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牝犬の墓場 クドリャフカは濡れた

花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
――井伏鱒二


 波は穏やかだった。能美クドリャフカは裸にマントをかけたままの姿で、その海岸線を歩いていた。砂の上、刻むステップ、ほんのひとり遊び。そう口ずさんでいた。
 打ち寄せる波が素足を濡らしたとき、クドリャフカは立ち止まった。海のはるか向こうを見やった。太陽と水平線以外は何もなかった。両手を広げて、「れっつ・りたーん・とぅ・ほーむ」と口にした。
「クド!」
 振り返ると、直枝理樹がゆっくりと歩み寄ってくるところだった。彼はジーンズに裸足という格好だったが、歩きながら灰色のジャケットを羽織ろうとしていた。砂浜に無数に転がっている死体が着ていたものだった。クドリャフカは笑顔を浮かべ、彼に駆け寄った。
 言葉は出なかった。彼女が飛びついてきた勢いで、理樹は砂浜へ倒れてしまった。クドリャフカは理樹に馬乗りになった。目と目が合った。理樹は穏やかに微笑んでいた。彼の額に唇を押し当てた。それから頭の位置を下げ、胸に頬を乗せた。身体が密着していた。
 背中に回された理樹の腕をはっきりと感じた。彼女は顔を上げた。「会いたかった」と理樹が言った。言葉を続けようとした口を唇で塞いだ。恋人同士のキスだった。舌先が触れ合ったとき、クドリャフカの喉の奥から吐息が漏れた。


 男は雑貨屋の軒先に立っていた。煙草に火をつけようとしているところだった。ビニール袋を持った女が男の背後に歩み寄り、金槌で男の後頭部を殴りつけた。男は転倒し、痙攣を始めた。
 女は男の上着やズボンのポケットをまさぐり、財布を引っ張り出した。中身を確認し、数枚の札とクレジットカードを抜いた。無用になった財布を捨て、ネックレスと指輪を外そうとした。ネックレスは容易に外せたが、指輪はなかなか抜けなかった。女は背後の雑貨屋を見やった。金槌で入口のガラスを割って侵入し、店内からサラダ油を持って出てきた。それを男の手に塗り込み、指輪を取った。
 その頃には男は痙攣すらしなくなっていた。女は男の口をこじ開け、二度三度金槌で叩いた。割れた歯の内、金歯が入っているものをつまみ上げた。戦利品をビニール袋へ無造作に放り込み、女はその場を後にした。
 女が去ってから、クドリャフカは街灯の陰から姿を現した。彼女は理樹を待っていた。一部始終は目の前にあった電気店の窓ガラスに反射していた。どうすることもできなかった。喉が渇いていた。ちりんちりんとベルの音がした。振り返ると、理樹が自転車にまたがっていた。とんとんと後部の荷台を手で叩いた。クドリャフカは頷いて、荷台に座った。またがるのではなく横向きに座り、理樹の腰に手を回した。
 自転車が走り出した。苦しそうに自転車をこぐ理樹の横顔に、クドリャフカは笑みを浮かべた。二人はクドリャフカの祖父の家へ向かっていた。一応は市内だったが、町の外れだった。
 街中は悲惨な有様だった。理樹が息を飲むのがわかり、クドリャフカは悲しくなった。至るところに死体が転がり、建物や路上の車両からは煙が上がっていた。その中をすりぬけるようにして、二人は祖父の家への道を急いだ。
「私はリキと一緒にこの国へ来て、一緒に歩きたかった」
 クドリャフカがぽつりと呟いた。
「とてもいい国なんです。私は好きです。リキに見せてあげたかった」
 理樹は自転車をこぎながら、左右の光景を見渡した。食べ物か何かを奪い合っている二人の人間が視界に入り、すぐに目を背けた。ふとクドリャフカを見ると、彼女はその光景から目を離さずにいた。見つめ続けることを自分に課しているようにも見えた。

 祖父の家に到着して真っ先にしたことは、シャワーを浴びることだった。理樹はクドリャフカの身体を丹念に洗った。汗や汚れでべたついていた彼女の身体は徐々に本来の艶やかさを取り戻していった。全身が石鹸まみれになったクドリャフカは理樹の手が身体を撫でる度に、くすぐったそうに目を細めた。  その家は平屋建てで、広い屋敷だった。二人はクドリャフカの部屋にいた。理樹は彼女の身体を拭いた後、髪をとかしていた。ベッドの上にぺたんと座ったクドリャフカの背後に座り、撫でるように髪をとかした。クドリャフカはぼんやりと天井を見上げ、ゆっくりと回るシーリングファンを眺めていた。理樹の手が自分の髪に触れるのが心地良く、うっとりとした表情を浮かべていた。
 理樹はかたわらに櫛を置いた。片手を彼女の髪に這わせ、もう片方の手のひらを彼女の肩から胸に回した。クドリャフカは衣服を身につけていなかった。理樹は彼女を後ろから強く抱きしめ、そのままベッドに横たわらせた。クドリャフカはかすかな笑みを浮かべ、その動作を受け入れた。理樹は彼女の首筋にキスをしながら、指を太ももに這わせた。

 クドリャフカはむっくりと身体を起こした。目の前にあった化粧台の鏡に映った自分をぼおっと眺めた。「髪、またボサボサになっちゃいました。身体もべとべと」と呟いた。隣で仰向けに寝ていた理樹と目を合わせて、苦笑した。立ち上がって、再び浴室へ向かった。
 理樹はしばらく彼女の真似をして、天井のシーリングファンの回転を見つめていた。しかしやがてそれにも飽き、ベッドを這い出してジーンズを穿いた。部屋を出ようとしたとき、机に置かれている文庫本が目についた。それを手に取り、部屋を出た。
 屋敷は、外観は白で統一されていたが、内装には暖色も使われていた。人がいなくなって久しいのか、屋内は荒れ放題だった。ガラスは割られ、壁紙が剥がされているところもあった。調べたわけではなかったが、金目のものはすべて持ち出されているのかもしれなかった。ガラスや陶器の破片を踏まないように気をつけながら、理樹はキッチンへ辿りついた。
 キッチンにはささやかな地下室があり、そこに若干の飲食物が残されていた。理樹は壜のコーラを二本持って、キッチンに戻った。マグネット状の栓抜きが冷蔵庫に貼り付けられていた。それを取り、キッチンテーブルに座った。座った途端、呼吸が乱れた。ふとマトリョーシカのような人形とコップが置いてあるのが目に入った。コップには花が挿してあったが、すでに枯れてしまっていた。
 理樹はコーラを飲みながら、文庫本を開いた。書かれていた歌を音読した。「さよならだけが人生ならば、また来る春は何だろう」。理樹はまたコーラを飲み、本を閉じてテーブルに置いた。代わりに人形を手に取った。それはやはりマトリョーシカのようだった。胴体の部分を開け、中に入っている人形を順々に取り出していった。
「それ、私なんです」
 クドリャフカがキッチンの入口に立っていた。彼女は薄い生地のドレスのようなものを着ていた。淡いピンク色が彼女によく似合っていた。理樹の向かいの椅子に座り、コーラの栓を抜いた。
 理樹は目の前に並べている人形の一つをつまみ上げ、しげしげと眺めた。
「祖父が特別に作らせたものなんです。私に似せたマトリョーシカ。祖父はクドリャフシカって呼んでました」
 そう言いながら、彼女も指の先くらいの大きさの人形をつまみ、手のひらに乗せた。
「クドリャフシカ」
 理樹はそう呟いて、ぷっと吹き出した。言われてみれば、明らかにその人形はクドリャフカだった。目の前の少女と人形を見比べて、むせながら「似てるね」と言った。その言葉にクドリャフカも堪えきれずに吹き出した。二人は互いの顔とマトリョーシカを見比べながら、しばらくの間笑い合っていた。

 祖父の家を出た二人は歩道で立ち止まった。ジープが目の前を通り過ぎていった。灰色の制服を着た男たちが数人乗っていた。その後ろを何台もの乗用車やサイドカーが続いた。彼らは陸軍の将校の自宅へ向かっていた。すでに夜が広がっていた。助手席の男は頬に墨を塗り、抱えたライフルの具合を確かめていた。

『九月三十日』

 毎日のように念入りに手入れをしているだけあって、不具合はどこにも見当たらなかった。男はライフルを傍らに置き、窓を少しだけ開けた。夜の風がわずかに入り込んできて、その冷たさに目を細めた。
「中佐、まもなくです」
 運転席の男がそう言った。見えてきたのは白い屋敷だった。立派な門構えが目に入った。彼は屋敷の前に車を止めた。数台のサイドカーは屋敷の周囲に散らばった。彼らは誰も呼び出そうとせず、無言で敷地内へ侵入した。速やかな動きだった。
 屋敷に入ってすぐの広間には彼らの標的である国軍参謀総長の妻と息子がいた。二人は驚いた顔で入ってきた男たちを出迎えた。言葉はなかった。ただ目を大きく見開き、凝視するばかりだった。
「大将はどこだ」
 中佐が訊ねた。携えたライフルは上を向いたままだったが、抑揚のない口調と毅然とした態度には有無を言わせない凄味があった。しかし彼女は首を振るばかりだった。中佐はその様子を見つめていたが、やがて傍にいた部下にあごで合図をした。
 男はつかつかと子供に近寄り、壁際のテーブルに置かれていた花瓶で頭を殴りつけた。少年は昏倒した。母親の様子を確認した後、何も言わずに拳銃で少年の頭を撃ち抜いた。
 中佐は煙草に火をつけながら、部下たちに「探せ」と命令した。彼の背後に控えていた男たちはすぐに屋敷内に散らばった。中佐は椅子に腰を下ろした。前屈みの姿勢になり、立ち尽くしたままの女を見つめた。
 男たちが戻ってきた。目的の男がいないことを伝えると、中佐は女に「夫はどこだ。言いなさい」と言った。女は呆然と息子の遺体を眺めたままだった。「時間がないんだ」と怒鳴りつけると、ようやく女は中佐を目にした。しかし言葉はなく、首を振るばかりだった。中佐は拳銃で女の頭部を撃った。女は衝撃で壁際まで吹き飛び、それっきり動かなかった。
 中佐は立ち上がって、「探せ。まだ近くにいるはずだ」と部下たちに叫んだ。党員の男たちは即座に散っていった。中佐は玄関から家を出た。ジープが待っていた。ドアを飛び越えて、助手席へ乗り込んだ。
 そのとき、けたたましいサイレンが鳴り響いた。中佐は真夜中の空を見上げた。戒厳令を知らせる放送が始まった。ラジオ局はすでに占拠しているはずだった。舌打ちをした。誰かが裏切った。そう思った。

 時間をおかずに敗走は始まった。無線はすぐに繋がらなくなった。運転手は額を打ち抜かれ、即死していた。流れ弾なのか狙撃されたのかもわからなかった。
 クーデターは失敗に終わったと確信した。大事なのは経過ではなく結果だった。どれだけうまくことが運んでも、成就しなければ意味がなかった。中佐はハンドルを力任せに叩いた。自分がいまどこへ向かっているのか、それさえもわかっていなかった。
「わたしたちはどこからきたか、わたしたちはなにものか、わたしたちはどこへいくのか」
 そう呟いたときだった、死角から飛び出してきた車が中佐のジープの側面部に衝突した。ジープは衝撃で横倒しになり、そのまま商店に突っ込んだ。一方の車は道の真ん中で停止した。クラクションの音だけが響いていた。
 中佐はジープから投げ出され、路上に転がった。身体がまったく動かなかった。辛うじて目だけを動かせた。そのおかげで周囲の様子を伺うことだけができた。停止した車の運転席が開くのが見えた。その車は耐死仕様になっていた。降りてきた男は野戦服を着ていた。見知った顔だった。しかし声が出なかった。
 男は鼻歌を歌っていた。私は一人で泣いている、泣いている、ただ一人、泣いている、なぜなのかしら、あなたに会っただけで、また私は涙にくれる。中佐の傍らに座り込み、彼を抱き起こした。そのおかげで、苦しかった呼吸が多少は楽になった。
「悪かったな。こうするしかなかったんだ」
「お前はこっち側だと思って……」
 言い終える前にむせ込んで、血を吐いた。内臓が傷ついている、そう思った。
「あの人は俺にカルトブランシュを渡してきたよ。あんたには悪いが、こうする他なかった。それはあんたにもわかるだろ?」
 男は中佐を路上に寝かせた。彼は何か言いたげな様子だったが、もう声が出ないようだった。男は拳銃を抜き、三度発砲した。中佐は動かなくなった。銃声の名残りが立ち込める中、彼はしばらくそこにいた。
「わたしたちはどこからきたか、わたしたちはなにものか、わたしたちはどこへいくのか」
 踵を返して、歩き始めた。腰に括りつけたトランシーバーから声が聞こえていた。拉致された将校たちがどうなったかが判明した。そう伝えていた。

 椅子に座って、報告を待っていた。駆け寄ってきた兵士が耳打ちした。「六人分の遺体が井戸の中に捨てられている」と。男は立ち上がって、井戸のある場所へ向かった。
 そこは空軍基地だった。彼らが占領した建物の内の一つだったが、すでに鎮圧されていた。報道関係者やテレビカメラが集まっていた。男が根回しした結果だった。
 男は空を見上げた。じきに夜が明けるだろうと思った。男は側近に声をかけ、死体の回収を待つように言った。夜明けと共に行うべきだ。
 演出は必要だった。テレビの連中に準備をするように伝えておけと耳打ちした。側近の男は走り去っていった。
 男は大きく伸びをした。十時間前、病院で最初の報告を受けたのが遠い昔のようだった。不意に差し込んだ陽射しに目を細めた。九月三十日が終わる。そう思った。


 理樹は井戸の淵に手をかけて、中を覗き込んでいた。さほど深くなく、今では井戸としての使用されることもなくなっているようだった。井戸の底には、土と突き立てられている旗が見えた。彼は井戸の淵に座り、不意にごほごほと咳き込んだ。顔を上げると、地面にしゃがみ込み、地平線を見つめているクドリャフカが目に入った。
「母はここから宇宙に行くはずでした。ここはこの国の中心だったんです。私はそれをテレビで見た」
 彼女の瞳には一面の焦土が映っていた。焼き打ちと空爆によって、宇宙計画のすべては文字通り灰となった。クドリャフカは真っ黒い砂を片手ですくい上げ、ぱらぱらと風に流した。
 理樹は彼女の背中を見ながら、かけるべき言葉を探していた。しかし溢れたものは沈黙だった。ついに言葉を見つけられず、理樹はただクドリャフカの背後に同じようにしゃがみ込み、背中を背中にくっつけた。
 クドリャフカはバランスを崩しそうになったが、すぐに自分の体重のすべてを理樹に押し付けた。理樹は地面にうつ伏せに倒れ、クドリャフカは彼の上に背中合わせに横たわった。
「その井戸、この国にとっては大事なものなんです。残っていてよかった」
 理樹は首を回して、古ぼけた井戸を見た。何の変哲もない井戸に見えたが、その周囲には決して消えない足跡が残されているようにも見えた。しかしそれ以上は何も聞かなかった。やがてクドリャフカの寝息が聞こえてきた。理樹の上で眠ってしまったようだった。理樹は土を手で弄びながら、彼女の呼吸を感じていた。それはすこぶる心地良い揺れだった。
 ふと顔を上げた。ホテル・アイビスのネオンが見えた。電球が切れかかっているのか、一定のリズムで点滅が繰り返されていた。

 幸いだったのは、朝食のバイキングメニューの品がほとんど残っていたことだった。遠くに見えたホテル・アイビスまで向かうのは億劫だったが、途中で捨てられた自転車を見つけたため、思っていたよりも早く到着できた。
 スープやパン、果物といったあっさりとしたものばかりだったが、暑さに参っていた二人にはちょうどよかった。理樹は赤い果肉の果物をおいしいと言った。クドリャフカは笑顔で言った。「それ、名産なんです。ホッシェンフルーツ」。
 食事を終えた二人はフロントからキーを持ち出し、たまたま開いた部屋に腰を落ちつけた。窓からはテヴアの夜が見渡せた。宇宙総局の跡地もそこから見えた。
 また汗をかいてしまっていたので、シャワーを浴びることにした。今度は別々には言った。理樹が先に入って軽く汗を流し、彼女がシャワーを浴びている間はホテル内を散策した。
 ホテルの中には人の姿がなかったが、唯一、支配人室に死体が転がっていた。身なりから判断するに支配人のようだった。そばにマスターキーが落ちていたが、今の理樹には不要のものだった。
 一階には土産物屋があった。そこで見つけた花火を手に、理樹は部屋へ戻った。クドリャフカはバスタオルを身体に巻いただけの恰好で髪を乾かしていた。理樹が彼女に花火を見せると、彼女は顔を綻ばせた。
 部屋の照明を落とし、枕元の電話台の引き出しにあったマッチで花火に火をつけた。鮮やかな色が暗くなった室内を彩った。理樹はまたマッチを擦って、クドリャフカが手にしている花火にも火をつけてやった。エメラルドのような発色の火花を目にし、クドリャフカは「きれい」と呟いた。
 室内が煙でいっぱいになると、警報機が作動し、スプリンクラーが放水を始めた。二人は窓際へ行き、花火の先端を外へ向けた。路上には人っ子一人いなかった。やがて花火の光が消えると、屋外も室内も真っ暗になった。水音だけが続いていた。
 理樹は室内の照明を元の明るさへ戻した。スプリンクラーは作動し続けていた。クドリャフカは部屋の中央に立ち、天井を走る機材をシャワーでも浴びるみたいに見上げていた。水の勢いに、いつしか彼女のバスタオルは床に落ちていた。
 理樹はクドリャフカを後ろから抱き締めた。電源を入れた覚えはなかったが、ラジオが勝手に電波を受信していた。どこかのラジオ局の音声が雑音混じりに流れ始めた。それは六十年代の古い曲だった。私の恋人になって、言ってくれるだけでいいの、私の恋人になるって。
 曲に合わせて、二人は踊り始めた。指と指を絡め合い、お互いの体温がわかるくらいに身体を寄せ合った。どう足を動かし、手を動かせばいいのかはわからなかった。ただ曲に身を任せるだけだった。ねえ私、あなたに会った日からずっとあなたを待ってるのよ。あなたへの憧れは消えないわ、永遠に。わかるでしょ?
 不意に理樹がたまった水に足を取られてバランスを崩した。近くにあった窓に肘がぶつかり、窓ガラスがばりんと割れた。とっさに理樹は窓の外を気にしたが、クドリャフカは彼の肘を心配そうに見つめていた。ガラスの破片が刺さり、出血していた。
 クドリャフカは理樹をベッドに座らせて、ガラスの破片を慎重に取り除いていった。それから傷に舌を這わせて、血を舐めとった。彼女の口元が赤くなった。いつの間にか警報もスプリンクラーも止まっていた。二人はずぶ濡れだった。理樹はクドリャフカの前髪をかきあげて、彼女の顔を見つめた。手を伸ばし、唇の周りについた血を指先につけ、彼女の唇をなぞった。唇は紅を引いたように赤くなった。どちらからともなく口づけを交わし、ベッドに倒れ込んだ。音楽だけが変わらずに流れていた。私の恋人になって、ただ言ってくれるだけでいいの、愛してるって。

 起き上がってすぐにくしゃみをした。割れた窓ガラスから風が吹き込んでいて、カーテンが大きく揺れていた。まだ眠っている理樹にキスをして、ベッドを這い出した。祖父の家から着てきた服を着た。
 バイキングのメニューはまだ残っていた。二人分の食べ物を適当に皿に盛り、飲み物を用意した。部屋に持ち帰ると、ちょうど理樹が目覚めたところだった。ジーンズを穿きながら、「もうお昼だね」とは言った。
 食事を終えると、二人はホテルを後にした。一度外へ出てから、理樹は一旦ホテルに戻った。再びホテルを出てきたとき、彼の手には錆びた銀の皿とろうそくがあった。
 二人はホテルの前の通りのど真ん中に立っていた。車も人も、どこにも見えなかった。
「そろそろ戻ろうか」
 絞り出すような声だった。彼女は息を飲み、すがるように理樹を見た。理樹はじっとクドリャフカを見つめていた。感情を押しつぶしているような目線だった。そのまなざしにクドリャフカは「はい」と頷いた。そして「楽しかったです、リキ」と続けた。


 洞窟の入り口で、理樹はろうそくに火をつけた。皿にろうを垂らし、ろうそくが倒れないように固定した。それから洞窟内に足を踏み入れた。
 その洞窟は一本道だった。通路の両側に牢が設けられていた。奥まで達するのに数十分の時間を要した。道は単純だったが、かなり深かった。洞窟は海岸線にあり、しばらくは波音が聞こえていたが、それもやがて届かなくなった。中間くらいのところに詰め所があった。
 無人の牢の前で理樹は足を止めた。南京錠がぶら下がっていたが、鍵はかかっていなかった。理樹は彼女を連れて、牢の中に入った。それから彼女の服を脱がした。隅に置かれていた錆びたバケツに入れ、点火したマッチを落とした。服は徐々に燃えかすになっていった。理樹は咳き込みながら、彼女の肩にマントをかけた。
「僕は君を助けたかった。でも助けられなかった」
 理樹は天井に埋め込まれている鎖を引っぱり、手錠の準備をした。洋服が燃える匂いが立ち込めていた。
 クドリャフカは「待って」と理樹を制し、自分の髪の毛を数本噛み切った。それを理樹の左手薬指に巻きつけ、「私は幸福でした」と言った。
 理樹はその言葉には答えずに、手錠をクドリャフカの両手首にかけた。万歳をするような格好になり、両足の先端は辛うじて地面につく程度になった。それでもクドリャフカは笑顔だった。
「僕に何ができたのかな」
「リキ、私はこの国をあなたと一緒に歩きたかった。夢は叶った。この一日が、嘘だったとしても」
 理樹はクドリャフカの前に立っていた。頭がちょうど彼女の腹部にあたっている。確かな温もりを感じていた。クドリャフカはふざけるように足を理樹の身体に絡めてきた。
 足音が聞こえた。理樹はクドリャフカから離れた。
「お別れだね、クド」
「はい。リキ、今までありがとう。さよなら」
「うん、さよなら」
 理樹はろうそくをふっと吹き消した。
 牢を出て、長い廊下を歩いた。さよならは別れの言葉じゃなくて、再び逢うまでの遠い約束。そう口ずさみながら歩いた。やがて民兵の集団とすれ違った。民兵たちは彼女の牢へ向かっていた。
 懐中電灯の強い光が、彼らを迅速に彼女の牢へ導いた。彼らは彼女の拘束を外し、麻の袋を頭にかぶせた。そのまま彼女の手を取り、牢獄を後にした。
 海岸線に立っているのは彼女だけではなかった。同じように麻袋をかぶせられ、視覚や聴覚を遮断されている者が複数いた。彼らの前には銃を構えた者が立っていた。銃声と共に、彼らは次々と砂浜に倒れていった。
 クドリャフカは麻袋をかぶせられていたが、すでに視力や聴力が失われつつあり、大した影響はなかった。それでも銃声の鋭さは耳によく響いていた。逆にいえば、それくらい大きな音でなければ聞き取れないくらいだった。
 だから自分がいつ撃たれるかもよくわかっていなかった。直前まで彼女はいつか聴いた歌をかすれた声で口にしていた。砂の上、刻むステップ、今あなたと共に。
 銃声が響いた。能美クドリャフカは熱い砂浜に倒れ込み、数十秒後に息絶えた。そのとき、テヴアの波はひどく穏やかだった。


 パトランプの回転が事件の発生を正確に周囲へ伝えていた。
「死後二、三日ってとこですかね」
「ひどいもんだな。この季節じゃ仕方ないが」
 刑事が二人、現場となった工場から出てきた。警備の警官に目で挨拶をし、車へ向かおうとした。すれ違うように一人の少女が人だかりから駈け出してきて、立ち入り禁止のテープをかいくぐった。警官が肩を押さえて「君、待ちなさい!」と声を出すと、彼女は振り返って「ふかー!」と威嚇した。
 その剣幕に警官は思わず怯んでしまい、手の力を弱めてしまった。棗鈴はその瞬間を見逃さず、すかさず腕を振り払って工場の奥へ走った。
 直枝理樹がいなくなったのは三日くらい前だった。寮から姿を消したのだった。行方はまったくわからなかったが、潰れた工場で首吊りがあったという話を耳にし、慌ててやってきたところだった。
 工場の奥はじめじめしていた。天井近くにある機材から汚水のようなものが垂れていて、地面に水がたまっていた。鈴は厭そうに顔を歪めながら、目的の場所へ急いだ。
 まだ警察関係者が数人残って現場検証をしていた。鈴は何かの機械にぶら下がっている死体へ歩み寄った。周囲の人間が「あ、君、だめじゃないか」と止めようとするが、鈴の耳には届いていなかった。結局、ただ突っ立っているだけの鈴に、彼らはそれ以上何も言わなかった。そんなことよりも、自分の仕事を早く終わらせることの方が大事だった。
 鈴は死体を見上げていた。紛れもなく理樹だった。ジーンズを穿いただけの恰好だった。Tシャツを切り裂いて作ったロープで首を括っていた。靴は履いていたが、片っぽは地面に落下していた。鈴はその場にしゃがみ込んだ。俯いて、誰にも聞こえないくらいの声で「おまえ……ばか……」と呟いた。
 そのとき、理樹の薬指に巻かれていた髪の毛がほどけた。亜麻色の、美しい髪の毛の束だった。それは誰にも気づかれないまま、柔らかい軌跡を残して落下した。

(了)

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