それを何度か繰り返した。
 ようやく身体が離れたとき、理樹は目を見開いたまま訊ねた。
「鈴、いきなり何すんの?」
 鈴は理樹の顔をじっと見ていた。しばらく経ってから、一言「知るか」とだけ答えた。そのまま走って公園を出て行った。理樹は蛇口をひねり、出しっ放しになっていた水を止めた。それから人差し指で口の中の傷に触れた。指先には血と唾液が付着した。地面に唾を吐いた。相変わらず血が混ざっていた。


 休日の昼下がりだった。夏の暑さを避けるようにして、四人は冷房のきいた喫茶店へ逃げ込んでいた。空になったグラスの中で氷が溶けかかっていた。理樹はからんと音を立てて、グラスの底へ落下する氷を見つめていた。
「謙吾の野郎、このクソ暑いのに部活部活で、倒れちまえばいいのに」
「そんなこと言って、真っ先に心配するくせに」
「そんなことはねえよ。いや、そんなことはねえよ」
「今なんで二回言ったの?」
「暑苦しいから不毛なやりとり禁止」
 恭介が冷静に言い放ったときだった。カウンターの方から悲鳴が聞こえた。そのときちょうど鈴は席を外していた。手洗いに行っているところだった。三人にはそれが鈴の悲鳴のように聞こえた。しかし彼女の姿は店内にはなかった。
 カウンターの前には野球帽をかぶった中年の男が立っていた。手には刺身包丁があった。「おい」と真人が恭介を伺った。「ステイステイ。とりあえずステイな」と恭介は小声で答えた。
 男は包丁をカウンターに置いて、現金を促しているようだった。そこに用を足したばかりの鈴がトイレから出てきた。店内を見渡し、その重苦しい空気を察しながらも、まったく気にせずに席へ戻ろうとしていた。男は札束を奪うことに夢中で彼女の存在に気づいていなかった。
 鈴が男の背後を通り過ぎようとしたとき、男はようやく気がついたようだった。「ちょっと待てお前」と包丁を手に取って、刃先を鈴へ向けた。鈴は立ち止まって、男を見据えた。
「何やってんだお前」
「お前こそなんだ、馬鹿」
「あ?」
 冷たく言い放たれた言葉に男は一瞬躊躇した。その瞬間を鈴は見逃さなかった。男の手を蹴り上げて、包丁を落とした。「痛い!」と間抜けな声を上げた男の股間を続けざまに蹴り飛ばし、思い出したように恭介たちのいるテーブルを一瞥した。その顔には笑みが浮かんでいた。一方、男はその場にうずくまって重々しいうめき声を上げた。
鈴は彼らがいるテーブルではなく、店の出入り口へ向かった。背後から「待てお前」と声がかかった。立ち止まって振り返り、そばのテーブルに置かれていた誰かのホットラテをカップごと男に投げつけた。くるりと反転して店を出て行った。「熱い!」という叫び声が聞こえたが、今度は振り返らなかった。
「……鈴がグレた」
 一部始終を呆然と見ていた恭介が呟いた。


 店を出た鈴は歩道を歩いていた。サイレンが聞こえ始め、やがて前方からパトカーが二台近づいてくるのが見えた。あの喫茶店へ向かっているようだった。鈴は振り返りもせずに歩いていたが、すぐに早歩きになり、やがて小走りになった。二ブロックほど進む頃には走り始めていた。道行く人々の間をぬうようにして走り、ストライドはどんどん大きくなっていった。全力疾走になる前に時間はかからなかった。
 不思議と息は切れなかった。両手両足を大きく動かしていた。走行のリズムが心地良かった。しかしそれも長くは続かず、歩道の段差に躓いてしまい、転んでしまいそうになる。ガードレールに手を伸ばし、態勢を崩すまいと踏ん張った。ガードレール沿いに停めてあった自転車にしがみついたものの、結局転んでしまった。
 膝や手のひらをすりむいていたが、すぐに立ち上がった。捨てられていた自転車には名前も登録番号もなかった。鍵もかかっていなかった。鈴はそれに跨り、立ったままペダルを漕ぎ始めた。わずかにあった勾配のおかげですぐにスピードが出て、全身を風がすり抜けていった。
 駅前から住宅街へと風景は変わっていた。人通りも車通りもほとんどない路上を目的もなく走り抜けた。風に乗っているようだった。鈴は立ち漕ぎを続けていたが、息切れを感じたのをきっかけにサドルへ腰を下ろした。その瞬間、目の前を猫が横切った。見覚えのある黒猫だった。
 「カリギュラ!」と叫ぼうとしたが、声はまったく出なかった。鈴はハンドルを切り、バランスを崩して転倒した。彼女の身体は自転車を離れ、ひび割れの目立つコンクリートの上へ投げ出されるはずだった。しかし運良く、ゴミ捨て場のゴミ袋の山に突っ込むだけで助かった。打撲による痛みはあったが、大きな怪我はないようだった。ただ汚く、臭かった。
 カリギュラはのっそりと鈴の前に現れた。鈴はごみ袋の山に横たわったまま、「おいで」とカリギュラへ手を伸ばした。カリギュラは鈴の顔をしげしげと眺め、ぷいと横を向いて歩き始めた。鈴は手を伸ばしたままの姿勢で静止した。時間が止まったようだった。やがて不貞腐れたように「勝手にしろ!」と吐き捨てた。
 その声にカリギュラは一度振り返ったが、すぐに歩きだして曲がり角の向こうへ姿を消した。尻尾の先っぽが見えなくなるまで、鈴は彼を見送っていた。
 ずっと前方に目をやっていたが、やがて地面に線が引いてあるのがわかった。チョークによる白線のようだった。すっかり薄くなってしまっているが、辛うじて落書きを読むことができた。『こっきょう』と書かれていた。白線はその文字を貫くようにしてずいぶん先まで伸びていた。鈴は「国境」と呟いて、身体をごみ袋の山へ倒した。
 ふとカーブミラーが目に入り、自分のすぐ傍にも白線があることに気づいた。もう一本と同じように、どこまでも続いているように見えた。鈴は足を伸ばして、ごみ袋を蹴っ飛ばした。白いビニールの袋が路上を転がった。ごみ袋が元あった場所には似たような筆跡で文字が書かれていた。『さいぜんせん』。
 鈴はそれを見下ろして、静かに読み上げた。
「最前線」
 風が吹いた。髪の毛先がかすかに揺れた。

(了)

戻る