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マリアニスモ・ファンタスティコ

 股間に顔を埋めるチカの黒い髪の毛はまるで蛇みたいに彼の太股に絡んでいたが、その絹のようになめらかな感触も彼女が与える快楽に太刀打ちできるものではなく、風呂場にただ一つある窓の枠に石鹸などと並べて置かれている鉢植えのブーゲンビリアの赤色が目の前に広がっていく奇妙な一瞬を彼は半ば呆然と眺めていたのだけれど、チカは彼に射精の許可を一向に与えようとせず、また彼自身も射精をしたら自分を取り囲んでいる一切が瓦解してしまうような強迫観念を抱いていて、もう数ヶ月も自由な射精をできずにいたのだった。離した口元から糸が引いていた。チカは声を上げずに彼の性器に舌を這わせていた。陰部に集中していたはずの感覚が途切れたのは浴槽の縁に置かれた手のひらにブーゲンビリアの茎に巣食っていたアブラムシの群れが辿りついていたからだった。小さな緑色が這っているのを見て彼は溜まった唾液を苦々しく吐き捨てた。梅雨の夜はひどく蒸し暑く、毛穴という毛穴から汗が吹き出していた。身体中がべたついていた。それに加えて風呂場の蒸気が彼の不格好に切られた髪を湿らせていた。もうしばらく、しばらくといっても一週間二週間というものではなく一年二年三年という長い時間なのだが、家の外に出ていない彼は髪の毛を自分で刈っていた。チカはそんな彼の髪をごくまれに愛しそうに撫でるのだが、彼にしてみれば不愉快なだけだった。両手でチカの頭を掴んで、口を性器から無理に引き剥がした。口から涎が垂れた。彼はチカを抱き寄せて、唇を重ねた。彼女の唇の色はブーゲンビリアの隣で花を咲かせているアンスリウムの赤に似ている。以前は白い花を咲かせていたが、数ヶ月前から真っ赤な花びらを見せている。どういう理屈で色を変えたのか彼にはさっぱりわからなかったが、バランキージャ産のサトイモ科の花はきまぐれな雌猫のようなものなのだろうと疑問を棚上げしていた。唇を離した。チカの肌は白いアンスリウム、唇は赤いアンスリウムだ。彼の首に回された腕の、二の腕の細く引き締まった肉はアンスリウムの中央部の突起を思わせる。ブーゲンビリアの赤は血液、そして経血。チカは執拗に彼の舌を求める。彼女のしなやかな手は彼の性器をまさぐっている。彼がチカの首筋に噛み付くと、わずかな血液が小さな噛み傷から零れ出す。浴槽にためられたぬるい湯に点々と染みを残したその雫は波紋のように広がり、彼の腕に張り付いていたアブラムシがその残滓を求めるように次々と飛び込んでは無抵抗のままぶくぶくと溺れ、物言わぬ姿となった。その緑色の死骸がぷかぷかと浮かび上がる様を見て彼は吐き気を催す。一様に腹を天に見せていた。きれいな薔薇にはとげがあるが、チカの体液には毒が含まれている。彼自身も狂わされている。彼女の胸元に彫られた紫陽花がゆらゆらと波打っていた。透き通った無数の青のきらめきは彼の視覚を揺さぶる。それは刺青ではなく本物に見えて仕方がないのだった。風にそよいでいるように見えるときもあり、梅雨特有の湿気と蒸し暑さが濃くなると、ますますその生命力が強まるのだった。彼が口元に触れると、鈍色の体液がべったりと手のひらに付着する。どこか遠い南国の湿地帯の匂いがした。流れているのはグアバの川、イワドリの求愛を聴きながら、彼はむせ返るような甘ったるさの海で溺れている。しかしチカが彼の乳首に舌を這わすと、彼の意識はあっという間に足立区の六月に戻されるのだった。ちっぽけなアパートの浴槽で赤子のようにぬるま湯に肉体を沈めていた。
 腐敗した梅雨のひとときを彼ははっきりと憶えていた。目出し帽の向こうからのぞいている父の二つの瞳には生気がなかった。それは彼が通販で購入したものである。黒の目出し帽をかぶってライフルを掲げている男を目にしたとき、あるいはこれをかぶればおれも外を歩けるのかもしれぬ、そう思ったのだった。しかしそれは単純な逃避に違いないのだった。サパティスタ民族解放軍副司令官の姿は彼の瞳に絶対のものとして映ったのだが、もちろん目出し帽を手にしたとしても彼は外を出歩けなくなってしまったちっぽけな男であり、革命には程遠いただの日本人に過ぎない。結局、彼は自分では目出し帽をかぶらず、ざくろみたいな父の頭部を隠すためにかぶせたのだった。彼は父親が大嫌いだった。父ほどではないが、母親にも好意を抱いてはいなかった。洗濯のし過ぎですっかり薄くなった下着が水に濡れて、母の陰部が透けていた。吐き気がした。腹部に咲いた赤黒いラフレシアから漂う異臭が彼の鼻腔をくすぐり、苦々しさだけが募っていった。そんな彼の下半身に絡まるチカの長い足はまるで茨だった。締め付けられる快楽と痛みを彼は大事に抱えていた。感覚をなくしてしまえば、おれは今どうにか生きているのだ、という唯一の確信さえも失ってしまう。脈打つ心音を録音すれば、サルサのリズムを奏でるだろう。チカのリズミカルな愛撫が彼の生命を繋ぎ止めている。彼が舌を伸ばすと、チカはその先端をおのれの淡い紅色の舌で数度突いた。子どものように無邪気な笑顔を浮かべ、舌で首筋を舐めまわす。チカに身を委ねた彼は窓を目にした。窓を叩く雨音はまるで細かな羽虫が外から体当たりを繰り返しているように聞こえた。実際にぶつかっていたのかもしれない。
 彼はチカの頭部をむんずと掴んで、再び引き剥がした。先程よりも太く粘性の強い糸がチカの唇と彼の胸元を繋いでいたが、すぐに垂れた。チカは無邪気に笑っていて、胸や陰部を隠そうとせず、白く薄い肌に血管や臓器が淡く浮いていた。しなやかな体躯はポプラの新緑を思わせる。チカはちょうど今まで彼がとっていたような姿勢になり、つまり浴槽にどっぷりとつかって足を彼のほうに伸ばしたのだったのだけれど、彼と違い手足の長いチカはまた執拗に足を絡ませる。彼は湯船に潜って、彼女の陰部に顔を近づけた。指を入れると、視界が蜃気楼みたいな熱気に遮られた。眼前が濁ったようになり、甘い香りが彼の口や鼻をくすぐった。彼女の性器はまるでライチで、こじ開けると中は不思議と一転の汚れもない真っ白、舐めてみるとべろに懐かしいような甘酸っぱさが残るのだった。呼吸をするために彼は顔を上げようとするが、何故だか水面がひどく遠いように思えた。立ち上がってしまえば腰にも届かぬような浅さであるのにもかかわらず、浴室の蛍光灯はぼんやりと曖昧に揺らめくばかりで、はっきりした存在として把握できないのである。唐突に彼は自分がどこにいるのかを忘れてしまう。どこか遠い国の濁った川、あごだけが極端に発達した魚や七色の羽根を持つ鳥、背中に見事な意匠を施した昆虫が生息しているような、これまで写真や映像でしか接することのできなかった大地にいるのだろうか、などと考えているうちに彼は肩を掴まれて引き上げられる。目の前にチカの顔がある。彼女は目じりを下げている。彼を抱き寄せると、彼のすっかり萎えた性器をいじくりながら、彼をまた元の体勢に戻してまたがった。べたついた熱が彼の性器を包み込み、苦痛とも快楽ともしれぬ抱擁に彼は身を任す。
 母の腹部に寄生しているラフレシアの中央部分から母の亡霊の頭部がのぞき、彼とチカの行為を眺めている。ふざけるな、こっちを見るなと彼は叫びだしたいのだけれど、乾ききった口唇は微細な振動すら起こせないでいる。これだけの蒸し暑さであるのに、どうしてこうも乾いているのだろう。矛盾が生じては消えていくのはチカが腰を振るからであり、快楽の波が彼をさらうからだ。父にかぶせた黒い目出し帽の向こうの瞳がぱっと開く。生前の父のそれよりもはるかに大きく、大袈裟に見開いているように思える。口が見えないのが幸いだったと彼はほっと胸をなでおろす。動いている唇が紡いだ言葉を理解すれば、きっと我を失ってしまうに違いない。
 振り返ってみると、逆上というにはあまりに冷静であったように思えてならないのだった。お湯の出の按配がおかしいからと彼の両親は睦まじく風呂場の蛇口の前にしゃがみこんでいた。紫煙が見えた。真っ昼間だった。たまたま用を足すために風呂場の前を通った彼は先ほどまで自分に詰め寄っていた母親の形相が嘘であるように思えた。直前、あれほど激しく自分を叱咤した母がこんなにものどかな笑い声を上げられるのだろうか。結局自分は一人なのだという錯覚に囚われた。疎外感だったのかもしれない。用を足した後で、台所で水を一杯口にした。流し台に出刃包丁が一振り、無造作に置かれていた。彼はそれを手に取り、しげしげと眺めた。これで突けば、あるいは人は死ぬのだろうか。
 そう、あるいは、愛はあるのだろうか。チカと口付けを交わすたびに彼はそう思う。おれとチカの絆とは一体何なのだろう。彼女はホオジロのさえずりみたいな喘ぎ声を上げる。それはほとんど唄に近いように彼には聞こえる。小動物じみた丸い二つの瞳が彼を見据えている。こめかみの辺りをつたって垂れる汗の雫が数滴、彼のへその辺りに落ちる。それは驚いてしまうくらいの熱を帯びている。彼女の熱を感じるのはそういうときである。抱き締めていても彼女の体温は不思議と感じられない。しかし汗や唾液や体液はいつだって熱を帯びていて、彼自身の体温をひたすら上昇させる。彼は愛の不在を半ば信じ込んでいる。酩酊によく似た目眩を生じさせ、ただチカの身体だけが現実であるような錯覚を抱かせる。
 現実感は全くなかったのだった。悲壮感もなく、ぎりぎりの縁に立っているわけでもなかった。しかし彼は風呂場から聞こえてくる両親の声に耐えられなくなっていたのだった。どうしてあれらはあのように幸せそうに笑っていられるのだろう、今しがた俺を叱りつけたあの言葉は偽物だったのか。そもそも彼は母親はともかく、父親の下卑た笑い声が大嫌いだった。おい春子何か食うもんねえか、酒で喉をつぶしたような声。そのがらがら声がひどく彼を苛んでいた。だから彼は真っ先に出刃の刃先で父の喉を突いた。肩を叩いて振り返ったところをぶすりとやった。びゅうと真っ赤な血液が吹き出し、視界を染めた。それは奇妙な経験であったといえる。あらゆる物質の赤の色彩がやたらと強くなっていたのである。包丁を抜くと、見えぬ糸に引っ張られるように父はうつぶせに倒れた。母は金魚みたいに口をぱくぱくと動かしていたが、待ち望んでいる悲鳴は一切出せずにいた。もう止まらないと彼は直感し、母を押し倒して腹部に包丁を二度三度と突き立てた。咳き込んだ母が吐血したところで彼はその動きを止め包丁を抜こうとしたのだけれど、体液や臓器や脂肪がまとわりついて刃を折った。呆然と包丁の柄と折れた刃を眺めていると、彼は肩を掴まれた。父だった。びちゃびちゃと口や首から血を垂れ流しながら彼の肩を掴んで離さなかった。父は何かを言おうと血走った瞳で彼をにらみつけていたが、喉元の横一文字にぱっくり開いた切り傷から空気が漏れるばかりで、音声として認識できるようなものは何一つ発すことができなかった。彼は叫び声を上げようとしたのだけれど、直前の母と同じようにちっとも声は出ないのだった。とっさに手に取ったものは灰皿だった。父が吸いかけの煙草が落ち、薄汚い灰が粉雪のように舞った。彼はすがりつく父の頭部を何度も殴りつけた。やがて頭がぱっくりと割れ、傷口から脳漿があふれた。灰皿を掴んでいた彼の手は真っ赤になっていて、爪が剥がれそうになっていたのだけれど、痛みは全くなく、麻痺したように何も感じなかった。刺したときも殴ったときも、まるで夢のようであった。両親を殺す彼を彼自身が冷静に眺めているような、そのような瞬間だった。
 しかしチカと交わっているときはそうではない。間違いなく俺はここに存在しているのだという生命の息吹を感じることができる。紫陽花の刺青にそっと口付けると、彼女はいっそう大きな喘ぎ声を上げる。艶やかな黒髪が汗で彼や彼女自身にへばりついている。快楽に身を震わせるたびに青紫の刺青は小刻みに震え、雨季の終わりとともに散ろうとする紫陽花の姿が現出する。向かい合う形でまぐわっていた二人だったが、やがてチカは彼にしなだれる。乳房のふくらみが彼女自身の体重によってつぶされるが、何故だかそれはひどく乾いている。馬鹿の一つ覚えみたいにチカは彼の首筋に舌を這わすが、彼は強引にチカの顔を自分の目の前に動かす。きょとんとしたチカの二つの瞳には彼だけが映っている。くたびれた男の顔だ。彼は胸元の紫陽花にこつんと額を軽くぶつける。チカはそんな彼の頭を優しく抱き締め、髪の毛をぐしゃぐしゃと無造作にかきまわす、泣き笑いのような顔をして。笑ったときの彼女の目は三日月のように見える。目尻から垂れた一筋が涙だったのか汗だったのか、彼に判断できない。彼はチカの口に下をねじ込む。彼女の唾はシラカバの樹液のようなほのかな甘さを持っている。彼はそれを飲み干すために激しく吸い上げる。チカは苦しいのか心地いいのか、瞳を細めている。頬の辺りが火照って、オレンジのチークを塗っているように見える。
 べろで歯や唇を舐めると鈍い鉄の味がした。返り血がいまだにこびりついているに違いないのだった。気味の悪いことになっている父の頭部を目出し帽で隠すと、彼は衣服を脱ぎ捨てて、生まれたままの姿で浴槽に座った。膝を丸め、背中を縮めた。泣くべきなのか笑うべきなのか、自分がどういう感情でいるべきなのか、見当もつかぬまま、座っていた。蛇口を捻ると冷たい水が流れ出したが、すぐにお湯に変わった。チカは、気がついたときはすでに彼と向かい合っていた。細く長い手足が彼の青白くだらしない肉体に絡み付いていたのだった。彼女は何も言わずにただ唇を重ねた。新鮮な土の匂いがした。瞳を開くと、美しい女の顔が目の前にあった。べろを彼の口に突っ込んでいた。彼は視線をそらした。白かったアンスリウムが真っ赤な花を咲かせていて、ブーゲンビリアから血液が滴り落ちていた。熱い湯がためられた浴槽が発する分厚い湯気に囲まれ意識が朦朧となる中で、この女はいったい誰なのだろうと考えていたが、やがて、まあどうでもいいかと思考を放棄した。以降彼女は彼のすぐ傍に居続けていたのだった。彼女の肉体を意識するとき、いつだって彼女は彼の裸体を抱き締めているし、あるいは陰部に口をつけている。
 唇を離すと、二人の間によだれの橋ができ、それはまるで臍の緒のように二人を繋いでいる。チカが腰を叩きつけるように振るたびによく湿った泥をもてあそんでいるような音がするのだけれど、実際は性器がチカの内部で融解しているのかもしれないと彼は時折考える。それはきっと少しずつなのだが、そもそも彼の妄想に過ぎないことなのだが、彼女の内部に取り込まれていっているように思えてならないのだ。だからこそ彼は射精の予感を抱き続けている。どれだけの期間、自分の意思で射精していないのだろう。たまに湯船に浮かんでいる精液は疑いなく夢精の証拠である。自分の分身ともいえる精液を彼女に与えたら、やはり決定的な変化が訪れるに違いないのだ。彼がチカの肩口から背中にかけての、ラ・エスコビージャの海岸線を思わせる丸みを帯びた肉に爪を立てると、それは柔らかな果肉みたいにえぐれ、甘い蜜がじわりとあふれ出す。チカもまた、彼の身体を傷つける。赤子のように柔らかい彼の胸元に口をつけ、一部の肉を噛み切る。痛みはない。透き通った彼女の体液とは対照的に彼の血液は真紅、湯船に滲んでは消える。彼は吸血鬼のように彼女の傷に吸い付く。甘くほろ苦い体液が口の中に流れ込み、生命の躍動をはっきりと感じるようになる。チカに奪われつつあるという妄想に退治するためには、彼女自身を食らわなければならぬのだなあと彼は考えている。
射精する直前、チカは身を仰け反らせる。それはまるで骨格が存在していないくらいの曲がり具合で、射精が一つのきっかけでなるのだろうという彼の思考を鈍らせる。二人の顔と顔が離れ、垂れ下がりながらも繋がったままだった唾液の筋が途切れる。それが全てだった。下腹部に集中させていた神経が拡散し、彼は射精する。その瞬間チカの肉体の全てがブーゲンビリアの赤い葉に姿を変え、浴室中に舞い上がる。室内を埋め尽くすほど膨大な赤い葉が発する人工物ではない生命の香りが彼の意識を占領し、飛び散った彼の精液が床に落ちると同時にその赤は瞬く間に空中でどろどろと溶け、どす黒い人間の血液そのものになって降り注ぐ。生まれたままの彼は生温い浴槽で両膝を抱え、背を丸めた姿勢でそれを眺め、全身に浴びている。伸びた髪もひげもびっしょりと濡れ、首筋に、まるでチカの手のひらのように張り付く。体中が汗と体液でべたついている。新鮮な血液は数秒間でカビだらけのタイルや蛇口、曇り戸にこびりつく。三六〇度、全ての方向が赤で染め上げられている。彼は両手を、次いで両腕を見る。水分を失い真っ黒に変色した血がべったりと付着している。むせ返るような花の匂いは今はもうない。鉢植えのブーゲンビリアとアンスリウムは枯れ、焦土のような残骸だけが残っている。チカ。彼はそう呟くが、答える者はいない。腐って乾燥してゴマみたいになったアブラムシの群れが床に散らばっている。彼は浴槽から這い出る。自分の身体に加えて浴槽の縁や床も血液や体液や唾液でぬめっていて、縁に足をかけた途端に彼は石鹸でも踏んづけたみたいにつるりと滑り、遺体に折り重なるように転倒する。それらはひどく硬くなっていて、弾力というものがまるでない。乾いていた喉のせいで激しく咳き込む。咳払いをすると、喉の奥で固まっていた血の塊がぼろりと外れる。するとその瞬間、彼は不意に悲しくなって大粒の涙を流し、大声でむせび泣く。彼の泣き声は室内に反響し、二重三重の泣き声になる。
 立ち上がった彼はタイル張りの床を改めて見下ろした。ありふれた風呂場だ。こびりついた血液の海の底に死体が転がっている。台所にあった出刃で刺し殺した両親の死骸だ。彼はがっくりと膝を崩し、二つの死体に覆い被さった。性器は萎えたままだった。半ば腐った形のまま時間を止めた遺体の臭いは彼の鼻を削ぎ落とし、へその当たりからこみ上げている嘔吐感に手を貸した。母の腹の辺りにラフレシアみたいにグロテスクな傷跡がはっきりと見える。チカはいない。服を着てから、ひげを剃ろう、髪をとかそう、ところでおれは誰かとうまくしゃべることができるのだろうか。雨音は止み、ガラスに張り付いていたかもしれない羽虫は桜の花びらへとその姿を変えている。彼は思う。交番へ行こう。雨季が過ぎ、青葉も紅葉も雪もすでに消え失せた。立ち上がった彼が開けようとしている曇った引き戸の向こうから、どこかで見たような春が顔をのぞかせ、微笑んでいる。

(了)

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