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クドリャフカ・ブレス・ユー!!


 古典の教師が教科書を片手に黒板へ文字を書きつけていた。江戸時代に書かれた戯作だった。理樹は気もそぞろにそれを眺めていた。頭の中にあるのは日本の過去ではなく、海を隔てた遠い国で行われた、あるいは今も行われ続けているはずの公開処刑のことだった。処刑は毎日のように行われ、遺体は海に投げ捨てられているとの報道もあった。
 教室の一番前の席に座っていたクドリャフカが言葉もなく立ち上がった。理樹の視線は恋人へ引きつけられた。公開処刑の映像が全世界へ配信された日から、彼女は言葉を発さなくなっていた。クドリャフカは無言で教室前方のドアへ歩き出した。黒板へ向かっていた教師が彼女の様子に気づいた。
「能美さん?」
 教師の呼びかけに立ち止まってすぐに少し前屈みになり、床へ嘔吐した。近くに座っていた生徒たちが悲鳴を上げて顔を背けた。吐き終えたクドリャフカは吐瀉物を気にすることなく、教室を出た。その目はうつろだった。
 騒然とする中、理樹はすっくと立ち上がって、後ろのドアから廊下へ出た。クドリャフカは教室を出てすぐのところで倒れて痙攣していた。

 病院のロビーは込み合っていたが、途方に暮れている内に人影はまばらになっていた。クドリャフカが運び込まれた病院までやってきたものの、面会時間はすでに終わっていたのだった。理樹は長椅子に座っていた。かなりの時間が過ぎ去ったことを知ったのは、看護師がロビーに置かれたテレビの電源を落としたからだった。
 流れていた報道番組の音声が途絶えたとき、理樹は顔を上げた。歩き去っていく看護師の後ろ姿が見えた。廊下を曲がり、階段を上っていった。彼女は少年の視線を感じていたが、振り返ることはなかった。恋人の病状を案じている様子は容易に窺い知れたが、規則は規則だった。
 ナースステーションは無人だった。通常であれば考えられないことだった。長い廊下を見渡すと、白衣を着た男が小走りで歩み寄ってくるのが見えた。彼は内科医だった。二、三日泊まり込んでいるせいで無精髭が伸び、見苦しくなっていた。彼は「五〇八号室の患者がいなくなった」と耳打ちした。彼女は息を飲んだ。「探さないと。手伝ってくれ」と言われ、大きく頷いた。
 下の階を探すよう指示され、彼女は階段をぱたぱたと駆け降りた。三階と二階にはすでに同僚たちの姿があった。彼女は一階へ降りた。ちょうど病院を出ようとしていた少年と目が合った。彼女は構わずにその脇を通り抜けた。理樹はその姿を見て、何かが起こっていることを直感した。
 帰ろうかと思っていたところだったが、すぐに考えを改めた。彼の視線は看護師が駆け降りてきた階段へ向かっていた。彼女が早足で歩き去っていった方角を見据え、そちらが沈黙を保っていることを確認した。理樹は階段を上った。院内の案内図は確認済みだった。入院患者たちは五階以上にいることを彼は知っていた。
 『Kudryavka Noumi』という文字は五〇八号室にあった。理樹は迷わずドアを開けた。そこは個室で、無人だった。この室内と看護師や医師たちの様子を考えれば、何が起こったのかはある程度予想できた。理樹は窓際へ近寄った。カーテンが揺れていた。白いカーテンだった。理樹は床に落ちていた彼女のマントを拾い上げ、病室を出た。

 見上げると、カーテンが揺らめいていた。彼女の病室の真下だった。理樹はマントを片手に病院の敷地内を歩いていて、そこに辿り着いたのだった。立ち止まって、周囲を見回した。裏手の方に太い幹の木が見えた。理樹はそこへ向かってまた歩き始めた。
 クドリャフカは幹にもたれるようにして眠っていた。柔らかい寝顔だった。理樹はその隣に腰を下ろし、マントを毛布のようにかぶせた。遠くから、大声が聞こえてきた。理樹はクドリャフカの肩と膝の裏に手を回して、彼女を抱き上げた。思っていたよりもずっと軽かった。理樹は彼女を抱えたまま、ゆっくりと病院を後にした。

 近くの駅まで、クドリャフカを背負って歩いた。最初は毛ほどにも感じていなかった彼女の重みが徐々に圧し掛かってきていた。すでに日は落ちていた。さすがにこの時間では子どもたちの姿ではなく、帰路を急ぐ大人の方が多かった。駅前の広場にベンチがあるのが目に入った。
 彼女をベンチに座らせ、自分も腰を下ろした。身体中に疲労がたまっていた。今頃あの病院はどうなっているのだろうかと考えた。いなくなった能美クドリャフカを探しているのだろうか。理樹はうっすらと瞳を開けて、周囲を観察している彼女を見た。自分の行動が正しいかどうかはわからなかった。しかし、根拠はなかったが、少なくとも彼女のためにはなっていると確信していた。
 短い時間をそのままで過ごした。わずかではあったが、身体が軽くなっていた。理樹はクドリャフカの手を取って立ち上がった。クドリャフカは繋がれた指先を不思議そうに眺めていた。
 券売機で二人分の切符を買った。理樹は一枚をクドリャフカに手渡し、彼女の手を引いて自動改札へ向かった。理樹が先に通り抜け、手招きをした。彼女は恐る恐る切符を自動改札機へ差し入れた。フラップドアがぱたんと開いた。その動作に誘われるように自動改札を抜けた。
 理樹はまたしっかりと彼女の手を握った。自分がどこにいるのかも分かっていないように見えた。油断するとすぐにどこかへ歩き出してしまう有様だった。理樹は彼女の手を強く引き、地下のホームへの階段を降りた。
 電車は混雑していたが、満員というほどではなかった。理樹はクドリャフカを空いていた席に座らせて、自分はその前に立った。ドアが閉まり、電車が走り出した。理樹は吊革につかまり、中吊り広告に目をやっていた。週刊誌の広告はけばけばしいデザインをしていた。視線を前に戻すと、そこには空いた座席があった。とっさに周囲を見渡した。クドリャフカはふらふらと別の車両へと移ろうとしていた。理樹は彼女の名前を読んだ。
 クドリャフカは一度振り返り、すぐに駆け出した。理樹は虚を突かれたように身体を動かせなくなったが、すぐに彼女の小さな後ろ姿を追って走り出した。クドリャフカはバランスを崩しながらもどうにか転ばずに、立っている人の隙間をうまい具合にすり抜けていた。一方の理樹は多くの人にぶつかってしまい、何度も床に手をついた。彼女の姿を見失わないようにするだけで精一杯だった。
 電車が次の駅についたとき、クドリャフカは進行方向を変えた。電車からホームへ駆け下りたところで足をもつれさせて、壁に身体を打ちつけた。壁をくりぬいて作られた空間に並べられていたフリーペーパーがばらばらと落下した。ホームはざわめきで満ちていた。一人の駅員がやってきて、「大丈夫ですか?」と訊ねた。クドリャフカはぽかんと駅員を見るばかりだった。
 駅員は彼女を立たせて、事務室へ連れていこうとした。服装からして怪しかった。マントを羽織ってはいるが、その下に来ているのは寝間着で、サンダル履きだった。駅員が肩に手をやると、クドリャフカはそれを大きく振り払った。そしてすぐに駅員の胸を押した。さほど強い力ではなかったが、いきなりのことに驚いた駅員はその場に尻もちをついた。地面についたはずの手は誰かの靴に触れた。彼はすぐに手を引き、背後を見上げた。肩で大きく息をした少年がいた。
 クドリャフカは怯えきった目で周囲をきょろきょろと見回していた。理樹はゆっくりと彼女に近づいた。そっと小さな身体を抱き締め、大丈夫だと耳元で囁いた。クドリャフカは抵抗した。手を大きく振り、爪を理樹の顔に突き立てもした。理樹の顔や首筋には傷が走ったが、彼女を抱き締める力をゆるめることはなかった。やがてクドリャフカは身体を理樹に任せるようになった。理樹はいつの間にか泣いていた。きっと良くなるからと繰り返しながら。
 落ち着くまでホームのベンチに座っていた。二人の目の前を電車が何度も通り過ぎて行った。二人の間に言葉はなく、ただそれを眺めるばかりだった。駅員は二人を気にしながら、やり辛そうに蛍光灯のランタンで発車の合図を車掌に送っていた。
 クドリャフカが立ち上がったのはもう遅い時間だった。寮まで帰るには遅すぎた。二人は階段を上った。そこはターミナル駅で複数の路線が乗り入れていた。クドリャフカは一つの路線を選び、階段を降りようとして、振り返った。理樹はうっすらと笑って、頷いた。

 まんじりもせず夜を明かした。どことも知れず降りた駅の、北口と南口をつなぐ狭い連絡通路だった。寝ぼけ眼のクドリャフカは手で髪をすきながら、ふらふらと歩き始めた。理樹は黙ってその後ろを歩いた。
 金物屋がちょうど店を開けようとしているところだった。理樹はクドリャフカを呼び止め、店に入った。電話をしようと思ったのだった。寮の友人たちは自分たちを心配しているかもしれない。店主に電話を貸してもらえないか頼むと、初老の男は黙ってカウンターの向こうへ招いた。
 電話機は壁に取り付けられていた。右側の側面にあるレバーを回して交換手を呼び出し、恭介の携帯番号を伝えた。即座にそんな番号はないと言われた。理樹は受話器をフックに掛けた。そのとき、クドリャフカがすぐ近くにいることに気づいた。彼女はしげしげと電話機を眺めていたが、やがて小走りで店を出た。理樹は店主に礼をして、すぐに彼女を追おうとした。しかし店の入り口近くで立ち止まった。ロープが棚に掛けられていた。
 買ったロープでクドリャフカと自分の身体をつないだ。一方を彼女の腹部に巻きつけ、もう一方を左の手首に巻いた。クドリャフカは嫌がるそぶりを見せなかった。二人は駅に戻ろうと元来た道を辿り始めた。夜を明かした地下道があった。夜には気づかなかったが、そこには様々な色のペンキで落書きがされていた。立ち止まった理樹にクドリャフカは不満げだった。彼はすぐに歩き出し、二人の姿は駅の人波に消えていった。
 路肩にワゴン車が止まった。バケツとモップを持った男が降りてきて、壁の落書きを目にし、「困るんだよな、こういうの」とひとりごちた。

あらかじめ失われている恋人よ
いちども現れたことのない人よ
わたしは知らないのだ
どんな調べがお前に好ましいのかを


 彼は掃除を始めたが、その文字はなかなか消えなかった。舌打ちをして地面に唾を吐いた。

 列車が減速を始めた。二人は貨物車の隅っこで身体を寄せ合っていた。駅でもないのに止まろうとしている列車を理樹は不審に思った。自分とクドリャフカを繋いでいるロープをほどき、搬入口から外の様子を伺った。制服の男が歩いてきているのが見えた。
 理樹はすぐに振り返って、クドリャフカの肩にマントを掛け、降りるように指示をした。引き戸を開いて外に押し出した。クドリャフカはひらりと地面に飛び降りた。続いて理樹も飛び降りたが、逃げる前に首根っこを男に掴まれてしまった。男は腰にぶら下げた警棒を抜き、理樹の腰や背中を数度打ち据えた。
「なに勝手に乗ってんだ? あ?」
 男は理樹に馬乗りになって、顔をレールの添え木に押し付けた。それから何度か警棒を振り下ろした。口や鼻が切れ、血が流れた。頬のあたりは赤く変色した
「お前みたいなのがいるから、俺らの給料が上がんねえんだよ。わかるか?」
 クドリャフカが歩み寄ってきていた。男は「お前もだよ。わかってんのか?」と、その矛先を彼女へ向けた。その様子を目にした理樹は立ち上がり、男を突き飛ばした。倒れた男の腹に乗り、腰部に括りつけられていたランタンを奪った。そしてそれを高くかざして、手早く円を描いた。遠くから笛の音がして、列車の車輪がきしみ始めた。
「あ、お前なんでそれ――」
 慌ててランタンを取り返そうとしたが、理樹は素早く火を消し、投げ捨てた。男は「ちくしょう」と吐き捨て、走り出した列車へ慌てて戻っていった。
 理樹は男を見送ってから、顔に右手で触れた。指先に血が付着した。傷が増えていた。いつかの駅でクドリャフカにひっかかれた傷もまだ治っていなかった。
 立ち上がって、クドリャフカを探した。彼女はどこかへと続いている砂利道の中央にしゃがみ込んでいた。理樹も真似をして、彼女の向かいにしゃがんだ。砂利道の水たまりに二人の顔が反射していた。クドリャフカの無防備な表情とは対照的に、理樹の顔はひどい有様だった。
 理樹はクドリャフカの背後に移動し、彼女の腹部にロープを巻いた。もう一方の先端は自分の左腕に巻いた。立ち上がったクドリャフカは真後ろの理樹にかすかな笑みを浮かべ、ふわりと歩き出した。彼女に引っぱられるようにして、理樹も足を動かし始めた。すぐにタイヤの音が聞こえた。振り返るとちょうどトラックが走ってくるところだった。トラックは二人を追い越した。運転席の青年はサイドミラーを確認し、速度を落とした。縄で繋がれた高校生くらいの男女の姿は興味を示さずに通り過ぎようとした。
「おい、待てよ」
 彼は二人に声をかけた。少年が振り返った。顔に怪我を負っているのを見て、鉄道の野郎にやられたなと直感した。笑顔で彼は続けた。
「どこまで行くの? オレたち温泉町まで行くんだけど、乗っけてってやろうか?」
 青年は自分と助手席の女に親指を向けていた。帽子をかぶったおかっぱの女だった。彼女は興味なさそうにそっぽを向いていた。少年は疑わしげに青年を見た。
「別に何もしないって。オレたちさ、旅してんだよ。ほら」
 荷台に置かれているものにはブルーシートが掛けられていた。背伸びして、それをめくると、そこには映写機とおもちゃのようなオルガン、いくつかのフィルム缶が無造作にあった。
「活弁で全国回ってんだ。オレが弁士、こいつが伴奏やって。な?」
「うん。ろーにんがいとばんぴーる」
 青年が促すと、女は相変わらず遠くを見たまま口を開いた。少年はロープが引っ張られるのを感じ、視線を動かした。いつの間にか少女は荷台に上って、ちょこんと座っていた。
「決まりだ。ほら、早く乗れよ」
 少年は頷いて、荷台によじ登った。車が走り出してから、ところでそのロープ何?と聞かれたが、少年は曖昧に頷くばかりで答えなかった。

 桃太郎とその家来たちのパネルがあったが、どれも首が消失していた。トラックは山間にある人気のないドライブインに停まっていた。ドライブインといっても高速にあるようなものとは違い、その規模は小さかった。レストランと喫茶店を兼ねる店と駐車スペースがあるだけで、併設されている秘宝館は閉館していた。
 少女はパネルの前に立っていた。パネルの向こうには入場券売り場があったが、無人だった。入口のドアには鍵が掛けられており、中の様子はわからなかったドアに手を添え押してみたが、動くことはなかった。彼女は残念そうな表情を浮かべた。
「去年来たときはやってたんだけどね」
 青年は煙草をくわえて、魔法瓶の蓋に中身を注いでいた。それを女に手渡してから、「あんたたちも飲む?」と訊いてきた。少年はこくりと頷き、ロープを引っ張って少女を呼んだ。
 女は少し口にしただけでほとんど飲まずに、少年へ手渡した。コーヒーだった。「運転してると、これがないとやってられないのよ」と青年は言った。
 目的地の温泉町へはまだ何時間かかかるようだった。今は小休止といったあんばいだった。戻ってきたコーヒーを口にしながら、青年は女に「お前なんか弾いてやれよ」と声をかけた。女は退屈そうに頷いて、ぴょこんと荷台に飛び乗った。身軽な動きだった。
 ブルーシートを取り、オルガンの電源を入れた。そばに置かれたケースからディスクを取り出し、オルガンの本体へ差し込んだ。間もなく擦り切れたレコードのような古臭く暖かいメロディーが流れ始めた。それに合わせて女は鍵盤に指を走らせ、澄んだ声で歌い始めた。『時は忍び足で心を横切るの/もう話す言葉も浮かばない』。
 柔らかい音色と歌声にクドリャフカは振り返った。女が荷台でオルガンを弾いていた。理樹の元に歩み寄り、そっと肩に手を置いた。理樹はその手のひらに自分の手を添えた。

 青年たちとは温泉町で別れた。上映会場の設営を手伝ったため、すでに日が暮れていた。二人は見慣れない街並みを歩いた。クドリャフカは別れ際に彼らから貰ったブロマイドを手に持っていた。入場者へ配るプレゼントだったが、どうせ余るからと手渡されたのだった。黒いタイツ姿の女が映っていて、MUSIDORAというキャプションがあった。
 なだらかな勾配の坂道にさしかかった。両脇には土産物屋や小物を扱う店などが並んでいた。クドリャフカが足を止めたのは、櫛やかんざしを売っている店の前だった。興味津々の面持ちで店先に並べられた商品を見つめていた。
 理樹は店の奥から出てきた数人の学生服姿の少年たちに目をやっていた。彼らはちょうどポケットへ店の品物を入れているところだった。理樹は彼らに近寄り、何をしてるんだとその手を掴んだ。少年はぎょっとしたような顔をした。理樹は店の奥にいた老婦人に声をかけ、少年の手を引こうとした。しかし別の少年に突き倒され、頭を思いっきり蹴飛ばされて、気を失った。
 少年たちはポケットの中のものをその場に放り投げ、さっさと逃げていった。万引きしようとしたものがばらばらと店内に散らばった。
 理樹が畳の上で目を覚ましたのは翌朝のことだった。店の奥は民家になっているようだった。シャッターを開けていた老婦人が、理樹が目を覚ましたことに気づき頬を綻ばせた。
「すまなかったねえ。まだ痛みますか?」
 理樹はいえと首をふった。首を動かした途端、痛みが走った。顔を歪めた理樹を見て、老婦人が心配そうな顔をした。理樹は手首に巻いたロープを目でたどった。クドリャフカはすぐそばで寝息を立てていた。髪の毛が寝癖でぼさぼさになっていた。
「それ、全然ほどこうとしないんだよ」
 クドリャフカが寝返りをうった。その小さな手のひらが理樹のすぐ近くにすとんと落ちた。理樹が手を握ってやると、その寝顔はいっそう安らかなものになった。
 それを見て、「そう。そうなの」と何度か頷いた。それから箪笥の引き出しから一枚の櫛を取り出し、理樹へ手渡そうとした。理樹は首を振って固辞しようとしたが、老婦人はその様子にからからと笑った。
「いいんだよ。これちょっと欠けちゃっててね、売り物にならないんだよ。いい品なんだけどね。かといってうちには櫛なんていくらでもあるから。髪、梳かしてあげなさい」
 理樹は櫛を受け取った。古ぼけたべっこうの櫛だった。それをしげしげと眺めている内にクドリャフカが目を覚ました。大きくあくびをして、理樹にすり寄ってきた。
 その店を出たのは昼過ぎだった。結局、昼ご飯までご馳走になってしまったのだった。クドリャフカは髪を上げ、かんざしでまとめていた。それもまた、装飾具が一部取れてしまっているために店には出せないものだった。しかし使う分には問題はないようだった。
 去り際、理樹は深々とお辞儀をした。それからきょろきょろとしているクドリャフカの頭を押して下げさせてから、老婦人に背を向けた。「また来てね」と老婦人は言った。
 クドリャフカは店先のガラス戸や鏡に自分が映る度にかんざしの様子を確認していた。理樹は後ろから彼女の様子を見ながら、ズボンのポケットに手を突っ込み、櫛に触れた。
 不意にクドリャフカが立ち止まった。彼女が目にしているのは見世物小屋の看板だった。理樹はクドリャフカを追い越して、彼女を引っ張るようにして歩いた。しばらく名残惜しそうにしていたが、やがてまた理樹より先を歩くようになった。

 夜の海岸は、暗闇がどこまでも広がっているように見えた。海岸線に捨てられていたバスの中で夜を明かすことにした。腹が減っていたが、食べるものは何も持っていなかった。潮の匂いだけでどうにかする他なかった。
 その匂いを感じたのは電車を降りたときだった。そこは終着駅だった。眠っている内に終点に着いていたのだった。駅の案内板には三明という文字があり、『本日限りで廃駅になります』という文言があった。二人は駅舎を出てすぐのところにある地図を覗き込んだ。海までは一本道だった。
 彼らを運んできた列車は終電だった。すでに日が暮れかけていた。しばらく波打ち際を歩いていると、バスが捨てられているのが目に入った。見た目の錆びつきがひどく、タイヤも外されている状態で、もう動かされることはないだろうと理樹は思った。
 入口のドアを押すと、あっけなく開いた。中の状態もひどかったが、座席を外せばどうにかなりそうだった。座席はクッションのウレタンが露出していたり、水がたまっていたりとひどい有様だったが、それらを外して前方に寄せると、どうにか寝場所を確保することができた。
 と同時に、理樹は猛烈な眠気に襲われた。久方ぶりのことだった。クドリャフカはきょとんとした顔で倒れる理樹を見ていた。それからしばらくの間、彼は泥のように眠った。

 夜明け前だった。クドリャフカは理樹と寄り添うように眠っていたが、むっくりと身体を起こした。外へ出ようと思ったが、ロープがあるのである程度のところまでしか動けなかった。彼女はかんざしを髪から抜いた。まとめられていた髪の毛がぱらりと解けた。
 ロープをかんざしで突っつき、どうにか切断した。バスを降りた。明け方近くの冷たい空気が彼女の身体を包み込み、大きなくしゃみをした。履いていたサンダルを手に持ち、水際をぼんやりと歩いた。海岸は無人だった。波乗りに来る者もなかった。波打ち際ではゴミや魚の死骸が海水をかぶっていた。
 木の箱が流れついていた。中には注射器と注射針が入っていた。海藻の類を避けながら歩いていくと、人が倒れているのが見えた。宇宙服を着ていた。肉体はすでに腐敗し、男なのか女なのかもわからなかった。鼻をつまみながら、そこにしゃがみ込んだ。胸のあたりにタグが付けられていたが、腐食が進んでいるために文字までは読めなかった。タグをむしり取り、マントの裾でごしごしと拭いた。やはり文字は読めなかった。
 それを放り投げ、方向を変えた。死体をまたぎ、海へ向かって歩き始めた。海水は冷たかった。一歩一歩進んでいったが、不意に深くなっているところがあり、足を取られて転んでしまった。しかし、それでも歩みは止めなかった。水位が胸のところに達するまで進んだ。
 波が押し寄せる度に頭から水をかぶった。目はとうにさめていた。自分がどこにいるのかも理解していた。朝日がのぼった。クドリャフカは立ち止まり、「あい・りたーんど・とぅ・ほーむ」と呟いた。そのとき一際大きな波が押し寄せ、いつの間にか流れていた涙を洗い流していった。波はクドリャフカを通り抜け海岸線に到達し、彼女を探しにきていた理樹の足元を濡らした。理樹は彼女の名を叫んだ。それから、小声でおかえりと続けた。

 駅までの道のりは長かった。三明駅は廃駅になっていたから、隣の駅まで歩かなければならなかった。二人は線路を歩いた。隣の駅に着いたのは午後になってからだった。ずぶ濡れになっていたクドリャフカもその頃にはすっかり乾いていた。
 ホームのベンチに座って電車の到着を待った。しかしもう電車が来なくてもいいとさえ思っていた。二人は手をつないだままだった。向かいのホームに駅名を書いた標識があり、『終点もしくは始点』という文字が手書きで付け加えられていた。
 理樹は今いる駅の名前を読んで苦笑した。そこには『直海』とあった。
「見て。のうみの中に僕がいる」
 そのとき列車がホームに入ってきた。走行音が周囲の音をかき消し、視界は車両に遮られた。クドリャフカは理樹の手を強く握った。
 停止した列車の扉が開いた。列車から降りた少年は真っ先に標識の前に立って、写真を撮った。それから腕時計で時間を確認し、ホームにある時刻表と見比べた。今停車している電車に乗って戻るつもりはなかった。次の列車が来るまでには二時間ほどあるようだった。一休みしてから、周囲を散策しようと考えた。
 少年はベンチに腰を下ろした。列車が発車した。向かいのホームに人影を見つけた。年老いた夫婦のようだった。老人は妻と思しき老女の髪を梳いていた。歯の欠けた櫛だった。老女の髪の毛はすっかり薄くなっていたが、日光を浴びて絹のように輝いていた。
 線路に降り、向かいのホームへよじ登った。ジーンズで汚れた手を拭きながら、夫婦へ声をかけた。
「いい天気ですね」
 老人は手を止め、穏やかな顔で静かに頷いた。老女もまた、微笑んだ。少年は軽く会釈をして、改札へ元気よく走っていった。雲一つない青空の下のことだった。

(了)

<作中の引用は下記によるものです>
『あらかじめ失われた恋人たちよ』/作・清水邦夫、田原総一郎
『メイン・テーマ』/作詞・松本隆、作曲・南佳孝、編曲・大村雅朗、歌・薬師丸ひろ子

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