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Glare


 汗で張りついたブラウスがことさら不快指数を上げていた。遠山冬実は梅雨時の湿度の高さに教室中の集中力が損なわれていくのを感じていた。時刻は正午少し前、じきに給食の時間が始まる。黒板に漢字を書きつけている指導教諭の米村を視界に入れつつ、教室内をそっと見渡してみた。真剣に教科書と黒板とノートを見比べている者もいたが、多くは気もそぞろで、曇り空をじっと眺めている者もいた。しかし巷で騒がれているような学級崩壊の兆しはなく、子どもたちはおおむね行儀が良かった。
 チャイムが鳴る前に米村は教科書を閉じ、授業のまとめと共に給食の準備についてあれこれと指示をしていた。米村も子どもたちがだらけていることにはとうに気づいていた。さりげなく冬実に目配せをした。これもテクニックだと言っているようだった。チャイムが鳴ってから、冬実はノートを閉じて立ち上がり、伸びをしながらふと窓の外を見やった。何か大きなものが落下していった。冬実は両手を上げたままの態勢で止まった。そしてすぐに窓際へ歩み寄った。
 恐る恐る地面を見下ろした。そこには仰向けに倒れている人影があった。冬実はきゃっと悲鳴をあげて、その場に尻餅をついた。子どもたちが異変に気付き、米村が声を上げながら駆け寄ってきた。冬実は声を出せずに、ただ窓を指差した。米村は訝しげに冬実を見ながら、窓を開けて顔を出した。すぐに振り返って、教室内にいた児童たちに「おい、お前ら席に着いてろ」と言い、教室を出て行った。しかし子どもたちは言うことを聞かずに、ほとんど全員が窓へと張りついた。
 冬実は尻餅をついたまま、身体を引きずるようにして後ずさった。ちょうど子どもたちを入れ違い、ふいに彼女の周りにぽっかりと空間ができた。教室前方の壁に取り付けられた時計の音がやけに大きく聞こえていた。冬実はふとそちらを見た。教卓が目に入った。そこに小さな子どもの手があった。青白い腕だった。冬実が声を上げる前に、それは逃げるように教卓の向こうへ引っ込んだ。
 近くの机にしがみつくようにして冬実は立ち上がった。だいぶ落ち着いていたが、まだ少し足元が覚束なかった。たった今自分が目にしたものが何であったのか、確認するために教卓へ向かった。たしかに腕のように見えた。教卓の脇に立ち、軽く息を吸ってから中を覗き込んだ。そこは空っぽだった。折れたチョークが転がっているくらいだった。見間違いだったかとほっと胸を撫で下ろし、身体を反転させた。つい数分前まで米村がそうしていたように、黒板の前に立った。
 教室中の児童が窓にかぶりついている中、一人だけが冬実をじっと見ていた。中杉将太という名前の男子だった。冬実はあらかじめ渡されていた受け持つクラスの名簿と顔写真を完全に記憶していた。中杉くん、と呼びかけようとしたとき、彼の視線が冬実の居場所とは多少ずれていることに気づいた。彼は教卓の上を見ていた。冬実は視線をゆっくりと移動させた。しかしそこには何もなかった。中杉将太へと視線を戻したとき、教卓の中から伸びた手が冬実の足を掴んだ。細い手首と赤い袖が彼女の瞳に焼きついた。


 元々、母校での教育実習にはさほど乗り気ではなかった。あまりいい思い出がなかったからだった。しかし他に頼れる学校もなく、流れのままに六年間を過ごした小学校に舞い戻った。
 肩から背中にかけてに存在している傷は衣服を脱ぐ度に、否応なしに目に入った。深いものではなかったが、子どもの頃から見続けている冬実にとってはけっして無視できるものではなかった。小学校中学年の頃、校庭のジャングルジムから落ちたときに出来た傷だった。傷だけで済んで良かったと母に言われた。実際、冬実もそう思う。だがそのとき一緒に落ちた友達とは疎遠になってしまった。
 ベッドの上で目を覚ました。記憶が飛んでいた。身体を起こして、周囲を見渡した。冬実は保健室のベッドに寝かされていた。物音ひとつしないところを見ると、彼女の他には誰もいないようだった。窓から校庭が見えた。まだ日暮れ前だというのに、校庭で遊ぶ子どもたちの姿はいっさいなかった。きっと窓が開けられていても、この静けさに違いはないだろうと冬実は思った。
 保健室にはベッドは二床あった。隣のベッドとは象牙色のカーテンで仕切られていた。冬実はベッドを降りた。床に彼女の履物が置かれていた。ただの黒いパンプスだった。爪先でとんとんと床をたたきながら、冬実はカーテンを横に引いた。隣のベッドは無人だった。
 ベッドどころか、保健室自体が無人だった。冬実は腕時計で時間を確認した。一六時を過ぎたところだった。養護教諭の不在が冬実を不安にさせた。手紙か何かがないかと思い、ガーゼや消毒薬が置かれた机に近寄った。それらしきものはなかった。椅子に腰を下ろした。わたしはあのとき気を失って、ここに運び込まれたのだろう。冬実は右の足首を見た。ストッキング越しの肌には何の後も残っていないように見えた。
 冬実はそこでようやく児童の誰かが校庭に落下したことを思い出した。あの事故、もしくはそうは考えたくないが事件のためにこの静けさが生まれているのだろうと推測した。養護教諭を含めた全教職員で会議をしているのかもしれない、あるいは警察に状況を説明しているのだろう。わたしも行かなければならない、何しろわたしは落ちて行く児童をこの目で見てしまった。
 そう考えるといてもたってもいられなくなり、ドアを開けようとした。引き手に手をかけたとき、ふと振り返った。ベッドを囲んでいるカーテンの裾部がひらひらと揺れていた。冬実は訝しげにそれを眺めていたが、やがて我に返って廊下へと出た。そこにも人影はなかった。とりあえず職員室へ向かった。

 冬実の実家は学校から徒歩二〇分くらいのところにあった。結局、冬実も目にしたことを根掘り葉掘り聞かれる羽目になった。警察が帰ってからは校内で打ち合わせが続き、冬実もそれに参加した。しかしその場に立ち会うだけで、発言をすることはなかった。全てが終わったとき、時刻は八時を回っていた。帰り際、「遠山先生も災難だね」と米村が笑っていた。冬実も苦笑した。
 家に帰れば、両親からの質問攻めだった。もちろん最初は教育実習がどうであったかを問われたが、事故のことを滑らせると、好奇心の矛先はすぐにそちらへ向けられた。冬実はうんざりして、夕食をとりながら適当に受け流した。シャワーで汗を流してから、すぐに自室へこもった。まだやることは山ほどあった。
 机に向かい、学習指導案とのにらめっこを続けた。米村の指摘した不備は的確で、自分の能力のなさにうんざりするくらいだった。修正すべき点は次から次へと現れた。冬実はこれまであらゆることをそつなくこなしてきた。突出した部分はなかったが、周りと比べて劣る箇所もないと自負していた。だから不十分さを正確に指摘されることに脆かった。
 机に置かれたラジオのスイッチを入れた。中学生や高校生の頃に使っていた古めかしいラジオだった。動くのかどうか疑問だったが、チューナーをいじっている内にわずかな雑音と共にAM放送が受信された。懐かしい曲が流れていた。勉強の中休みによく聴いていた曲だった。タイトルは忘れてしまったが、たしかビージーズの曲だった。ビージーズは今も良く聴く。彼らの楽曲を着うたにしているくらい好きだった。しかし冬実はすぐにスイッチを切った。集中しなければならなかった。今は昔の真似などできない。足元から冬実を見上げている扇風機の風量を上げた。
 最低限のところまでを直し終えたとき、時刻はすでに午前零時に達していた。まだまだ足りない点はあるだろう。しかし眠る必要もあった。多くの子どもを体力的に中途半端な状態で預かることは許されない。あくびをしながらベッドに倒れた。汗の匂いがした。
 エアコンのない部屋だった。手探りで扇風機を手繰り寄せ、目の前に持ち上げるようにして風を浴びた。こんな姿を子どもたちが見たら、どう思うだろう。そんなことを考えると、自然と頬が緩んだ。扇風機を止めて、床にそろりと落とした。それから寝返りをうった。ベッドに投げ出したままだった携帯電話が目に入った。背部の液晶画面が点滅していた。
 メールの着信を知らせるアイコンが画面の隅にあった。メールは友人の手島佳苗からだった。彼女とは中学校までの九年間を同じ学校で過ごした。何度か同じクラスになり、その度に最初の席順ではいつも前後だった。メールには『冬実こっち戻ってきてるんだよね?ご飯でも食べに行こうよ。』とあった。冬実は苦笑した。素晴らしい提案ではあったが、今のところはそんな余裕は全くなかった。
 単純に懐かしいと感じた。中学校の三年間は同じ新聞部に所属していた。冬実の意識は徐々に幼い時期へと遡っていった。自分は地味な子どもだったと記憶している。交友関係もさほど広くなく、親友と呼べるのは佳苗くらいだった。しかし本当に親友と呼べるのは人生においても一人か二人くらいものだろうと冬実は考えていた。だからおかしなことではなかった。よく一緒に都心へ買い物や遊びに行ったし、中学校の卒業記念に二人でささやかな旅行に行ったこともあった。鎌倉だった。R指定の映画を高校生だと偽って観に行ったこともあった。それらは今では輝かしい思い出になっている。
 冬実は仰向けになった。思い出すのは事故のことだった。佳苗の他にもう一人、仲の良かった子がいた。同じクラスの子ではなかった。おそらくはもっと下の学年だったのだろう。ハーフの子らしく日本語が不自由だったせいか、会話を交わした記憶はなかったが、よく校庭で遊んだものだった。木の枝を使って砂場にお互いの名前を書いたことをはっきりと憶えている。『ふゆみ』と『べろにか』。事故がなければ、今も仲良くしていられただろう。冬実はそんなことをぼんやりと考えながら、また寝返りをうってメールを打ち始めた。
 『ごめん。まだ全然余裕ないから、また連絡するよ。』と返信した。佳苗からのメールを待とうかどうか悩んだが、メールのやりとりが続くのは避けたかった。結局電源を落として、部屋の明かりを消した。布団をかぶって、明日からの日々をイメージしている内に眠りに落ちた。深い眠りだった。明け方、蒸し暑さで目を覚ました。雨が降り始めていた。


 教育実習の初日に失神するという失態の結果、クラスの子どもたちと冬実との距離は一気に縮んだようだった。しかしそれは教師ではなくちょっと年上の頼りない大人と見られているようで、子どもたちにはほぼ一様に『ふーちゃん』と呼ばれていた。米村は最初の内は児童たちを注意していたが、その内に諦めてしまった。
 一週間が経過し、クラス内の人間関係がおぼろげながら掴めてきた。あらかじめ米村から聞いていた以上のことを肌で感じるようになっていた。気になるのは中杉将太のことだった。彼は一人でいることが多く、帰り道も他の子が校庭で遊んでいるのを尻目に帰路へついていた。しかしいじめられているのとも無視されているのとも異なっていた。彼への悪意は、クラスの中にはほとんど感じられなかった。
 四年一組の中心人物は、男子は佐原健二、女子は桑原梨佳だった。健二はガキ大将というよりも一歩引いた位置にいるタイプで、一方の梨佳は常に会話の中心にいるような子だった。もっとやんちゃな男子は他に何人かいたが、健二には頭が上がらなかった。以前に何かあっただろうとは予想できたが、詳しくは聞かなかった。健二は大人しいというよりも大人びているという言葉がしっくりきた。しかし時折子どもっぽい表情も見せることがあり、冬実を『ふーちゃん』と最初に読んだのも健二だった。
 放課後、冬実は健二が一人になるタイミングを見計らい、話しかけてみた。仲の良い何人かとサッカーボールを蹴り合っていたが、疲れたのか、健二は一人で朝礼台に腰を下ろしていた。近づく冬実へ振り返り、「ふーちゃん何してんの?」と人懐っこく訊ねてきた。
「佐原くんは? サッカー?」
「うん。疲れちゃった」
 健二は同級生には見せないようなあどけない表情を浮かべていた。同級生相手には始終落ち着いていて、心の内を探らせまいとする仏頂面を見せているように思えていた。クラスのまとめ役としての立場がそうさせるのかもしれなかった。だから大人である冬実や、あるいは米村にだけはこのような顔を見せるのだろうと思った。
 冬実は朝礼台の脇に立った。台の上に座っている健二との身長差が普段と逆転する。
「中杉のこと?」
 不意に健二がそう訊ねてきた。いきなりのことに慌てながらも、「そうなんです」と正直に答えた。健二は心底おかしそうに笑った。
「ふーちゃん、正直すぎ」
「先生は嘘はつかないんです」
「でもさ、うん、おもしろいね、ふーちゃん」
 噛みしめるように笑いながら、健二は続けた。
「でもおれ、おれっていうかおれたち別に中杉のこといじめてないよ」
「うん。それはわかります。でも中杉くんはいつも一人でいるよね」
「うん。あいつん家、複雑なんだよ」
「複雑?」
「お受験で大変なの。前いっしょに遊んでたら、あいつのおばさんに怒られちゃってさ」
 そこで健二は朝礼台から飛び降りて、「それから遊ぶのやめちゃった」と言い残し、友達へ声をかけながら駆け出していった。
 冬実は息を吐き、アルミの台に寄りかかった。日暮れ時だった。もうそろそろチャイムが鳴り、校庭の開放時間も終わる。冬実はこの時間が好きではなかった。昔から、そうだった。
 ボールを蹴り続けている男子たちに背を向けて、冬実は校舎内へ戻っていった。健二の言ったことが頭に残っていた。時間に限りのある自分が立ち入れる範囲を超えているように思えた。しかし見て見ないふりをすることも難しかった。職員室に作られた自分の席につき、翌日以降の授業の準備やこれまでの反省点を記したノートを開きながらも、頭を離れることはなかった。


 手島佳苗はグラスに注がれた赤ワインをあっという間に空にした。ビールみたいな飲み方だと呆れながら、冬実は自分のグラスを口に近付けた。ただのオレンジジュースが注がれていた。
「じゃ、冬実はその子、中杉君だっけ? 助けたいんだ」
「助けるっていうか、うん、大げさに言えばそんな感じ」
 七月に入って最初の土曜日、冬実は佳苗と共に駅前のレストランに来ていた。相変わらず日々に追われていたが、夜に少しの時間を開けるくらいならどうにかという状況だったし、リフレッシュしたいという甘えもあった。
 加えて、東京で一人暮らしをしていた冬実とは違い、ずっと地元で暮らしてきた佳苗であれば、子どもたちを取り巻く環境についても何かを知っているのではないかという淡い期待があった。しかし、当然といえば当然だったが、佳苗は「そんなんわかるわけないないじゃん」と笑い飛ばした。
「でもそれって教育実習でやることじゃないよね」
 佳苗はフォークでハンバーグを口に運びながら、器用にそう喋った。昔からそうだった。勉学やスポーツをそつなくこなしながらも生活においてはどこか不器用さのある冬実とは対照的だった。だからこそ、長く関係を続けられているのかもしれない。冬実はほとんど手をつけていないままのハンバーグを見下ろしながら、ぼんやりと考えた。
「ま、わたしにはよくわかんないことだけど」
 二杯目のワインを飲み干し、ふうと息を吐いた。カウンターの方を見ながら、ロールパンにバターを塗って口に入れた。冬実もその内にハンバーグを食べ、スープを飲んだ。ポタージュだった。
 店内は土曜日の夜にしてはさほど混雑していなかった。待ち時間なしで席につけるくらいだった。だから二人は食事を終えてから、しばらくその店にいた。佳苗はワインを飲み続け、冬実にも勧めてきた。翌日が日曜日であることを考えれば、一杯くらいなら飲んでもいいかとも思ったが、すぐにその考えを振り払った。そういう油断が失敗を生むものなのだと、彼女は知っていた。
「最近の子どもってどうなの? やっぱり素直じゃないの?」
「そんなことないよ。みんないい子」
「あ、そうなんだ。まあ、昔のガキの方がストレートに反抗的だったかもね」
「というか、今の子ってみんな大人っぽい。怖いくらいやりやすいよ、授業」
 実際そうだった。拍子抜けしたくらいだった。報道番組でよく見る学級崩壊やモンスターペアレントも今の時点では皆無だった。授業が滞るということはなく、子どもたちに質問をしてみても、想定通りの回答が返ってきた。ウケを狙ってふざけたことを言うものもいるが、脱線に至ることはほとんどなかった。
 冬実は、それを子どもたちが自分に合わせてくれているのだと確信していた。道徳の時間に小沼陽介という児童が明らかにとんちんかんな回答をにやけ顔で返したとき、どっと沸く教室内でただ一人、佐原健二が陽介の椅子を後ろから蹴っ飛ばしたのだった。それは陽介にだけ伝わるような小さなアクションで、実際に米村も気づいたかどうかはわからなかった。陽介は周りに気づかれないようにそっと振り返り、健二の顔色を伺った。健二はそっぽを向いていた。
 子どもたちの中に冬実を困らせまいとする意識があるように思えてならなかった。もちろん米村が指示をしたわけではなく、子共たちの間でのささやかな意見の一致のようだった。あくまで冬実がそう感じているだけではあったが、確信に近いものがあった。実習は一見順調に進んでいるように見えるが、そこだけが憂鬱の種だった。
「大人っぽいか。わたしたちが子どもの頃って、そういうのなかった気がする」
「佳苗はそうでもなかったんじゃない?」
「そうかな。そうでもないよ」
 佳苗の顔には赤みがさしていた。冬実はオレンジジュースを飲み干して、通りかかった店員にウーロン茶を注文した。佳苗は不服そうに茶色く染められた髪の毛をいじっていた。
「ごめん。実習終わったらね」
「ほんと、冬実ってまじめだよね」
「そうでもないよ」
 店員がウーロン茶の入ったグラスを持ってきて、代わりにオレンジジュースが入っていたグラスを回収していった。
「そんなことないよ。昔からまじめだったよ。でもたまに変なこと言うよね」
「変なこと?」
「うん。変なこと。何だっけ?」
「いや、わかんないよ。え、何それ?」
「あ、ほら、いもしない友達と遊んだとか、そういうの」
 冬実には佳苗が何の話をしているのかわからなかった。だから何も口にできなかった。冬実の心中を察したのか、佳苗が言葉を続けた。
「あったの。けっこうあったんだよ、そういうの。あんた憶えてないかもしれないけど」
「……憶えてない」
「ちょっと不気味だった。だから皆あんまりあんたと仲良くしなかったんじゃない。ほら、ジャングルジムから落ちたときだって、誰かといっしょに落ちたって言い張っててさ」
「え?」
 心臓が高鳴った。あの夕暮れのことが脳裏に浮かんだ。学校の校庭にあるジャングルジムだった。それは今もある。打ち合わせのために前もって母校を訪問したとき、帰り際に今では錆の目立ち始めた金属に触れた。昔は設置されたばかりで、ぎらぎらと光っていたものだった。
「あのときはベロニカといっしょだったんだよ」
「ベロニカ? 誰?」
「え? いや、ハーフの。下級生だったと思うけど」
「そうだったっけ? ごめん。自分から言い出しといて、あんま憶えてないや」
 佳苗は笑いながら立ち上がり、「トイレ行ってくる」と席を立った。
 一人になった冬実は鞄から教科書を取り出した。道徳の教科書だった。週明けの最初の授業が道徳だった。授業で使おうと思っている短い読みものを読み直している内に佳苗が戻ってくる。「おー、やっぱりまじめだ」と佳苗は笑った。
「そんなことないよ」
 冬実は教科書を鞄に戻し、ウーロン茶を飲んだ。それからしばらく二人は子どもの頃の話に花を咲かせた。じつは誰々くんが好きだったとか、あの先生今何してるのかなとか、あの学校建てつけ悪くてひどかったよねとか、開かずの教室ってまだあるんだとか、そういや貼り出した新聞を勝手に剥がされたことあったっけ、何だったんだろうねあれ、などという他愛もない過去のエピソードたちだった。
 佳苗とは駅前で別れた。今度は教育実習終了記念で会おうねと約束をした。千鳥足で夜に消えていく佳苗を見送って、冬実も帰路へついた。まだバスのある時間だったが、梅雨時にしては珍しく涼しげな夜だったので、歩いて帰ることにした。歩きながら、今の子どもたちも先程の冬実と佳苗のように長い時間が経過してから、過去を振り返ることがあるのだろうかと考えた。あるいはその中に自分の姿があればいいなと考えた。
 途中、コンビニエンスストアに立ち寄った。喉が渇いていた。雑誌コーナーに置かれた漫画雑誌が目に入った。最近の子たちにはどのような漫画が人気なのだろうかと何冊かをぱらぱらとめくってみたが、収穫はまるでなかった。明日にでもネットで調べてみようかと思った。
 ペットボトルの緑茶を手にレジの前に立っているとき、コンビニの前を通る人影に気づいた。中杉将太だった。大きめの鞄を背負って、早足で歩いていた。代金を払い、すぐにコンビニを出た。そのときすでに将太の姿はどこにも見えなかった。


 冬実は書きかけの日誌を閉じ、バッグを持ってトイレへ向かった。目立った問題もなく続いている実習とは裏腹に彼女の体調は芳しくなかった。しかし風邪や病気ではなく、ただ疲労がたまっているだけだった。おそらくは睡眠時間が足りていないのだった。
 学校ではできるだけ子どもと触れ合う時間を増やそうと心掛けていた。その分授業の準備や教材の研究は放課後や自宅に持ち帰っての作業になり、結果的に削られていくのは睡眠時間だった。実習が始まる前は、遅くとも日付が変わるまでには床に就こうと考えていたが、それはまったく守られていなかった。もっとも、布団をかぶったからといってそのまま眠れるかどうかは怪しかった。頭にちらつくのは大きな鞄を背負って歩いていた中杉将太のことだった。将太は冬実以上に疲労困憊の色を見せている、そう思えてならなかった。
 冬実にあてがわれた机は職員室にあり、他の教員と隔てられることなく並んでいた。実習の日誌を書き上げたのは七時頃だった。実習が始まってから、最も遅い時間だった。米村に目を通してもらうのだから、時間が遅くなればなるほど彼に迷惑をかけることになる。ばつの悪い顔をしながら米村に手渡すと、彼は「遠山先生、だいぶお疲れですね」と顔を上げずに話しかけてきた。
「中杉のことですか?」
 後ろを向いたときにそう言われ、冬実は歩き出そうと足を踏み出した体勢のまま動きを止めた。それからゆっくりと振り返った。言葉を返せずにいた冬実に米村は「見ていればわかります」と言った。相変わらず顔は机に広げられたわら半紙に向けられている。髪の毛には白いものがまじっていた。まじまじと彼の外見を見つめるのは初めてだった。
「遠山先生が中杉のことを気にしているのはわかります。授業中、中杉を見ることが多いですから。子どもたちはそういうのに敏感だから、気をつけないといけません」
「はい」
 冬実はただ頷くことしかできなかった。一人を特別扱いすることが良くないとはわかっていたが、無意識の内に自分は中杉将太を見ていたようだった。しかも見ていただけで、何の行動も起こせていない。
「米村先生。わたし、怖いんです、たぶん」
「わかりますよ。ま、中杉くんのことは私も気にしていますから、あんまりこだわらない方がいいです。実習期間でどうこうできる問題じゃないですから」
「あの……そうなんですか?」
「ご家庭の方針がありますから気軽に立ち入れる問題じゃないんです。本人も今のところは何も言ってきていませんから」
「お受験って聞きましたけど。あの、佐原くんから」
 そこで初めて米村は顔を上げた。彼は穏やかな笑みを浮かべていた。冬実をじっと見つめ、「そうですね」と言った。
「彼は中学受験をする予定です。公立中学へは行かせないとお母さんは仰っている。それは決して間違ったことではないです。ただ彼自身がどう思っているのかが私にはわからない」
 米村はマグカップのコーヒーを飲み、頬杖をついた。
「中杉が助けを求めてきたら、私は家庭訪問でも何でもしてかけあうつもりです。正直、彼には受験は向いていないと思っています、私は」
「中杉くんってどういう子なんですか?」
「遠山先生が思った通りの子ですよ」
 冬実が黙っていると、補足するように続けた。
「自分のペースで物事をじっくりこなしていくタイプです。だから競争には向いていない。その代わり間違いなく才能がある。あ、遠山先生、美術室へ行きましたか?」
「はい……え、中杉くんの?」
「ええ。彼が作った木版画が飾ってあります。人一倍時間をかけて作ったものですが、ちょっとすごいですよ」
 米村との会話を終え、冬実は職員室を後にした。バッグを担ぎ、教職員用の下駄箱へ向かおうとして方向を変えた。向かったのは美術室だった。階段を早足で上り、三階の隅にある美術室の前まで来たところで鍵を持ってこなかったことに気づいた。明日でもいいかと思いながらドアに手をかけた。鍵はかかっていなかった。
 美術室に入り、電気をつけた。普通の教室の倍くらいの大きさだったが、冬実一人で立っているとどこか寂しげだった。室内の隅には蛍光灯の光が届いておらず、影が広がっていた。壁や柱に子どもたちが作った作品が飾ってあって、中杉将太が作った木版画も堂々と展示してあった。
 それはゴジラだった。うろこ状の肌や背びれや尻尾の質感が丁寧に描かれていた。それでいて躍動感があり、今にも暴れ出しそうだった。将太が彫刻刀で黙々とゴジラを彫っているところを想像し、冬実は苦笑した。そういう作業が、彼にはあまりにもよく似合っているからだった。
 美術室を出て、階段を下りた。校舎には三つの階段があった。北側と南側、そして中央に一つ。冬実は中央の昇降口近くの階段を上り、美術室のある校舎北側の階段を下りた。一階には給食室がある。今は当然のように無人で、非常灯だけが灯っていた。
 今度こそ昇降口へまっすぐ向かうつもりだった。しかし途中で足を止めた。校舎一階の北側には彼女が小学生のときから存在している開かずの教室があった。前方と後方にあるガムテープで目張りされている。薄暗さの中で、ガムテープだけがドアや壁から不自然に浮かび上がっているように見えた。
 冬実はドアの前に立ち、ガムテープを指でなぞった。表面は冷たく、指先に埃が付着した。廊下に誰もいないことを確認してから爪を立て、ガムテープを剥がそうとした。しかしすぐに我に返ったかのように指をドアから離した。しばらくドアを見つめた後、踵を返して歩き出した。
 彼女が立ち去ってしばらくしてから、ドアのガムテープは力なく剥がれて床に落ちた。ドアが軋んでほんの少しだけ開き、ぼんやりとした光が廊下へ漏れた。


 図書室のドアを引いたとき、真っ先に目に入ったのは窓際に立っている男だった。逆光のせいでよくわからなかったが、黒っぽい作業着のようなものを着ていた。中杉将太は軽く頭を下げて、本棚の並ぶ一角へ向かった。
 図書室の本棚は壁に沿って設置されていた。将太は整然と並べられた本の中からハードカバーの冒険小説を抜き取って、机に向かった。図書室の机は数人で利用できる大きめのものだったが、彼の他に利用者はいなかった。長方形の机が並ぶ中、楕円の机が一脚だけあった。将太は他に誰もないとき、その机を独占するのが好きだった。
 貸し出しを行うカウンターの向こうに図書準備室を兼ねた書庫があった。少ないながらも閉架図書があるという話を図書委員の先輩に聞いたことがあった。入ったことはなかった。まだ図書委員は来ていなかった。
 将太は学習塾が始まるまでのわずかな時間を図書室で過ごすことが多かった。図書室にある本を読み、時間を潰す。それは彼にとっての日常だった。休み時間はともかくも、放課後に図書室を利用する者は少なかった。学校に居残ってまで本を読もうとは思わないのだろう。遊ぶところは他にもあるし、家に帰ればテレビゲームもあるのだから。それをうらやましいと思ったことはなかった。自分の他には図書委員くらいしかいないからこそ、静かな環境にいられるのだと考えていた。
 図書室に入ったとき、人がいたことは彼を少なからず動揺させた。それが子共ではなく大人だったからだ。最初は用務員かと思ったが、服装からして違うようだった。若干の不安を感じていたが、将太が椅子に座って本を読み始めて間もなく、男は図書室を出て行った。
 誰だったんだろう。将太は不意にいてもたってもいられなくなり、すぐに男の後を追った。図書室の扉を勢いよく開けたとき、桑原梨佳がたまたま図書室前を歩いていた。彼女は驚いて、目を見開いた。しかしすぐに将太であることに気づき、照れくさそうに「なんだ中杉じゃん」と言った。
「ああ、桑原」
「どうしたの、怖い顔して」
「あのさ、今ここから出てった人どこ?」
「いや、誰も出てきてないよ。だって図書室でしょ、ここ。あんたくらいしかいないじゃん」
「そうなんだけど。あ、わかった、ありがとう」
「何それ。変なの」
 バカにしたように将太を一瞥し、梨佳はまた駆け出していった。走るなよ、と言おうとしたが、喉がからからに乾いていて声が思うように出なかった。
 将太は机に戻り、読書を再開した。狐につままれたような心地ではあったが、意識は徐々に小説の世界へ沈んでいった。やがて無人島に漂着した男たちの生活を追いかけることに夢中になり、下校のチャイムが鳴るまでは別世界の住人でいられた。


 高木景子の手による黒板の落書きを見て、うまいものだと心底感心していた。今は青のチョークを使い、かつかつとドラえもんを描いている。チョークの使い方は冬実よりもよっぽど上手かった。
「高木さん、ちゃんと消しとかないとダメだよ」
「はーい」
 景子は空いている方の手を上げて、返事をした。冬実は肩をすくめながら、桑原梨佳へ向き直った。帰りの会が終わってから、梨佳と景子に捕まってしまったのだった。彼女たちは冬実がこの学校に通っていた頃の話をしきりと聞きたがっていた。
 最初は二人とも興味津々の様子だったが、すぐに景子は飽きてしまって、黒板へ落書きをし始めた。一方の梨佳は「それでそれで?」と繰り返し、その好奇心は尽きることを知らなかった。いつの間にか小学校時代の話から中学校、高校、そして大学の話へと移っていた。恋人に関する質問はうまくはぐらかしたものの、彼女の進路に関係している可能性がないわけではなかったので、高校や大学での生活についてもあれこれと聞かせてやった。梨佳は目をぱちくりさせながら、冬実の話を聞いていた。
「じゃあ、ふーちゃんは一人暮らしなんだ」
「うん、今だけはお家に戻ってきてるけど、教育実習が終わったらまた一人暮らしです」
「一人暮らしってさびしくない? 憧れるけど、ちょっとこわいな」
「さびしくはないけど、いろいろ大変なんですよ。洗濯も掃除もご飯も全部自分でやるんですから」
「うわー、大変そう。わたし、無理かなあ」
「って、わたしも思ってました。でも意外とできるもんなんです」
 その言葉を聞いて、梨佳はけらけらと笑った。冬実もつられて笑みを浮かべた。
 冬実は振り返って、掛け時計を見た。時刻はすでに午後四時を過ぎていた。校庭の開放時間の終わりを告げるチャイムが鳴れば、さすがに二人とも帰るだろう。それまではとことん付き合おうと冬実は考えていた。
「ふーちゃん、梨佳ってね佐原くんのこと好きなんだよ」
「ちょ、何言ってんの、景子」
「いーじゃんいーじゃん」
 景子は黒板に向かったままだったが、その顔がいたずらっ子のように綻んでいることは容易に想像できた。冬実が「そうなんだ」と反応すると、目の前の梨佳はわかりやすく顔を赤らめて「違う違う、そんなことない」と手を振りながら否定した。
 立ち上がった梨佳は景子につかつかと近寄って、彼女が書いていたものを黒板消しで消し始めた。景子は「何すんのー!」と声を上げるが、その声色には怒気は含まれていなかった。
 冬実は睦まじい二人のやり取りを耳にしながら、ふと窓から校庭を見下ろした。話題に出てきた佐原健二たちがサッカーをしていた。といっても試合ではなく、三人くらいでボールを蹴り合っているだけだった。
 冬実が「佐原くん、校庭にいるよ」と声をかけると、梨佳は「あーもう、ふーちゃんまで。知らない知らない」とそっぽを向いた。いつもは見せないあどけなさに冬実の頬は自然と緩んだ。そういえば、佐原健二も冬実の前では似たような顔を見せたことがあった。意外とこの二人は似た者同士なのかもしれないと思った。
 校庭を見下ろしている内に目につくものがあった。それは体育倉庫だった。低学年の児童が入ってしまっては危ないからといつも扉は閉めてあるはずだった。しかしこのときは扉は開け放たれていた。健二たちがボールを出すために開けたのかと思ったが、子どもたちが休み時間に使うボールは職員室で貸出を行っている。それは放課後も同様だった。
 いくら建物が古く建てつけが悪いからといって、ひとりでに開くほど軽い扉ではなかった。不安が頭をもたげ始めたところで、彼らが蹴っていたサッカーボールが弾みながら体育倉庫に吸い込まれていった。


 小沼陽介がサッカーボールをトラップし損ねると、佐原健二と大山信夫は声を合わせて「へたくそ!」とヤジを飛ばした。「うるせー」と言い返し、陽介はボールの行方を追った。
 ボールは陽介の背後にあった体育倉庫へ転がっていった。鉄扉が開けっ放しになっているのを見て、陽介は舌打ちした。体育倉庫の中には明かりがなかった。正確には、あるにはあったが、スイッチを入れても灯らないのだった。奥の方へ行ってしまえば、探すのが面倒くさい。広いわけではないか、隅っこの方の暗さは妙に深かった。ほこりっぽさにもうんざりする。しかしトラップミスをしたのは自分なのだから、自分で取りに行かなければならなかった。
 健二は小走りで体育倉庫に向かう陽介を見送りながら、校庭の砂利や石ころを蹴っ飛ばしていた。放課後、校庭で遊んでいるものは少なかったが、いないわけでもなかった。ブランコを漕いでいるのは隣のクラスの子だったし、ジャングルジムのてっぺんには下級生が陣取っていた。
 ジャングルジムにはいい思い出がなかった。体育倉庫の屋根に飛び移ろうとして失敗して落ちたときの痛みは今でもはっきりと思い出せる。すぐ近くだからいけると思ったのだが、計算が甘かった。以来、健二は冷静な行動を心掛けるようになった。あんな目に遭うのはもうこりごりだった。
 花壇には何人かの児童がいた。どうやらプランターを引っくり返して、じめじめしたところにいる虫を観察しているようだった。
「陽介、早くしろよ」
「わかってるって」
 信夫の言葉に陽介は片手を上げて、手のひらをゆらゆらと動かした。そのまま体育倉庫に入っていく。暗がりに飲まれるように、信夫の後ろ姿はうっすらとしか見えなくなった。そのときだった。スライド式の鉄扉が不意に動き出し、大きく耳障りな音を立てて勝手に閉まった。空気がぴんと張りつめた。二人はいきなりのことに、凍りついたようにしばしの間、言葉を失った。
 内側から扉を叩く音がして、二人は我に帰った。慌てて駆け寄り、陽介の名前を呼んだ。


 冬実は体育倉庫の扉が閉まるところを目にしていた。何をやっているんだろうと疑問に思ったが、扉を叩いている健二と信夫の姿を見て、何かが起こっていることを了解した。
 校庭に注意を払っている冬実を怪しんだ二人が、いつの間にか窓に歩み寄っていた。
「あいつら何やってんだろう」
「遊んでるんじゃない?」
「でも、なんか様子変だよ」
「桑原さん、高木さん、わたしちょっと校庭に行ってくるから」
 と言い残して教室を出ようとすると、景子が冬実の後を追っていく
「ふーちゃん待って。わたしも行く」
「え? あ、桑原さんは?」
「わたし行かなーい」
 梨佳は不貞腐れたように自分の席へと戻った。そんな梨佳に景子が追い打ちをかけるように「じゃ梨佳、黒板消しといて」と声をかけ、冬実に続いて教室を出た。
 「ばーか」と呟いた。梨佳は自分の席に着き、すぐに立ち上がって窓へ近寄った。しばらく見下ろしていると、冬実と景子が校庭を横切っていく姿が見えた。窓を開けてもう一度「ばーか」と言い、また自分の席へと戻った。黒板を見た。景子が書いた落書きが黒板を埋め尽くしていた。ため息と共に立ち上がり、黒板消しを手に取った。全てを消すのは大変だった。景子は白だけでなく、黄色や赤や青のチョークも使っていた。苛立ちをぶつけるように黒板消しを叩きつけていたら、チョークの粉が埃みたいに舞った。梨佳はむせ込みながら、教卓を蹴っ飛ばした。
 手のひらと洋服の裾にチョークの粉が付着していた。落書きをすべて消し、ラーフルクリーナーで黒板消しを綺麗にし終えてからそのことに気づいた。梨佳は教室を出た。廊下は静かだった。トイレへ向かった。梨佳はいつも二階の南側にあるトイレを使っていた。近くには家庭科室や視聴覚室といった特別教室しかないため、それらが使われていないときはいつも空いていて、なおかつ洋式の便器があったからだった。教職員用のトイレがどうなっているかは知らなかったが、彼女が出入りできるトイレの中では唯一の洋式の便器だった。誰かが便器を壊したので、設置し直したのだという噂だった。便器を壊すなんて、どんな女の子なんだろうと常々思っていた。
 図書室の前を通りかかったときにいきなりドアが開けられ、思わず声を上げそうになった。出てきたのは同じクラスの中杉将太だった。「あーびっくりした」と言いかけたが、どうにか踏みとどまって「なんだ中杉じゃん」と言った。
 二言三言の言葉を交わして、すぐにその場を退散した。梨佳は将太が少し苦手だった。いきなりのことに驚いていると思われるのも尺だった。校舎を小走りで駆け抜け、北側から南側へ到達した。普通教室が並ぶ校舎の中央部分とは異なり、ドアの数が少ないために、廊下が長くなって見えた。
 梨佳はトイレに入る前に流しで手を洗った。掃除で使うための流し台が男子トイレと女子トイレの入り口に挟まれる格好で設置されていた。それから中に入って洗面台の前に立った。しかし鏡は曇ってしまっていた。袖を使って曇りを拭き取ろうとしたが、拭ってもすぐに曇ってしまう。梨佳は鏡を睨みつけたまま、手で水道の水をぴしゃりとかけた。
 そのとき彼女の背後を女の子が歩いて個室へ入っていった。下級生、おそらくは一年生くらいの背恰好の子だった。綺麗な顔をしていた。音もなく通り抜けた。個室の戸が閉まると同時に、また鏡に曇りが生じた。何度目かわからないため息をつき、梨佳も個室へ入った。三つある個室の内、奥と手前の個室は和式で、真ん中だけが洋式だった。どうしてわざわざここまで来たのに、和式の個室に入ったのだろうかと首を傾げた。
 用を足すつもりはなかった。梨佳は鏡を取り出し、自分の顔を映した。鏡を見ながら、リップグロスを塗った。唇の輝きにやっと苛立ちが収まった気がした。ジーンズのポケットから携帯電話を出し、電源を入れた。持ち込みがばれると叱られるため、いつも校内では電源を落としていたのだった。リロ・アンド・スティッチの壁紙が表示され、すぐにメールチェックをした。しかし表示は圏外のままで、いつまで待っても電波は入らなかった。
 帰ろうと思った。よくよく考えれば、もう放課後だった。こそこそ隠れてメールチェックをする必要はなかった。気を取り直し、便器のレバーを下げた。水が流れた。便器を拭いただけの紙が流れていった。梨佳は個室から出ようとした、しかし戸を引こうとしても、びくともしなかった。
「あれ?」
 そう呟いていた。いくら力を入れても、まったく動かないのだった。建てつけが悪いのかと思い、戸を浮かしてから引いたりもしたが、やはり動かなかった。梨佳は息を吐いてから、思いっきり戸を蹴っ飛ばした。しかし足の裏に鈍い痛みが生まれるだけで、事態はいっこうに好転しなかった。


 四人がかりで体育倉庫の鉄扉を開けた。外に出た陽介は開口一番、「あ、まぶしい」と言った。その余裕のありそうな様子にほっとしながらも、やはりいつもよりも弱々しくも見えた。冬実は陽介の前で腰をかがめ、目線の高さを合わせてから「小沼くん、大丈夫?」と問いかけた。
 陽介は照れくさそうに顔を背けた、「うん」とだけ答えた。それから鼻に手をやった。
「どうしたの?」
「いや、あ、鼻血だ」
「ぶつけたの?」
 冬実はポケットからハンカチを出し、陽介の鼻を押さえてやった。陽介は「あ」と声を出し、慌ててハンカチを自分で押さえた。
「ふーちゃん、ありがと」
「洗って返してね」
「うん」
 健二と信夫、そして景子は鉄扉の様子を探っていた。つい直前は驚くような速さで閉まったというのに、今度はレールが錆びついてしまったかのように動かなくなっていた。三人で扉を閉めようとするが、動きそうな気配と軋む音がするだけだった。
「なあ、陽介、お前何したの?」
「何もしてないよ」
「いきなり閉まるかよ」
「いや、でも、閉まったじゃん」
 陽介はその場にしゃがみ込み、鼻からハンカチを離してから指で撫でた。指先に血が付着した。あわててまたハンカチで鼻を押さえた。
「お前、保健室行ってくれば?」
「うん」
 さすがにハンカチを千切って詰めるわけにはいかなかった。陽介は立ち上がって、校舎へ向かおうとした。そのときジャングルジムが目に入った。てっぺんにいた下級生の一人がもう一人を突き飛ばしていた。突き飛ばされた男の子は肩から地面に落ちた。けたたましい泣き声が校庭に響いた。
 何が起こったのかもわからないままに冬実は駈け出していた。地面に倒れたまま泣きじゃくる男の子を抱え上げ、「大丈夫、大丈夫だから」と言った。見たところ、頭は打っていないようだった。脱臼しているかもしれなかったが、目に見える範囲で大きな怪我はない。男の子は泣きながらむせていた。
 ようやく追いついた健二たちも心配そうに男の子の顔を覗き込んでいた。陽介はふと、この子が突き落とされたことを思い出した。動転してすっかり忘れていたが、たしかに自分はこの子が突き飛ばされるのを見た。
 反射的にジャングルジムを見上げた。
「ふーちゃん、この子、あいつに突き落とされたんだ、さっき」
「え?」
 冬実もジャングルジムのてっぺんへ視線をやった。低学年と思しき男の子が見下ろしていた。その表情には色がなかった。やがて自分も飛び降りようとした。
 反応したのは健二だった。素早くジャングルジムに上り、男の子の身体を支えた。信夫の手助けもあって、どうにか無事にその子を下ろした。男の子は気絶してしまっていた。一方、突き落とされた子は相変わらず泣き声を上げていた。
 チャイムが鳴った。目の前の出来事を呆然と見ていた冬実はその音でやっと我に返り、景子へ「高木さん、保健の田所先生呼んできて」と言った。
 景子は少し離れた場所に立ち尽くしていた。冬実が「高木さん、お願い」と繰り返すと、「え、あ、はい!」とようやく返事をした。「保健室……」と呟きながら、駈け出した。陽介も鼻を押さえながら、「俺も保健室行ってきます」と力なく口にして、景子の後を追った。
 健二と信夫はその場にへたり込んだ。疲れがたまっていた。冬実も同じだった。泣きじゃくる児童に「大丈夫。痛くない。痛くないよ」と繰り返していた。


 二人は保健室に駆け込んだ。養護教諭の田所好子は血相を変えて飛び込んできた二人に、落ち着いた声色で「どうしたの?」と訊ねた。二人は顔を見合わせ、うんと景子が頷いた。そして口を開いた。
「男の子が、一年生か二年生だと思うんですけど、ジャングルジムから落ちたんです」
「え?」
 田所は窓から校庭を見やった。確かにジャングルジムのそばに人影が見えた。
「今、ふーちゃんが――」
「ふーちゃん? ああ遠山先生ね」
「うん。先生呼んできてって」
「わかりました。すぐ行きます」
 田所は白衣のまま立ち上がり、保健室を出ようとした。が、すぐに振り返った。陽介に向かって、「あなた、鼻大丈夫なの?」と言った。
「え?」
 陽介は鼻に手をやった。冬実のハンカチでずっと押さえていたが、いつの間にか鼻の周りの感覚がなくなっていることに気づいた。手のひらまで真っ赤に染まっていた。
「あ、何これ」
「鼻血です。小沼くんはここに残りなさい。鼻を洗ってから、そこに脱脂綿があるから」
「あ、はい。あー、これなんかやばいっすね」
「でも、あの子たちの方がやばそうだから、あなたは後回しでいいでしょ」
 と、にこやかに答える田所に陽介は「うわー、ひでー」と笑いながら、保健室内にある洗面台へ向かった。
 保健室を出たところで、景子は立ち止まった。早足で玄関へ向かう田所に「先生、わたし友達呼んできます」と声をかけた。田所は手を振って答えた。景子は階段を上った。


 タイル張りの壁に寄りかかって、一向に電波の入らない携帯電話の画面を見ていた。座っていても落ち着かないし、かといって立っていてもくたびれるばかりだった。
 隣の個室に入った子も外に出られないようだった。梨佳はずっと気配を感じていた。梨佳が戸を叩いたり蹴ったりする度に隣の個室からもがたがたと音が聞こえた。
「お互い大変だね」
 梨佳は隣に向かってそう声をかけていた。返答はなかった。そういえば鏡越しに見えた姿は明らかに下級生だった。だから上級生からの声に対して、どう反応すればいいのか戸惑っているのかもしれなかった。
「でもすぐ出られると思うよ」
 本心ではそうは思っていなかったが、こういうときは上級生がしっかりしなければならないと考えていた。しかしまったく反応がないので、そういう態度にもすぐに飽きてしまった。会話が続かないのは苦手だった。
 洋式の便器の上に立って、戸を乗り越えることはできないかと試したが、思ったよりも天井と戸の隙間が狭くて断念せざるをえなかった。天井に触れたとき、指先に埃がこびりついた。手を洗いたいと心底思った。個室から出られないことに息苦しさを感じていた。
 思案に暮れている内に足音が聞こえた。駆けているような速いテンポの足音だった。梨佳は戸を叩きながら、「誰か!」と大声を出した。「出られない!」と叫んだ。
 足音は近付いてきた。不思議とその足音はゆっくりになっていた。こつんこつんと床を叩いていた。トイレの中に入り、足音は梨佳の個室の前で止まった。
 そういえば、誰なんだろうと不安になった。唾を飲んだ。一瞬の静寂が生まれたが、不安を振り切るように戸を叩いた。
「これ、開かないの!」
 戸を挟んだ向こう側から悲鳴が聞こえた。それからすぐに「梨佳?」と聞き慣れた声がした。
「景子?」
「何してんの?」
「開かなくなっちゃって、これ、あの、ドア」
「鍵は?」
「かけてない。全然開かないの。開けてよ」
「ちょっと下がってて」
「うん」
 梨佳は言われた通りに壁際まで下がった。
「危ないよ。いい?」
「うん、オーケー」
 戸が割れるような音がして、梨佳は思わず目をつぶった。壊しちゃったんじゃないのと恐る恐る目を開けてみると、戸が手前に開いているだけだった。そして景子が目の前に立っていた。
「大丈夫?」
「うん。何とか」
 空気が一気に流れ出した。息苦しさはなくなっていた。梨佳は洗面所に直行し、手についていた埃を洗い流した。
 それから景子へ向き直り、「ありがと」と言った。
「うん。あ、大変なんだよ。ジャングルジムから落ちちゃって」
「え? 誰が?」
「いやわかんないけど、たぶん一年生か二年生。知らない子だったけど。今、田所先生が校庭にいるよ。ふーちゃんも」
「そうなんだ。佐原くんたちは?」
「いるよ。あ、小沼くんが鼻血出して大変だった」
 言いながら、景子は思い出し笑いをした。梨佳もつられそうになるが、直前の出来事にまだ動揺していて、顔がひきつるばかりだった。
「あ、行こう、早く。大丈夫かなあ、あの子たち」
 梨佳は早足で出て行った景子の後を追った。洗面台の蛇口は締まりが甘く、水滴がぽたんぽたんと垂れていた。鏡は相変わらず曇ったままだった。開けっ放しになっていた小窓から風が吹き込んだ。
 梨佳が肩で息をしながら戻ってきた。蛇口に気づき、すぐにきつく閉めた。水滴の動きが止まった。それから「ごめんねー、あなたのこと忘れてた」と言いながら、奥の個室に向かった。個室の前に立ち、戸を手で押そうとした。しかし戸は彼女が触れる前に、ひとりでにゆっくりと開いた。梨佳は一歩後ずさった。個室は無人だった。そしてひどく汚れていた。


 中杉将太はランドセルを背負った。外はまだ日暮れ前だったが、帰らないといけない時刻だった。結局、図書委員は姿を見せなかった。将太は人のいない図書室を後にした。鍵をかけないのは不用心であるように思えたが、鍵を持っていない彼にはどうしようもなかった。
 彼は三階の廊下を歩いていた。彫刻刀を教室に忘れたことを思い出し、取りに戻っていたのだった。当然のように人っ子ひとり見かけなかった。教室には誰かが残っているかもしれないと思ったが、やはり無人だった。しかし桑原梨佳と高木景子の机にはランドセルがかけられたままだった。まだどこかで油を売っているのだろうと考えた。
 数本の彫刻刀が入ったプラスティックのケースを机から取り出し、ランドセルに突っ込んだ。不意に風が吹いた。教室前方の窓が開けっ放しになっていた。将太は窓に近寄り、そっと閉めた。ゆらめいていたカーテンが静かになった。校庭を見下ろしてみた。人の姿はなかった。
 教室を出た将太は昇降口へ向かおうとして、すぐに立ち止まった。廊下の突き当たりに設置されているダムウェイターの扉が開けっ放しになっていた。昼間、給食を運ぶときにしか使われないはずだった。将太は恐る恐る近付いていった。暗さのために何があるのかまったく見えなかったが、どうやら空っぽのようだった。覗き込むように顔を中へ入れたとき、ランドセルから彫刻刀のケースが落ちた。「あ」と声を上げた。昇降機の中に将太の声が響いた。
 手探りで見つけ出そうとしたが、奥の方へ行ってしまったのか、なかなか指先に触れなかった。将太は思い切って中に入ってみた。給食の配膳台が入るくらいの大きさなので、小柄な将太は簡単に入り込むことができた。しかし内部は非常に暗く、目を凝らしても床の様子はあまりよく把握できなかった。おぼろげには見えるのだが、ケースの所在まではわからなかった。だから将太は両手で床を撫でるようにしてケースを探した。しかし網目状の金属の感触があるばかりで、なかなか見つけられなかった。
 将太は携帯電話をランドセルから引っ張り出した。持ち込みが禁止されているため、いつもランドセルの奥に隠し持っていたのだった。しかしそのように所持している者は多く、梨佳や陽介が携帯電話を持ってきていることを将太は知っていた。電源を入れると、液晶画面のバックライトが灯った。
 彫刻刀のケースは隅の方にあった。ほっとして手を伸ばした瞬間、ブザーが鳴って、背後の扉が閉まった。慌てて振り返るが、目の前にはただ暗闇が広がっていた。やがてダムウェイターはゆっくりと下降を始めた。将太は、おそらくは一階で止まるのだろうと考えた。きっと扉は開くはずだとも考えた。
 それは気が遠くなるくらいの長い時間だった。永遠にも感じられた。リフト内部にはモーター音のようなものが響いていたが、ずっと遠いところから聞こえているように思えた。将太はなるたけ呼吸を落ち着かせて、じっとうずくまっていた。携帯電話の液晶画面が放つ白い光だけが心の拠り所だった。左手には彫刻刀のケースがあったが、何の役にも立たなかった。夏だというのにやけに冷えていた。将太は携帯電話の画面に映る時刻を見つめていた。
 やがてリフトは停止した。ブザーと共に戸が開き、足元から弱い光が差し込んだ。しかし完全には開かなかった。手を出せるくらいのわずかな空間が生まれたところで、ダムウェイターは動きを停止した。将太は両腕を外へ突き出した。そのとき何かが指先に触れた。
 両腕を出したまま、その場に身体を倒した。そしてそのわずかな空間から外を見ようとした。目の前には足があった。黒っぽいズボンを穿いていたが、不思議とその輪郭はひどく曖昧で、廊下の隅から広がり始めた暗がりに溶け込んでいるように見えた。そしてその足首を掴んでいる将太の手のひらもまた、ぼやけてしまっていた。将太は反射的に手を引き、狭いリフトの中を後ずさった。手のひらの感覚はほとんど失われていた。悲鳴を上げようとしたとき、ブザーが鳴った。今度は途中で止まることなく、戸は完全に開いた。


 部屋がまたがらんどうになった。換気のために窓を開けっ放しにしていたが、風は全く入ってきていなかった。静かな夜だった。冬実は床に並べた段ボールに横になって、扇風機を自分に向けて掲げていた。汗ばんだ肌にあたる風は涼しかったが、彼女の気分はいっこうに晴れなかった。現実から目を背けるためにただ荷造りを進めていたが、数日前に起こった出来事が彼女の脳裏から消えることはなかった。
 中杉将太の遺体を見つけたのは田所好子だった。一階の廊下に響くブザー音に不審を抱き、ダムウェイターの様子を観に行ったのだった。将太はダムウェイターの出し入れ口に引っかかっていた。ステンレスの戸はシャッターのように開放時には上部に収納されるが、ある程度の時間を置くと自動的に閉まる仕組みになっている。田所が彼を発見したとき、戸が降りては上がっている状態だった。すでに将太は息をしていなかった。口から夥しい量の出血をしており、後に舌を噛み切っていたことが明らかになった。
「もうダメかなあ」
 かすれた声でそう呟いた。冬実は梅雨明けが迫っている時期に季節外れの風邪をひいたようだった。喉に若干の痛みがあり、頭がぼやっとしていた。しかしその原因が風邪にあるのか、あるいは他にあるのか、彼女には判断できなかった。
 教育実習があと数日で終わるというところで起こった事故だった。彼女の実習は実質的には打ち切りになったようなものだった。終業式が近かったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。子どもたちの中には不安を訴える者もあったため、一時的ではあれ、学校から離れるというのはけっして悪いことではなかった。夏休みの水泳教室は何クールかに分けて行われる予定だったが、七月いっぱいは中止ということになった。
 予定では、冬実の教育実習は終業式を持って終了だった。しかし学校自体が休みとなることもあり、最後の数日は不完全な形で過ぎていった。代わりに与えられた雑務や事務をこなし、終了ということに相成った。冬実は家に戻り、大学近くのアパートへ戻る準備を始めていた。
 直接の原因がないとはいえ、受け持ったクラスの児童が事故に遭い、この世を去った。マイナスの心象を与えないわけがなかった。冬実自身はあの日、怪我をした一年生に付き添って病院まで行っていた。子どもを家へ送り届け、学校へ戻ってきたときにはすでに将太の遺体は見つかっていて、騒ぎになっていた。
 どうにかうまくこなしていたつもりだった。詰めが甘かったのだろうか。冬実は自問自答を繰り返していた。将太が放課後に図書室に残って時間をつぶしていることは知っていた。考えてみれば、あの日は図書室に行ってみる予定だった。ところが梨佳と景子に捕まってしまい、機を逸してしまった。もし自分が図書室へ行っていたらと思うと、やりきれなかった。あのときこうだったら。こうしていれば。そんなことを考える度に抱え込んだ憂鬱が大きくなっていった。
 冬実は扇風機を床に置き、押し入れへ向かった。せめて今だけでも現実から逃げていたくなったのだった。小学校や中学校の卒業アルバムを出し、ぺらぺらとページをめくっては過去に目を細めていた。集合写真で、緊張のあまりに強張った表情を浮かべている自分を見て苦笑した。昔っからこうだったんだ、わたし。
 顔を上げると、押し入れの奥が目に入った。埃をかぶった段ボールがあった。冬実はそれを手繰り寄せて、中身を確認した。懐かしいと心底思った。それは佳苗や、他の新聞部員と作った新聞だった。わら半紙で配ったものと廊下の壁に貼り出したものがあったが、段ボールの中にあったのは前者だった。
 数年の時間が経ち、紙はどれもぼろぼろになっていた。手に取るだけで崩れてしまいそうだった。すべて手書きで書かれていて、学内で起こったことや地域のニュース、あるいは各部活動の記録など、記事は多岐に渡っていた。あれを書こう、これはどうだろう、と意見を出し合うのは楽しかった。
 わら半紙の束の下に、切り抜かれた新聞記事がいくつもあった。それらはコピーで、紙の裏にメモのような書き込みがあった。
 冬実は思い出していた。佳苗と二人で猟奇的な事件に興味を持った時期があった。記事にできないものかと調べてみると、何十年か前に、この町でそういった事件があったということがわかった。図書館へ行き、当時の新聞を二人で探した。マイクロフィルムを使ったのはそのときが初めてだった。まるで自分がドラマの登場人物になった気がしたものだった。
 おもしろかったなあ、あの頃は。感慨にふけりながら、冬実は新聞記事に目を通した。かつて子どもの舌を切り取って殺害するという猟奇的な連続殺人があった。それは七件か続いたのだった。記事にもそうあった。最終的に犯人は捕まったが、自殺したはずだった。冬実は記事に目を走らせた。
『――留置場で首を吊っているところを見回りの警察官が発見した。すぐに救命の措置を施したが、およそ三十分後に死亡が確認された。仁村容疑者は七人の児童を殺害した容疑で――』
 昔はもっと無邪気にこの記事を読んだはずだった。しかし今となっては、やりきれなさが増すばかりだった。冬実は記事のコピーを畳んだ。そのとき裏にあったメモが目に入った。人名が並んでいた。おそらくは被害者だろう。何気なくその名前を追いかけた。北島依絵、佐藤修子、行長芽衣、牧野小百合、ベロニカ・オリベイラ・ヒグチ、中島衣子、結城智恵……。
 冬実は紙の束を落とした。すぐに着替えて、部屋を出た。彼女の足音が消えると、室内はまた静けさに包まれた。柔らかく吹き込んだ風に、床に落ちたわら半紙がわずかに舞った。


 どうして小学校に向かったのか、正確にはよくわからなかった。それでも間違った選択ではないと確信していた。冬実は女子便所の窓から校内に忍び込んだ。張りつめたような静寂の中、廊下に足を踏み出した。
 誘導灯の緑色の光が校内を不気味に照らしていた。廊下の先にダムウェイターが見えた。ステンレスの戸が開きっ放しになっていた。冬実は真っ直ぐに開かずの教室へ向かった。廊下はいつもよりも長く感じた。ほとんど照明のない中を歩いていたからかもしれない。
 目張りされたドアの前に立った。ガムテープに爪を立て、引き剥がそうとした。しかし冬実が触れるより早く、ガムテープは勝手に剥がれた。引き手に手をやると、戸はあっさりと横にスライドした。こもっていた空気がすえたような臭いと共に外に流れ出た。
 中はただの開き教室だった。前方には何も置かれておらず、後方には机が重ねられていた。それらは今使われているものよりも古い型だった。冬実は入ってすぐの壁にあるスイッチを入れたが、電気はつかなかった。天井を見上げると、蛍光灯は全て外されていた。
 黒板には落書きがあった。手のひらでこすっても消えなかった。チョークの粉が黒板にしみ込んでしまっているようだった。カーテンは広げられていて、いたるところを釘で壁に打ちつけてあった。室内を覆い隠そうとしているように見えた。
 他には何もなかった。わたしはいったい何をしているんだろう。自己嫌悪に陥りながら、冬実は教室を出ようとした。赤い服を着た少女がそこに立っていた。冬実は「ベロニカ」と口にした。呼びかけたのか、呟いたのか、どちらだったのかは定かではなかった。ベロニカは悲しそうに冬実を見ていた。少し癖のある髪の毛が揺れていた。彼女はゆっくりと片手を上げ、室内を指差した。
 冬実は背後に目をやって、そのままの姿勢で目を閉じた。頬に風があたった。冷たい風だった。それは廊下からのものではなかった。室内を見渡し、風の出所を探った。じっくりと凝視すれば、それはすぐにわかるものだった。床のタイルの色合いが明らかに異なっている箇所があった。冬実はしゃがみ込んで、タイルを剥がした。あっさりと階段が姿を見せた。冬実はそれを覗きこんだ。穴の暗さは途方もないものに感じられた。冬実が顔を上げると、ベロニカの顔が目の前にあった。彼女は首を振った。行ってはいけない、そう言っているようだった。
「ありがとう。でも行かなくちゃならないの。わかるでしょ?」
 ベロニカは駄々っ子のようになおも首を振った。冬実は「ごめんね」と言った。それからまた穴を覗き込んだ。壁に沿って梯子が続いていたので、降りることは可能だった。顔を上げたとき、ベロニカの姿はもうなかった。冬実は梯子に足をかけた。鉄製の梯子を踏む音がやけに大きく響いた。終わりは想像していたよりも早く訪れた。冬実の靴が床に触れた。
 降りたところは真っ暗だった。懐中電灯を持ってくればよかったと後悔したが、今更取りに戻るつもりはなかった。携帯電話の液晶画面を掲げた。バックライトの人工的な光がその通路を照らした。廊下だった。真っ直ぐ行った先に部屋があった。他には何も見えなかった。
 足を進める度に床がみしみしと軋んだ。床は板張りになっていて、ところどころ割れているか外れてしまっていた。手で壁に触れると、漆喰がぼろぼろと崩れた。校舎の壁材や床材とは明らかに異なっていて、おそらくはもっと昔に作られたのだろうと冬実は考えた。というよりも、この場所を塞ぐために校舎が作られたのではないかとさえ思った。校舎の下にこのような空間があることはいびつに感じられた。冬実は身体を屈めながら、恐る恐る廊下を歩いた。
 開きっ放しになっていた扉も木製だった。床板はところどころ剥がれていて、湿った土が露出していた。そこは十畳ほどの部屋だった。暗いために詳しくはわからなかったが、誰かが生活をしていた痕跡があった。冬実はバックライトで目の前を照らしながら、様子を探った。扉から見て右側の壁に沿うようにして寝台と机、椅子が設置されていた。正面には大小の本棚があり、小さい方の棚の上には蓄音器が置かれていた。床にはレコードが積み上がっている。
 机にはノートがあり、どの頁も茶色く変色していた。触れるだけで崩れてしまいそうなくらい劣化していたので、中身を確かめることはしなかった。他には小さな箱があった。中にはビー玉やパチンコ、小型のナイフが入っていた。ナイフの刃は錆びついていて、使い物にならなそうだった。フォトフレームも置かれていたが、写真は入っていなかった。引き出しを開けると、空っぽの小瓶がいくつか入っていた。小瓶には茶色い汚れがこびりついていた。
 壁の広範囲に茶色の塗料が塗られていた。極めて乱雑な塗られ方で、ペンキをぶちまけただけのようにも見えた。壁を目で辿っていくと、別の部屋への通り道を見つけた。その前に透明のビニールが暖簾のように垂れ下がっていた。冬実はビニールシートをめくりあげ、扉を開いた。中は酢のような匂いが立ち込めていた。冬実は鼻を押さえ、足を進めた。そこは三畳くらいの小部屋で、桟から桟へロープが張り巡らされており、洗濯挟みで固定されたいくつもの紙切れが整然とぶら下げられていた。冬実は近くの紙を手に取った。それは写真だった。液晶画面を近づけて、映されているものを見た。口元から血を流した少女だった。白黒の写真ではあったが、口から流れているのが血であることは明らかだった。
 冬実は吊るされている写真を取っては投げ捨てた。どれも同じような構図で、少女の顔が映されていた。彼女たちは一様に口から血を流していて、中には大きく口を開けさせられている少女もいた。その娘には舌がないように見えた。
 冬実の記憶がうずいていた。映画を観たのだった。頭のいい殺人鬼が出てくる映画の影響を受けて、猟奇殺人事件に興味を持った。そのとき知った、二人が住んでいる町で過去にあった陰惨な事件のことを調べ、二人だけで新聞を作った。ある朝、完成したものを廊下に貼り出した。しかし昼休みになる頃には剥がされていて、二人は指導室に呼ばれてこっぴどく叱られた。当時、どうして叱られなければならなかったのか、まったくわからなかった。しかし今ならわかる気がした。誰だって、隠したいに決まっている。それに犯人は留置場で自殺したことになっていたけれど、もしかしたら――。
 背後から音が聞こえた。冬実は振り返り、暗室を出た。元の広い部屋に戻り、机からナイフが落ちているのを見つけた。それを拾い上げたとき、風を感じた。地下だというのにどこから吹いてきているのだろう。冬実は廊下を見た。隙間風が入るわけがなかった。そのまま彼女の視線は室内をめぐった。暗室へのドアがあり、本棚が並んでいる。そこには古い漫画ばかりが並べられていた。机と椅子はせめて中学生くらいまでしか使えないような大きさだった。机の上の小箱が倒れていて、中にあったビー玉が床に転がった。ビー玉は寝台の下を通り、廊下へと転がっていった。冬実の視線もその軌跡を追った。
 傾斜があるわけでもないのに、ビー玉は廊下を真っ直ぐに転がっていった。廊下の先には男が立っていて、ビー玉はその足元で動きを止めた。黒っぽい服装で、輪郭はやけにぼんやりとしていた。男はゆっくりと近づいてきた。膝をまったく曲げずに、揺れるように歩いているように見えた。
 冬実はしゃがみ込んで、顔を背けた。見てはいけないと直感した。そして男が死んだはずの人間であることも瞬時にわかった。死んだ人間だ、すぐに消えてくれるだろう。そう願った。冬実が男から顔を背け、目を閉じている間、耳は音を拒絶していた。唯一自分の鼓動だけを感じていた。
 どれくらいの時間が経ったのかわからなかった。心臓の高鳴りは収まりつつあり、周囲が完全な静寂に近づく中、冬実は顔を上げた。男の顔が目の前にあった。その顔はピントがずれたようにぼけて歪んでいた。しかし不思議と笑っていることだけははっきりとわかった。冬実は悲鳴を上げることさえもできなかった。ひっと息を飲んだとき、舌の上下に歯が当たるのを確かに感じた。そのまま冬実は仰向けに倒れた。口から血液が溢れ出した。
 冬実の手から落ちた携帯電話が床に転がった。液晶画面のバックライトはすぐに消え、室内に暗闇が戻った。床を踏む足音が室内から廊下へゆっくりと遠ざかっていった。
 不意にバックライトが点灯し、携帯電話が震え始めた。画面には手島佳苗の四文字と電話番号が表示されていた。携帯電話は震動しながら床を這い回っていたが、やがて静かになった。


 桑原梨佳はプールから上がり、プールサイドをぶらぶらと歩いていた。八月も後半に入って、ようやく行われた水泳教室の日だった。二十分ほどの自由時間、梨佳は仰向けになって水面に浮いていた。しかし誰かが水面を叩いて飛んだ水しぶきが顔にかかり、かちんときてプールを出たのだった。誰がやったのかわからなかったから、余計に腹が立った。
 金網にもたれかかった。真夏の太陽に熱せられたコンクリートに座っているのは耐えられそうもなかったし、肌に砂や細かなアスファルト片が付くのが嫌だった。プールの様子を見ていたが、興味をそそられるものは何一つなく、退屈だった。くるりと身を翻し、金網に寄りかかって校庭を眺めた。
 夏休みの間は、日中は校庭が開放されていた。しかし人の姿は見えなかった。この暑さだから、外で遊ぼうなんて思わないんだろう。梨佳はそう考えた。当然のことであるように思われた。無人の校庭を見つめていた。
 出し抜けに肩を叩かれた。振り返ると、高木景子の顔があった。景子は梨佳の真横に腰を下ろし、彼女を見上げて「何やってんの?」と訊いた。梨佳は視線を元に戻し、一言「別に」と答えた。
 景子はぴょこんと立ち上がり、金網にもたれかかった。梨佳の顔を覗き込み、顔色を伺った。梨佳は彼女の視線を振り払うように手のひらで遮った。景子はその手を取り、「元気ないよね」と言った。そしてまたその場にしゃがみ込んだ。
「そんなことないよ」
「そう? 梨佳だけじゃないけど、皆元気ないよ」
「景子も?」
「まあね」
「見えないけどね」
「うるさいよ」
 景子は立ち上がって水泳帽をかぶり直し、プールへと戻っていった。プールサイドから勢いよく飛び込んで、近くにいた男子から文句を言われていた。
 梨佳は校舎を見上げた。夏休みということもあり、窓から見える校舎の中はほとんど無人であるように感じられた。廊下や教室が目に入るが、人影はない。ふと、いったいわたしは何を探しているんだろうと考えた。中杉将太か遠山冬実か、あるいはあの日たしかに隣の個室にいたはずの女の子だろうか。梨佳はまた身体を反転させ、金網にもたれかかったままずるずると腰を落とした。尻が焼けつくようなアスファルトに触れたとき、「全然わからない……」と呟いた。
 大きく息を吐いた。それから立ち上がってプールに近寄り、足だけを水につけた。近くにいた景子へ、手で水をすくってかけた。いきなりのことに咽る景子に笑顔を向けていると、むっとしたような顔で景子も水をかけてきた。
 梨佳はそれをかわすようにして立ち上がり、プールサイドのアスファルトに横になった。ごつごつとしていて、居心地は悪かった。それでも構わず横になっていた。目線の先では真っ白い太陽が輝いていた。が、すぐに視界は遮られた。
 ビート板だった。水色のビート板が梨佳の顔面に落ちてきたのだった。梨佳はすぐに身体を起こした。プールサイドを走っている佐原健二と小沼陽介が目に入った。教師の怒鳴り声が飛んでいた。梨佳はビート板を二人の背中に向けて投げつけた。


 強い風が吹いて、砂場の土が煙のように舞った。中杉将太は思わず顔を背けた。彼は鉄棒にぶら下がるようにしてしゃがんでいた。軽く尻を浮かせながら、遠山冬実を見つめていた。
 ベロニカは体育倉庫の脇に隠れるように座っていた。顔を膝の間に埋めて、小さな身体をことさら丸めていた。冬実はそんな少女にゆっくりと近づいた。足音が聞こえたのか、ベロニカは顔を上げた。
 ごめんなさい。
 舌のない口で、そう言った。冬実はベロニカの対面に座り、彼女の栗色の髪を撫でた。彼女の手が触れた瞬間、ベロニカは肩をびくんと震わせた。
 わたし――。
 いいよ、別に。わたしは自分で選んだんだから。
 声を発しているわけではなかった。ただ視線を交わしているだけだったが、冬実にはベロニカが言いたいことがわかったし、ベロニカもまたそうだった。
 でも。
 それに、やっとまた遊べるよね。
 冬実はにっと笑った。そこに舌がないのを見て、ベロニカはまた悲しそうな顔をした。そんな彼女を冬実は静かに抱きかかえた。ベロニカの顔は冬実の胸に埋まり、やがて肩が小刻みに震え始めた。冬実は何も言わずにしばらくそのままの姿勢でいた。
 不意にベロニカは冬実から離れ、彼女を見上げた。その顔は涙で歪んでいた。
 どうしたの?
 わたし、さかあがりしたい、先生。
 ベロニカは目じりを手で拭きながら、そう言った。冬実は頷いた。立ち上がってベロニカの手を取り、鉄棒へ向かって歩き始めた。ベロニカは冬実の後ろに隠れるようにしていた。
 鉄棒によじ登っていた将太が小さく手をふると、ベロニカははにかむようにして手を振り返した。

(了)

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