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リン、ジュテーム

深く青い色の空を見上げて、私はこれから自分の人生に起こることの予感に漠然とした不安を感じ、すでにあきらめはじめていた。
――よしもとばなな『彼女について』

 ドリンクサーバーにグラスを押しつけた。注ぎ口からジュースが流れ出てきた。グラスの中で氷が音を立てた。七分目くらいまで注ぎ、かたわらに置いておいた自分の分のグラスを手に取った。緑茶だった。席へ戻る途中で、棗鈴とすれ違った。「ちょっと鈴どこ行くのさ」と、理樹は声をかけた。 
「デリケートゾーンの欠片もないな、馬鹿」
「あるよ欠片くらい! それを言うならデリカシーでしょ?」
「あーもー、せがらしか!」
 鈴は理樹にそう吐き捨てて、トイレへ向かった。女子トイレは個室が三つあったが、どれも無人だった。一番奥の個室に入り、除菌ペーパーで便座を拭いた。そして下着もスカートも下げないまま腰を下ろして、頬杖をついた。店内でかけられている音楽が遠くから聞こえていた。
 個室を出て、洗面台の前に立った。喉が渇いていたが、ジュースを飲みたいとは思わなかった。鏡の中の自分を見つめた。無愛想な顔をしていた。
 化粧室を出た鈴は席には戻らずにレジの前を通り抜けて、店を後にしようとした。入口の自動ドアのところで、見知った顔の少女と鉢合わせした。神北小毬だった。小毬は大きめのトートバッグを抱えていて、スケッチブックや色鉛筆入れが突っ込まれていた。
「あー、りんちゃんだ」
「や、こまりちゃん」
「帰るとこ?」
 鈴は困ったような顔で曖昧に頷き、早足で店を出て行ってしまった。小毬は首を傾げながら、店員に「一人です」と言いかけてから、「あ!」と声を出した。窓際の席に直枝理樹が座っていた。ストローをくわえて、だらしのない表情をしていた。店員に「あそこです」とだけ言い、理樹の元へと向かった。
 小毬はバッグを椅子に置き、「こんにちは」と理樹へ声をかけた。理樹は窓の外を見やっていて、彼女の存在に気づいていなかった。驚いたように小毬を見上げ、「あ、小毬さん」と言った。
「ここ、いいよね」
「うん。あ、でも、鈴が」
「りんちゃん? さっき出てったよ」
 メニューを手に、小毬が何でもないような口ぶりで言った。
「え?」
「そこ」
 理樹の目が小毬の指先を辿った。信号待ちをしている鈴の後ろ姿があった。そわそわとして、理樹の視線はいったん小毬の顔に戻り、すぐにまた外を見た。それから「え? 何で?」と口走り、立ち上がった。
「理樹くんどうしたの?」
「あの、ごめん、小毬さん」
 それだけを言い残し、理樹は駈け出していた。小毬も席を立ち、通路から理樹の背中を見送った。理樹はレジで立ち止まることなく、店を走り出た。小毬は席に戻り、窓の外を見た。信号が変わって、鈴が歩き出した。半分くらいを渡ったところで後ろを振り返り、逃げ出すように走り出した。理樹がその後ろを追っていた。鈴は信号を渡った向こうにある公園に入り、公衆便所へ姿を消した。
 小毬はその様子に苦笑いを浮かべながら、メニューを取った。長居をするつもりはなかったが、何かを頼まないわけにもいかなかった。コードレスチャイムを押し、店員を呼び出した。「ショートケ……あ、いやポテトサラダと、あとドリンクバー」と言った。店員は一旦下がり、グラスを持ってすぐにやってきた。ドリンクバーの説明を始めたが、小毬はほとんど聞いていなかった。
 店員がいなくなってから、ノートを出して新しい絵本の構想を練った。全体の構成を考える一方で、余白にイラストを書いていった。ふと伝票立てが目に入った。そこには数枚の伝票が入っていた。小毬は伝票に手を伸ばした。理樹と鈴が頼んだものがそのまま残っていた。
 小毬は反射的に立ち上がり、窓から外を見た。ちょうど公衆便所の窓から鈴が出て行こうとしているところだった。理樹はそれに気づいていなかった。理樹と目が合った。小毬は身振り手振りで鈴が逃げていることを伝えようとするが、理樹はまったく気づかなかった。やがて鈴よりも支払いのことが頭を占め始め、親指と人差し指で輪を作り、理樹に戻ってくるように促した。しかし理樹にはまったく伝わらなかった。
 鈴の脱出に理樹が気づいたのは間もなくだった。鈴が空き缶に蹴躓いて転んだのだった。すぐに立ち上がって走り出したが、すでに気づかれてしまっていた。理樹は小毬に軽く手を振って、走って行ってしまった。すぐに彼の姿は見えなくなった。お金は何とか足りるだろうし、後で理樹から返してもらえばいいと思った。鈴から返してもらうという考えが浮かばなかったことに苦笑し、席に座った。
 テーブルに一冊の本が置かれていた。理樹か鈴のものだろうと思い、何気なく手に取った。紙のブックカバーが巻かれていた。表紙を開いた。「よしもとばなな……?」。そう呟いていた。ぺらぺらと頁をめくっている内にサラダが運ばれてきた。


 寮の前の車道を渡った。鈴はガードレールをひょいと跨いで、女子寮へ歩いていった。理樹の姿は近くにはなかった。うまく逃げられたようだった。どうして逃げ出そうとしたのかは自分でもよくわからなかったが、そうすることは間違ったことではないと漠然と思っていた。
 女子寮の前には救急車が停まっていた。白い車体を眺めていると、女子生徒が一人ストレッチャーに乗せられて、寮から出てきた。鈴は背伸びをして、様子を伺った。能美クドリャフカだった。意識がないのか、ぴくりとも動かなかった。走り出す救急車を見ていると、不意に肩を叩かれた。振り返ると、兄が立っていた。
「帰ってたのか」
 鈴はこくんと頷いた。視線はそらしたままだった。
「理樹は? いっしょだったんだろ?」
「知らん。置いて帰ってきた」
「え? なんで?」
 鈴は肩をすくめて、「じゃ」と歩き去ろうとした。恭介は彼女の肩へ手を伸ばし、「待て」と言った。が、鈴はすかさずその手を振り払い、小走りになってじゅうぶんな距離を取った。
「触るな、馬鹿兄貴」
 恭介は呆れたように「お前な」と口を開いた。
「いい加減、理樹の気持ちにも」
「うっさい!」
 兄の言葉を遮るようにそう言い放ち、鈴は女子寮へ歩き始めた。恭介は「待てって」と呼びかけるが、素早く反転した鈴は兄に向かって中指を立てて、「メルド!」と叫んだ。兄の反応を確認しないまま、寮の入口の戸に手をかけた。恭介は何も言わずに屋内へ消えていく鈴を見送った。
 やれやれと言わんばかりにため息をつき、男子寮へ戻った。ちょうど理樹が帰ってきていた。理樹は恭介を見るなりすたすたと駆け寄ってきた。恭介はそんな理樹に笑顔で、「おお、帰ったか」と言った。
「鈴と何かあったのか? 先帰ってきてたけど」
「わかんない。いきなり逃げられて」
「逃げられてって、何だそれ」
「わかんないって。それより救急車、何あれ?」
 理樹は救急車が走り去った向こうへ顎をしゃくった。恭介は「ああ」と思い出したように言った。
「そうそう、能美が熱出して運ばれたんだ。倒れて」
「クドが? 大丈夫なの?」
「わからん。女子寮の廊下で倒れたって話だ」
 理樹は「へえ」と相槌をうちながら、車道のはるか向こうを見やった。救急車の影が見えるはずもなかったが、そうせずにはいられなかった。
「どうも。新型らしい」
「え? インフルエンザなの?」
「そうそう犬インフ……いや、クドインフルエンザ」
「いや、そんな目を輝かせて言われても……」
「なんてな」
 と、恭介はにやっと笑った。理樹もつられるように笑い、じゃれるように恭介の胸を押した。そのとき背後から「理樹君!」と声を掛けられた。振り返るとバッグを抱えた小毬が立っていた。彼女の顔を見て、理樹は「あ!」と声を出した。
 素っ頓狂な声を上げた理樹に小毬は「どうしたの理樹君」と言った。理樹は慌てたように両手をくるくると動かして、「さっきはごめん!」と頭を下げた。「別にいいよー」と小毬は手を振って笑い、すぐにこう問いかけた。
「そんなことより理樹君、この本ってりんちゃんの?」
 小毬はバッグからブックカバーの付けられた本を取り出した。理樹はそれを見て、「あ、うん」と頷いた。
「やっぱりそうなんだ。じゃ、届けてあげないと」
「そうだね。あ、小毬さん、悪いんだけど」
「うん。私持ってくよ」
「あ、ありがと……」
 小毬は女子寮へ向かって歩き出した。途中で振り返ると、理樹と恭介はまだ立ち話をしているようだった。仲の良さそうな二人の様子に目を細めながら、ふと空を見上げた。先程までは晴れていた空が、今では雲に覆われてしまっていた。今にも一雨きそうな雰囲気だった。
 寮の廊下を歩いていくと、鈴の後ろ姿を見つけた。廊下の窓から外を見下ろしているようだった。位置から考えると、ちょうど男子寮の入口が見えているはずだった。たそがれているような彼女の姿を前に、声をかけるタイミングをなんとなく逸してしまった小毬はとりあえず荷物を自室に置きに行くことにした。その上で戻ってこようと考えた。彼女の真後ろを通り抜けた。鈴の後ろ髪とスカートの裾が揺れた。鈴はふっと顔を上げ、緩慢な動作で後ろを振り返った。小毬の背中に声をかけようとしたが、どうにも言葉を発することができなかった。
 再び窓の外へ目をやった。寮に入っていく理樹と恭介が目に入った。二人の姿が見えなくなると、外は無人になった。風が出てきたようだった。空き缶がうつろに転がっていた。雨が降り始め、アスファルトの色が濃くなっていった。
 鈴は部屋に戻った。開けっ放しにしていた窓から雨が入り込んでいた。短い間で本降りになってしまっていたようだった。鈴は早足で窓際へ向かい、窓を閉めた。タンスからタオルを取り出し、水浸しになった床へ落とした。それからしゃがんで水を拭き取ろうとしたが、すぐにまた立ち上がった。打ちつけられている雨粒を見ながら、窓をゆっくりと開けた。風にあおられた雨がまた吹き込んできた。
 不意に顔の真横から細い腕が伸び、窓が閉められた。振り返ると、小毬が立っていた。小脇に本を抱え、かすかな笑顔を浮かべていた。
「ダメだよ、りんちゃん。こんな濡れちゃって」
「こまりちゃん?」
「うん。本届けに来たの。忘れ物」
 小毬はそう言いながら、本を傍らのベッドに置いた。「あ」と鈴が目を丸くした。よく見ると、小毬の半身は濡れてしまっていた。慌てたように鈴は別のタオルを用意しようと、タンスに向かった。
 雨の音が強くなった。小毬はまた窓際へ近寄った。曇った窓ガラスを拭き、外の様子を伺った。空の灰色はいっそう濃くなっていた。「さっきまで晴れてたのに。りんちゃんみたい」と呟いた。背後から鈴のくしゃみが聞こえ、小毬は静かに微笑んだ。


 早朝だった。くしゃみをした表紙に目を覚ました。鈴はむっくりと身体を起こして、パジャマの袖で鼻を拭きながら大きく伸びをした。少し熱っぽかった。枕元に置いてあるミネラルウォーターのペットボトルへ手を伸ばした。水を口に含むと、ぼんやりとしていた頭の中が晴れていくようだった。立ち上がってカーテンを開けた。雨は止んでいたが、雲が空を覆っていた。またじきに降ってくるかもしれないと鈴は思った。
 制服に着替えて、廊下へ出た。私服にしようかと思ったが、結局はまた着替えることになるのでその手間を省いたのだった。洗面所で顔を洗い、そのまま外へ出た。この時間ならどうせ誰にも会わないだろうと高をくくっていた。寮を出て、前の歩道まで歩いていった。外は涼しかった。秋の空気がすぐそこにまで来ているようだった。
「あ、鈴、おはよう」
 理樹がいた。紙パックの牛乳を手に持っていて、ちょうどストローをさそうとしているところだった。鈴は一瞬言葉を失くしたが、すぐに「なんで……?」と言った。
「なんでって、なんか牛乳飲みたくなっちゃって。牛乳って朝でしょ」
「いまさら背は伸びないぞ」
「え、まだわかんないよ」
「……往生際の悪い奴だな」
「まだわかんないから!」
 そう言って、理樹は笑った。心底楽しそうな笑顔だった。それが妙に腹立たしく、「なんだお前」と冷たく言い放っていた。理樹はまったく気にしない様子で「別に」と答えた。
「そんなことより、昨日なんで帰っちゃったのさ」
「え?」
「食堂でも端っこの方にいるし」
「だって……」
 理樹はガードレールに座り、「だって?」と問いかけてきた。鈴は何か答えようとするが、うまい言葉が見つからず、口をぱくぱくと動かすことしかできなかった。そもそも、答えなんて持ち合わせていなかった。こいつ、わかってやってる、ずるい。そう思うと、いっそう腹立たしくなってきて、「知るか馬鹿!」と怒鳴っていた。そして早足で歩道をずんずんと歩いていった。理樹はその剣幕にひるんでしまい、彼女の背中が遠ざかっていくのをどこか他人事のように眺めていた。
 鈴の姿が見えなくなってから、はっと我に返り、追いかけなければいけないと考えた。腕時計を見た。まだ七時前だった。近くのごみ捨て場でごみ袋の口をほどき、牛乳の紙パックをねじ込んでからまた元に戻した。それから彼女を追うことにした。昨日から追いかけっこばっかりじゃないか。そう苦笑した。
 今度は逃げ出したわけではなさそうだった。理樹はすぐに鈴に追いついた。「どこに行くの?」と訊ねても、彼女は答えなかった。ただ足を動かしていた。理樹もやがて無言になった。見慣れた街並みを、言葉を交わさずにしばらく歩いた。寮を出たときは涼しさを感じたが、今ではひどく汗ばんでしまっていた。すでに残暑が顔を覗かせ始めているようだった。
 鈴は急に立ち止まった。個人経営の商店の前だった。中年の小太りの男がシャッターを開けているところだった。鈴は理樹の顔を見て、「ジュース買ってこい」と命令した。
「まだやってないよ」
「待ってればいいだろ」
「わがままだなあ……」
 ぶつくさと言いながらも、理樹はその男の元へ近寄り、声をかけた。鈴のいる場所まではその声は届かなかったが、開店まで待つつもりのようだった。鈴は「先に行ってる」と言い、また歩き始めた。「どこに?」という声が聞こえたが、無視した。すぐに十字路にさしかかり、右へ曲がった。
 住宅街だった。立派な門構えの家があり、黒塗りの車が停められていた。その周りには三人の背広姿の男がいた。鈴は構わずにその脇を通り抜けた。男たちが鈴に興味を示すこともなかった。自転車に乗った男が前方から近づいてきていた。上半身は油で汚れたランニング一枚で、下はハーフパンツを穿いていた。のろのろと自転車をこいでいた。その様子が不安定だったので、鈴は道の脇に寄った。ぶつかりそうになることもなくすれ違った。鈴は走り出した。
 男は加速も減速もしなかった。黒塗りの車の横を通りかかったとき、ちょうど門が開いた。スーツ姿の男と和装の男が出てくるところだった。サングラスの男が後部座席のドアを開けた。自転車の男はハーフパンツのポケットから拳銃を取り出し、彼らへ向かって発砲した。静かな住宅街に響いた銃声はひどく乾いたものだった。男たちはその場に倒れしばらく痙攣していたが、やがて動かなくなった。男は自転車を止めず、顔だけを動かしてその様子をちらちらと見ていた。十字路にさしかかったとき、左から曲がってきたごみ収集車にはねられた。鈍い音がして、その場に倒れた。自転車の前輪が外れ、ころころと転がっていった。
 清掃服姿の男がエンジンをかけたまま降りてきて、後ろを回って倒れた男に近寄った。男はちょうど助手席の脇に倒れていた。しゃがみこんで、頬をたたき、首筋に手をやった。すぐに立ち上がって助手席のドアを開き、グローブボックスから拳銃を取り出した。倒れた男の頭部へ銃口を向け、二度発砲した。それから助手席から車に乗り、運転席に座った。ドリンクホルダーのペットボトルへ手を伸ばした。緑茶だった。四分の一くらい残っていたそれを飲み干した。ドアミラーを見やった。少年が一人、きょろきょろと周囲を見回しながら歩いてきていた。目が合ったような気がした。男は銃口を自分の喉元へ押し当てた。
 銃声に理樹は身をすくめた。足が震えてしまい、うまく歩くことができなくなっていた。何が起こったのかはよくわからなかったが、目の前に停車しているごみ収集車の中で人が死んでいることだけは見当がついた。窓ガラスに血が飛び散っていた。理樹が立ちすくんでいると、収集車がゆっくりと動き始めた。人間が一人、ハンドルにもたれかかっているのが見えた。収集車は家の前に停められていた車に激突した。ごん、と音がし、クラクションの音が鳴り響いた。
 その道をかなり行ったところに鈴が立っていた。クラクションが鳴りやむことはなかった。理樹は彼女へ近づこうとした。鈴もまた、理樹の元へ道を戻ろうとしていた。二人の間には死体がいくつも転がっていた。火薬の匂いと煙が距離感をおぼろげにしていた。理樹は彼女の名前を呼んだ。返事はなかったが、声はしっかりと鈴に届いていた。鈴はかすれた声で「ここ、怖いよ……」と言った。その場にへたり込んで、動けなくなった。二つの瞳からは涙がこぼれていた。雨が降り始めた。二台の車からの煙が収まると、理樹はようやく鈴を確認することができた。彼女は路上に蹲っていた。その姿はひどく弱々しかった。


「死んで花実が咲くじゃなし、怨み一筋生きて行く」
「A・NE・GO! A・NE・GO!」
「女、おんな、女ごころの怨み節」
「いえー!」
 歌い終えた来ヶ谷唯湖に三枝葉留佳が喝采を送った。しかし手に持ったタンボリンの音が大き過ぎ、「やかましいぞ、葉留佳君」と一蹴された。葉留佳はそれでも構わずに椅子の上に土足で立って、タンボリンをめちゃくちゃに叩き続けた。呆れたように西園美魚が言った。
「馬鹿みたいにテンション上がってますね」
「なんか、留年らしいですよ」
「うるさいクド公。インフルエンザだったくせして」
「えー違いますよ。ただの風邪です」
「ふふふ。夏風邪は馬鹿しかひかないんだヨ」
 入口のドアのすぐ近くに座っていた鈴は何も言わずに席を立った。廊下に出ても、各部屋から漏れる音楽や歌声が耳に入ってきていた。クドリャフカの全快祝いにカラオケに来ていた。しかし鈴は部屋の隅にちょこんと座って、文字通り借りてきた猫のようになっていた。一時期肺炎を併発していたクドリャフカが冗談を言えるくらいに回復したのは嬉しかったが、喧噪は苦手だった。
 化粧室に行き、手を洗ってから鏡の中の自分の顔をじっと見た。かわりばえのない顔だった。鈴は化粧室を出て、細い廊下を歩いた。けたたましい打楽器の音が聞こえていたから、皆のいる場所がどこの部屋かはすぐにわかった。ドアノブに手をかけ、動きを止めた。戻りたくなかった。壁一枚隔てたくらいの音量がちょうど良いように感じられた。ドアはガラス張りになっていて、中の様子が窺い知れた。誰も自分に気をかけていないように見えたが、理樹だけがじっと見ていた。鈴は踵を返して、階段へ向かった。「書きかけのあなたの似顔絵、似てなくて何度も消したわ――」。美魚の歌声がわずかに聞こえた。
 理樹は鈴が店の外へ出ようとしていることに気づいていた。追いかけるつもりだったが、部屋の奥の方にいたためになかなか出られなかった。恭介に目で事情を伝えたが、アゴゴを楽しそうに叩いているところを見る限り、正確には伝わっていないだろうと思った。しかし後で電話をすればいいだろうと思い、部屋を出た。
 鈴は歩道をとぼとぼと歩いていた。理樹は彼女の名前を呼んだ。鈴が振り返り、鋭い視線で理樹を射抜いた。一瞬、二人は動きを止めた。鈴はすぐに走り始めた。「え?」と理樹は声を上げた。彼女の後ろ姿はどんどん小さくなっていった。夜だった。暗さにまぎれて、すぐに見えなくなってしまった。
 理樹も遅れて走り始めた。走りながら、昔はかけっこでいつも負けていたことを思い出した。しかし成長した今は、勝てなくとも、追いつけないこともないだろうと楽観していた。実際、鈴の背中が再び視界に入るまでに時間はあまりかからなかった。
 走っている内に、不思議と気分が高揚してきた。こうして身体を動かすこと自体が久しぶりだった。真人とトレーニングをしてみるのも悪くないかもしれないと思えた。赤信号を無視して、横断歩道を駆け抜けた。鈴の背中が大きくなってきていた。彼女のスピードは明らかに落ちていた。追いつくまでに二ブロックもいらないだろうと感じた。
 実際に要したのは一ブロック半だった。走るのをやめた鈴は膝に手をやり、肩で大きく息をしていた。後ろから迫ってきている理樹に「降参」と言おうとしたが、走ってきた理樹は彼女を追い越して走っていってしまった。
「ちょ、お前なんで――!」
 反応すらせずに走り去っていく理樹を見て、カチンと来た。息は切れたままだったが、鈴は額の汗を拭って、理樹の背中を追い始めた。鈴は夜目がきいた。理樹の姿を見失うことはなかった。
 いつの間にか土手沿いを走っていた。理樹がようやく立ち止まるのを確認し、鈴はほっと胸を撫で下ろした。しかし足は止めなかった。その勢いのまま、理樹に体当たりした。それくらいしないと気が済まなかった。突然の衝撃に理樹の身体は近くの建物の鉄製の門扉に激突した。
「いてて」
「あ、悪い」
 理樹は門扉にもたれかかるように座り、身体をさすった。さすがの鈴もやりすぎたかと反省し、「大丈夫か?」と訊ねた。理樹は「大丈夫じゃないよ……」と小声で答えた。「そうか」と鈴は言った。どうすればいいのかわからなかった。だから何気なく門扉を押した。すると重々しく見えたそれはあっさりと開いた。
「あ、開いた」
「ここって……工場だっけ?」
「うん。でももう潰れた」
 鈴がふらふらと敷地に入っていき、理樹もその後を追った。肩のあたりに痛みがあったが、動けないほどではなかった。あざくらいにはなるだろうが、たいしたことではないだろうと判断し、理樹は鈴の隣に立った。鈴は入口と思われる鉄扉の前にいた。南京錠がかかっていたが、劣化していたのか、理樹がそれに手をやった途端ぼろぼろと崩れてしまった。二人は顔を見合せて、頷き合った。中に入ると、すえたような匂いが鼻をついた。明かりがないために、ほとんど何も見えなかった。
 鈴は思い切って口を開いた。
「理樹」
「何?」
「今日、もう帰りたくない。なんかいやになった。疲れたし眠いしめんどい」
「うん。じゃ、泊まる?」
「どこに?」
「……探してくる」
 そう言い残し、理樹はつかつかと奥へ歩いていこうとした。鈴は慌てて「あ、待て」と言った。振り返った理樹に「怖い」と言った。正直な気持ちだったが、理樹が笑うのでむっとした。
 理樹は鈴の元へ戻り、手を取った。「行こう」と言った。理樹の手のひらのぬくもりがやけに生々しく、反射的に手を離した。
「ど、どうしたの?」
「恥ずかしいだろ!」
「なんで?」
「なんでって、なんで?」
 逃げようとする鈴の手を取った。今度は離さなかった。携帯電話をポケットから出し、バックライトで建物を照らした。思っていたよりも広かった。鈴の手を引き、階段を上った。二階に事務所があり、大きめのソファーがあった。埃をかぶっていたが、どうにか使えそうだった。埃を払い、鈴をそこで寝させた。
 理樹はまんじりともせず夜を明かした。疲れはあったが、眠れなかった。鈴が寝返りをうとうとする度に落っこちやしないかとひやひやした。やがて夜明けが訪れた。理樹は汚れた窓をシャツで拭ったが、汚れはまったく落ちなかった。押しあけようとすると、窓ガラスが外れて向こう側へ落っこちてしまった。ガラスの割れる音で鈴が目を覚ました。
「理樹……?」
「おはよ。何でもない。大丈夫だよ」
「大丈夫なわけあるかー!」
 ガラスは粉々に砕け散っていた。子供が遊びに来ようものなら、大けがをするかもしれない。鈴はそう思って、理樹の後頭部をぱんと叩いた。「今度掃除しに来るよ」と理樹は項垂れたまま、言った。
 二人は裏の階段から外に出た。階段は手すりもステップも錆ついていて、危なっかしかった。敷地を隔てるフェンスを乗り越え、寮へはどうやって帰ったものかと周囲を見回した。群青色だった空に太陽の色が加わり始めていた。理樹はふと捨てられた工場を振り返った。壁にペンキで落書きがしてあった。

ロバート・イエガー、航空中尉だ。
最高のパイロットだったが、戦闘機でロンドンにいる恋人を訪ねた。
最初は戒告、2度目は地上勤務3カ月で今度は軍法会議だ。
――"Inglorious Bastards"

 なんなのかよくわからなかったが、戦闘機で恋人に会いに行くというのはロマンティックだなと思えた。戦闘機に恋人を乗せて、空を飛ぶのだろう。理樹は隣の鈴を見た。鈴はその視線に気づき、首を傾げた。
「ぼくも戦闘機で君に会いに行きたい。君はパリにいるかもしれない。僕は言う、翼よあれが――」
「寝ぼけてるのか? きしょ」
 鈴は気味の悪いものを見るように顔をしかめて、すたすたと歩き始めた。

(了)

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