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パースペクティブ過剰

 睦まじくバスを降りた老夫婦の小さな背に目をやったときに感じた視界の断絶を十年のときを隔ててもう一度味わうことになるとは、村一番の年寄りであるたねも想像しなかったに違いない。齢八〇を越えた今も現役の百姓である彼女は村で一番の働き者だと賞賛を浴びているが、年齢の衰えに勝てずにいた。収穫したばかりの真っ赤なトマトを入れた籠を背負った彼女は、若い時分であれば、雨くらい走ってやり過ごしただろう。しかし腰も曲がり、筋力もわずかになった彼女は無理をせずにおとなしく雨を避けるためにバス停の脇に建てられている寂れた小屋に入ったのだった。中は真夏の熱に支配されていて、置かれた丸椅子が蜃気楼のように揺らいでいた。そして先客がいた。スーツを着込んだ中年の男、村の皆が銀行さんと呼んでいる男だった。彼は笑顔で頭を下げてきた。襟足のあたりがびっしょりと濡れていた。声をかけようとしたが、降り出した雨が轟音を伴うほどの強さになっていて、二人の会話を遮っていた。たねにはそれが不潔な笑い声にも聞こえたが、じきに晴れ上がるだろうこともわかっていた。道の向こうへ目をやると、ゆっくりと走っているバスの姿が見えた。最初は雨音が全てをかき消していたのだが、やがて勢いを失い、代わりにエンジン音が聞こえ始めた。バスが寸文の狂いもなく停留所の真ん前に停車する頃には、上空を覆っていた雲からは水気が消えていた。銀行員はバスに乗り込み、入れ違うようにバスから夫婦と思しき二人連れが降り立ち、たねに会釈をして通り過ぎた。その瞬間、停電になったかのように、たねの視界は不自由になった。しかし夫婦には何事もなかったのだろうか、道なりに肩を並べて歩く姿は何の揺らぎもないままに徐々に遠ざかっていった。


 遠野は七分遅れで到着したがらがらのバスの最後部の座席に座り、ふと背後を見た。見知らぬ二人連れがバスを降りたところは横目で見ていた。地方銀行の営業マンである彼は毎日のようにこの地域の顧客の顔を窺うためにあっちからこっちへと歩いているのだが、全く見たことがない顔だった。そもそも観光地でも何でもない土地である。田畑はあるが、逆にいえば、それしかない。そのようなさびれた地を訪れるにはそれ相応の目的があるはずではないかと思考を進めたところで、口元を緩めた。都会での生活をリタイアし、田舎で暮らすつもりなのかもしれないなと考えた。そういえば、まだ話こそしていないが、最近若い男も越してきたし、あるいは身寄りかもしれない……そこで思考を中断した。書類を取りに一度帰社しなければならないことを思い出したからだった。車があれば、とも思うが、先日狸だか狐だかをはねたときの感触が今も両手に残っていて、しばらくはハンドルを握れそうになかった。だからバスに乗っていた。ふと窓の向こうに目をやった。空は今さっきの猛烈なにわか雨が嘘のように晴れ渡っていた。


 初老の男が茶色のジャケットの内ポケットから取り出したメモ帳を開き、挟まれていた紙切れを広げて、周囲の景色とそれを見比べているところをちょうどトラックで通りかかった溝口はどうしたんだいと明朗快活な声を上げた。一瞬老人は驚いたような顔を見せたが、すぐに頬を緩めて、道を尋ねてきた。溝口は停止したトラックの窓から半身を乗り出して、その落書きみたいな地図と、文字が崩れすぎてひどく読み辛くなっている地名と番地を見比べて、的確に道を教えた。それほど離れた場所でもなかったので、トラックで直接連れて行ってあげてもいいところだったのだが、農協まで急いでいるところだった。つい数刻前の通り雨を嫌って路肩に車を止めて休んでいたのが仇となり、余裕を持っていたはずの時間はかなり失われていた。溝口は老夫婦の目的地までの道のりにある、目印になりそうなものをいくつか教えてやった。自分の住んでいる町のことだから、大抵のことは頭に入っていた。余計に詳しく口走ってしまったのは老夫婦の行き先が越してきたばかりの青年の家であったからだった。息子か何かなのだろうと溝口は考えていた。そうでなければ、夫人の方の穏やかな表情の説明ができないと思った。また男性にしたって、緊張と期待と不安が入り混じったような、間抜けといったら失礼かもしれないが、少なくなくとも引き締まっているとはいえない、そんな顔をしていた。老人はかぶっていた帽子をとり、深々と頭を下げた。溝口は照れくさくなって、片手を振り、もう片方の手でレバーをぐるぐると回して車の窓を閉め、二人がたっぷり距離をとってから、アクセルを踏んだ。


 東京へはもう何度も行きましたね。そんな歌声がラジオから漏れていた。小さな歌声だった。須田はくたびれたピンク色のハムの塊に小振りのナイフを当てていた。君の住む美し都。もう何十年も前に流行った曲がひどく新鮮に聞こえた。横目で客の姿を窺った。初めて見る老夫婦がテーブルに座っていた。店に来る客はカウンターに陣取るのが常だから、妙な按配だった。わずかであるはずの距離の差がもどかしかった。唸っていたレンジがチンという合図とともに動きを止めた。トーストが淡い狐色に焼けていた。須田は薄くバターを塗り、ハムとレタスを挟んで、辛味のない、風味だけのマスタードを仕上げに軽く垂らした。ハムサンドを注文したのは老人の方だった。コーヒーと紅茶、そしてハムサンド、喫茶で頼む品としては平凡なものばかりだった。もともとメニューは少ないのだから、仕方ないのかもしれない。男は帽子をとり、それを椅子の背にかけていた。彼がぼんやりと見上げている先には14インチのテレビがあった。店内の誰もが見られるようにと棚の上に置かれているテレビにはユニフォームを真っ黒にしている球児の姿が映し出されていた。地方大会の中継だった。しかし須田の母校はもちろん、妻子と関係のある高校はすでに負けてしまっていた。同じ県内であるという理由以外に応援する義理はなかったが、それでもときおり熱を上げてしまうのはかつて野球部に所属していたからなのだろうか。男はやがて興味をなくしたかのように、対面に座っている女へと目線を移した。きっと妻なのだろう。須田の位置からは、女の顔ははっきりと見えた。男は須田に背を向けている格好になるため、その表情は窺えない。女の口がわずかに動いた。しかしか細い声はわずかに空気を振動させるだけで、何を話しているのかはわからなかった。須田は淹れたての飲み物とハムサンドを盆にのせ、老夫婦に差し出した。二人は頭を下げ、それらを受け取った。須田はごゆっくりと言い、カウンターの向こうへと戻った。君が咲く美し都。ラジオからの歌声はそこで途切れた。夫婦は二切れのハムサンドを一つずつ食べていた。パンのかすを全くこぼさない上品な食べ方で、この土地で店を開いてから一度もそんな客を見たことがなかった須田はいよいよ彼らが何者であるのかを知りたくなってしまった。しかし自ら問おうとは考えなかった。近隣の住民でない者が歩いていれば目立つ土地だ。今は外に出ている妻が聞かなくてもあれこれと勝手に教えてくれるだろう。身体は小さいが、声のでかい女。そう思い、彼はひたすら無愛想な店員に徹していた。会計を終えた夫婦を送り出したあと、食器を片付け、テーブルを拭き、それからエプロンのポケットから煙草を一本抜き取ってくわえた。レジの近くに置かれているざるにしこたま放り込まれている売り物の百円ライターから火を拝借し、大きく煙を吐き出した。


 青年というにはいささか年を食っているのかもしれなかった。それでも、大きく見積もっても、二十代後半くらいだろうと見当をつけていた。自転車に跨った西山は日が暮れる前に出勤するのだが、その時間帯になると、青年は逆に町から戻ってくるのだった。道ですれ違うか、彼女の出発が遅い場合は、すでに彼は帰宅していて、庭の雑草を鉈で刈っているか、その必要がなければ縁側に座っているか、いずれかであった。この日は庭の手入れのようだった。こんにちは、と声をかけると、困ったような、恥ずかしそうな顔で軽くお辞儀をする。それは日課であったが、彼女には彼に声をかける用事なんてなかった。だからいつだって挨拶をするだけなのだった。草を刈る音を背に西山は青年の家の前を走り抜けた。用事がないというのがときどき悲しく思えるのだった。家には表札がなかった。だから村の者は東京さんと呼んでいた。口数の少ない彼の言葉には訛りが一切なかったからだった。もちろん名を知らぬわけではなく、南何とかという名前なのだという。だが、彼を示す名は、この土地では東京さんだった。それは銀行さんや保険さんと同じ、愛称だった。彼女が知っているのはそこまでだった。月に何度か、彼が見知らぬ中年の男や女と一緒にいるところを見かける。どうやら町から一緒に戻ってきているようなのだが、いつだってそれ以上は踏み込めないのだった。ただ、こんにちは、おかえりなさい、などと声をかけるだけだった。真夏の太陽の下で自転車をこぎながら、そのようなことに思いを巡らせていた。だから初老の夫婦と思しき二人とすれ違っても、しばらくその違和感に気づけずにいた。あの二人は誰だったのだろうというもっともな疑問を抱いたのはしばらく経ってからだった。一緒にいた和服の爺さんは中村さんだったような気がするけれど、などと考えた。しかし心もそぞろに足を動かしていた彼女の記憶は散漫で、もやがかかったようだった。雑に塗られた淡い青色のペンキが彼女の勤め先の目印だった。自転車を止めて裏口へ向かおうとしたとき、けたたましいサイレンの音が響いた。何事かと振り返ったが、救急車だか消防車だかパトカーの姿は、彼女のいる場所からは全く見えなかった。


 中村は孫を探していた。昼過ぎに、部屋からナイフが消えていたのに気づいたのだった。全体が錆の塊のようになっているような骨董品だった。今日もまた勝手に持って行ってしまったようだった。友人たちと山に探検に行くときなどは、どうにかして持ち出そうとするのだった。錆付いた年代物のナイフではどうで枝の一本すら一枚切れぬだろうが、それでも心配なことにかわりはないのだった。あるいは、切るのではなく殴るのであれば、凶器になりうるのかもしれぬとも考えていた。家を出たものの、孫がどちらへ行ったのか、見当もつかなかった。もちろん孫の身に決定的な危険が迫っているというわけでもなかったから、慌てもしなかった。散歩がてら見つければいいくらいの認識でいた。ひび割ればかりのアスファルトを彼は歩いていた。雪駄を履いていたから、ためこまれた熱の感触を足の裏にはっきりと感じてしまい、汗がしみ出した。数十年前に舗装されたきり、全く手入れをしていないのだった。国や県から見捨てられた土地、というのは大袈裟で、ただ単にここまで金が回らんのだろうというのが大勢の意見だった。政治に疎い中村にとって、その手の話は退屈以外の何物でもなかった。彼は気の向くままに歩いていた。直射日光の強さには辟易していたが、夏の暑さは嫌いではなかった。しかしながら帽子くらいはかぶってくるべきであったかと後悔していた。雨が降ったばかりだったから、少しは涼しいかと思っていた。不意に日光に目を細めると、分かれ道で立ち尽くしている二人連れを見つけた。どうかしましたか、と彼は声をかけた。同い年くらいの夫婦のようだった。話を聞くと、道に迷っているようだったが、目的地はすぐそこだった。ああ東京さんの家ならね、と身振り手振りで教えた。二人は丁寧に頭を下げて、感謝の気持ちを表した。そのときの夫人はまるで菩薩のような優しい笑みをたたえていた。すっかり枯れてしまっていた彼であったが、一瞬、心臓が高鳴るのを感じた。不思議な気分だった。恋の感情ではなかった。あるいは、そのすべてを赦すために微笑んでいるような眼差しはきっとおれへ向けてのものではないのだな、と思い、悲しみにも似た感情が生まれていたのだった。だから彼はちょっとした放心状態だった。すぐそばを西山という妙齢の女のこぐ自転車が走り抜けたが、普段は誰にでも明るく挨拶をする彼であるのにもかかわらず、声が出なかった。老夫婦は何度も感謝の念を口にしながら、目的地へ向かって歩いていった。風が吹いた。立ち尽くしていた中村は風の音で我を取り戻した。また雨雲が来るだろうと直感した。嫌な風だったのだ。家に帰ろうと思った。すっかり弱った今の足腰はつむじ風に突き飛ばされてしまうくらいだったからだ。


 彼には名前がなかった。正確に言えば、彼は名前を認識できなかった。普段は名もない山の麓にある、今となっては遊び場を求める子供だけが訪れる、半ば崩れかけた神社の境内を根城にしていた。彼は自分の名を認識していなかったが、人間にはミイだのチビだのカバチタレだのと好き放題に呼ばれていた。もちろん彼に音声の微細な差異など理解できるはずもなく、一匹と一人の視線が交わってやっと、ああこの大きいのは俺を呼んでいるのだな、と認識した。しかし彼は人間が嫌いだった。春に生まれた彼がまだ家猫だった幼い時分、ろくに歩けもしない幼児に尻尾を引っ張られたことがあった。そのときの不快感を彼は一度たりとも忘れることがなかった。その家を逃げ出して以来、人間には近付かず、徹底的に警戒をしていた。しかしあるとき迷い込んだ家の敷地内で草を刈っていた男はどこか違っていた。手を止めて彼を一瞥し、すぐに作業に戻ったのだった。彼は奇妙に思い、その場にとどまった。やがて男は鉈を地面に置き、家の中へ姿を消した。彼はちょうど小腹も好いてきたところであったから、その庭に雀や何かが来やしないかと期待していたのだが、現れたのはあの男だった。縁にひびが入った茶碗に米粒と味噌汁、そして鰹節を大雑把に放り込んだものを持っていた。それを庭の端に置き、また作業に戻った。彼は不審に思いながらも、その茶碗に近付いて、舌を伸ばして中身を舐めてみた。と同時に、男の様子を窺った。男は刈り取った草を集めているところで、彼に関心を寄せようとはしないのだった。十分後、茶碗の中身を平らげた彼は家を悠々と正面から出た。それに至るまで、男は一切、彼を見ようともしなかった。以来、彼はたびたび男の家を訪れるようになり、この日も同じように、カラタチの垣根をくぐり抜けたのだった。出会ったときと同じように、男は鉈をふるっていた。年を食ってすっかり弱ってしまった喉を震わせてしわがれた鳴き声を上げた。声が突風に乗り、男に届けられた。人に知られるのがとにかく嫌なので、家々が立ち並ぶ場所では決して鳴かないが、男の前では別だった。鳴くのはいつも山の中だった。神社に子供達がやってくると、彼は山の奥へと姿を消すことにしていた。そして山の中でなら、どんな声で鳴いてもかまわないと認識していた。まず一声鳴いてみると、それが音頭となり、山の中に隠れ住んでいる猫どもの大合唱になるのだった。しかしこの家で鳴いたとしても、その声は山までは届かない。男は無感動に彼を見て、いつものように台所へ行こうとした。しかし玄関から声がした。玄関とはいえ、庭の様子まで筒抜けである。自分のように年を食った夫婦がいた。女の方が自分に気づき、顔を綻ばせていた。それを見た彼は背筋に嫌なものを感じ、きびすを返して、庭から逃げ出した。


 いきなり飛び出してきた猫に驚き自転車ごと転倒してしまい、膝小僧を大きく擦りむいてしまったのだった。あっという間に血が滲んだ。祖父の部屋から失敬した錆だらけのナイフが滑り落ちていた。少年は急いで手を伸ばした。血が滴り落ちそうだったので、汗の汚れが目立つランニングシャツを引っ張って拭った。あの猫今度見たらいじめてやる、そう思った。自転車を起こしたところで、垣根に穴が開いていることに気がついた。あの猫が開けたものに違いないと思い、彼はそっと中を窺ってみた。最近越してきた男の家だった。死角になっていてよくわからなかったが、地面に膝を落としている青年の後ろ姿が見えた。鉈を振り上げては下ろしていた。大振りの鉈は子供心に格好よく見えたが、覗きなんて趣味が悪いや、とすぐに自転車で走り去った。


 太陽が落ちようとしていた。サイレンを聞いた須田は何事かと外の様子を窺った。スピードを出しているパトカーや救急車が見えた。彼が口を開く前に、須田の妻は店を飛び出していた。エプロンを着けたままのサンダル履きの彼女は大事件が起きたのだと胸を弾ませていたが、十五分後には失望していた。パトカーや救急車が駆けつけた先の民家にはすでに人だかりができていて、背の低い彼女には何も見えなかったのだった。


 食い損なった飯をどうにかできぬものかと彼は男の家に戻ってきていたのだが、考えられないくらいの人だかりができていたことに絶望していた。風が強くなり、また一雨来そうだった。彼は雨が嫌いだった。軒下のねぐらに戻ろうかと思ったところに、何か紙切れが飛んできた。彼は何の気なしにそれをくわえた。本当にただの紙切れで、食えそうにもなかった。と、そのとき、彼は首根っこをつかまれた。少年の顔が目の前にあった。彼は一声鳴いたが、風にかき消された。表情は暴力で満ちていたが、その炎はすぐに消えた。彼がくわえていた紙を少年はさっと奪い、彼を離した。興味が移ったようだった。少年は紙切れの文字に目を落としていた。が、ごめんなさい、と、ってくれれば、します、もう、わりにしましょう、ただ、で、手を、わせてください。少年は漢字があまり読めなかったため、書かれていることの半分も理解できず、紙飛行機にして投げてしまった。それは風に乗ってよく飛んだ。しかしやがて再び降り出した雨に打たれてすぐに墜落した。


 駐在所の軒先を借りていたたねは無人であることに躊躇いながらも、背負った籠に突っかけておいた手拭をとって、衣服をはたいてから腕や顔を拭い、派出所の中に入った。所々破れて中のスポンジがはみ出しているパイプ椅子に腰を下ろした。雨は止みかかっていた。畦道のど真ん中でなくて本当によかったとほっとしていた。夕暮れがすぐにやってくる、そんな匂いを感じていた。ふと机の上の新聞に気づいた。配達されたまま、放置されていたようだった。死刑確定という大きな見出しがあったが、瞳は青森のりんご農家が先の台風で被害にあったという記事を追いかけていた。同じ農業を営む彼女にとっては他人事ではなかったからだ。記事を読み終えたところで、制服に水をしこたま溜め込んだ長塚巡査が戻ってきた。濃い青から黒に近い群青色に、制服は色を変えていた。たねはそれを見てはにかんだように笑い、長塚も白い歯を見せた。参っちゃいますねえ通り雨ですよ、などと言葉を交わすが、駐在所の窓ガラスが出し抜けにきらきらと反射した。太陽が見えた。たねは立ち上がる前にトマトやきゅうりをいくつか机に置いた。長塚は断る素振りも見せずに、まだ目を通していない新聞紙でそれらを包んだ。たねは派出所を後にした。まだ夕暮れには早い時間だが、不意に、青空が途切れたような錯覚を抱いた。それは束の間の出来事だった。そういえばこんなことが前にもあったと彼女は思った。それは正確に数えれば十年前の話だったのだが、年老いた彼女は全く異なったときの辿り方をしていたから、十年前の出来事もつい数時間前のことのように感じられていた。だから彼女はふと、あの青年は今何をしているのだろうかと考えた。あの老夫婦は今何をしているのだろうかと考えた。

(了)

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