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おんなの花道

 もうずいぶんと長いことおまえは死んだままだった。眠ったままだった。というのはもちろん比喩で、肉体が死んでいたり眠っていたりしているわけではないのだけれど、夜明けを全身で感じているおまえは今やっと蘇ったのだろう。
 おまえ自身の日常はつつがなく進行していたといっても差し支えない。お前を社会へ振り分ける記号はフリーターだ。それが社会的な地位として広く認知されているかどうかはともかく、おまえはフリーターとして、新大久保駅の改札を抜けた先にあるファミリーマートのレジに立つ。客を待つ。おまえはそうして日中を過ごす。二十五歳の誕生日も、そうして過ごすだろう。
 誕生日は毎年欠かすのことなく冬の始まりにやってくる。去年も一昨年も石黒富利夫と共に過ごした。富利夫の部屋で、ケーキを食べた。ほろ苦いチョコレートケーキ。富利夫はヤマハのアコースティックギターで『ハッピーバースデー』とレディオヘッドの『イグジット・ミュージック』を弾いた。その富利夫は、今はいない。富利夫の部屋には、おまえだけがいる。
 目覚めたおまえはまだ電球を眺めている。もうそろそろ変えなければと考える。家賃は富利夫が置いていった。世界中を見て回って飽きたら帰ってくると言い残し、デジカメ一台とたいして大きくもないリュックサックだけを持ち、ウィーザーのツアーTシャツと穴の開いたジーンズを着て、下駄を履いて出て行く。その夜、おまえは野垂れ死ねばいいんだと念を送りながら、彼の残り香が染み付いている布団で眠る。朝になってようやく、家賃や光熱費用の金が入った封筒があるのを知った。大量の紙幣と共に、便箋が一枚入れられている。『ケセラセラ。明日は明日の風が吹く。フリオ』。おまえはその紙をすぐに破り捨てた。数週間後、自分のアパートに戻っていたおまえの元に電話がかかってくる。電話の主は富利夫のアパートの大家だ。「家賃、どうしようか」。お前は仕方なく自分のアパートを引き払い、富利夫のアパートに、東中野にあるY荘という築数十年の汚らしいアパートに引っ越す。しかしそこは雰囲気が汚らしいだけで、何年か前に建て直されたらしく、内装はさほど汚れていない。
 富利夫は帰ってこない。おまえは富利夫の部屋に残されている、乱雑に置かれたままになっているものを勝手に利用している。それはノートパソコンであったりコンポであったりプレイステーション2だ。CDと本とDVDばかりの、散らかった部屋は徐々に整えられていく。おまえが生活しているからだ。富利夫の生活臭をおまえが散らす。カーテンの色は淡い水色になり、壁に貼られていた『時計仕掛けのオレンジ』のポスターは同サイズの世界地図になり、床に敷き詰めるように散らばっていたCDや本は木製の本棚やプラスティックの収納ボックスにしまわれた。洗面台の棚にはジェルやシェービングフォーム、二日酔い用の鎮痛薬が置かれていたが、今では乳液や化粧水やクレンジングオイルなどが並べられ、鎮痛薬は今、二日酔いのためではなく、生理痛のために用いられる予定だ。というのもここ数ヶ月は一度も生理痛に悩まされてはいないからだが、いつかは役に立つと確信している。それら、すべておまえのものだ。
 おまえは今、ようやく起き上がる。大きく伸びをする。富利夫が残していった、おまえの身体に対して明らかに大きなサイズのシャツを、おまえは着ている。そして下着だけをつけている。立ち上がって、また大きく伸びをした。おまえは床に転がっていたテレビのリモコンを拾い上げ、テレビのスイッチをつける。NHKの朝の連続テレビ小説が映る。毎朝見ているわけではないから話の流れはまったくわからない。おまえは冷蔵庫を開け、牛乳のパックをつかむ。そのまま口をつける。そのときコンポのタイマーが作動し、エリオット・スミスの『XO』が一曲目から流れる。おまえは一瞬動きを止める。富利夫の弾き語りがオーバーラップする。
 おまえはそこでやっと目を覚ます。しかし死んだままだ。牛乳をしまい、シャツと下着を脱ぎながら風呂場へ向かう。シャワーを浴びる。その熱が覚醒の度合いを強める。しかしおまえは死んだままだ。おまえは脱ぎ捨てた衣類を洗濯機に突っ込んで、スイッチを押す。それから、冷蔵庫から取り出したリゾットをレンジで温める。昨夜、帰宅途中で買ったものだった。きのこのリゾット。おまえのファミリーマートではなく、帰り道にあるサンクスで買ったものだ。生活の音が聞こえ始める。その中央に死人同然のおまえがいて、おまえを取り囲む円から大きく外れたところに富利夫がいる。その姿はおまえには見えない。はるか遠いところに富利夫はいる。半月ほど前に届いたエアメールの中では、富利夫はメキシコシティーにいる。しかし今はきっといない。ただ、おまえは絶望しない。どこかにいる、と確信しているおまえは絶望しない。
 洗濯物を干し、リゾットが盛られていたプラスティックの容器を分別し、昨夜のうちから手付かずだった洗い物を終えたおまえはそこでやっと服を着始める。下着姿だったおまえの肢体が布きれで隠れていく。それと並行するように、化粧を始める。おまえはまるで武装しているようだ。おまえが眉を描くのは、ナミビアの少年兵がライフルに『LOVE=HATE』と落書きをする行為と似ている。おまえはワールドワイドラブ!のトートバッグに500ミリリットルサイズのペットボトルや財布、ポーチを入れる。トートバッグの表側には『FREEDOM NOW』と描かれている。それは富利夫に買ってもらったバッグだった。
 おまえは家を出る。鍵をかける。アパートの敷地であるそれなりに大きな庭に植えられた植物に水をやっている大家と会う。軽く会釈をして、おまえはアパートの敷地から外へ出る。それは生まれ育った日本から外へ出た富利夫の行動の追体験を意味している。初夏の熱を吸い込んだアスファルトに水色のジャックパーセルを履いたおまえの左足が触れたとき、ようやくこの物語が始まる。イントロダクションは終わり、ここより物語が始まる。それはおまえの物語だ。地球上に唯一人存在しているおまえの物語だ。誰でもないおれが物語る、おまえの再生の物語だ。


 最初に言っておくが、どうしておまえがおれとセックスをする気になったのか、おれは知らない。


 金は、あるにはあるが、節約するにこしたことはない。おまえは電球ひとつを買うために、新宿西口のさくらやへ向かう。自転車に跨って、歩く人を追い越していく。しかしスピードは出ていない。歩行者は追い越せるが、自転車には追い越される。のろのろと亀のような進み。おまえは急いでいない。電球を買ってからのことを考える。新宿のTSUTAYAで何かDVDでも借りようかと考える。
 小便横丁の入り口に自転車を止めた。おまえが乗っている自転車は富利夫のものだ。錆だらけの、群青色の自転車。汚らしさが、その一角の風景によく似合った。ワット数をメモした紙を店員に見せる。感情がほとんど感じられない大声におまえは辟易する。平日だというのに、人の姿が多い。いつもこうだ。「あ、これでどうでしょう」と声をかけられたとき、おまえの視界から色が抜け落ちる。クーラーが異常に強くかかっている店内だった。「はい」とおまえは言う。「それでいいです」。室内が明るくなれば、どうでもよかったのだ。おまえは手渡された電球を買い、トートバッグにしまう。
 おまえは自転車を押す。身体ひとつであったなら、すぐそばにある歩行者専用のトンネルを通って東口に出ていたところだった。しかし自転車を押していては邪魔になると思い、大ガード下から靖国通りに抜ける。秋の緩い陽射しの下、視界はモノクロームのままだ。
 信号待ちをしている間、おまえはカバンから取り出したペットボトルに口をつける。冷凍庫で凍らせておいたもので、半分も溶けていない。わずかな量のお茶が喉から体内へ染み込んでいく。やけに喉が渇いていたのだった。あのさくらやの店員はあんなにも大声を出していたけれど、喉は渇かないのかな。信号が変わると、静止していた風景が走り始める。絵画から映像へ至る技術発展の歴史の縮図がその一瞬広がり、消える。動き出した人並みにまぎれるように、おまえも続く。風景に飲み込まれたおまえは有象無象の人間のひとりになり、世界で唯一の三島エリカではなくなる。わたしはだれだ。わからなくなる。無声の新宿を、自転車を押しながら歩いているわたしはだれだ。
 TSUTAYAの中に入ると、すぐに音があふれた。サイレントからトーキーへ。おまえは思い返す。富利夫との会話を。そのとき現れ、消えていった言葉たちを。おまえはデヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』を手に取る。TSUTAYA新宿東口店にはデヴィッド・リンチが特集されている一角があり、『イレイザーヘッド』や『ブルー・ベルベット』と並んで、比較的新しい『ストレイト・ストーリー』や『ロスト・ハイウェイ』が置かれている。「結局リンチはさ……」、おまえは富利夫の言葉を思い出そうとするが、「結局リンチはさ……」の続きは完全に抜け落ちてしまっている。ねえ、富利夫、リンチがどうしたの? おまえは『ロスト・ハイウェイ』のDVDを手にしたまま、特集コーナーの真後ろの壁に貼られているデヴィッド・リンチの大きな顔写真をしばらく眺めている。
 他に二本のDVDをソフトケースから引っ張り出し、店の入り口や陳列棚の始点あるいは終点に重ねられているプラスティック製の安っぽいおもちゃのようなカゴに放り込んだ。ついでにCDも三枚、ソニック・ユースの『デイドリーム・ネイション』とピクシーズの『サーファー・ローザ』、そして『トレインスポッティング』のサウンドトラックを選び出す。透明のプラスティックケースがかちゃかちゃと溺れているような音を立てる。おまえはカウンターに行く。磁気カードの会員証を手渡す。カウンターを挟んだ向こうではわたしの個人情報がさらされている。日本円に換算したら、きっと五万円くらいにはなる個人情報、でもそれは、このレンタルビデオ店に保存されているわたしは、正確にいえば、富利夫の履歴に他ならない。わたしは富利夫の思索を追っているだけなのだから。わたしは富利夫の記憶、思考の過程を追っている。同じものに触れながら。ひとつ知るたびに血液の色が濃くなるのを感じる。富利夫の血がわたしに混ざるの。
 金を払って店を出る。すると声をかけられる。聞いたことのない声。店員。TSUTAYAのコスチューム。社会の役割を振り分ける衣服。胸のプレートには河本武士という名前が書かれている。おまえに声をかけた河本武士は青いビニール製のパックを渡す。中にはDVDが三本、CDが三枚入っている。『ロスト・ハイウェイ』、『バグダッド・カフェ』、『ルル・オン・ザ・ブリッジ』、『デイドリーム・ネイション』、『サーファー・ローザ』、『トレインスポッティング オリジナルサウンドトラック』。おまえが借りたものだ。「忘れ物ですよ」。にこやかな顔。「肝心なの忘れちゃってますよ」。河本武士は笑う。嫌味な笑いではない。ただくすくすと笑っている。おまえは「ありがとうございます」と頭を下げるが、すぐにつられたように顔を崩して、「私、バカみたい」と呟いた。
「いや、でも、けっこう多いすっよ」
「え?」
「いや、金だけ払って、ビデオ受け取んない人。そういう人って、だいたいおつり受け取ったところで満足しちゃうんですよ、おれが思うに。でも、お客さんみたいにぴったり払ってる人は珍しいかもしれないっぽい感じっすね」
「あ、えっと……ごめんなさい」
「いやいや、全然いいっすよ。むしろ大歓迎っすよ。おれはこうして外の空気吸えるわけですから」
 河本武士はおおげさな身振りで深呼吸をする。新宿の空気。それを武士は大きく吸い込む。すると初めてタバコを吸った中学生のように咳き込んでしまう。真夏の残り香、けだるさが酸素をいぶしている。
「三島です」
「え?」
「いや、わたしだけ河本さんの名前知ってるのってフェアじゃないじゃないですか」
 おまえは武士の名札を指差す。「ああ」、武士が納得したように、しかしイエスともノーともつかぬ声を漏らす。そしてすぐににやつく。「いや、でも、おれ知ってるし」、と。
「え? 何で?」
「だっておれ店員だし。会員証受け取ってますから。えっと『ロスト・ハイウェイ』と『バグダッド・カフェ』と、あと何だっけ。まあ、前借りたものの履歴までは見れないから安心してくださいよ」
「はあ……」
「でも、あれわかんないっすよねえ。『バグダッド・カフェ』って」
「いや、まだ見てないから」
「あ、そっか。そりゃそうだ」
「……けっこう映画見るんですか?」
「え? ああ。見るよ。好きだし」
 汗が、一筋の汗がおまえのこめかみから頬へ、そして顎へ垂れる。それが合図になったのか、はっという表情をした武士は「やべえ、店戻んねえと」と不愉快そうな顔でいう。その顔がたまらなくおかしく、おまえは吹き出しながら「嫌なんですか」と訊ねる。
「嫌ってほど嫌じゃねえけど、三島さんと話してる方が楽しいし」
「じゃあ残念ですね」
「そう残念です。ねえ、また来てよ」
「来るよ。来ます。だってこれ返さないといけないじゃないですか。河本さんに会いに来るわけじゃないけど」
「それは残念」
 おまえは店に戻る武士を見送る。武士が白黒の視界の中に、明らかな異物として存在していることに気づく。武士の短い金髪が真昼のひまわりのようにきらきらと輝いているように見える。おまえは手をかざす。しかしその光は消えなかっただろう。きっと、消えなかっただろう。


 富利夫の部屋に引っ越してから数日、毎朝届けられる新聞と広告の束にうんざりしていた。今ではもう慣れている。新聞四紙が無造作に突っ込まれる朝。おまえはそれらに目を通さず、一週間に一度、紐で縛って捨てていた。紙の無駄だ。そんなことを考えている。解約しようとも思ったが、富利夫の痕跡を消してしまうのは嫌だった。全身がそれを拒絶している。
 ある日おまえは新聞紙の束の中で溺れている手紙を発見する。再生紙のようにざらついたエアメールで、宛名はおまえ、住所は富利夫のアパート、おまえはそれをすぐにひっくり返す。差出人の名前がある。フリオ・イシグロ、そう書かれていた、石黒富利夫。おまえはその名を噛み締める。富利夫の不在が始まった日から、二十日ほどが経過していた。一日に一度は机に置きっぱなしになっていたノートパソコンを開いてはメールのチェックをしていたが、何の連絡もなかったのだった。富利夫が連絡をくれるとしたら、メールであると思っていた。富利夫はフリーメールのアカウントを持っていた。ネットカフェの一軒でもあれば、いつだって連絡はできる。しかし受信しているのはスパムばかりであった。うんざりだ。期待に膨らんだ胸はいつだって消化不良を起こす。
 おまえはソファーに座る。文庫本を一回り大きくしたくらいのサイズの封筒。乱雑な文字で、おまえがいる部屋の住所が記されている。唾を飲んだ。ゆっくりと。そしてすぐに封筒上部一センチくらいを破る。中には便箋が入っている。封筒と同じように、再生紙のようにざらついている。文字は青い。文面はこんな風に始められていた、「エリカ、元気か」。
「元気だよ……元気じゃないよ」
 アルファベットで綴られた住所とは違い、便箋に刻まれた日本語の文字は本来の富利夫の筆跡そのままで、すこぶる力強いものであった。意思。確固たる想いが文字に込められている。しかし文章の始点は「エリカ、元気か」だった。その一文で始まる文章がやけに嬉しく思える。真っ先にわたしの名前がある。その事実がおまえの孤独を多少なりとも埋める。
「うん、元気」
 他には誰もいない部屋の中で、おまえの声が響く。それは朝だった。雨音がしていた、憂鬱であったはずの朝。せっかくの休みだというのに、雨だなんて。しかしその雨音も、おまえの耳元で囁かれる富利夫の声にかき消される。「エリカ、元気か」。懐かしい声が聞こえた。たった数週間の不在であるというのに、膨大な時間が経過してしまっているように思えた。だからつぶやいた。
「わたしは元気だよ」
 声がかすれる。おまえは牛乳を飲む。真っ白く、いささかの汚れもない色。コップに注いでいた分を飲み干す。冷たさが全身に浸透する。熱くなり始めていた身体に落ち着きが戻る。おまえは便箋に紡がれている言葉に戻る。「エリカ、元気か。おれは今、レイキャビクにいる。北の果てだ。ここは寒くて、夜が長い。一日のほとんどが夜だ。おまえの体温を思い出してしまうよ。おまえは元気か。おれはまだ大丈夫だ。ここに来る前に、グラスゴーへ行った。そこでギターを一本買った。ただのアコギだ。七〇ポンドくらいだった。おれが背負っていたカバンを憶えているか。あれが壊れたんだ。だからおれは今、ギターのケースにすべてを詰め込んでいる。おれはエル・マリアッチだ」。
「ばか」
 おまえは姿勢を崩す。ソファーに横になり、仰向けに寝転がる。富利夫の手紙はまだ続いている。「この手紙が届く頃には、おれはレイキャビクにはいないだろう。一度グラスゴーに戻ろうと思う。それから、どこだろうな。まだ決めていない。エリカ、また手紙を書くよ、きっと。おまえが元気でいることを祈っている。石黒富利夫。アゥグストの便箋とギーザのペンを借りて。」。読み終え、もう一度頭から読み始める。短い文章。もう一枚の紙には絵が描かれている。鉛筆による簡単なスケッチ。家々が連なる太い道の風景。乾いた冷たさが見える。きっと一〇分やそこらで書きえ上げたものだろう。おまえは思い出す。富利夫は手先が器用な男だ。例えば二人でファミレスで夕食を食べた夜のことだ。おまえが手洗いで化粧を直していたわずかな時間を使って、富利夫は紙ナプキンに油性マジックで絵を書いた。レジに河童が立っている、という奇天烈な落書きだった。きっとこの風景もそのようなものなのだろう。もらった便箋があまったから、なんていう理由に違いないのだ。だからおまえは笑う、おまえは絶望しない。よく見ると、家の窓からこちらを覗いている顔があった。表情まではわからない。しかし、ねえ、これってわたしの様子を窺っている富利夫、あなたかな、とおまえは思う。


「あたし何をしてんの」
「あたしどこへ行けばいいの」
「あたしどうしたらいいの」
 おもちゃの鍵盤を叩いているおまえはひとりじゃない。曖昧なメロディーは即興で作った。「あたし何をしてんの」、「あたしどこへ行けばいいの」、「あたしどうしたらいいの」。安っぽい音が出ている。子供用の、ピンク色の小さなピアノ。
「何それ。ゴダール?」
 武士が訊ねる。テーブルの下に投げ出されていた『Chou Chou』をつまらなそうに眺めていた。おまえは鍵盤をたたく。弱々しく曖昧なメロディーが吐き出される。武士は視線を誌面に落としたまま、「何それ」と同じ言葉を繰り返す。「ねえ、何それ」。おまえは答えない。
「ゴダールだよね。ほら、キチガイピエロ」
 おまえはゴダールの映画を知らない。『勝手にしやがれ』も『気狂いピエロ』も『アルファビル』も見たことがない。何を言われているのか、理解できないでいる。だから無視を決め込んで、鍵盤を叩き続ける。外を走る車の音にかき消されないように。
 河本武士との関係をおまえは何とも思っていない。武士がどう思っているのかは知らぬが、おまえ自身はどうとも思っていない。ただCDやDVDを代理で借りてくれるのが大助かりだっただけだ。店員というのは便利だ。おまえが欲しているのものは大抵が古いものだった。なぜなら今は日本にいない富利夫が触れたものばかりを選んでいたからだ。だから武士も簡単に持ち出せた。
「ゴダールだろ、それ」
 やはり視線を移さず、富利夫はつぶやく。今度はおまえに問いかけるのではなく、自分自身に言い聞かせるように。おまえは一際大きな音を鳴らして、演奏を止める。演奏といっても、ただ音を出しているだけに近い、未熟なものだった。しかしおまえは満足している。
「あたし何をしてんの、あたしどこへ行けばいいの、あたしどうしたらいいの。やっぱゴダールだ。おれ、ゴダール嫌いなんだよ」
「私、ゴダールって知らない」
「そうなの? じゃあ、今度持ってきてやるよ」
「え? うん、いいよ」
「あ、いいんだ。いや、いいんなら、いいんだけど。つまんねえしな、ゴダール」
 夏の終りはまだ先のようだった。身体が汗ばんでいた。九月に入って一週間以上が経過したが、いまだに猛烈な熱気が東京を覆っていた。薄暗い室内で、タンクトップから生えている両腕が油を塗られたように光っていた。額に触れると、指先に汗がこびりついた。武士は上半身裸でいる。「暑いんだからしょうがないんだよ」などと言いながら、脱いでしまったのだ。これだから勘違いされるのかな。おまえが思い出すのは四日前のおまえだ。アルバイトの帰り、自転車で新宿まで行ったのだった。
 四日前のおまえはTSUTAYAに借りていたものを返し、新たに借りることはなく、紀伊国屋書店に寄ろうと、裏手に回って自転車を止める。エレベーターを待つが、人が溜まるばかりで一向にやってこなかったので、諦めて階段を利用する。狭い階段だ。サイン会の張り紙や紀伊国屋ホールでの公演のポスターが貼られている。一度は目に入れるが、記憶には残らない。おまえは建築関連の書籍が置かれている階をうろつく。買いたいものはない。ただ写真集や絵画集を手に取ってページをめくり、それだけで満足する。一冊だけ気に入った本を見つける。それは世界各国の民家の写真を集めたものだ。おまえはその写真を見ながら、富利夫の姿を当てはめようとする。すると不意に肩を叩かれる。振り返ると、女の子が立っている。不安げな表情を浮かべ、しかしきっとおまえを見つめている。おまえよりも背が低いから、少しだけ上目遣いになる。大きく丸い瞳は片方だけが青くなっている。カラーコンタクトだ。おまえはそう考える。
「あの」
 それは想像していたよりもずっとずっと低い声だ。しかし四日前のおまえも同じように何も言わない。おまえは言葉では答えず、ただ見つめることによって、その先を促す。
「河本武士って知ってますよね」
「え?」
 意外な名前だなとおまえは思う。だから「え?」という吐息のような問いかけを漏らしてしまう。
「知ってますよね。そこのTSUTAYAでバイトしてるんですけど」
 声は強い。しかしその強さには同じくらいのもろさがある。強度がにひびが入っている。なにやら店内の注目を集め始めていたので、おまえたちは紀伊国屋書店を出る。すぐ近くのファーストキッチンに陣取る。たまに利用する店だ。おまえはウーロン茶、女の子はアイスティーをテーブルに置く。しかしおまえたちはにらみ合い、ドリンクを手にしない。沈黙に彩られた時間が続く。
 喉が渇く。
 おまえがストローを口にする。
「むかつくじゃないですか」
 それをきっかけにしたように、女の子が口を開く。諦めが含まれているようなものの言い方。おまえをじっと見ている。おまえは視線と言葉を受け流すように平然を装い、ウーロン茶を、やたら水っぽいウーロン茶を喉の奥に流し込む。氷が溶けたのか、それとも水で薄めているのか、おまえには判断ができない。見ず知らずの女の子にじっと見られている状況は奇妙だ。歓談にふける若者たちが周囲にあふれかえっている。だが、おまえは女の子の名前も正体も知らない。何も知らない。
 しかし、おれは女の子の名前を知っている。
 女の子の名前は吉本結花だ。おれは結花の名前を知っている。結花のイニシャルがY・Yであることも、それ故にいーちゃんと呼ばれていることも知っている。YYちゃん。しかしその呼び名は、今は決して使われない。
「何が?」
 声帯をしっかりと固定する。決して声が震えないように。
「あなたも武士もマジでむかつくんですよ。なんかほんと信じらんないくらい」
「ねえ、言ってること全然わかんないんだけど。ていうか、誰?」
 結花はにこやかだったが、本心からの笑顔でないことはおまえにもよくわかる。「吉本です。吉本結花」と名乗っったときも、その表情は崩れない。「わたし、三島エリカ」、おまえはゆっくりとそう答える。自分に言い聞かせるようにゆっくりと。いつか思った、通りを歩く人間と同化したわたしは誰だ、という疑問を押し込めるようにゆっくりと。
 わたしはだれだ。
「三島エリカさん。たぶん年上ですよね、わたし二十一なんですけど」
「二十四」
「あ、だいぶ上ですね。武士何歳か知ってます?」
「知らないけど。ていうか、あの人と別に何もないんだけど。年も知らないし、住んでるとこだって」
「二十四です。同い年じゃないですか。彼、代々木上原に住んでて」
「どうでもいいよ」
 おまえは余裕を装う。年上の懐の深さを見せようと思う。しかし、言葉が速い。結花の言葉の速度は極めて速く、おまえの頭の中での処理がときおり遅れる。浮気を疑い責められるのかと思っていたが、そうではないようだ。おまえは考える。わたしならどう思う? 富利夫が他の女と楽しそうにしていたら、わたしならどう思う?
 どう思う?
「わたし、見ちゃったんですよ。武士と三島さんが仲良さそうに歩いてるところ」
「はあ」
「お、これは、って思って、で、何か、追っかけようかと思ったんだけど、そんなに暇なわけじゃないじゃないですか」
「いや、それは知らないけど」
「暇じゃないんですよ。でも、これはいい機会かなって思ったんですよ」
「いい機会?」
 おまえはウーロン茶を飲もうとするが、残りはすでに細かく砕かれた氷とその間に入り込んでいるわずかなものとなっていた。ずるずると鼻水をすすっているような感触を抱き、おまえはストローから口を放す。
「ぶっちゃけ別れようかと思ってたんですよ。あんまり好きじゃないし」
「そうなんだ」
 結花はドリンクに触れない。身を乗り出すようにテーブルに両肘をつき、おまえを見ている。見据えている。背はおまえよりも低い。しかしどこか高圧的だ。
「でも、今のままじゃ、三島さんに取られたっぽくなるじゃないですか、感覚的に」
「いや、だから、わたしは河本さんとは関係ないの」
「関係あるなしじゃないんですよ。気持ちの問題で。そういうのすごいうざいんですよ。捨てられたみたいになるわけで、捨てるのはいいけど、捨てられるのは嫌でしょ、みたいな、そういうのあるわけじゃないですか」
「わたしにはわからないけど、そうなの?」
「そうなんですよ、わたし的には。ていうか、三島さんってふられたことあります?」
「え?」
「男にふられたこと、ありますか?」
 その瞬間、おまえは、四日前のおまえは八ヶ月前のおまえを思い出す。八ヶ月前のおまえが朝、目を覚ます。おまえは富利夫の部屋に泊まった。まだその部屋は富利夫の部屋だ、おまえの部屋ではない。八ヶ月前の朝、おまえは富利夫がいなくなったことを知った。
「ありますよね。わたしだってあるんだから、わたしよりも四年も余分に生きてる三島さんだってありますよね。ないですか?」
 冗談だと思っていた。準備らしい準備をほとんどしていなかったから。しかし朝、おまえは富利夫の不在を知り、置手紙と大量の紙幣を目にした。『ケセラセラ。明日は明日の風が吹く。フリオ』。吹くものか。たまたまその日はバイトがなく、おまえは一日中富利夫の部屋にいた。コンポからエリオット・スミスの『either/or』がエンドレスで流れていた。前夜、富利夫が聴いていたものだ。そのときおまえはソファーに横になって、夢うつつでいた。ギターの音色がやけに耳に優しかった。富利夫はCDにあわせて、張ったばかりのナイロン弦を指で弾いていた。いつもと違うね。おまえが言った。気分の問題だよ。富利夫が答えた。
「ないわけないと思うんですけど、マジむかつくわけじゃないですか。わかりませんか、そういう気持ち」
 ふと起き上がると昼過ぎになっている。もう『either/or』は何週目に入っているのかわからない。それでも消さなかったのは、エリオット・スミスの柔らかい歌声が富利夫の髪質を思い起こさせるからだ。うどんを茹でて、食べる。それくらいしか喉を通らない。夜はパスタを食べる。味をほとんど感じられないでいる。ラーメンの替え玉を食っているような感覚。まったく満たされない。外は真っ暗になる。夜だ。おまえは部屋に出る。寒さで顔が張る。外は冬だ。高円寺の古着屋で買った赤いダッフルコートを羽織っている。両足はむき出しのまま、無防備な姿。露出した肌は吐く息のように白い。夜に映える。八ヶ月前のおまえはふらふらと歩く。
「本当いやなんですよ、そういうの。自分がデナイされたっぽくなるじゃないですか。我慢できないんですよね。わかります? ふるのが好きかって言われたら、あんまりあれなんですけど」
 東中野から大久保へ、そして新宿へ。どれくらいの時間が過ぎたのかもわからない。新宿の夜、季節は変わらない。しかし時間帯は昼も夜も変わらない。客層が異なるだけ。人々の活気であふれている。目的が異なるだけ。無数の人々が歩いている。おまえは店に入る。紀伊国屋書店地下、ファーストキッチン。ウーロン茶と海老のピザを注文する。八ヶ月前のおまえはたったひとり、空いているテーブルにつく。ピザを口にする。やはり味はほとんど感じない。ただ腹にたまる。食べ終わることにはすっかり気持ち悪くなっている。しかし吐き気すら曖昧で、おまえは五感が鈍っていることを知る。ショックで? それとも怒りで?
「どっちでもないんですよ。ただふられるのは本気でむかつくんで、ふる方を選ぶ側で、だから武士もどうでもいいんですけど、三島さんのせいで身をひいたっぽく見えちゃう感じがいやなんですよ。わたしそんないい女じゃないですから」
 ただ、おまえは絶望しない。目の前の女を見る。タペストリーのような生地でできたスカートを履いている。その女は八ヶ月前のおまえの前にはいない。おまえはひとりだ。ウーロン茶を飲んでいる。しかしそれはいっしょだ。ウーロン茶を飲んでいる。同じ席で。八ヶ月前のおまえには目の前に富利夫の幻影が見えている。彼は座っている。まずそうにオレンジジュースを飲んでいる。それは八ヶ月前の富利夫ではない。出会ったときの富利夫だ。おまえは魅せられる。さいころの目のようにころころと変わる表情に、器用な指先に、穏やかな笑顔に、珍妙な服装に。富利夫は奇天烈なジーンズを履いている。左の裾は引きずるように長く、右は膝下くらいでカットされている。Tシャツはペンキで染められていて、ひどく重そうに見える。両耳のピアスには小さなアルミニウムのアルファベットがぶら下がっている。”HEART”、そして”HATE”。右の足首に腕時計が巻かれている。爪と指の長さが反比例している。変な格好、おまえはそう微笑む。
「変じゃないですよ。全然変じゃないですよ。わたしがスタンダードですよ。三島さんだってそうでしょ?」
 間違いなく変だ。そう言うと、富利夫はこれでいいんだよ、と笑う。そしてまずそうにオレンジジュースを飲む。しかし八ヶ月前のおまえの前にオレンジジュースが注がれたコップはない。空白だけがある。富利夫の不在。ふっと、真冬のファーストキッチンに意識が戻ったとき、おまえはその不在をようやく肌で理解する。不在の実感とともに、月経の痛みが薄れる。予定日なのに。おまえは腹を撫でる。性器おまんこからの縦線とへそからの横線が交わるあたりをわがもの顔で歩き回る生理痛がない。消え失せる。
「ということで」
「え?」
 消え失せた。
 わたしが? どこへ?
 富利夫がいるどっかへ。たぶん。
「今度三島さん家に遊びに行きますね。東中野なんでしょ。武士に聞きましたよ」
「うん。え?」
「やっぱ武士もいっしょじゃないとフェアじゃないと思うんですよ。武士がわたしを選んだ上で、わたしが武士をふるのがベストの展開なんですけど」
 そう言い残して、結花は店を出る。おまえがファーストキッチンに残る。それが四日前、そして八ヶ月前の出来事。八ヶ月前のおまえは新大久保のアパートに帰り、四日前のおまえは東中野のアパートに帰る。いまのおまえは? 上半身裸の河本武士と東中野のアパートにいる。空気が歪んで見えるような暑さの中、おまえはおもちゃの鍵盤のふたを閉める。記憶のふたを閉ざすように。
「アンティル・ワールド・エンド」
「え?」
「さっきの。あ、違うか」
「何それ?」
 武士は『Chou Chou』を置き、テレビを見ている。夜だ。十時を過ぎている。だらだらとした、無意味な時間を過ごしている。二十代半ばのモラトリアム。おまえは少しだけ満たされている。武士の無遠慮な厚かましさはどこか富利夫を思わせる。二〇〇一年の九月。おまえたちはモラトリアムの中にいる。しかしその安穏はヒールの足音とともに終りを告げるだろう。もうすぐだ。劇的な変化が起こる。武士と結花の間に。そしておまえ自身の内部で。
 再生だ。
 チャイムが鳴る。不思議だ。おまえは思う。富利夫がいなくなってからの八ヶ月間、この部屋はわたしだけのものだった。しかし今は、武士が遊びに来るようになっている。そして別の来訪者がわずかな厚さのドアの向こう側に立っている。またチャイムが鳴る。鐘のような音色。立ち上がるおまえは薄いピンク色のタンクトップに下着だけを穿いている。チェーンを外し、ドアを開ける。吉本結花。ぶかぶかのテンガロンハットをかぶっているから、顔が隠れてしまっている。しかしおまえにはわかる。「え? 結花ちゃん?」。ひっくり返りそうな声。「ハロー。遊びに来ましたよ」。「え? 何で?」。「だって行ったじゃないですか。今度遊びに行きますよって」。言いながらサンダルを脱ぎ、部屋に上がりこむ。暑さで弛緩している武士が結花を見て飛び上がる。
「おまえ、なんだよ」
「なんだよって何? 意味わかんないんだけど。あんたこそ何なの?」
 結花はテンガロンハットのつばを上げ、自分の顔をはっきりと武士に示す。おまえは結花の真後ろに立っているから、その表情は窺えない。武士は金色の短髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜ、「わかんねえ。全然わかんねえ」と唸り始める。髪の毛をかき混ぜるのは武士の癖だ。おまえはそれを知っている。
「髪型崩れるよ」
「え? ああ、いいよ」
 気づいたのはいつだった? 八月の真ん中だ。おまえと武士は新宿東口のエクセルシオールカフェにいる。おまえはカラメルラテ、武士はアイスコーヒーとチーズドッグを頼む。やはり夜だ。物語が動くのは大抵が夜だ。例外がおまえと武士の出会い、夜中のように色の少ない真っ昼間、おまえは武士に出会った。しかしそれは例外だ。おまえの物語は夜に進行する。おまえがいる東中野や新宿の夜がレイキャビクのように長かったなら、ひょっとすると、この物語はもっと短くなっていたのかもしれない。
「ていうか、髪型ってほどのものじゃないっすよ、これ。適当に染めて、適当におったててるだけだから」
「そうなの? ワックスとかであれしてんのかと思ってた」
「いや、全然。おれ、髪超硬いから」
 レポートを書く武士をおまえは眺めている。文章に変なところがないか確かめてくれと頼まれているからだ。おまえはカラメルラテを飲む。武士は原稿用紙にボールペンで文字を書きつけている。汚い文字だ。それを読まなければならないのかと思い、おまえはうんざりする。しかし頼んでいたDVDと引き換えという約束になっている。おまえはまたカラメルラテを飲む。それからトートから蓮實重彦の『反=日本語論』を取り出し、読み始める。ところが武士の腕が視界を何度も横切り、気が散ってしまう。集中できない。読めない。おまえは武士の気の利かなさを嘆く。しかし武士自身は自分の動きに全く気がついていない。数分おきに短い髪の毛をかきむしったりかき混ぜたりし続ける。それが癖なのだとおまえは気づく。無意識下の行動。困っているとき、行き止まりにぶつかったとき、武士の癖が発露する。
 だからあなた、今、困っているんだね、河本くん。
 しかしおまえは助けない。自分で乗り越えなければならないことだと考える。実際、レポートは乗り越えた。じゃあ、吉本結花は? 二人は対峙している。見下ろす結花と見上げる武士。おまえは硬直した二人を眺めている。どう声をかけたものか、あるいはかけない方がいいのか、考えている。
「ねえ、武士」
 武士の肩が魚のようにびくんとはねる。均衡が破れたのだ。
「何その格好」
「え?」
 武士は自分の胸元を見下ろす。衣服はない。上半身裸で、汗だけがべったりとまとわりついている。慌てて脱ぎ捨てられていたTシャツを着る。『侍』と大きく書かれている。
「三島さんも。何ですか、それ」
 おまえは確認しない。
「ここわたしの部屋だから。ここじゃこれがスタンダード」
 へらへら笑う。余裕の笑い。おまえは結花の目的を知っている。一方、武士は知らない。
「武士くん」
「はい、何でしょう」
「今日はね」
「うん」 「別れようと思って、それを言いに来た」
「うん」
「うん」
「いや、うんじゃねーよ。え? 何それ? 意味わかんないよ」
 吉本結花はしゃがむ。しゃがんで、武士の顔を覗き込む。わかんない? そう言いたげに。しかし何も言わない。二人は見つめあう。初々しさはない。終わりが交錯する。
「あ、そうか」
「わかった?」
「いやいや、わかんない。わかりません」
 狼狽する武士をじっと見つめる、柔らかい表情で。それはじつに穏やかだ。武士は吸い込まれそうになる。大きな瞳。諦めの色が見える。その色は、片方は黒、もう片方は青だ。
おまえは傍観している。どうしてこの部屋に二人の終わりが訪れたのか、理解できないでいる。でも、わかるだろう? きっかけだ。終わりは一つじゃない。連鎖する。わかるだろう?
「まあ、そういうことだから」
「え、でも、待てよ。話し合おうぜ」
「嫌だ。今日でおしまいにします。決まりです」
「何でだよ」
「何ででもだっつうの。わたしの部屋にあるローターとかいらないから、全部送るから」
「え? おれもいらねえよ。使えよ」
「使わねーよ、あんなの。まあ、そういうことだから」
 振り返る。
「じゃあ、三島さん、わたしは帰りますね。今度は本当に遊びに来ます」
 嵐のような結花はそのまま玄関に向かう。サンダルを履く。おまえは彼女を見送る。二人は部屋の外に出る。武士はその場にとどまる。身体が動かない。数分間の出来事の整理ができていない。歩き出そうとして、結花は足を止める。そしてくるりと反転し、ペンライトのようなものをカバンから取り出し、おまえに向ける。おまえは反射的に手のひらをその細長い筒状のものの先っぽに向ける。しゅっと音がする。霧吹きを浴びせられたような感触が手のひらにある。
「あー、だめか」
「え?」
「目に入らないと意味ないんですよね、これ」
 つまらなそうな顔が見える。アパートの廊下に吊るされた電球が照らしている。吉本結花は今度こそその場を去る。きっともう来ないのだろうなとおまえは思う。
 部屋に戻る。武士が食い入るようにブラウン管を覗き込んでいる。どこかのビルが移っている。黒煙が上がっている。何か決定的なことが起きたと直感する。事実、それは決定的な瞬間だ。二十一世紀の歴史に残る朝、日本時間では夜だった。その日、二〇〇一年九月十一日だった。時刻は二十二時。おまえはその瞬間に部屋に戻り、つけっぱなしになっていたテレビを見ることになる。
 現地時間午前八時四六分、日本時間二一時四六分。最初の衝撃が起こる。アメリカン航空11便がワールドトレードセンタービル北棟に突っ込む。真正面から、何の負荷もなく、ただ突っ込む。その瞬間の映像はない。ただ文字情報で伝えられるだけだ。その十七分後、おまえと武士が現状を把握しようとしているとき、二度目の衝撃が起こる。ユナイテッド航空175便がワールドトレードセンター南棟に、同じように衝突する。おまえはその瞬間を見ている。ただ見ている。
「何だよ、これ」
 武士が呟く。おまえたちはテレビの中のコメンテーターと同じように、ただその光景を見ていることしかできない。しばらく、そのままの格好で。
 時間はただ淡々と過ぎていく。おまえたちはもちろん、ニューヨークの人間たちも、ただ立ち尽くしているだけだ。まだ気づいていないのかもしれない、攻撃されたという事実に。おまえたちは? ブラウン管の中の、綺麗な身なりの人間たちはテロの可能性を論じ始める。塵と埃と煤でで汚れたニューヨークの人間たちは生きるために、生かすためにできることを考え始める。おまえたちは?
 それは日本時間二十三時三十分前後だ。すべてが崩壊するのを見ている。資本主義が陥落する。終わった、おまえはそう感じた。たぶん二十世紀終わったよ、富利夫、やっと、二年くらい遅れて。おまえは新世紀の到来を実感する。二十世紀が音を立てて崩れていく様をテレビは何度も映し出す。おまえはそれをじっと見つめる。
「ハロー」
「え?」
 世界貿易センタービルの崩落と共に、おまえの性器おまんこの奥で、子宮内膜が剥がれ落ちようとする。月経の痛みがおまえの性器おまんこの奥底でくすぶり始める。始まりの痛みが生まれる。瓦礫の下で蠢いている人間どもから流れ出した血液がおまえの生理痛を着色する。
「ハロー今君に素晴らしい世界が見えますか」
 おまえは痛みと共に、久しく感じていなかった衝動を思い出す。それは何だ?
 性欲だよ。


 二度来ないと思っていた吉本結花が言葉通り本当に遊びにやってくる。世界がその姿を変えた夜と同じようにぶかぶかのテンガロンハットをかぶって、水色のキャミソールに白のカットソーをあわせ、パレオのようなロングスカートをはき、キャンバス地のワンスターをつっかけ、セルフレームのメガネをかけている。頬にはオレンジ色のチーク、髪の毛の色も以前より明るくなっている。おまえが驚いていると、結花は肩をすくめて、テンガロンハットをとりながら、部屋に入る、勝手に。
 おまえは冷蔵庫から麦茶のペットボトルを出し、テーブルに置く。紙コップに麦茶をついでやると、結花は「あ、おいしそうですね。なんか外、本気で暑くて」と無邪気に笑う。そして一気に飲み干してしまう。おかっぱのような髪型に赤いセルフレームのメガネ。彼女の姿が大きく変化していることにおまえは戸惑いを隠せない。テンガロンハットをうちわ代わりにしてぱたぱたと扇いでいる結花は見つめられていることに気づく。
「驚いてます?」
「うん」
「ですよね」
 また笑う。その笑顔には悪意が全くないように見える。おまえはやはり戸惑っている。この穏やかさは何なんだろう、不思議。結花はガルシア・マルケスのバッグから制汗スプレーを引っ張り出す。窓の外を眺めながら、うんざりしたように顔をしかめる。
「暑すぎですよ」
「そうなの?」
「クーラーとかないんですか、ここ」
「ごめん。扇風機しかない」
 おまえは扇風機を結花の前にまで引っ張ってやり、頭を固定する。結花のところだけに風が吹く。おまえはいつもと同じようにタンクトップと下着というだらけた組み合わせだ。外に出るための装備を整えている結花とは違う。あまり暑さを感じていない。
 脇や背や胸元や首筋にスプレーを吹きかけた結花は扇風機に顔を近づける。「涼しいかも」。そう言って、けらけらと勝手に笑う。おまえは自分用のコップに注いだ麦茶を飲んでいる。変な感じ。そう考えている。目的を読み取れないでいたが、何かをしに来たという雰囲気ではない結花は用事があってきたわけではないのかなと思う。
 どうだろう?
 おれは結花のことを知っている。結花はどんな女だ?
「エゴイスト?」
「え? 違いますよ。何であんなの着ないといけないんですか。ありえないっすよ」
 一瞬向き直った結花はまた扇風機に顔を寄せる。抱きつきそうだなとおまえは笑う。
「結花ちゃん、今日どうしたの?」
「どうもしませんよ。暇だったから遊びに来ただけです」
「え、暇だったからって」
「暇だったんですもん。映画でも観に行こうと思ったんですけど、一人で行くのもなんかむかつくんで、あ、三島さん暇かなって思って」
「そうなんだ」
 主導権を握られている実感。いつも吉本結花のペースに飲まれるおまえは原因を掴み始めている。言葉の量だ。結花は多少早口で、言葉の数が多い。だからいつも相手にリードされているように思えてしまう。あ、でも、考えてみれば、わたしはいつもそうだよね、富利夫。いつも、勝手に話してたもんね。楽しかったからいいんだけど。ファミレスで、ファストフードで、喫茶店で、おまえは富利夫の話を聞いている。頷きながら、たまに微笑みながら、富利夫の話を聞いている。
「あの、話聞いてますか?」
「え?」
「なんか三島さんってあれですよね、ぼおっとしてますよね」
「そう? そうでもないよ」
「してますよ。人の話全然聞いてないじゃないですか。じゃあ、今わたしが何言ったか覚えてます。」
「え? えっとね」
 おまえは思い出せない。そもそも記憶していないし、聞いてもいない。おまえは過去に思いを馳せていた。むしろ思い出したいのは結花の言葉じゃない。例えば、「結局、リンチはさ」、この続きだ。おまえは富利夫を思い出している、忘れないように。
「ほら、言えないじゃないですか。わたしこれでも客ですよ。やだなあ」
「ごめん」
「遠距離恋愛なんですよね」
「え?」
「だから、そう聞いたんですよ。遠距離恋愛なんですよね、三島さんって。武士に聞いたんですけど」
「遠距、え?」
「遠距離恋愛。何気にわたしそういうのに憧れてるんですよ。自分だったら絶対嫌ですけど。基本的に男信用してないんで」
「まあ、遠距離といえば遠距離かもね」
 でも遠過ぎるっていうか、今どこにいるかも知らないんだけどね。そう口走りそうになるところをおまえは堪える。そもそも今のわたしと富利夫が恋人として成り立っているのかどうか疑わしい。しかしそれを口にするわけにはいかないとわかっている。言葉が口を飛び出したそばから、今までの生活や感情がすべて崩れてしまいそうだったからだ。
 おまえは遠距離恋愛というシチュエーションを曖昧に享受する。
「え、彼氏どこにいるんですか?」
「今?」
「いや、今ですよ。昔のこと聞いてどうするんですか」
「あ、そっか。えっと、今はね、そう、リマ」
「え?」
「リマ」
「え? それどこですか?」
「あの、ほら、ペルー」
「ペルー? ペルーってどこでしたっけ?」
 ペルーは南米大陸にある。富利夫からのエアメール。二週間か三週間に一度届けられる。一ヶ月来なかったことはない。だいたい十日から二十日くらいの間隔で送られてくる。直筆の手紙とイラストが添えられている。たまに写真が同封されていることもある。おまえは富利夫からのエアメールを待望している。ヤク中みたいに、欲している。唯一のつながりであるように感じられているからだ。
 富利夫がいなくなった八ヶ月前から、おまえは死んでいる。五感はことごとく曖昧になり、ときの流れは一定ではなくなる。アルバイト先のコンビニエンスストアではマニュアルに従い、自給八五〇円を手にし続ける。今までの八ヶ月間、それから、あとどれくらい? ふとおまえはそんなことを考える。いつ帰ってくるの? それとも帰ってこないの? どこにいるの、富利夫。
「え? あれ? どこでしたっけ?」
 どこ?
 最初のエアメールは八ヶ月前のあの日から二十日くらいが過ぎた冬の日、アイスランドのレイキャビクから。富利夫はグラスゴーに戻る。そしてポルトガルを経由し、スペインのガリシア地方に入り、サンティアーゴ・デ・コンポステーラを巡礼する。キリスト教の聖地。富利夫はキリスト教徒ではないが、観光のために歩くわけでもない。見るためだ。おまえはエアメールを受け取る。六ヶ月くらい前の夜、カテドラルのイラストが描かれている。デフォルメされた大聖堂。おまえはインターネットで本物のカテドラルをイラストの脇に書かれていた落書きのようなメモを頼りに検索し、その写真を目にする。この大聖堂が富利夫の瞳にはこの絵のように映っていたのだと納得する。三月、おまえが花粉症に悩まされている頃、富利夫は一ヶ月以上をかけて、巡礼の道を逆送する。サンティアーゴ・デ・コンポステーラから、レオン、ブルゴス、パンプローナを経由し、ハカへ。巡礼の道を歩ききる。富利夫に金はない。グラスゴーで買ったギターと手先の器用さだけで食いつなぐ。おまえはマニュアルに従って、メシを食う。富利夫はスペインを縦断し、バルセロナに到達する。おまえは?
 おまえは富利夫の部屋の掃除を完全に終え、東中野のアパートの一〇三号室の主人が石黒富利夫三島エリカに変わったことを実感する。ここ、わたしの城。やっとおまえは安らかに眠る。まだ富利夫の匂いが残っている。富利夫はバルセロナから南下し、バレンシアを通り、グラナダ地方に到着する。セビージャで闘牛を見る。四月半ば、おまえにマタドールのイラストが送られてくる。エリカ、元気かい? ここは暑いよ。富利夫はアルハンブラ宮殿の前で出会ったエルネスト、ホルヘ・ビトーリオ、ホセ・マリアとフットボールに興じる。草サッカー。そのままエルネストの家に泊めてもらう。そしてじつに一週間近くの間、エルネストとその家族に厄介になる。マタドールのイラストから二週間くらいが経過する。おまえの元にエアメールが配達される。今度はイラストではない。写真だ。丸刈りになった富利夫が知らない男の子数人と肩を組んで笑っている。おれは元気だよ、エリカ。髪の毛をエルネストのお母さんに切ってもらったんだけど、上手くいかなくてね、結局坊主にしてしまったよ。結構似合うだろ。そう? おまえは首を傾げる。これ、似合ってるかな? それが五月の頭だ。世間はゴールデンウィークで浮かれている。おまえは変わらないリズムで生活をやり過ごしている。富利夫はどうか。富利夫はエルネストの家を後にしている。もうスペインにはいない。イベリア半島にはいない。ユーラシア大陸にはいない。アメリカ合衆国にいる。
 合衆国に見るものはない。富利夫は興味をそそられない。建国から二五〇年も経過していない国。歴史が抜け落ちている。富利夫はアメリカを素通りする。そして五月半ば、メキシコに入国する。かつてスペイン人に滅ぼされた国、アステカの名残が残っている。破壊されつくされたはずの文化の匂い。一方、おまえが感じているのは? 富利夫の残り香だ。いまは三島エリカの城となっている部屋に残る、富利夫の名残。おまえは富利夫の幻影と対峙しながら、日々を過ごす。その富利夫は坊主だ。本物の富利夫はメキシコシティーでナイロン弦を買い、弦を張り替えている。音が変わる。グラスゴーでしこたま買い込んだ二束三文のスチール弦はなくなっている。夕暮れ時、ピストルを突きつけられる。金を出せよ、金持ち日本人。富利夫は言い返す。何だとクズ野郎。カモであるはずの日本人がスラングを使い、鋭い眼光を向けてくることに驚いた数人は逃げ出してしまう。富利夫はエルネストたちに感謝する。富利夫はメキシコシティーの日系人と仲良くなる。麻薬の売人をしている、サルバドール・トノイケ・ベニーテスという男だ。サルバ、おれの国じゃヤクは違法だ、おれは法には触れたくねえから、おまえの仕事は手伝わねえよ、わかるよな。同じ部屋で眠る。酒と煙草が染み付いた汚い部屋。富利夫はサルバドールが捌いている粉末を包んでいる小さな包装紙に勝手にイラストを描く。それは例えばギターを鳴らしているサボテンだ。何故だかヤク中の間でそのイラストが評判になる。サボテンの中にトリップしたという者が現れる。サボテンの中にトリップしたという者が現れる。ペドロ・クアルテロは皮膚を脱ぎ捨て、中身をくりぬいたサボテンに入って眠り続け、サボテンの中身がペドロとして一週間ドラッグを打ち続けたのだと吹聴する。それだけにとどまらず、同じスリ仲間のパブロ・ゴンサロ・ビラルドは寒天状のペドロが十日間スリの仕事をしていたと証言した。ペドロはその寒天がひからびるころにサボテンを抜け出す。最初の言葉は次のようなものであったという。「母さんどこ?」Mama,donde estas?。サルバは市場価格よりも一割高く値段を設定する。売り上げは変わらない。サルバドール・トノイケ・ベニーテスはその純利益分をすべてピンハネする。富利夫にも流さない。その話は上の者の耳に入り、速攻で捕まり、両腕を折られる。それだけで開放されたのは幸運であったかもしれない。富利夫はそろそろメキシコを離れようと考える。画用紙に描いたイラストに適当な日本語をあつらえたものが思いの他好評になり、しばらく旅を続けられるくらいの金を手にしている。ラッキーだけは人一倍の男、フリオ・イシグロ。サルバドールと一緒に出国するが、サルバドールはすぐに行方をくらます。せめて折られた腕が治るまでは一緒にいればよかったのにせっかちなやつだ。富利夫は腹を立てる。またひとりに戻る。
 ひとりだ。おまえと同じひとり。おまえは河本武士と出会う。新宿駅東口のTSUTAYAで「忘れ物ですよ」と声をかけられる。一方の富利夫は地球の裏側で「忘れ物ですよ」と声をかけられる。カモメの合唱の中で中年の女が立っている。夜のパルパライソの港に富利夫はいる。午後二十三時の闇。地べたに座り、便箋に絵を描いていたところだ。海沿いにある飲み屋から漏れる光だけを頼りに。背後には海が広がっている。広大な太平洋の海水は真っ黒く見える。そしてその先にいるエリカ、おまえを夢想している。カモメと戯れるおまえの絵を描いている。書き終わり、鉛筆をその場に置きっ放しにしたところに声がかかる。「忘れ物ですよ」。ブルゴスで購入した安い鉛筆。「あげますよ、おばさん」。「え?」。東洋人に流暢なスペイン語で話しかけられた女はすっとんきょうな声を上げる。「それはもうおれには必要ないんです」。富利夫はイスラ・ネグラで貰った赤鉛筆をハードケースにしまっている。ブルゴスの鉛筆は不要になっている。何本も持っていたところで、使うのは一本だ、おれは画家じゃない。そう考えている。富利夫はさらに南下する。南米大陸最南端の町プンタ・アレナスを目指す。
真裏の日本は北上した太平洋高気圧に覆われ、毎日のように真夏日がやってくる。それは今も続いている。九月も半ばだというのに、いまだに真夏。おまえの目の前で吉本結花がへばっている。暑さとファッションを天秤にかけて、判断を間違えた吉本結花。
「ペルーって暑そうですよね」
「そうなの?」
「いや、知らないですよ。あれですか、三島さんって天然ですか?」
「違うよ」
「でも、遠距離恋愛ってなんかいい感じですよね。かっこいいですよ」
 結花は勝手に麦茶を注ぎ、勝手に飲む。喉がごくごくと唸る。一筋、口元から垂れる。それはすぐに汗にまぎれる。飲み干すと、また扇風機に向かう。口を開けている。「暑い、暑い」と言う声が、風で歪む。扇風機はおまえが買ったものだ。武士といっしょに選んだ。
 初めておまえの部屋を訪れたときの驚きを河本武士はきっと忘れないだろう。冷房がないということに驚き、扇風機すらないということにさらに驚いた。驚きの二乗は全身にはりついていた、生き物のような汗をいったんは引っ込めたほどだ。「買った方がいいんじゃないの。三島さん死んじゃうよ、熱中症で」。そう言われたとき、おまえの脳裏に浮かんだのは新聞記事だ。『中野区で若い女性の変死体を発見。熱中症か。警察は事件事故両面から云々』。次いで、富利夫の声が浮かぶ。「エリカ、元気か」。「元気だよ」。いつだったか、おまえはそう呟いた。だから、元気でいなければいけないと考える。冷房を買う金はないが、扇風機くらいならまったく問題はない。新宿駅西口のさくらやに行く。いつか電球を買ったときに声を張り上げていた店員の姿は見えない。おまえは扇風機を買う。武士が荷物を持ち、中野のアパートに戻る。
 その扇風機の恩恵を受けている結花は羽織っていたカットソーを脱いでいる。
「よく考えたら、三島さんしかいないんだから、裸でもいいくらいですよね」
「やめなよ」
「いや、脱ぎませんよ。脱がないけど、気持ち的にはいけるんじゃないかって話ですよ」
 延々と続く真夏日に日本が悲鳴を上げる。対照的に富利夫は寒さに苦しむ。プンタ・アレナス。日中でも最高気温は一桁だ。富利夫はペルーで買ったポンチョで身を包んでいる。しかし寒さは布きれを平然と通り抜ける。バスに揺られているときも、富利夫の身体はがたがた震える。
「結花ちゃん、本当に用事ないんだね」
「ないですよ。マジで」
 けらけら笑う。キャミソールの肩紐がずれるが、結花はまったく気にしない。昼過ぎに彼女は帰る。「また来ますよ。今度はなんか用事作りますよ。DVDとか観ましょうよ。青山真治とか」。おまえはうんと頷きながら見送るが、内心は「青山真治は難しいからパス」と思っている。
 富利夫はペンギンの群れが立ち並ぶ岬にいる。剥き出しの大地に腰を下ろす。一つの到達点を感じている。太陽はすでに真っ赤で、暮れようとしている。陽の光がなくなれば、いっそう冷えるのだろう。そんなことを考えながら、ポケットやハードケースの中の金を探す。かき集めれば、宿台くらいにはなるのではないか。じゃらじゃらという音を聞いたペンギンたちが逃げていく。富利夫はひとりになる。どっと溢れた疲れに身を任せて、その場に横になる。瞳は開いたまま。このまま地中へ沈んでいっても構わない。しかし大地はひどい硬さで、否応なしに覚醒を促す。
 覚醒。おまえもそろそろ覚醒する頃だ。最後のきっかけを運んでくるのは河本武士だ。午後二時過ぎに帰っていった吉本結花と入れ替わるように、今度は武士がおまえの部屋へやってくる。すでに時間は経過し、日は暮れている。夜だ。「手紙来てた」。夕刊数紙をまとめてテーブルに置く。
「結花ちゃんいたんだよ」
「は?」
「もう帰ったけど。まだ暑いのに帰っちゃった。暑い暑いって言ってたのに。よくわからないね、あの子」
「ああ、わかんないっすね。おれだって全然わかんないっすよ」
 武士は結花と同じように、扇風機に顔を近づける。声が風に流される。
「で、別れちゃったの?」
「なんかそんな感じっすね。いや、おれは別れたくないんだけど、なんかもう勝手でしょ、結花って」
「うん」
「だから、もういいかなっていう部分もあるよね。がんばったよね、おれ、みたいな」
 言いながら、武士はフローリングの床に大の字になる。かすかな冷たさが背中を這う。それは本当にわずかなもので、すぐに武士の体温に食われてしまう。おまえは新聞を手に取る。朝日新聞、、読売新聞、産経新聞、日本経済新聞。
「おれ、あれですよ。日経新聞と産経新聞があるから、ヨンケイ新聞もあるって思ってましたよ」
 おまえの手元から一通の封筒がこぼれ落ちる。新聞紙と新聞紙の間に挟まっていた封筒。すべるようにぱさりと落下する。それはおまえの足の甲に触れる。暖かさがある。それは夏の熱。おまえは拾い上げる。差出人を確認する。Julio Ishiguroと書かれてある。スタンプは半月以上前のものだ。世界のどこかで迷子になって、やっとおまえの手元に辿り着いたのだ。
 おまえはがっくりと膝を落とし、床にへたり込む。武士は置きっ放しになっていた麦茶のペットボトルを手に取り、結花が使っていた紙コップに注いでいる。「何? どうしたの?」。視線もよこさずに、問いかける。おまえは答えない。ただ誰にも聞こえぬくらいにか細い声で、「富利夫」とつぶやく。
 
 エリカ、元気にしているか。おれは今パルパライソにいる。どこかわかるか。チリだ。南米にいる。昨日までイスラ・ネグラにいたが、パルパライソに戻ってきた。これからプンタ・アレナスに向かう。チリの、最南端の都市だ。ペンギンがいるらしいんだ。
 イスラ・ネグラをおれは一生忘れないと思う。あの町は死んだ詩人の泣き声でいっぱいだ。詩人の言葉がバイブレーションを起こしてる。魂? わからないけれど、何だか感傷的なところだ。
 プンタ・アレナスでしばらく過ごそうと思う。それから、南アフリカに行く。ボディージャに聞いたんだけど、そこにもペンギンがいるらしいんだよ。おれはペンギンが見たい。アフリカとアメリカの南にいるペンギンの違いを知りたい。おまえ、わかるか?
 おまえ、そういえばペンギン好きだったな。ぬいぐるみ持ってたろ。憶えているよ。ペンギンを捕まえて持って送るわけには行かないけど、写真か絵か、何かしら送るよ。いつになるかはわからない。それとも、おまえも来るか? それもおもしろいかもしれないな。
 落ち着いたら、また手紙を書くよ。
 フリオ・イシグロ。

「勝手だよ、富利夫」
 おまえは足を崩す。空っぽだったはずだった肉体が衝動で満ちていく。
 しかし、おまえも来るか? だろう。
 おまえが待ち望んでいた言葉はそれだったんだろう。おまえも来るか? おまえも来いよ。そんな類の言葉だったんだろう。おれはおまえが欲していた言葉を知っている。まさにそれだ。おまえも来るか? おまえも来いよ。おまえに会いたい。そんな言葉だろう。
 今、おまえはその言葉を手にしている。
 立ち上がって近寄っってくる武士を見る。「うん? 何?」とにこやかな笑みを浮かべる武士をぼおっと見つめる。何も考えていないのか? 違う。考えられないでいる。性的欲望。先日まで失われていた性欲が完全によみがえり、今、この瞬間、沸騰しようとしている。何故? おれにはわからない。おれはまだやられる側だ。
 おまえは飛び上がるようにして武士の顔面を拳骨で叩き、それと同時に足を払う。「うおっ」という情けない声と共に武士は転倒する。テーブルに頭をぶつけ、「いてー」と言いながら、後頭部をさする。おまえの動きには気づいていない。おまえは馬乗りになる。器用にベルトを抜き取り、色落ちしたリーヴァイスのジーンズをずり下げる。「おまえ、何すんだよ!」。武士はそう叫ぶが、本気で抵抗はしない。後頭部が痛む。トランクスの向こう側にある性器ちんぽこは萎えている。おまえはテーブルの上にある紙コップをとる。中身を武士の股間にぶちまける。「冷てっ! 何なんだよ!」。武士はいよいよ本格的にもがき始めるが、そのたびにズキズキと深く痛む頭を気にする。おまえは性器ちんぽこを引っ張り出す。驚きと冷たさで萎えている。おまえは洗うように飛び散った麦茶をこすり付ける。だんだんと勃起してくる。「三島さん」。驚きで声は震えている。
 エリカ、おまえは性器ちんぽこに食らいつく。獰猛な獣のようなフェラチオ。肉食動物が骨をしゃぶるように、おまえは性器ちんぽこを舐める。すべてを噛み砕こうとしているかのように見える。麦茶の冷たさと味は失せ、徐々に性器ちんぽこは粘り気を帯び始める。「やめろよ、三島さん」。その言葉は本心ではない。「やめろ」と言っていても、心の中では「もっとやってくれ」と思っている。おまえのフェラチオはクライマックスに至る。しかし寸前のところで上半身を起こした武士は、逆におまえを押し倒そうとする。そのとき、視線と視線が交錯する。武士は驚く。今まで一度も見たことのない、血走った猛禽類のような瞳。
 武士は、つまりおれは、おまえのパンツに手を突っ込む。おまえは相変わらずおれの性器ちんぽこを掴んでいる。二人で向かい合って座っている。お互いの性器を刺激し合っている。汗が肌に浮かぶ。おまえもおれも、べったりとよどんだ皮膚をしている。おれはおまえの首筋を舐める。すると平手で殴られる。余計なことをするな、わたしの性器おまんこだけをいじってろ。そう言いたげな瞳。おまえに何があったのか、おれは全く理解できていない。最初に言っただろう。どうしておまえがおれとセックスをする気になったのか、おれは知らない。
 しかしおれたちはセックスを続ける。お互いに強姦しあっているような、極めて暴力的なセックス。おれはおまえを貫こうとするし、おまえはおれを飲み込もうとする。お互いを否定しあっている。おれに突かれているとき、おまえは何度も「ちくしょう! ちくしょう! 富利夫! ちくしょう!」と繰り返す。おまえがおれに跨って腰を振っている間、おれは「ぶっ殺してやる! ちくしょう! ぶっ殺すぞ!」と叫び続ける。何回イッたかはわからないし、憶えてもいない。時間は知っている。次の次の夜まで、おれたちは考えつくだけの体位でやり続ける。おれの性器ちんぽこは奇跡的に勃起し続ける。それはエリカ、おまえが魅力的だったから? どうだろうね。興奮していたから? きっとそうなんだろう。
 例えばおれたちは浴槽に向かい合ったまま身体を沈めている。湯船を満たしているのはシャワーから流れ続ける水とおれたちの汗、それから体液。舌を絡める。おまえの真っ赤なべろは生き物のように動く。「ベロチュー。えへへへ、ベロ」とおまえは弛緩しきった笑顔を浮かべる。おれの性器ちんぽこはおまえに突き刺さったままだ。おまえは喘がない。ただ喉をひくつかせていて、しゃっくりが止まらなくなっているようにも見える。おれはときどき腰を動かす。ちんぽこ、そしてその周りの細胞が麻痺してしまっているようだ。たぶん十回は射精している。精液が出ているのかはわからない。浴室の窓から淡い光が差し込んでいる。朝。飲まず食わずでおれはヤり続けている。おまえは全身でおれのザーメンをたらふく吸収している。おれはおまえの首筋に噛み付く。歯の痕がつく。おまえの白い肌に赤黒い傷が残る。おれはその傷を舐める。おまえの性器おまんこがきゅっと締まる。
 弱かったはずの陽の光が夏の強さを思い出し始める頃、浴槽があふれる。風呂場はおれたちの汗でいっぱいになり、それはすでに脱衣場を侵食している。止めなくちゃ。おまえの瞳には床に染み込んでいく汗が見えている。止めなくちゃ。おまえはおれを押しのける。性器ちんぽこがにゅるんと抜けて、ぱちんと跳ねる。止めなくちゃ。おまえはそう呟く。脱衣所へ向かうおまえを追う。ふと振り返り、浴槽を見下ろす。不純物だらけの濁った水で満ちている。
 脱衣所をぬける。おまえは部屋の中央で膝をついている。フローリングの色が一段と濃くなっている。肩で息をしているおまえを、おれは後ろから抱きしめる。顔面を掴み、無理にキスをする。おまえは笑う。「三島さん?」。おまえはまた、おれに跨る。性器ちんぽこを握りしめる。かすかな痛み。おまえが動くたびに、汗の粒が飛ぶ。その粒は床や壁やテーブルに無数の染みを作る。濡れている。おまえは目を細めて、腰を振りながら部屋中を眺め回す。ひどく色あせているように見える。あ、そっか。おまえは思う。ここはもうわたしの居場所じゃないのかな、富利夫。
 ソファーに富利夫が座っている。ウィリアム・フォークナーの『八月の光』の文庫本を手にしている。新潮文庫。白い背表紙がすっかり黄ばんでいる。ページをめくる。おまえは久々に作る手料理を並べている。手料理といってもただのカレーだ。しかしそれは富利夫の大好物だ。富利夫は文庫本を置き、普段はただのテーブルとして機能している食卓につく。いただきますと手を合わせる。「あ、そうだ、おまえ、憶えてる?」、食べながら、エリカ、おまえに訊ねる。おまえは口の中のものを飲み込んでから、「何を?」と聞き返す。「紀伊国屋のファッキンでさ、最初におれたちがさ、会ったとき」、「うん」、「ありえない出会いだよな。一緒に行く? うん。ってありえないよね」、おまえはスプーンを舐める。辛味が足りないかな、と思う。「でも富利夫が言ったんじゃん」、「え? 何て?」、「おまえも来るかって。ていうか何であんなに偉そうだったの?」、富利夫はもう平らげている、「憶えてない。言ったっけ、そんなこと」、おまえははっきりと頷く、「言ったよ」。
 おまえも来るか?
 出し抜けに富利夫の言葉が聞こえる。おまえも来るか? 
 行きたい。行く。
「行く」
「え?」
 最後の射精。おれはその瞬間を決して忘れない。今もはっきりと覚えている。おまえはこんな声を発した。「愛してる、富利夫」。わかっている。ずっとわかっていた。きっとおれはもうおまえに会わない。だから終わりが訪れる。おれとおまえの終わり。しかし、この物語はもう少しだけ続く。ここから先は完全におまえと富利夫の物語だ。わずかに残った、物語の破片だ。結花は現れるが、おれはもう登場しない。いずれにせよ、いよいよ、おまえはひとりだ。それでもおまえは絶望しない。こののち、おまえは富利夫に再会する。おまえはそのことを確信しているし、現実となる。だからおれはおまえの希望を物語る。他の登場人物は、おれの語りを助けるコロスに他ならない。おれも結花もこのアパートの大家も、あるいはこれから登場するバルボロ・モリソンとガリェーゴ・クリスタンテもただのコロスに過ぎない。だからこれは、おまえと富利夫、二人だけの物語だ。


 十日も経たないうちに、おまえは機内にいる。シンガポール発ケープタウン行。客室乗務員にひざ掛けを頼み、待っているところだ。南アフリカ旅行のパックツアーに参加している。おまえは一匹狼になっている。誰とも打ち解けない。中年の夫婦、若いカップル、大学生のグループ、雑多な人間がツアーに参加している。おまえはひとりだ。富利夫の蔵書を読んでいる。オクタビオ・パスの『泥の子供たち』。おまえは不思議と落ち着いている。不安は恐ろしいほどにない。『泥の子供たち』の九十七頁まで読んだところで、客室乗務員がひざ掛けを持ってくる。おまえは本を閉じる。次いで、目も。眠りに落ちる準備は整っている。緩やかにケープタウンに近付いている機内でおまえは眠る。
「ケープタウン? 何ですか、それ」
 結花がいる。恵比寿ガーデンプレイスへ続いている動く歩道。おまえは後ろ向きに立ち、結花はしゃがみこんで見上げている。だぼついたジーンズの上にミニスカートを履いている結花はうんざりした顔をしている。暑さだ。結花は暑さに弱い。おまえに比べて、着ているものが多すぎる。
「やばい。本気で知らないんですけど。何でしたっけ? もしかして常識?」
「町の名前だよ」
「あー、町の。どこですか?」
「南アフリカ」
「アフリカ?」
「うん。アフリカ」
 一匹狼になったおまえはシンガポール航空九四二便から、ケープタウン空港の冷たいコンクリートに降り立つ。出発は夜、到着も夜。おまえの物語は夜に進行する。だからおれは夜を物語る。おまえの夜だ。恵比寿にいるおまえと結花も夜の黒さに包まれている。「南アフリカって何でしたっけ? アフリカの南?」、おまえに背を向け、手すりに両肘を乗せて身を乗り出している結花が言う。十二月頃からはイルミネーションで艶やかになるが、初秋に差し掛かったばかりの今は、どこか物悲しい恵比寿ガーデンプレイスにおまえたちはいる。おまえはその寂しさを抱え続ける。ケープタウンに住む黒人のバルボロ・モリソンはおまえを見かけ、その背中の物悲しさに圧倒される。バルボロはおまえに声をかける。「ハロー」。オープンカフェにたったひとりで座っているおまえは振り返る。ひとりでいる日本人観光客は、置き引きのバルボロには絶好のカモに他ならないが、バルボラは特に用事もないままに、おまえに話しかける、「ハロー」と。
「ハローって」
「え?」
「通じるんですか? ハローとか。ていうか南アフリカって何語? 南アフリカ語?」
「英語でしょ」
「え? アフリカって英語なの? それアメリカじゃないですか?」
 おまえはそんな会話を思い出している。通じるみたいだよ、結花ちゃん。おまえが微笑むと、バルボロ・モリソンは戸惑う。あの背中は何だった? 見間違いだったのか? ただの小娘じゃねえか。だがバルボロは、殺しはしない。金を持っていそうな人間から持ち物を奪うだけだ。暴力は行使しない。自分の荷物であるかのように、ナチュラルに持っていくだけだ。だからバルボロは、今どうしていいのかわからないでいる。「あんた日本人だろ」。すでに確信していたことではあったが、極めて簡単な構文で、おまえは問いかける。「あんた日本人だろ」Are you a Jap?。バルボロは答えを期待せず、訊ねる。日本人は大抵がカモだった。東洋人は概ねカモだが、日本人は特にカモだった。警戒心が全くといっていいほどない。そのあまりの無防備さに惹かれることがないわけでもなかったが、いつだってバルボロはビジネスを優先する。だから日本人を狙う。できるだけリスクを避ける。弱者は弱者を食らわねば生きていけぬと考えている。逆にいえば、強そうであれば、日本人であっても狙わないということだ。最近知った。
 英語だったとおまえは思う。目の前の黒人はたしかに英語を発したとおまえは思う。「あんた日本人だろ」Are you a Jap?。おまえはネイティブではない。しかしたった今発せられた単純な疑問形を理解するくらいの教育は受けている。間を置いて、おまえは答える。「うん」。黒人は、「そうかい」Good,well.と頷く。奇妙なコミュニケーションが生まれる。ビジネス街のオープンカフェ。恵比寿や代官山にありそうな洒落た造りの店におまえはいる。テーブルを挟んだ向こうに座った黒人は次の言葉を迷っている。おまえは?
「黙らないでよ」
 過去のおまえが隣の男に言う。何年前だ? おれは詳しくは知らない。五年と一八七日前ということにしておく。誤差があったとしても、きっとプラスマイナス一年くらいのものだろう。物語上、その程度の誤差が生じてもいっこうに構わない。おれが物語るフィクション。多少の真実をまぶしているとはいえ、おまえたちもおれたちも結局は日本の虚像だろう? そして、おまえたちは恵比寿にいる。恵比寿だ。数日前のおまえと結花がいる場所と同じ、恵比寿。恵比寿ガーデンプレイス。
 石黒富利夫。変な名前だと思う。そのときのおまえは付き合いが五年以上になり、南アフリカまで追いかけに行くとは夢にも思わずにいる。どう思っていたか。変な人。それ以上でもそれ以下でもなく、ただ変人であると思っている。それでも、たまたまJR新宿駅東口の紀伊国屋書店本店地下にあるファーストキッチンで相席になっただけであったはずなのに、おまえは富利夫と肩を並べ、恵比寿ガーデンプレイスから恵比寿駅へ至る動く歩道にいる。富利夫は口を結んでいる。恵比寿ガーデンプレイスでは何もしていない。おまえはただ富利夫に着いていっただけだ。理由はない。おもしろそうだから、とかそんな理由だ。見ず知らずの人間についていくなんて、とは自分で思っている。結局恵比寿ガーデンプレイスでは何もせず、今は駅に向かっている。「腹減った」。そう呟いて、あくびをしている富利夫を見て、おまえは笑う。静かに笑う。「何だよ」。おまえの前に立っていた富利夫が振り返る。「別に」。おまえは視線を外すが、にやにやは止まらない。そのとき初めておまえはかわいらしい男の子だなと思う。
「かわいい系?」
「え? そうなんですか?」
「わかんないけど、わたし的にはそんな感じで」
「そうなんだ。でもいいですよね。惚れた男追って南アメリカまで行くなんて」
「南アフリカ」
「あ、そうだっけ? いやどっちでも変わんないですよ。遠いのが大事なんですよ」
「遠すぎるよ、さすがに」
「遠すぎるくらいがいいんですよ。ロマンティックってそんな感じじゃないですか」
 ワインを飲んでいる結花はもう軽く酔っ払っている。おまえは舌先を湿らす程度。フライトは明日、体調は万全で挑みたいと思っている。前日である今日、おまえは思い出をめぐっている。始まりの場所であるファーストキッチン、恵比寿ガーデンプレイス、そして駅ビルの中にあるつばめグリル。五年と一八七日前、富利夫はおまえの目の前に座り、おまえの顔ほどもある特大のハンバーグを食べていた。「あんまりおいしくなさそう」、おまえが顔をしかめると、富利夫はソースのついた口元を拭いながら答える。「いや、うまいよ。でかいし」。大きさは関係ないだろうとおまえは思う。
「バルボロ。何やってんだ」What is you doing now,Barbolo
 バルボロは振り返る。背の高い白人が立っている。色の入った眼鏡と帽子のおかげでその表情が窺えないが、バルボロに表情の変化がないところを見ると、たいした人物でもないらしいとおまえは判断する。ネイティブではないおまえの耳に届く言葉はひどく乱れているように感じられる。「日本人か」Is you the Jap?。おまえを見て、白人が問いかける。答えを待たず、バルボロの肩に手を置き、「行こうぜ」Go.Let's go.と促す。
 富利夫は、五年と一八七日前におまえを促した富利夫は、きっと期待などしていなかったのだとおまえは思い返す。だから驚いたんでしょ、富利夫、「ウソだろ」って、へらへら笑いながら。わたし知ってるよ。「何笑ってるんですか」。結花がワイングラスを灯りにかざしながら、問いかける。「何でもないよ」。おまえは答える。「何でもない」。結花はおまえの胸のうちを見透かしているように目を細めて、笑っている。そしてグラスに残された赤ワインを飲み干す。
「何でもねえよ」No,no I. There was the tiny problem.
 バルボロは座ったままのおまえを見下ろす。そして身を翻し、「ああ」と投げやりに応じる。おまえに挨拶もせず、背中を向ける。ガリェーゴ・クリスタンテは「おいアミーゴ、いい話があるんだが」と切り出す。「どうせロクでもない話だろ。こないだのクソ日本人みたいに」。ガリェーゴの尻を軽く蹴飛ばす。
 クソ日本人。おまえの耳が反応する。クソ日本人。立ち上がり、「待って」と呼び止める。「お願い、ちょっと待って」。日本語。完全な日本語。おまえの声に連れ立って歩いている白人と黒人が振り返る。「何だよ、日本人」。バルボロが言うが、心なしか、その目にわずかな怯えが見える。「そのクソ日本人について教えてよ」。駆け寄って、「お願い。私の知り合いかもしれないの」、日本語で言う。その姿に、明らかに二人は怯んでいる。何があった? おまえは想像もできないでいる。気圧されたバルボロが語り始める。ガリェーゴが時折補足をする。コロスの語り。それは一週間ほど前の月の夜だ。バルボロとガリェーゴは失敗に終わったシケた儲け話に悪態をつきながら、ダウンタウンを歩いている。お互いの言葉を聞き流し、好き勝手に罵詈雑言を吐いている。夜だ。富利夫は平然と夜に出歩いている。危険だというのに、何の躊躇もなく、歩いている。ケープタウンの夜が淡々と過ぎていく。二人と一人は十数分後に巡り合う。間もなくだ。富利夫は眠っている。ハードケースを枕に、寒さに震えながら眠っている。
 バルボロもガリェーゴも言葉が通じていないことくらいわかっている。だから身振り手振りを交えている。おまえにはそれがダンスに見える。激しい身体の運動が物語を語りだす。言葉だけではない。物語るために必要なのは真摯な態度だろう。おれには今、言葉しかない。しかしバルボロとガリェーゴには言葉はない。肉体があるだけだ。ケチな悪党の貧弱な魂を伴った、身体。
起きなよ、お坊ちゃんGood morning baby.
 ガリェーゴが足で眠っている富利夫を突っつく。夜明けはまだだ。薄暗い朝。富利夫と二人の人生が交錯する。何度か蹴られるうちに、富利夫はようやく瞳を開く。二人のコソ泥を視界に入れて、つまらなそうに「何だよ。何か用かよ」と日本語で言う。低音の、しわがれた声。富利夫は風邪をひいている。夜の寒さにやられている。ずるずると鼻を啜る。何度か咳払いをするが、喉のつかえが一向に取れない。  結花も鼻を啜っている。「夏風邪ひいたー」とげらげら笑う。電車の中、おまえたちは山手線外回りの車両にいる。人の姿はまばらだ。結花はおまえの肩に頭を乗せている。明るい赤色に染まった髪の毛がおまえの首筋を撫でている。酔っ払った結花は体をひきつかせながら、声を出さずに笑っている。そういえば富利夫も声を出さないで笑ってたな、決まってつまらないときだったけれど。
 ああ、笑ってるんだとバルボロは思う。目の前のやけに肌の浅黒い日本人は声を出さずに笑っている。不気味だった。そして何事か言い始める。内容はわからない。バルボロもガリェーゴも日本語を知らない。しかし構わずに富利夫は日本語混じりで言う。「金なんか出さねえよNo tengo dinero. No. Nunka dinero.バカじゃねえのかおまえら。働けよ」。目を細めている。眼光は鋭い。メキシコシティーで麻薬の売人をビビらせた目つき。「おまえ日本人かよAre you a Jap?」。しかしそれすらもおまえには愛おしく思えてならないのだ。記憶の中の目つきの悪い富利夫をおまえは抱き締めている。抱き締められた富利夫は声を出さずに笑う。そしておまえの胸元にそっと口付ける。クーラーのない石黒富利夫の城で、真夏の終わりにおまえたちはセックスをする。汗がびちゃびちゃと音を立てる。息を切らせながら、おまえは富利夫に溺れる。
「面倒くさいんですけど、でもいいですよ。わたしと三島さんの仲だから」
「ごめんね。適当に住んでていいから」
「いや、住みませんよ。CDとか適当に借りるから、それでチャラ」
「うん。いいよいいよ。わたしのじゃないから」
「適当ですね。石黒君の影響?」
 結花は富利夫を石黒君と呼ぶ。おまえの口から語られた断片的な石黒富利夫は、結花にとっては石黒君になる。幼さを残した少年。そんな漠然としたイメージが結花の中の石黒富利夫だ。
「見送りにはいけないけど」
「うん」
「元気でいてくださいね。わたし、三島さんのこと好きですよ」
「結花ちゃん、あのね、わたしすぐ帰ってくるから」
「あ、そっか。連れ戻しに行くんですよね」
 足元もおぼつかない結花を彼女の自宅まで送る。高円寺のアパート。考えてみれば、結花の部屋に来るのは初めてだなとおまえは感慨にふける。鍵を借り、室内に入る。掃除は行き届いていない。衣類はきちんと片付けられているが、雑誌やCD、あるいは飲み物やお菓子はテーブルの上に置きっ放しになっているし、口をしばったゴミ袋が部屋の片隅に鎮座している。しっかりしなよとおまえは思うが、この部屋を片付けている時間はない。帰らなきゃ。帰って明日に備えなきゃ。おまえは結花に水を飲ませる。「わたしもう帰るからね。元気でね、結花ちゃん」。
 行かなくちゃ。おまえはバルボロとガリェーゴの話を聴きながら、焦りが募り始めていることに気づく。チャンスが失われることへの巨大な不安が頭をもたげ始める。つい最近まで、富利夫はこの町にいた。そしてこの二人とあった。そのとき、足を撃たれた。怪我をした。それでもかまわずに富利夫はこの町を去った。きっと、南下した。だから行かなくちゃ。
 マウリシオ・タッデイという男から買った拳銃をガリェーゴは懐から取り出す。銃口の先には石黒富利夫という旅人がいる。「あんたわけわかんねえこと言ってんじゃねえぞ。殺されたくなかったら、金出せよ」。撃鉄を起こしながらそう凄むが、富利夫はその言葉を理解できないでいる。「はあ?What?」。肩をすくめる。バルボロはガリェーゴを制する。「おい、殺しはやんねえって」。ガリェーゴは富利夫の「はあ?What?」にキレている。「バカにすんじゃねえぞ」。引き金を引く。中古の拳銃から弾丸が発射されるが、素人のガリェーゴはその衝撃に耐える耐えないの前に、拳銃を握り締めた両手を固定できないでいた。弾道は大きくそれ、富利夫の左すねの外側を削りとるにとどまる。富利夫は呻く。「痛え」。脛を押さえて立ち上がる。「痛えじゃねえか、ちくしょう!」。
 ケープタウンを抜けたおまえはひたすら富利夫の後ろ姿を追う。バルボロとガリェーゴとは別れた。他のツアー客と一緒にサイモンズタウンへ向かいながらも、おまえの目は南アフリカの大地ではなく、大切な大切な石黒富利夫を追っている。
 立ち上がった石黒富利夫を見たとき、二人のならず者は腰を抜かす。奇妙な出で立ちをしている富利夫を一瞬神と勘違いをする。下駄を突っかけ、ジーンズを穿き、ポンチョを羽織っている。そのポンチョは無数の鳥の羽で彩られていて、極彩色の鮮やかさを有している。リーヴァイスのジーンズはほとんど白くなるまで色落ちし、両膝に大きな穴が開いている。下駄の鼻緒には結び直した痕がある。「何だこいつ」。バルボロがつぶやく。足元から拾い上げた目の覚めるような赤色のソンブレロをかぶり、苦痛で顔を歪めている。両腕にはブレスレットやミサンガが無数に巻かれている。「痛え痛え」と憎々しげに吐き捨てながら、ジーンズの左の裾を捲り上げる。血液がべったりと付着し、焦げたような匂いがする。足首にもミサンガが巻かれている。「よかった。千切れてない」。やっと安堵したような声を出す。それからきっと二人を睨みつける。富利夫の格好に驚いていた二人はその表情にびくんと身体を震わせ、弾みでガリェーゴは拳銃を落っことす。富利夫は怪我をしていない足を踏み出す。からんと下駄の音が響く。舌打ちをして、日本語で怒鳴りだす。
「ちくしょう痛えなあ。あんたら何なんだよ。おれが今まで巡り合ってきた人たちは素敵な人たちばかりだったよ。アゥグストとギーザにはペンと便箋を貸してもらった。エレーナは、エルネストのお母さんは見ず知らずのおれを泊めてくれた。この帽子はメキシコのアレジャノに貰ったし、このポンチョはドミンゲスに貰って、アレハンドラに直してもらったんだ。みんないい奴ばかりだった。おれはギター弾いたり絵を描いたりしただけだっていうのに。そうだよ。悪い奴なんて一人もいなかった。サルバだってそうだ。腕折られたけど、どうにか生きてた。人間てそういうもんだろ? なのに、あんたら何なんだよ。おれはこの国を忘れないよ。こんな、ちくしょう、くだらねえ、て、て、鉄砲なんかいきなり撃ちやがって。寝てただけじゃねえか。おれは絶対に忘れない。くだらねえ、クソみてえな国だって、絶対に忘れないからな」
「ありがとう。名前もわからないけど、ありがとうございました。わたし、もう行きます。もう会えるんだなって何となくわかるんです。わたしはエリカです。エリカ・ミシマ。わたし、急がなきゃ。わたし、絶対に忘れない」
 おまえは日本語で感謝を述べる。バルボロもガリェーゴも何を言われているか、さっぱりわからないでいるが、珍妙な服装の青年とは正反対のことを言っているのだろうと見当をつける。意味はさっぱりわからないが、きっとそうなのだろうと納得する。
 結花の言葉が意味を持たなくなってから、おまえは帰宅の準備をする。のんびり夜を歩こうと思う。嘔吐し始めた結花を放っておけないまま、一時間くらいを結花の部屋で過ごしている。服を脱がせ、敷きっぱなしだった布団に横たわらせる。「あ、にゃんこ監督に餌あげなきゃ」。にゃんこ監督? おまえは部屋の中を探すが、にゃんこ監督と思しき猫はいない。寝言? おまえは栗色のクッションに腰を落とす、すとん、と。
 立ちふさがっていた二人は道をあけ、撃たれた足を庇いながら歩き始めた富利夫を見送る。立場が変わっている。見下ろしていたはずの日本人は何故だか気高く、有無を言わさぬ異様な迫力を持っている。バルボロはおまえに言う。「あの男は」The man who、ためらいつつも続ける、「あの男は世界を手に入れたんだ」The man who got the planet earth.
 再び観光客にまぎれたおまえはツアー会社が手配した観光バスに乗り、南下する。行き先はサイモンズタウン。ペンギンが歩く砂浜がある。おまえは、そのバスが富利夫を追い越したことを知らない。おまえは、自分がすでに富利夫を追い抜いてしまっていることを知らない。ケープタウンを出発して数十分、鮮やかな海岸線が目に入る。それはまさしく、雲居にまがふ沖つ白波。水平線を見ているおまえは『伊勢物語』の一句を口ずさむ。誰にも聞こえないように、こっそりと。

風吹けば
沖つ白浪
龍田山
夜半にや君が
ひとり越ゆらむ

 おまえの目には龍田山ではなく、テーブルマウンテンが映っている。富利夫、あなたは今どこを歩いているのかな。高揚感はない。おまえは不思議なほどに落ち着いている。それは確信から生まれた冷静さ。わたしはもうすぐ富利夫に会える。
 ケープタウンの南にサイモンズタウンは位置している。洒落た海岸沿いの町。その町の最高級のホテルにおまえたちは宿泊する。ボルダーズビーチでペンギンを眺める。よちよちと、立つことを覚えたばかりの赤ん坊のように歩いている。極めて不安定な歩き方。それは富利夫も同じだ。富利夫はびっこをひいて、ケープタウンをあとにしている。金はない。二本の足しかない富利夫は、その一本を瞬間的に失っている。「痛えなあ」。破りとったポンチョの裾で傷口を縛っている。目的地はサイモンズタウン、ボルダーズビーチ、ペンギンの群れ。富利夫の脳裏に、チリの南、プンタ・アレナスで観察したペンギンたちのはつらつさが浮かび上がる。
 間もなくだ。間もなくおまえたちは再会する。
夜半も過ぎて、おまえはホテルを抜け出す。予感がした。昼間のうちに借りておいた自転車に跨る。ジンジャーエールの瓶を前カゴに放り込んで、おまえはホテルをあとにする。空は黒いが、黒いからこそ、星々の力強く燃えるさまが印象深くなる。「空、広っ」。おまえはそう呟いている。路上には誰もいない。おまえは無人になった夜の町を抜け、さらに南下する、何かにかきたてられているかのように。
 富利夫は歩き続ける。撃たれた足は麻痺し始めている。下駄が大地を擦っている。可憐な音はしない。富利夫の歩いたその後には、わずかに折れ曲がった、酔っ払ったみみずみたいな線だけが残されている。「寒ぃ、寒すぎ。何なんだよ、ちくしょう」。げほげほと咽込んで、しゃがみ込む。「どこだよ。おれ誰だよ。ここどこだっつうの。おれどこまで来てんだっつうの。おれ、誰だよ」。富利夫はすぐそばをとことこと歩いていたヘビウに話しかけるが、ヘビウは首を傾げて、怯える素振りも見せずに草むらの陰に隠れてしまう。「おまえは何なんだよ」。富利夫はぴょこんと立ち上がる。左足に痛みが走るが、構わずに歩き始める。にやにや笑っている。
「何笑ってんの?」
「笑ってねえよ」
「笑ってたよ」
 おまえは富利夫の腕に抱かれている。時刻は明け六つ。汗をびっしょりとかいた二人は匂いも厭わずに身体をぴったりと寄せて、眠っていたところだ。目覚めたおまえは富利夫が何やら笑みを浮かべていることに気づく。眠ったまま笑っている。「変なの」と頬を引っ張っていると、富利夫は目覚める。嫌がりはしない。何も感じていないようだ。おまえへに「何?」と訊ねる。おまえは言う。
「何笑ってんの?」
「笑ってねえよ」
「笑ってたよ」。
「じゃあ、いいよ、笑ってたで」
「よくないよ」
「よくねえのかよ」
 おまえたちは顔を見合わせて笑う。そのとき富利夫はやっと瞳を開く。あ、深い。おまえは思う。目の色、黒いし、深い。何だろうこれ。もうおまえは富利夫の虜になっている。肉体関係の有無ではない。その瞳の黒さに惚れる。真夜中みたいに深い。何、この目。惚れながらも、軽くひく。変な男。その印象に変化はない。あ、これ、始まったわ、わたしたち。確信を抱く。それは、富利夫、あんたの目よりも深い確信だったんだ、わかるか、富利夫。
「やっべえ、全然わかんねえ。ここどこだよ」
 地図も磁石も何もない。アフリカ大陸南部で富利夫は迷子になっている。ただ直感と風だけが足を動かしている。目的地もない。生命が富利夫を操っている。それは誰の? わからない。「右も左もわかんねえな」。独り言が多くなる。ただ、音が聞こえている。足や手の感覚は希薄になりつつあったが、視力や聴力が過敏になっていた。突風が吹いて、砂埃が舞う。一瞬だけ、富利夫の姿が地球上から消え失せ、マジックのように出現する。激しく咳き込んでいる。咳き込みながらも、音が聞こえている。何の音? 座り込んで、じっと耳を澄ます。波? これ波? 違う。声? 飛び上がって駆け出そうとするが、足が痛くておぼつかない。
 おまえはもう数時間も自転車を漕いでいる。風と上り坂で、思うように進まない。あたし何をしてんの、あたしどこへ行けばいいの、あたしどうしたらいいの。歌っている。曖昧に許容されたメロディーが大陸の風に吹き飛ばされている。アスファルトで舗装された道が一本、その両脇には乾いた台地が広がり、いたるところでつむじ風が周囲を威圧している。おまえはのろのろと進む。両足の脹脛や腿がぱんぱんに張っている。今にも攣ってしまいそうな状態のまま、おまえはひたすら自転車を漕ぐ。どこへ向かって? 予感に向かってだ。理屈じゃない。常識でもない。宗教的に言えば、神の思し召しだろうか。神様、神様、こっちでいいんでしょ? あ、ウソついたら殺すから。
 おまえが走っている道は断絶されている。フェンスがそびえているが、そっと押してみると、それはいとも簡単に開く。本来は金を払うためのゲートだ。しかし今は無人だ。おまえは静かに通り抜ける。そして再び自転車を漕ぎ、車道を行く。心臓が叫び続けている。体力な限界がおまえを羽交い絞めにしている。何もない道だったとはいえ、数時間に渡って自転車漕ぎ続けるという経験はおまえにはない。なかった。しかし今、おまえは目的地にたどり着いた。海が広がっている。大西洋とインド洋が大きくうねり、真っ黒い海水が軋んでいる。もう目を凝らさなくても景色がはっきりと見えるようになっているおまえは、立てられている看板を越え、岬の突端に立つ。岩ばかりのごつごつとした大地。野性の世界。風が強くなっている。髪の毛を押さえ、岩盤に腰を下ろす。火照っていた身体が冷却されていく。気持ちいいと素直に思う。ジンジャーエールを一口飲む。おまえは口笛を吹く。アフリカ大陸を包み込んでいる陰鬱な風に負けないくらい根暗なメロディー。レディオヘッドの『エジプティアン・ソング』。風が曲を、音を周囲に拡散させる。
「誰かいるのか?」
 日本語?
「レディオヘッド?」
 何で?
 振り返ったおまえは、看板の向こうで立ち尽くしている男を見つめる。
 そのとき、夜明けが訪れる。太陽が昇り始める。おまえたちは見つめ合っている。時間は存在しない。ただ見つめ合っている。空白を埋めるように、お互いの顔を覗き込んでいる。
「何、その格好」
 おまえは言った。五年と一八七日前。ファーストキッチン新宿紀伊国屋本店地下店で。「変な格好」。初対面の富利夫にそう言った。富利夫は切り返した。「いいんだよ、これで」。それからおまえたちは店を出た。山手線で恵比寿まで行き、恵比寿ガーデンプレイスでは何もせずに時間をすり減らし、駅ビルに行った。富利夫はたくさん食べ、たくさん飲んだ。おまえはサラダを食べただけだ。富利夫は冗談半分に行ったのだ。「今から恵比寿行くんだけど、どう」。おまえは、富利夫にとっては予想外の反応を見せた。「うん、いいよ、行く」。富利夫はおまえに聞こえないくらいの弱い声を出した、「嘘だろ」、と。
「何、その格好」
 おまえは言う。びっこをひきながらおまえに近寄る富利夫は浅黒く日焼けし、ひどく痩せている。色とりどりの羽根をまぶしたポンチョをまとい、膝や裾が破れたジーンズを穿き、下駄を突っかけている。よく見ると、ジーンズの片方の裾は血でぐっしょりと濡れているし、ポンチョは一部が破れている。そしてハードケースを背負っている。黒く立派なものにも見えるが、目を凝らせば、無数にある汚れや傷で埋め尽くされているのがわかる。富利夫だ。おまえは確信している。しかし、こうも思っている。富利夫なの?
「嘘だろ」
「富利夫?」
「エリカ?」
 その瞬間だ。おまえは再生した。おまえは静かに近寄り、ジンジャーエールの瓶を手渡す。富利夫はそれをしげしげと眺め、狂ったように喉を鳴らして一息で飲み干す。瓶をおまえに返す。おまえはただ頷く。
 言葉はない。しかし意思の疎通は存在している。
 空は真っ青だ。すでに太陽は大きく、大地を照らす準備を終えている。剥き出しの岩盤が熱を帯び始めている。おまえは数センチのところまで近付き、富利夫の胸に耳を当てる。鼓動が聞こえる。16ビートの鼓動。それから背に腕を回す。骨に触れる。やせ細った身体をおまえの熱が包み込む。それはいつだ? 今だ。おまえたちが再会した瞬間、バルトロメウ・ディアスがこの岬を発見してから五一三年が経過している。もうずいぶんと長いことおまえは死んだままだった。眠ったままだった。というのはもちろん比喩で、肉体が死んでいたり眠っていたりしているわけではないのだけれど、夜明けを全身で感じているおまえは今やっと、


(了)



作中の引用は以下によるものです。

「エンド・オブ・ザ・ワールド」(岡崎京子)
「銀河鉄道の夜」(GOING STEADY)
「伊勢物語 第二十三段」

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