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かりそめの形成

 バリオ・ティアーゴを初めて訪れた日のことを今でもはっきりと憶えている。メキシコシティにある大学に交換留学生として編入した年、夏季休暇を利用して、私は中南米諸国をバイクで旅しようと思ったのだった。八〇〇ヌエボペソくらいで買った中古のバイクだった。日本に戻るときに、パコという下宿先の子に七五ヌエボペソで譲った。
 最初にバイクがいかれたのがバリオ・ティアーゴだった。人通りの少なくなった夕暮れの路上で私に声をかけたのがマリアーノという同い年くらいの男で、彼は「どうした、チーノ。お釈迦になったか」と白い歯を見せた。私は「チーノじゃない。俺は日本人だよ」と答えた。留学先の大学でも街中でもしょっちゅう間違われていたので、すでに慣れっこだった。マリアーノは私の隣にしゃがみ込み、すぐに「こりゃあ、だめだな」と断言した。私は免許は持っていたが、機械いじりはめっぽう苦手だった。「直らないか」と訊ねると、「直るよ。でも今日は直らん。店を畳んじまっているからだ」と私の背を叩いて大声で笑った。それが出会いだった。
 熱砂に抱かれたい。そう思ったのだった。帰国してからの私は抜け殻のようで、触れるもの全てが濡れたちり紙みたいになってしまっていたし、そのような日々はメキシコシティで過ごした数年間はもちろんのこと、バリオ・ティアーゴに滞在していた数日間にも及ばない。働いてはいたから金はあったのだけれど。ある日、私は自分で作成したスクラップブックを眺めていた。すると、コロンビアの文字が飛び込んできたのだった。カルタヘナで妊婦が腹を裂かれて殺されたという陰惨な事件の記事が紙面の隙間を埋めていた。港の近くの市場で拉致され、袋小路で発見され、病院に搬送されたが間に合わなかったのだという。コロンビアという文字が私にあの日々を思い出させた。
 バリオ・ティアーゴへ向かうにあたって最も危惧していたのはマリアーノが私を憶えているのかということだ。長い年月が過ぎた。忘れている方が当然であるのかもしれなかった。しかし私は一つの明るい光景にすがりついていた。「どうした、チーノ。お釈迦になったか」。その言葉は永遠であるように思われた。だからこそ、私は一度メキシコシティを訪れたのだった。今は立派な青年になっていたパコから数日間だけバイクを借りることにしたのである。メキシコシティを離れた朝、何故だかなかなかエンジンがかからなかった。「お前は今までどこへ行っていたのだ」とへそを曲げているように思えた。
 もちろんただの旅行というわけではなかったのだった。先頃、ボリビアに誕生したエボ・モラレス新政権が中南米各国においてどのような影響をもたらしているか。そんな取材テーマを持っていた。しかし原稿の依頼が来ているわけでもなく、飯の種になるかもしれぬという曖昧な期待でしかなかった。
 先程からバリオ・ティアーゴと記してきたが、実際にそのような名前がつけられているのかどうか、私は知らない。そこはレティシアから少し離れた町である。レティシアはアマゾン川に面した町で、ペルーとブラジルが目と鼻の先にある。熱帯の樹木が鬱蒼と生い茂っているような地域を、私は無謀にも一台のバイクで走っていた。土とヤシの香りに誘われるように、名前のない町に私は辿り着いたのだった。ティアーゴとは十六世紀にこの地に流れついた脱走兵らしいが、詳しくは知らない。私はエルネスト・“チェ”・ゲバラの日記に触発されていたのだろう。その頃、今は失われてしまっている情熱が確かにこの手の中にあった。マリアーノや、掘っ立て小屋のような教会に私を泊めてくれたルイス・マヌエル神父のことは今でも鮮烈に憶えている。確実に喪失する一方で、未来永劫失われないものは確実に存在しているのだ。
 危惧していたのは道筋を全く覚えていないことだったが、十年前と同じように私は雨上がりの湿った土と水をさかんに弾いている樹木の葉の香りに包まれていたのだった。バイクのタイヤには土砂がこびりつき、またシダやツルが行かせるものかと絡みついていたが、それらをほどいたのはまさしく憧憬だった。両手両足にこもる力を生んでいたのは間違いなく、もう過ぎ去ってしまった日々への憧れだったのだ。少しだけでも構わないから、あの感覚を味わいたい。そう思っていたのだった。私はバイクを止め、絡みついていた植物を小さなナイフで毟り取った。一際大きな木がすぐそばにあった。私はその雄々しい幹にもたれかかり、休息を取った。
 うとうととまどろんでいると、不意に何者かの気配を感じた。歌声が耳に飛び込んでくる。

 なんだかこわくなったから たましいのさきっぽくわえた
 だれかがつよくひっぱって たましいのさきっぽちぎった

 無数の枝に生い茂っている葉によって遮られているため、日中でも薄暗く感じるくらいの森の中である。目を細めると、確かに人だった。まだ五歳か六歳くらいの少女が訝しげに私を見ていた。眉間にしわを寄せているが、それはませた子供が大人の振りをするようなしぐさであり、恐ろしさではなく愛らしさを感じた。私は顔を崩して、「こんにちは」と声をかけた。すると少女は走り去ってしまった。背中に届くくらいの栗色の髪の毛がふわふわと揺れていた。考えてみれば、私は日本人である。観光客の姿もあるレティシアならともかくも、このような密林の中で出会った怪しげな東洋人に流暢な現地語で話しかけられたとしたら、やはり恐ろしいかもしれない。それは高野山のどこかで金髪に青い目をした外国人に「こんにちは」と声をかけられるようなものなのだから。
 少女が去ってすぐに大きな雨粒が私の頬を叩き始めた。あっと思っているとすぐに雨脚は強くなり、数メートル先も見えぬくらいの激しいスコールになった。私はオートバイを巨木に寄せた。じきに止むことはわかっていたので、また私は背を幹に預けた。雨音だけが耳をノックしていたが、やがて消えた。大きな熱帯の植物の葉と厚い雲の切れ間からのぞく青空のはるか向こうに太陽が見えた。濡れ鼠になった私はバイクを押して、歩くことにした。一時間ばかり歩いただろうか。見覚えのある町並みが遠くにあった。その頃にはすっかり衣服は乾いていた。
 蜃気楼のような街だ、と初めて訪れたとき、そう思った。そのときの私はひどく疲れていたので、まるで唐突に街が姿を現したように見えたのだった。しかし今は違っていた。密林の、蛇のようにうねっている木々を切り開いた土地である。大きな通りが一つあるだけの小さな街。住民にとってはかけがえのないものであるが、かつての私のように通り過ぎるだけの人間にとってはただ休息地に過ぎない。宿屋の一軒もない。半ば潰れかけたレストランがあるだけである。私はすぐに懐かしい姿を見かけた。
「ダゴベルト」
 振り返った顔はやはり私の記憶の中のものと一致していた。
「ああ、あんた。いつだったかのチーノか?」
「チーノじゃねえよ。日本人だ」
「ああ、そうだったっけ。あんたどこ行ってたんだ?」
 インディオの血を引いているのか背丈はそれほどでもないが、がっちりとした体躯をしている。全く変わっていない。白髪が増えたくらいだろうか。目を丸くして握手を求める姿はまさしく好々爺だ。
「どこも何も、日本に帰ってたんだよ」
「あ、いや、そりゃそうだな。まったくだ」
「爺さん、まだ作ってるのか?」
「ああ、まだ無事さ。どこだったかは合衆国に滅茶苦茶にされたって聞いたがな」
 ダゴベルトはコカの栽培をしている百姓である。以前、「そうでもしねえと食っていけねえんだ俺たちは。薬にもなるしな。カムカムだけじゃだめなんだ」と言っていたが、その状況は全く変わっていないようだった。
「何しに来たんだ? また道楽旅行か?」
「仕事だ」
「仕事? こんなところにか?」
「そうだよ。あんた、エボ・モラレスって男、知ってるか?」
「え? 誰だ、それは」
 眉間に皺を寄せて考え込む仕草を見る限り、全く知らないようだった。私は早々にその話題を切り上げることにして、「マリアーノは?」と問うた。ダゴベルトは「マリアーノ? ああ、作業場にいるだろ。夕方くらいまではいつだってあそこだ」と答え、目を細めた。何事かと声をかけようとすると、「リタ」といきなり手招きをした。私にではなく、私の背後に立っていた少女に向けて。
「あ、君は」
 リタと呼ばれた少女は、おそらくは五歳か六歳くらいだろうが、すたすたと小走りで私の脇をすり抜けて、ダゴベルトに近寄った。心細げにダゴベルトを見上げ、ついで私の様子を横目で窺った。
「あ、いや、この人はな、お前の父ちゃんの友達だよ、リタ」
「ともだち?」
 か細い声だった。
「ともだち。そうだな、友達だ」
 リタはダゴベルトの後ろに隠れるように立ち、顔だけを覗かせて私を見ていた。少女の長い髪は栗色で癖っ毛、白い肌は母親譲りなのだろうか、そして茶色い瞳はとても大きい。彼女は先程私が一休みしているときに唄を歌っていた少女に相違なかった。
「やあ、さっきは驚かせちゃったかな。ごめんね」
「何だ、会ったのか?」
「あの、ほら、あっちに大きな木があるだろう」
 と私が大雑把に指差すと、それだけで了解したのかダゴベルトは「ああ、あそこか」と頷いた。
「あそこで見かけて声をかけたんだ。驚かすつもりはなかったんだが」
「そうか。あんな遠いところまで。なあリタ、危ないから一人でそんな遠くまで行くな」
 ダゴベルトは足元のリタを見下ろして、優しく諭す。しかしリタは首を傾げて、すぐに頬を膨らませ、「ひとりじゃないから大丈夫だもん」と舌っ足らずの抗議をした。そして今度は小走りではなく、駆け足で土埃の向かうへ姿を消した。ダゴベルトは私を見て、肩をすくめた。
「難しい年頃なんだよ」
「みたいだな」
 二人して、腹を抱えて笑った。


 教会が大きくなっていたのには驚いた。木材を打ちつけただけの掘っ立て小屋はとてもじゃないが教会とは思えないような外観だったのだけれど、マリアーノの家へ向かう私の目に映ったのはレンガで造られた立派な建物だった。私の瞳に焼きついていたあの小屋はもうなくなっていた。
 対照的にマリアーノの家は何も変わっていなかった。「……チーノ」。私の予想とは違い、彼は言葉を失っていた。「どうした、チーノ。お釈迦になったか」。あの言葉はなかったが、私が「だからチーノじゃねえよ。日本人だって」と笑うと、金縛りが解けたように「ああ、そうだったな。いやさ、あんまり昔のことだから、忘れてしまったよ」と短く刈り込んだ頭を照れくさそうに掻いた。それから目尻を軽く押さえて、「最近は何だか涙もろくなっちまっていけねえや」と呟いた。髪には白いものが混じっていた。
 手ぶらで訪れるのもどうかと思っていた私は日本を出るときに日本酒を買っていた。『天の戸』という酒だった。私とマリアーノとリタの三人で夕食をとり、すでにリタは寝入っていて、男二人が古ぼけたテーブルに陣取っている。日本酒が口に合うかどうかは疑問だったが、マリアーノは「いい酒じゃないか」と白い歯を見せた。あのときの笑顔に似ていた。「直るよ。でも今日は直らん。店を畳んじまっているからだ」。しかし屈託のない心からの笑顔であったはずのそれには、今では影がさしているように見えるのだった。他愛もない会話を続けていたのだけれど、零時を回った頃、奥の部屋で寝言のようなリタの「うん」という声が聞こえ、水をさされたように私たちは押し黙ってしまった。マリアーノはグラスに注がれた透明の液体をぐいと呷り、やがて口を開いた。
「なあ、リタのことなんだが。あんた、昼間あの大木の方でリタを見たって?」
「え? ああ、見たよ。何か唄を歌っててね、驚かせてしまったようで、申し訳ない。嫌われちゃったみたいだ」
 私がそう苦笑すると、マリアーノは腕を組んで難しい顔をする。
「何? どうしたんだ?」
「行ってないんだよ」
「え?」
「リタはそんな遠くまで行けないはずなんだ。元々身体が弱くてね、お産のときに色々あって」
 私を疑っているわけではなく、怯えたような目だった。マリアーノは続けた、「まあ、たぶんあんたは見たんだろう。よくあることなんだ」と。お互いに酔っていたのだと思う。それ以上、その話は続かなかった。
「そういえば」、私は何の気なしに切り出した、「ルーチョはどうした? まだ元気かい?」
 教会の前を通ったとき、ルーチョ、つまりルイス・マヌエル神父を見かけなかった。教会の中よりも外にいる方が多いような爺さんだった。過去、マリアーノという機械いじりがめっぽう得意な男がいると教えてくれたのもルーチョだった。
「死んだよ。結構前の話だ。今は別の若い神父がいるよ。アウレリオっていう奴だ」
「そうか。爺さんだったからな」
 時の流れを実感するのはいつだって死人が出るときなのだ。私はふと一人の男を思い出した。何故忘れていたのだろう。ディアブロ。本名は知らないが、町の人間からはそう呼ばれていた。私と同じく教会で寝泊りしていた浅黒い肌をした大男だった。サンティアーゴ・デ・クーバの海岸から泳いでカルタヘナまでやって来たんだと歯をむき出して笑う男に私は「そんなバカをしたら沿岸警備の兵隊に撃ち殺されるだろ」と笑い返した。それが真実だったのかは知らぬが、その経歴や風貌からディアブロというあだ名をつけられていた。
「ディアブロは?」
「……あいつも死んだよ。教会が新しくなってただろ?」
「ああ」
「そのときだよ。皆手伝ったんだが、あいつが一番働いてたんだ。他にすることもなかったし、教会で寝泊りしてたからね。工事が終わってすぐだよ。寝床で死んでたらしい。あんななりだが、弱かったのかもしれねえな」
「……ディアブロも」
「ああ。かわいそうなディアブロ。ルーチョの隣で眠ってるよ」
 マリアーノは言いながら、十字を切る。
「そういえば、あんたの奥さんは?」
 マリアーノはコップを見つめたまま動きを止めた。それは永遠にも感じられるような時間だった。返答がなくとも、彼の妻に何が起きたのかを想像するのは容易なことだった。やがてマリアーノは口を開いた、「女房も死んだよ。リタと入れ替わりだった」と。私は何も言えなかった。何を言っても、無粋で無価値なものになるに違いないと考えていた。瞳を閉じた私はマリアーノの、顔も知らぬ細君へ気持ちばかりの黙祷を捧げた。それくらいしか、私にできることはなかったのだ。そのままお開きになり、私たちはだらしなく眠った。


 真夜中だった。不思議と目が覚めたのだった。物音が聞こえたような気もしたが、はっきりと目を開いてみると、静寂が周囲を取り囲んでいるのがわかった。マリアーノは大鼾をかいていた。私はそっと家を抜け出した。その際、奥の部屋を横目で見ると、リタは行儀よく、人形のように眠っていた。
 未舗装の道を挟んで向こう側に教会が見える。歩いて数分もかからない。暗くてよくわからなかったが、とかげのようなものを途中で踏んづけたようだった。「ぎゃあ」という悲鳴が聞こえた。私は構わずに教会の裏手へ向かった。ささやかな墓地がある。どれもこれも平等にみすぼらしい。暗い中、私は目を細めた。文字を見つめる。『悪魔、安らかに眠る』。その墓石はちょうど端っこにあったから、その隣がルーチョの墓なのだろう。私は手を合わせた。カトリックではないから、こういう場合にどうすればいいのかわからなかった。しかし気持ちが大事だと思い、ただ手を合わせたのだった。
「どうした日本人」
「……ディアブロ」
 声に振り返ると、大男が立っていた。暗闇の中だというのにはっきりとわかった。褐色の肌、針金のような髪、引き締まった肉体。薄ら笑いを浮かべて立っている男は私に「泳いできたんだよ」といったあのときのままだった。
「夜中じゃないか。何をしてるんだ」
「あんたの墓参りだよ。聞いたぜ。あんた、死んだんだって?」
「ああ。死んだよ」
 そう言うと、ディアブロは不意に伸びをして、私の背後のはるか向こうへ視線をやった。何事かと振り返ってみると、少女がふらふらとコカの畑の中を歩いていた。膝に届かないくらいの緑の中、白い花が咲き乱れている。ダゴベルトの畑だ。以前もこのように美しかった。いつかアメリカに枯葉剤を撒かれるのではないかと思っていたが、無傷でいられたのかと思うと嬉しくなる。リタはその中を踊るように歩いていた。「なあ」と私はディアブロに話しかけるが、幽霊は影も形もなくなっていた。
 私は大股でコカの畑の中を進んだ。葉や花を踏まぬように気を使いながら。少女に近寄り、「リタ」と名を呼ぶ。少女はゆっくりとこちらを向く。「どうしたんだ、こんな夜中に。危ないだろう」、私がそう言うと、少女は首を傾げる。薄手のワンピースの裾がひらひらと舞った。
「メリベア」
 少女はそうはっきりと口にした。「え?」と私は間抜けな声を出した。
「おじさん、マルガリータは妹。わたし、メリベア」
 そう言って、にんまりと笑った。私は眩暈に襲われた。マリアーノはそんなこと一言も口にしなかったし、実際あの家で寝ていたのはリタ一人だった。だったら、誰だというのだ。一瞬視線をそらすと、少女の姿は消えた。私は一人、コカ畑に立ち尽くしていた。


「メリベア?」
「ああ。昨日の夜、リタにそっくりの子に会ったよ。夜中だ」
「あんた何でその名前……? そうか、リタだな」
 翌日の午後、ガレージを兼ねているマリアーノの作業場に私たちはいた。リタはいない。昼寝をしている。マリアーノは修理屋だ。手先が器用で、どこで覚えたのか、機械にはめっぽう強い。メキシコシティまでの復路に耐えられるかどうか不安だったので、手入れをしてもらっていたのだった。彼はこちらを向かずに言う。
「メリベアっていうのは姉か妹の名前になるはずだったんだ」
「なるはず?」
「いやね、女房は妊娠してからしばらくは良かったんだが、どうにも不安だったんだ。だから、カルタヘナまで行って医者に見せたんだよ。知り合いのね。そしたら双子かもしれないって言われて」
「双子だったのか」
「いや、そうじゃない。生まれたのはあの子だけだ。でも、そう言われたら名前も決めたくなるのが人情だろ。女の子だったらマルガリータかメリベア、男の子だったらアレハンドロかカリスト。そう決めたんだ、女房と」
 マリアーノは手の動きを止める。肩が震えているように見える。私は声をかけられないでいる。
「でもまあ、生まれたのはあれだけでね。でも、どこで聞いたのか、あいつにはメリベアっていう友達がいるようなんだ」
「でも、それは」
「ああ、そうだよ。わかってる。幻だ。他に同い年くらいの子供がいないからね。しょうがないのかもしれないな」
「あれくらいの年の子供は皆そうなんだ。幻の友達を作るんだよ。日本だってそうさ」
「でも、名前がメリベアなんだぜ。そんな恐ろしいことはないだろ」
「恐ろしい……?」  違和感を覚えた。何かに怯えている。しかし、ただ単に娘が妄想で作り出した親友と遊んでいることへの恐れではないように思えてならなかった。「ここ、がいかれてるぜ」と言う声に我に返り、すぐに「直るか」と返した。彼は真顔で「部品があればな、探してくる」と家の中へ消えていった。
 ガレージのシャッターの真下にリタが立っていた。昨日とは違い、栗色の髪の毛を束ねている。頬をりんごみたいに赤くして、いかにも子供らしい無邪気な顔をしている。水でも撒いていたのだろうか、手にホースを持って、ぼおっと私を眺めていた。薄い緑色のスカートの裾が風に引っ張られるように揺れている。
「おじさん、帰っちゃうの?」
 やはり舌っ足らずな喋り方だった。言葉を自分のものにできていない年齢なのだろう。単語が舌に絡み付いているようだった。
「明日にはね」
「ふうん」
 まだ三十過ぎなのだが、彼女から見ればおじさんなのだろう。私は苦笑してしまう。あんまりお父ちゃんを心配させるなよ、と言いかけたとき、室内へ繋がる扉が外れるくらいの勢いで開き、血相を変えたマリアーノが転がり出てきた。
「何だ、どうした?」
「リタがいないんだ。見なかったか?」
「ああ、リタなら、こっち」
 と振り返って指差そうとしたが、リタの姿はどこにもなかった。


 私たちはダゴベルトやアウレリオなど、街中の人間に聞いて回ったが、リタは一向に見つからなかった。
「どこに行ったんだよ、どこに」
 大声を上げる気力さえ失ってしまったマリアーノを家に残し、それはもちろんリタが帰宅したときのことを考えての判断だったのだけれど、私は街の外を探すことにした。私には一つだけ確信があった。あの大木の根元にいるのではないか。マルガリータとメリベア、二人がいるような気がした。
 早足で歩く私のすぐ横を同じような歩調で歩く人影があった。ディアブロだった。「よう」、「何だよ、急いでいるんだ」と私は顔も合わせずに言う。「あんたにいいこと教えてやるよ。メリベアは本当にいるんだぜ。幻覚じゃないんだ。いい子だよ」とディアブロが真顔で言うので私は「そんなの、お化けに言われたらおしまいだ」と鼻で笑う。するとディアブロは姿を消すが、その真際、「もう一つ教えてやるよ。マリアーノの嫁さんな、殺されたんだよ。ほらあんたもよく知ってるだろ。カルタヘナで、妊婦が腹を切り裂かれたって」と言う。  雨が降り出した。密林の緑が瑞々しく輝く。その光の向こう側、大木の根元に彼女たちはいた。全く同じ姿をした少女が肩を寄せ合って座っている。不思議なほどに神々しい風景だと私には思えた。二人は眠っているようだったが、片方を抱きしめるようにしなだれていた少女が目を開く、きっとメリベアだと私は思う。
「メリベアだね」
 そう問うと、声もなくただ頷く。そしてリタの頬を愛おしそうに撫でる。その姿には何の邪念もなく、ただ妹を守っているように見えるのだった。
「君は死んでしまったんだね」
 また頷く。
「あの日、君とリタはお母さんのお腹の中にいた。でも」
 私はそれ以上の言葉を紡げなくなる。メリベアはひどく悲しそうに俯く。リタと同じ栗色の髪で顔が隠れてしまう。
 記事には書かかれていなかったが、胎児は二人だったのだろう。リタは助かり、メリベアは死んだ。そして母親、つまりマリアーノの妻も亡くなった。彼の態度がおかしかったのも納得ができた。きっと妻も子も守れなかった自分への罰が下るのではないのかと考えていたのだろう。
 しかしそうではないのだ。彼には見えないのかもしれないが、このメリベアの穏やかな顔を見ればわかる。
「ねえ、君のお父さんが心配してる。街の皆もだ。帰ろう」
 メリベアは黙って頷いた。そしてリタを揺すって起こす。リタは不思議そうな顔で私とメリベアの顔を見比べ、「えへへ。おじさん、パパには内緒だよ」と笑った。聞けば、この大木へは一人では来られないが、メリベアと一緒なら平気なのだと言う。秘密の一つや二つ、このくらいの子供なら誰だって持っている。私はにこやかに頷き、三人で街への帰路につく。メリベアは誰にも聞こえないくらいの小さな声で、あの歌を口ずさむ。

 なんだかこわくなったから たましいのさきっぽくわえた
 だれかがつよくひっぱって たましいのさきっぽちぎった

 私に連れられ家へ戻ったリタを見たときのマリアーノの嬉し泣きを、私は生涯忘れないだろう。その夜、父娘は仲良く二人で寝た。私は久方ぶりの教会での就寝となった。ディアブロの姿はなかった。
 翌日の午後、私はバリオ・ティアーゴを去った。
 マリアーノとダゴベルトは「また十年後か」と顔を見合わせて笑っていた。私も「そうだな。十年後だ」と拳を上げて答えた。父のズボンに掴まったリタは何も言わず、はにかんだような顔で私を見ていたが、その視線が一瞬ずれる。その先にメリベアが立っていた。彼女は寂しげな顔をしていた。
 ほの暗い密林の中、バイクを走らせながら、私は考えるのだ。時はとどまらない。きっとリタもすぐに大人になる。例えば十年後、この地を再訪するとき、彼女は全く別人のようになっているだろう。
 そんな近い未来の彼女は自分を見守っている姉のことを憶えていられるのだろうか。

(了)

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