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a lamplight illusion

 風が吹いていた。曇り空の下にいた。無人の屋上で、神北小毬は手製の絵本を読み直していた。出来が良いとは言い難かったが、それはとても愛おしくかけがえのないものだった。
 ページをめくったとき、画用紙が一枚飛んだ。「おにいさん、いかないで」と小毬は口にした。風に飛ばされた画用紙はひらひらと宙をさまよい、やがてフェンスにぺたっとはりついた。小毬はぱたぱたと小走りでフェンスに駆け寄った。画用紙が浮き上がった。小毬はフェンスに片手と片足をかけ、身体を伸ばした。そのときフェンスが軋み、ボルトが大きな音を立てて外れた。「あっ」と声を出したときには、小毬の身体は空中に投げ出されていた。それっきり屋上は静かになった。
 重いドアが開いた。菓子パンの包みを二つ持った直枝理樹はドアの真ん前に立ったまま、目線だけを動かして小毬の姿を探した。息が軽く切れていた。
「小毬さん?」
 人影はなかった。ばらばらにほぐれた絵本の頁が風に吹かれて、彼の視界を遮った。無数の頁が病院の屋上で干されるシーツのように舞っていた。理樹はフェンスが一部外れていることに気づいた。そちらへ向かって一歩踏み出したときだった。ズボンのポケットの中で、携帯電話が震動を始めた。遠くから、車のクラクションが聞こえた。

a  l a m p l i g h t  i l l u s i o n

1

 畳張りの床にビニール袋を置いた。駅前で買った牛丼が入っていた。理樹はあぐらをかいて、発砲スチロールの容器の蓋を開けた。だいぶ冷めてしまっていたが、気にせずに食べ始めた。
 その部屋には家具らしい家具はほとんどなかった。本棚が一つ、衣類が入っている三段重ねの収納ケースが一つ、それくらいだった。だから六畳一間でも、妙に広く見えた。理樹は床に置かれた絵本に手を伸ばした。神北小毬の遺品だった。
 手製の絵本は何度も何度も読み直された結果、手垢で汚れきっていた。理樹は思い返す。彼女はお菓子を携えていたせいか甘い匂いがしたが、ごくたまに絵の具の匂いがしていた。その絵本に顔を寄せる度に、理樹はその匂いを思い出す。
 流し台の下には二リットルのペットボトルが何本か置かれていた。牛丼を食べ終えた理樹はその内の一本を手に取り、喉を鳴らして飲み始めた。不意に建物が揺れた。地震だった。理樹は揺れをまったく気にせずに出発の準備をしながら、懐中電灯で室内を照らした。電気は通っているが、部屋には電球がなかった。懐中電灯とろうそくで代用していた。壁には彼が描いた何枚もの画用紙が画鋲で留めてあった。小毬の絵本を参考にして、水彩絵の具やクレヨンを使って描いたものだった。
 絵の具やペンキで汚れたつなぎを着た。筆やはけ、ローラー、あるいは絵の具、ペンキを詰め込んだ鞄を背負って、部屋を出た。左手には鉄挺を持っていた。学校までは歩いて十五分くらいだった。今では廃校になっているが、建物は残されていた。
 神北小毬が死んでから、十年が経っていた。理樹だけがこの地に住み続けている。
 正門を乗り越えて、校舎北側の昇降口へ向かった。そこはシャッターで閉まっているが、鉄梃でこじ開けることができた。廃校になってから数年が経過しているために、廊下にも階段にも埃が分厚く積もっていて、いたるところに蜘蛛の巣や吹き溜まりができていた。
 理樹は真っ直ぐに屋上へ向かった。階段を塞いでいるロードコーンとコーンバーは理樹が通学していた頃から変わっていなかった。それを跨ぎ、積み重ねられた机と椅子の間をすり抜けるようにして、階段を上った。扉に鍵はかかっていなかった。以前に理樹が鉄梃で壊してしまったからだった。
 すでに日は暮れていた。理樹はマッチを擦って、昨夜描いた部分を照らした。見直してみると、色合いが曖昧で全体がぼやけてしまっているようだった。指先に熱を感じ、理樹はマッチを足元に落とした。その場にしゃがみ込み、絵本を開いた。そしてまたマッチを擦り、その絵をじっと見つめた。路上に立つ少女の後ろ姿が描かれている。
 小毬の記憶をここに刻むことを決めたのがいつだったか、今となっては遠い昔のことのように思えた。あの絵本の体裁が崩れて、ただの紙の束になったとき、どこかに彼女の絵を残しておかなければならないと感じたのだった。だとすれば、場所は一つしかなかった。二人が多くの時間を過ごしたここだった。
 理樹はマスクをつけ、スプレーペンキで崩れかけたアスファルトの色を変えていった。一度は青みがかった灰色に染め上げたが、やはり気が変わったのだった。もっと写実的な色が必要だと思ったのだった。真っ白にしてから、どうにかして汚してみようと決めた。
 彼にとっては、屋上のすべてがキャンバスだった。まだ元のコンクリートがむき出しになっているところが多々あった。しかし小毬が遺した絵本もまた、無数に存在した。そして実際に絵と文字という形に起こされていなくても、彼女から言葉だけで聞いた物語もあった。先は長いと思う一方で、そのどれもが必要とされていないのではないかと考えることがあった。本当に描かれるべきものが何であるのか、はけで色を塗っていくたびに少しずつ鮮明になっていっているようではあったが、まだ明瞭ではなかった。それでももう少しだ、そう思えることが多くなっていた。根拠はなかったが、確信はあった。それだけあればじゅうぶんだった。
 理樹は汗を拭って、作業を続けた。屋上にシンナーの臭いが充満していた。

2

 駅前のレコード店の前で足を止めた。上着のポケットには給料袋が押し込まれている。すでにレコード店はその日の営業を終えていて、電気は落ちていた。理樹が見つめていたのはポスターだった。着流し姿の真人がポーズを決めている。そのかたわらには『筋肉一路』という文字があった。『筋肉波止場』、『筋肉慕情』に続く三枚目のシングルだった。
 みんな、それぞれの人生を歩んでいる。真人は演歌歌手になった。スカウトされたのだと、いつか聞いた。彼らとは徐々に疎遠になっていったが、たまに便りが来るので現況を把握できた。謙吾は日本刀の職人に弟子入りしたと葉書が来たし、葉留佳は日光江戸村でくのいちになり、たまにスタントウーマンの仕事もしている。唯湖はアダルトビデオのディレクターになり、斬新なスタイルの作品を数本撮って業界を席巻した。一番の驚きはクドリャフカだった。彼女はヨーロッパ旅行中にたまたま出会ったフランスの映画監督に見出され、女優となった。
 理樹は大きく息を吐き出し、自宅へ向かって歩き始めた。倦怠感がひどかった。身体を休める必要があった。彼らのことを思うと、いつもそうなった。途中、自動販売機で飲み物を買って、ほとんど一口で飲み干した。彼らが健やかにそれぞれの人生を送っている、それは素晴らしいことだった。しかし自分は――そう考えてしまうことがしばしばだった。そう考える自分に吐き気がした。
 アパートが目に入ったとき、理樹は足を止めた。部屋のドアの前に誰かがいた。理樹は目を凝らした。若い男女のようだった。よろめきながら階段を上り、自分の部屋へ向かった。そのときようやく誰なのかがわかった。
「恭介。鈴」
「理樹! 久しぶりだな!」
 恭介は口元に笑みを浮かべ、両手を広げた。理樹は一瞬立ち止まったが、すぐに恭介の元へすたすたと歩いていた。鈴は兄の後ろに隠れていたが、理樹と目が合うとはにかむように笑って、指先を小さく動かした。

 二人とも、室内の様子を目にしてぎょっとしたようだった。理樹は構わずにビニール袋を流し台に置きながら、「悪いけど、食べ物とか何もないよ」と言った。
「ああ、いいよいいよ。食べてきたから」
「それにしてもきしょい部屋だな」
 鈴は本棚の前に立っていた。半分も埋まっていないその棚から一冊の本を抜き出した。表紙には『執行猶予なんていらない!』とあった。それは度重なるゲリラ撮影による道路交通法違反や公然わいせつで実刑を受けた唯湖が獄中で書いた自伝だった。鈴はその本を片手に持ち、もう一冊抜いた。同じ本だった。
「くるがやの本が二冊あるぞ」
「貰ったんだよ。自分で買ったんだけど、来ヶ谷さんが送ってくれたんだ。サイン入りで」
 理樹は数本のろうそくに火をつけて、床に置いた。すぐそばにいるはずの恭介や鈴の顔が辛うじて見てとれた。
「ごめん。布団とかも自分の分しかないんだ」
「気にしないでいいって。床に寝るから」
「あたしはどうなるんだ馬鹿兄貴」
 恭介の後頭部をすこんと叩いた鈴は仁王立ちになってそう言った。理樹は苦笑して、「僕はいいから、鈴、布団使いなよ」と言った。鈴は一瞬理樹の顔を見てから、「あ、うん……ありがと」と言いながら目線をそらした。
 そんな二人の様子を眺めながら、恭介はしみじみと口にした。
「しかし、まあ、ほんとに何もない部屋だな。らしいといえばらしいけど」
「テレビもないしな」
「いらないものだから。ここにないものは、僕には必要ないんだ」
 そう言って、理樹は寝転がった。組んだ両手を枕にして、天井を見上げた。隙間風にろうそくの炎が揺れた。恭介も理樹のように床へ横になった。鈴は壁にもたれて、本棚へ目をやっていた。
「恭介、今何やってるの?」
「俺か? 俺は今学芸員やってるよ、怪しい少年少女博物館の」
「学芸員? すごいね。らしいといえばらしいけど」
 恭介の口ぶりを真似る理樹に恭介はにやりと口元を歪め、理樹の腰のあたりを軽く蹴っ飛ばした。「何すんのさ」と言って、理樹も笑った。
「学芸員は冗談で、ただの雑用だよ。公立じゃないし」
「ちなみにあたしは、ねこの博物館で働いてるぞ」
「近くにあるんだよ。いや近くでもないか。でもまあ、兄妹で博物館勤めなんだ。この年になっても一緒に暮らすなんて思わなかったけどな」
 そう言ってから、恭介は声を上げて笑った。鈴は興味なさそうにそっぽを向いていた。床に落ちていたDVDのトールケースが目に入り、手を伸ばした。クドリャフカが出演した映画のDVDだった。『ソシアリスム』。ジャン=リュック・ゴダール。しかしこの部屋に再生できるデッキはなかった。
「みんな、しっかり働いているんだね」
「理樹、お前はどうなんだよ」
「僕は、今日は工事現場で働いてた」
 恭介の視線が停止した。
「たぶん、しばらくはあの現場で働くと思う」
「……そうか」
 会話はそこで途切れた。屈託のない理樹の言葉に恭介は戸惑いを隠せなかった。しかしそれ以上何も言うことができなかった。理樹もまた、それ以上の言葉を欲してはいなかった。
 部屋の中央に布団が敷かれ、鈴がそこへ横になった。電気を消す必要はなかった。ろうそくを吹き消していくだけでよかった。暗くなった室内に鈴の寝息だけが響いていた。
「なあ、理樹。留守電くらいつけたらどうだ。今日もさ、来るまでに苦労したんだぜ」
「いらないよ。その電話だっていらないくらいなんだ。仕事のために仕方なく電話線引いてるだけで」
 理樹はそこで言葉を切った。それから意を決したように強い口調で、しかし小さな声で言った。
「憶えてるだろ? 僕が電話に出られなくなったのは恭介のせいなんだよ」
 恭介は理樹の方へ向けていた顔を回し、天井を視界に入れた。といっても暗くてほとんど何も見えていなかったのだが、それでも理樹を見ているのは辛いことだった。鈴が寝返りをうった。夜はすっかりふけていた。

 その音は身体に染み渡るように響いて、しばらく離れなかった。恭介は中庭に立ち尽くしていた。目の前に神北小毬がうつ伏せに倒れていた。地面には赤黒い血液が広がり始めていた。喉がひどく乾いていた。
 恭介は屋上を見上げた。フェンスが外れていた。小毬の近くにフェンスも落下していた。何が起こったのかはだいたい推測できた。そして一つ思い出したことがあった。理樹のことだった。彼はきっと屋上にいるはずだった。おそらくフェンスが外れていることに気づくだろう。
 反射的に恭介は理樹に電話をかけていた。数度の呼び出し音の後、聞き慣れた理樹の声が耳元をくすぐった。
「もしもし? どうしたの?」
「理樹か? いいか、お前今どこだ?」
「どこって……屋上だけど」
「お前、今から教室に戻れ。わけは後で話す」
「え? あ、うん。わかった。あ、そうそうフェンスが外れててさ」
 恭介はまた屋上を見上げた。理樹がそこにいた。表情まではわからなかったが、色をなくしているだろうことは想像できた。理樹の手から携帯電話が滑り落ちた。そのまま校舎脇の茂みへと落下し、その瞬間通話が途切れた。「おい馬鹿兄貴」と背後から妹の声が聞こえた。

 気配を感じた。恭介が目を開くと、ちょうど理樹が部屋を出るところだった。彼は大きなバッグを背負って、なるべく音を立てないように部屋を出て行った。恭介は鈴の様子を確認した。身体を丸めて、小さな寝息を立てていた。恭介は起き上がって、理樹の後を追うことにした。鈴には声をかけなかった。
 まだ真夜中だった。ひっそりと静まり返った街並みを歩いていた。動くものはといえば、理樹と恭介くらいのものだった。ちょっとしたミッション気分だった。懐かしいな。郷愁に目を細めた。
 理樹が辿りついたのは学校だった。恭介は声を上げそうになった。そこは彼らが通った学校だった。理樹の背中を追って、校舎の中へ入り、階段を上った。理樹は屋上へ出て行った。恭介は躊躇し、踊り場で足を止めた。そして割れた窓ガラス越しに理樹の様子を探った。理樹はバッグを置き、中から画材のようなものを次々と出していった。
 アイデアは皆無だった。しかし色を塗らなければならなかった。描けないなりに、思うような色が出せないのは敗北だった。貰った給料の大部分をはたいて買った絵の具やペンキを並べていった。マッチを擦り、ろうそくに火をともした。少量を指や腕につけて、色合いを確認していった。夜の暗さの中でこそ映える色もあるはずだった。
 それからはけや筆を使って、壁や地面に色を塗りたくっていった。何回目の書き直しかは憶えていなかったが、下書きはとうにできていた。今度こそという思いは強かったが、その一方で今回もだめだろうという確信があった。
 マスクをつけ、スプレーペンキで下地を強固な色へ変えていった。数缶が空になったところで、その場に座り込んだ。身体が重かった。あまり寝ていないからだろうと思った。
「理樹、これ、なんだよ。すごいな」
 理樹はその声に素早く振り返った。恭介がそこにたっていた。目を丸くして、一種のグラフィティアートを眺めていた。理樹は「恭介」と彼の名を呟いた。
「これ、お前が描いたのか? すごいよ」
「別にすごくないよ。こんなの、ただの不法侵入と器物破損だ」
 そう吐き捨てて、転がっているはけに手を伸ばした。恭介は「いやすごいって」と言いながら、理樹に近寄った。ペンキ缶を覗きこみ、そばに落ちていた筆を拾い上げた。そして何の気なしにその色を筆先につけ、壁を突っついた。朱色の点々が壁に残されていった。
 身体を起こした理樹は恭介の行動を見ていた。ぴょこんと立ち上がり、彼に近寄っていった。恭介は壁に立て掛けてあるスケッチを見て、色を塗っているようだった。理樹はその色を凝視してから、慌てて恭介の手を掴んだ。恭介は驚いた顔で「何だよ、いきなり」と言った。
「やめてよ。その色じゃないよ」
「え? そうか? こんな感じだと思うよ」
「違うよ。全然違う。それじゃ夜が混線しちゃう。そんな色じゃないんだよ。もういいから帰ってよ」
「でも……お前……」
「帰ってよ。帰れよ!」
 理樹に怒鳴り声に恭介はびくんと肩を震わせた。目が血走っていた。ゆっくりとした動作で地面に筆を置き、理樹の様子を伺った。理樹は何も言わずに、筆を拾い上げた。
「理樹、あのさ……」
 そう話しかける恭介に背を向けて、屋上のほぼ中央に置かれているバケツの元へ歩いていった。そしてしゃがみ込んで、筆先をゆすいだ。バケツにたまった水が淡い赤色に変色していった。
 恭介は踵を返して歩き出した。階段を駆け下り、踊り場で床の凹みに躓いて転んだ。乾いた音が静かな校舎に響いた。薄暗さの中に壁の白がやけに目立っていた。恭介は立ち上がってズボンについた汚れをはたき落とし、今度は転ばないように階段を下りた。
 中庭に出た。ときおり屋上に光が見えた。それはマッチの炎だったのかもしれなかった。しばらくそこから屋上を見上げていたが、夜が明ける前に理樹のアパートへ戻った。鈴は起きていた。泣きそうな顔で、「どこ行ってたんだ、うすのろとんまっ!」と罵りながら、上着の裾を掴んできた。

3

 深い眠りから目覚めた。真夜中だった。仕事も屋上での作業も、時間が不規則だった。日増しに今がいつなのかがわからなくなっていた。しかしそれはどうでもいいことでもあった。理樹はある日カレンダーを部屋の壁から外した。不要だと感じたからだった。
 むっくりと身体を起こした。気配を感じた。寝ぼけ眼をこすりながら、室内を見渡した。いつもと変わらない光景があった。本棚、ろうそく、衣装ケース。床に並べた絵のための道具や壁に貼り付けた絵も、変化はなかった。
 ふと台所を見た。寄りかかるようにして神北小毬が立っていた。夜の暗さの中でははっきりとは見えなかったが、台所の窓から差し込む光がかすかに彼女を照らしていた。表情まではわからなかった。ただぼんやりと浮かび上がっていた。
 理樹はとっさに、枕元に置いたマッチ箱を掴み、一本のマッチを擦った。彼女へ向けて、その小さな炎をかざした。小毬の姿は夜の暗がりへにじむように消えていった。理樹は二本、三本とマッチを擦ったが、彼女の姿はもうどこにもなかった。
 そのとき地震が起こった。かなり大きな揺れだった。本棚から数冊の本が落ちた。理樹は揺れが収まるのを待ってから、本を拾い上げた。元に戻そうとしたとき、本の表紙が目に入った。そこには『マッチ売りの少女』とあった。
 理樹はその場にしゃがみ込み、最初の頁から読み返し始めた。『舞台中央に古風なテーブル、三脚の椅子。やや上手に小さなサブテーブル、一脚の椅子がある』。そんな一文から、物語は始まっていた。そしてこう続いている。『これは古風な芝居である。従って古風に、いささかメランコリックに始まらなければならない。』。小さなフォントが、暗さの中では読み辛かった。
 理樹は落下した本の一冊一冊を丁寧に読み返した。いつか読んだ『マッチ売りの少女』はその中にあった。かつて思ったことを思い出し、理樹はその文庫本を壁に投げつけた。
「悲しいだけの話を、僕が救ってあげるんだ」
 その思いはいつしか失われていた。彼女との思い出を刻もうとするばかりで、自分は結局何もできていなかったのだと、そのときわかった。笑いがこみ上げてきた。滑稽だった。
 つい今しがた、小毬が立っていた台所へ目をやった。小さな窓から朝日が差し込んでいた。

 屋上の中央にあぐらをかき、必要な絵を画用紙に描いていった。それは下書きのようなものだった。一心不乱に描き続けて、日が暮れる頃には二十七枚の絵が出来上がった。それを屋上中に移すためにレイアウトを決めなければならなかった。二十七枚分の絵でちょうど屋上が埋まるくらいに、サイズを引き伸ばす必要があった。しかし最後の絵をどこに描くかが決まっていたから、そこから逆算していけば苦ではなかった。最後の絵には少女が描かれている。雪の朝、立っている少女だ。
 貯金をはたいて買ったスプレーペンキで下地を一から作っていった。理樹は今まで描いたものをすべて塗り潰していった。今となっては無用のものだから、もったいないとも何とも思わなかった。
 夜明け頃にはすべての作業が終わっていた。あとは絵を乗せていくだけだった。書き変えた『マッチ売りの少女』を最初の頁から一枚一枚書いていった。筆やはけだけではなく、爪や指や手を使って色をつけていった。汗や涙が絵の具に混ざることがあったが、色を作り直すことはしなかった。
 飲まず食わずで作業を続けた。爪が折れたり割れたりして使い物にならなくなってからは、校内にあるものを使って絵を描いていった。筆やはけだけではだめだった。特に曲線と直線のコントラストを出すためには、もっと硬いものが必要だった。幸い、後者には外れたタイルやコンクリートの塊が至るところにあったので、そういったものの調達に困ることはなかった。
 すべての絵を描き切ったのは一週間後だった。終わったと思ったとき、理樹は駈け出していた。校舎の流し場に行き、浴びるように水を飲んだ。
 屋上に戻り、改めてその様子を確認した。『マッチ売りの少女』が一面に広がっていた。しかし何かが足りないと思った。横になって空を眺めながら、何が足りないのかを考えた。太陽を薄い雲が覆ったとき、雪が足りないのだと思った。『マッチ売りの少女』の最初の一文はこう始まっていた。『それはそれ寒い日でした。』。ここには温もりばかりで、寒さがなかった。
 理樹はポケットから手を出し、手のひらを開いた。数枚の小銭が絵の上に散らばった。少女と同じく、金がなかった。白を買うだけの金はなかった。理樹はため息をつき、神北小毬が消えた場所へ立った。フェンスは取り外されたままになっている。そこから校庭を見下ろした。目に入ったのは掘立小屋のような体育倉庫だった。
 想像した通り、そこにはグラウンドマーカーやライン引きが残されていた。理樹はそれらを台車に押し込んで、校舎まで持って行った。屋上まで運ぶのは億劫だったが、やらなければならないことだった。
 理樹はグラウンドマーカーの袋を破り、屋上中に炭酸カルシウムの白い粉を巻いた。絵を埋めない程度のバランスが必要だった。むせ込みながら、その作業を続けた。それが雪に見えるように。
 結果的に絵画がじゃっかん立体的になった。最後にライン引きで文字を引いた。『END』という簡単なアルファベットだった。理樹はライン引きを校舎へのドアに立てかけた。そして中央に描いた少女の真ん前に座り込んだ。真っ昼間だった。汗が身体中にまとわりついていた。
 あぐらをかいて少女の姿と『END』の文字を見ていると、屋上が暗くなった。風に流れる雲に陽の光が遮られたのだった。理樹は視線を動かさず、じっと自分で描いた絵を見ていた。顔の汗を拭った。不意にどこからか伸びた足が炭酸カルシウムの文字を跨いだ。上履きを履いた、白く細い足だった。理樹の目の前に二本の足があった。それは見覚えのある足だった。
「僕はまだこんなところにいる。どこにもいけず、何にもなれないで。でもそれでもいいと思った。僕は君に対して無関心ではいられないんだ」
 理樹は顔を上げた。雲が太陽から離れ、逆光になった。目を細めた。はっきりとは見えなかったが、それが神北小毬であることははっきりとわかった。なぜなら、絵の具やペンキ、シンナーの匂いに紛れて、お菓子のような甘い匂いがわずかに彼の鼻をついたからだった。

 恭介は中庭に立っていた。何か大きな音がしたように思え駆け付けたのだったが、特に異変はなかった。片手は携帯電話を握っていたが、誰にかけようとしていたのか、それをさっぱり忘れていた。
 屋上を見上げた。フェンスの向こうに肩を並べて立って、何事か楽しげに話している理樹と小毬の姿が見えた。恭介は携帯電話をポケットに突っ込んだ。
「おい、馬鹿兄貴」
 恭介は振り返った。校舎へと続くドアのところに鈴が立っていた。彼女は肩で息をして、恭介を睨んでいた。恭介は鈴を見て、それから周囲を見渡した。屋上は、数日前に来たときとは描かれているものが大きく異なっていた。
 鈴の呼びかけを無視して、恭介は外れたフェンスへ向かって歩き出した。「ちょっと」と声をかける鈴に恭介は「来るな」と強い口調で言った。
「来ちゃだめだ、鈴」
 恭介は一歩一歩足を進め、屋上の縁へ立った。そして遠い地面を見下ろした。そこには直枝理樹と神北小毬が倒れていた。二人の周りにはべったりとした血液が広がっていた。二人との間に距離はあったが、二人がもう動かないことは見た瞬間に理解できた。だからその繋がれた手と手が離れないだろうことも容易に想像できた。恭介は縁に腰を下ろし、恋人たちのつかの間の永遠を見下ろしていた。

(了)

<参考、引用>
『マッチ売りの少女』/アンデルセン、翻訳・矢崎源九郎
『マッチ売りの少女』/別役実
『マッチ一本の話』/鈴木翁二
『ソラリスの陽のもとに』/スタニスワフ・レム、翻訳・飯田規和

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