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ポルノティック



 言葉や感情を凌駕する身体があらわになるとき、誰もが時間を忘れて見とれてしまう。彼女の肉体はポルノという一種の見世物の中で間違いなく輝いたし、市井にばら撒かれたビデオテープ、DVDの中に今もはっきりと存在している。特権性を帯びた女の身体は記録媒体に焼き付けられたままこれからも半永久的に増殖を続けるだろう。
 でも、実際の彼女はどうだったんだろう。
 彼女のことを話そう。彼女、すなわち白鷺ハルナの短い一生について。
「え? わたし?」
 彼女は白鷺ハルナという芸名を持っていたが、実際は笹口良子という名前だった。芸名をつけたのは社長だった。『ハルナ』がどこから来たのかは知らないが、『白鷺』というのは彼女の肌に因んでつけられた。彼女は透き通るように白い肌をしていたからだ。薄いのは肌だけではなくて、髪の毛や黒目もどこか薄かった。だからぼくは初めて彼女を見たとき、AVには向いていないのではないかと感じた。
「でも、私はすごい合ってるっていうか、うん、嫌いじゃないよ。あ、懐かしい。これ最初に撮ったポラだ。憶えてる?」

『スナップ』

 おどおどと事務所に入ってきたハルナをぼくははっきりと憶えている。朝早く、といっても十時は過ぎていたと思うが、事務所のチャイムが押された。事務所は西新宿にあるマンションの一室にあった。そのとき事務所にはぼくと社長、数人のモデル――ぼくたちは女優のことをモデルと呼んでいた――がいた。事務所といってもたいしたものではなくて、企画系AVの現場にモデルを派遣しているだけで、そもそもモデルさんにしてもバリバリ稼ごうという気持ちを持っている者はおらず、小遣い稼ぎ程度にしか考えていないようだった。社長にしたって副業みたいなもので、ぼくなんかに経理だの何だのを任せているやる気のなさだった。
 そんな按配だったから、新しいモデルが来ると聞いても、ああそうかくらいの感想しか持てなかった。やる気のない者が一人増えたところで、いくらぼくが仕事やオーディションの話を探してきても、引き受けてくれなければ話にならない。それは給料に直結するような深刻なことなのだが、片手間で欲と財布を満たそうとする彼女たちにはぼくの懐事情なんてわかるわけもなかった。だからぼくは社長から話を聞かされても、生返事を返すばかりだった。「君はやる気がないなあ」と呆れていた。
 すっと伸びた背中を隠すようにハルナはその姿をあらわした。空気が止まったような気がした。紺色のニットキャップから覗く顔には不安の色があった。染み一つない白い顔にはこの事務所に足を踏み入れるような子と決定的に異なっていることがあって、つまりほとんど化粧っ気がなかった。たまたまその場に居合わせた他のモデルたちが息を飲むのがわかった。ぼくは目の前に置かれたPCの液晶画面から視線を外し、ほっとしたような顔で社長のところへ向かうハルナを見ていた。
「良子ちゃんよく来たねえ。あ、君、今日から白鷺ハルナだから。鷺。鳥の。良い名前でしょ。ちょっとそこ座って」
「あ、うん。はい」
 応接用のソファにハルナを座らせて、社長はその前に腰を下ろした。そのときにちらりとぼくを見るので、ぼくものこのこと応接室に向かった。応接室といってもそう呼んでいるだけで、テーブルとソファがあるだけだった。ぼくは社長の隣に座った。ハルナは上目遣いにぼくたちを見ていた。社長が契約書を出し、ぼくは社長に渡された履歴書を確認しながら、契約内容についての説明をする。いつもの流れだった。ハルナは契約書をほとんど見ないで、時折頷きながらぼくの言葉に耳を傾けていた、じっとぼくを見ながら。
 モデルが最も聞きたがるのは給料とNGについてのことで、ハルナもやはりその二点に食いついてきた。特にNGプレイについては事細かに指定をしてきた。もっとも、ぼくたちの事務所はそんなに激しいプレイを要求される現場を用意したことはなく、求めるモデルもいなかったので、ハルナにとってはちょうど良かったのかもしれない。
「ハルナは俺が口説いたんだよ。ソフトコアで充分いける素材だ、お前はって」
 社長は後でぼくにこう言ったが、ハルナの妙に緊張した顔はそれが嘘だったのではないかと思っていたからだった。
「だって怪しいじゃないですか。怪しいよ。AVだって話なのに、手ブラでもいいとか意味わかんないよ」
 契約の話を終えると、社長はポラロイドカメラを取り出した。宣材の段階の前に、まずは簡単なスナップ写真をとって、彼女のモデルとしての方向性を決めなければならなかった。現場ならどこでもいいというわけではない。事務所にとっては貴重な駒だった。
 一通り撮影が終わると、不器用にニットキャップを被り直し、またソファに座った。ぼくがとりあえず契約なので、こことここに判子を押してねと言うと彼女は鞄の中を探ってから少し間を置いて、「あ、忘れた」とぽつりと呟いた、ぼくの顔色を伺うように。
「ないの? ダメだよ、ちゃんと持ってこなきゃ、大人なんだから」
「え? でもあたし、十八なんだけど」
「え? そうなの?」
 と、社長へ振り返ると、ただうんと頷いた。
「マジかよ……」
「若いでしょ」
「しょうがねえな。じゃあ、拇印でいいや。形だけだから」
「あたしそんなにおっぱい大きくないよ」
「はあ?」
「ねえ、これ何て読むの?」
 細く長い指は契約書に書かれた『遵守』という文字を示していた。ハルナっていうのは、何ていうかもう……こういう女。

 彼女のデビュー作はナンパものだった。顔出しNGの素人として胸を見せるだけのわずか数分の出番だった。要するに仕込みだが、彼女自身は素人そのものであったので、リアクションに自然さがあったと現場での受けは上々だった。それを皮切りに同じようなナンパものに立て続けに出演したが、それは完全にぼくのミスだった。ハルナの身体は色の薄さ故に特徴的だった。じきに素人としてしこめなくなってしまったが、その頃には一人の企画女優としてそこそこ有名になっていた。胸や尻を晒すだけで小銭を稼ぐ時期は終わった。ソフトコアからハードコアへ、ハルナは駆け上がっていった。
 他のモデルとは違い、ハルナの出演量は多かった。だからぼくはその頃ハルナの専属マネージャーみたいなものになっていた。当然ぼくなしで事務所の経営が回るかといえばなかなか難しいから、社長は一人の男を雇った。アルトゥーロという名前のペルー人だった。
「あいつ不法滞在なんだよ。パスポート切れてんの。だから安く雇ってんだ」
 社長は笑いながら言った。手取り十万くらいだぜ。社長はチビだからなのか半ば禿げ上がった頭のせいなのか、妙に人当たりの良い外見だったが、容赦のないところもあった。アルトゥーロの給料なんてのはその端的な例だった。もっとも、アルトゥーロは不法滞在の負い目があるのか、文句一つ言わずにモデルのマネージングに精を出していた。うまいことつけこんだもんだとぼくは感心していた。ただ、アルトゥーロはアルトゥーロでモデルを食っていたらしいから、利害が一致していたと言えなくもない。
 ハルナが初めて本番を経験したのは、恋人とのセックスを擬似的に体感するというコンセプトのオムニバスにおいてで、その三番目に登場する女の子の役をもらった。撮影風景は別段珍しいものではなかったが、撮り上がった映像を見てみると全く違う。男優は身体の一部しか映らず、男目線の映像がずっと続いていた。実際にハルナと同じ空気を共有しているような錯覚を抱かせるような映像。企画のコンセプトへのアンサーがセックスを終えた後のハルナの満足げな顔だったのかもしれない。
「でも、ほんとはちょっと怖かったんだけど、でもあれですよ、気持ち良かったっていうか、恥ずかし気持ち良いっていう、あの、プレイだよね。見られる気持ち良さってあるでしょ、田島さん」
 田島っていうのはぼくの名字だ。撮影後、内々でささやかな打ち上げを行った。ハルナの初本番記念に乾杯をした。
「でも男優さんは優しいじゃないですか。あたしは今くらいのがちょうどいいかなって思ってる。見え方的にも、自分の」
 そのとき、こいつはわかってるんだ、自分の見え方をって思った。
「田島さんはどう思うの?」
 そのときぼくはどう答えたっけ? よく憶えていない。アルコールが入っていたからじゃない。きっと予感めいたものがあったからだ。この女は上まで行くんじゃないかって。
ハルナはその夜、一人だけジンジャーエールを飲んでいた。未成年だったからだ。コンビニで買ってきたお菓子を嬉しそうに食べる彼女はもう子供みたいになっていた。撮りたての映像を見ていたハルナはそこにはいなかった。ぼくの視線に気づいたのか、ハルナは不思議そうに首を傾げた。

 彼女のスタートは順風満帆だった。ネットで自演をするまでもなく、すぐに彼女は話題になった、あの女優は何だ、と。素人を装っていた頃は叩かれたこともあったが、遠い昔のことのように思えた。
「これ、あたしのことなの?」
 ぼくが頷くと、ハルナは心底嬉しそうに笑った。
「すごいね、あたし。愛されてるんだ」
 愛されてるよ、どっかの誰かには。愛されてたんだ、あんたは。そうだよな、ハルナ。
「うん」
 ハルナは十六でぼくたちのような胡散臭いものではなく、れっきとしたモデル事務所に所属した。その頃はまだ山梨の実家に住んでいた。中卒で高校には行かず、バイト、そして東京都の往復を続けていた。そこで芽が出なかったのは彼女の身体が衣装やアクセを食ってしまうからで、コスプレものが今一つだった理由とよく似ている。十八で東京に出てきて、相変わらずバイトとモデルの仕事で食っていたが、マネージャーといい仲になったためにクビになり、どうするかというところに社長が声をかけたのだという。
「ざっくばらんでしょ」
「波瀾万丈って言いたいのか?」
 中卒で、しかも中学にも小学校にもほとんど行っていなかったというから、ハルナは本当にばかだった。あきれるくらいに文字を読めない。ほとんどあきめくらだった。好奇心と意欲があるのが救いだった。ぼくは経堂にある彼女のアパートまでよく足を運び、身の回りの世話をしてやった。ぼく持ちで新聞を取ってやり、いらない本をあげた。洋服とインスタント食品しかない彼女の部屋は少しずつ文化的になっていった。だからハルナの父親が久方ぶりに訪れたとき、いささか面食らっていたのは間違いない。
「だから、早く来てくださいよ。今ちょっと大変なことになってるんだから」
「行くよ。行くって。経堂だろ? 十五分くらいで行くよ」
 経堂の改札を抜けてハルナの父親と鉢合わせして、当初ぼくは恋人であるという失敬な勘違いをされ、あれこれと説明をしている内に彼女の現在をうっかり漏らしてしまった。失態だった。即座に彼女の部屋で話し合いが行われることとなり、社長も呼び出した。ハルナの父は常識があるのか、社長を出せとは言わなかった、上のものを出せと言った。上のもの。つまりそれは社長だった。
 しかし社長は来なかった。しかも二時間後くらいにようやく姿を現した社長はどこかで一杯ひっかけてきたのか、軽く酔っ払っていた。
「ていうか行ける訳ないじゃない」
「猛獣の巣だろ、その状況」
「いや、逃げてないよ。君、そういう考えはよくないぞ」
「だって行ったんだから、しっかり。時間はかかったけど」
 社長は確かに来た、ほろ酔いで。さすがのぼくも呆れたが、ハルナはにこにこ笑っていた。そしてハルナの父親は怒りを通り越して脱力していた。ぼくだって、自分の娘がこんなどうしようもない人間に囲まれて暮らしていたと知ったら、やるせなくなるに決まっている。  そして始まったのは説教だった。おそらく、社長の方が年上なのだろうけれど、大人なのだからそういう態度はよくないというところから、ハルナの父親はくどくどと語り始めた。ハルナは退屈そうにあくびをかみ殺していた。
「だいたいね、あんたはこんな仕事してて将来どうするつもりだ。これはセックスの派遣だろ?」
「あ、でも、これは副業っていうか、私は本業があるんでね」
「本業?」
「IT関係ですけど」
「IT関係って何だよ」
「まあ、ネット上で男女の出会いをサポートするといいますか」
「それは出会い系サイトのことだろう。ものは言いようだな」
 やがてぼくに矛先を変え、
「君も君だ。そんな仕事じゃ稼ぎも少ないだろう」 「はあ」
 ぼくは笑って誤魔化そうとしたが、ハルナパパの眼力はかわせなかった。
「まあ、おれは副業があるんで」
「副業。君は何をやってるんだ」
「まあ、何ですか、その、あれですよ。芝居ですね」
「芝居?」
「電話口で芝居をうって、出来が良ければお金を振り込んでいただく、というか」
「……ちょっとやってみてくれよ」
「え? 今ですか」
 ハルナパパが頷くので、仕方なくぼくはいつもの第一声を発した。
「『あ、お婆ちゃん? 俺俺! 俺だよ!』。……。まあ、こんな感じで」
「詐欺じゃないか。君たちは揃いも揃って……」
 そのときハルナは「あっ!」と声を上げた。あたしと同じだ!と。ぼくも気づいた。社長とぼくのビジネスは、サギという言葉でハルナと繋がっていた。ハルナは言葉の音だけでそれに気づいたのだった。だから、そう、ハルナっていうのはこういう女。
「同じだあ。そうだよ、だってあたし、鷺だもん」
 ほっとしたような笑顔を浮かべる彼女に父親でさえ、毒気を抜かれたようだった。ぼくたちを一瞥して、大きなため息を吐き出した。こいつらはもうダメだと言われているような気分だった。その後、ハルナとぼくたちが交わした契約についてや、仕事の内容に関することを詳しく話した。うんざりするような顔で聞いていたが、ハードコアとはいってもさほど過激なことをしているわけではないことにほっとしているようだった。
そういえば、以前ぼくは社長に一番過激なものとは何かを訪ねたことがあった。
「何だろうな。おれもあんまり詳しくないからわかんねえけど」
「まあ、SM系だったら自傷っぽいのとかあるし、でも過激とは違えか」
「ああ、そうだ、ゴキブリ食うやつとか、あれは過激だろ」
「人殺しの映像? バカ。あんなのポルノじゃねえぞ」
「だいたい、今日び特殊メイクやら何やらでいくらでもうまく撮れるだろ」
 ハルナはそんな現場には近寄ったこともなかった。女王様役がせいぜいで、そのときだって「バカ、照らすやつじゃねえよ、垂らすやつだよ!」とろうそくのミスでADが怒鳴られているようなSMの素人ばかりの現場だった。
 ハルナが嫌だと言うことは絶対にやらせるなという念書を書かされ、社長はあからさまに不機嫌な顔になっていた。他人事のようにそっぽを向いているハルナをぼくは見ていた。アパートの小さな窓から、空を見ていた。
「あのとき? うん。あたし、何か嫌だった。嫌だったらAVのお仕事してないよ。お仕事してるのはあたしなのに、何でお父さんが口出すんだろうって。社長、かわいそうだった」
 社長は車で先に帰った。飲酒運転で捕まってしまえばいいんだとハルナパパは毒づいたが、憎まれっ子世に憚るとはこのことで、社長は翌日も無事に出社した。ぼくたちはハルナの父親を駅まで見送った。途中、ゴミ置き場がひどく荒れていた――夜の内にゴミを出すせい、そしてカラスのせいだと思われた――ことに顔をしかめていて、こんなところに住んでいるのかとでも言いたげだった。もっとも、この状態はいつものことだから、そう思われても当然かもしれない。
ぼくは去り際にこう訊ねられた。
「君、娘に手を出してないだろうな」
「え? いや、ありえないっすよ」
「前の事務所もそれで首になったと聞いてるからね」
「いや、でも俺ゲイだし」
「はあ?」
「はあ、じゃなくて。同性愛者なんですよ。だからハルナはありえない」
「……」
 ハルナの父親は無言で去っていった。ぼくはそのとき以来、彼の姿を見ていない。それがいいことなのか悪いことなのかは、ぼくにはわからない。
 振り返ると、ハルナがぽかんと口を開けていた。「何?」と訊くと、ハルナは驚いたような顔でぼくを見たまま、「えー」と唸った。

『柏崎』

 癖の強さがときに仇となる。ハルナに専属の話がなかなか来ないのは、ひとえに彼女の肉体が原因であったといえる。つまりは身体性だ。血管が透き通るくらいの肌の白さは否応なしにフェティシズムに繋がる。何事もほどほどでないと、万遍ない受けは期待できない。単体で売るには、ターゲットが狭すぎる。そんな思惑があるようにぼくには感じられていた。
 しかしながら、一年、二年と過ぎ出演作が増えるにつれて、ハルナがメインになったビデオの撮影も何度も行われ、ついには雑誌の表紙やグラビアに登場するまでになった。元々モデルをしていただけあって、撮影はビデオよりもつつがなく進行したし、トラブルはほとんどなかった。
「写真、好きだよ。うん。だってビデオの方が大変だもん。カメラ回ってるから、ずっと」
 唯一のトラブルといえば性病に感染したことで、十日ほど撮影を休むことになった。デビューから二年は過ぎていた。写真の仕事があったからよかったが、いくつかの仕事を蹴ったことになるので、ぼくは内心ひやひやだった。ハルナはぼくの心中を察することはなく、「保険料払っててよかった!」とずれた喜び方をしていた。実際、復帰第一作(大袈裟か?)となる予定だった逆ナンパものの撮影は急遽中止になった。製作プロダクションで何かがあったらしいが、詳しい理由までは聞かされなかった。ぼくたちは見事にすっぽかされてしまった。
「鳩。鳩ってバカみたいな顔してるね」
 ぼくたちは日比谷公園にいた。平日の午後、ぽっかりと空いてしまった時間をどうしようかと思案していた。意気揚々と現場へ向かったハルナのやる気が行き場をなくしているところを見るのはしのびなかった。ハルナはつまらなそうに鳩に餌をやっていた。  ぼくはベンチにどかっと座って、行き交う人々を見ていた。ランチを食べにきたOLや通りすがりの人間どもが視界にあった。その中に見覚えのある顔があった。ぼくはとっさに声を出していた。「サルサ!」。女が振り返った。眉毛がないその顔は不気味だ。頬はこけている。ぼくを見ると歯をむき出して、にかっと笑った。
「田島さんじゃない。何してんの?」
「撮影すっぽかされたの。あんたは?」
「客探し」
「日比谷で? ありえねえ」
「いるんだよ。疲れてるからね、派遣とか契約どもは」
 彼女の本名が何であるのかは知らないが、ぼくは橘サルサと聞いていた。彼女はプッシャーだった。ぼくが高田馬場に住んでいた頃に知り合った。ぼくはマリファナを買っていたが、デザイナードラッグからカクテルまで何でも取り扱っていた。
「あ、ハルナちゃん。今日もかわいいね」
「サルサ、ハロー」
「ねえ、考えてくれた?」
「ダメだよ。あたし、レズじゃないもん」
「ビデオ出てるじゃない。お金払うよ」
「やだ。演技だもん、あれ」
 サルサもぼくと同じく、同性愛者だった。ハルナと初めて会ったときから狙っていたが、いつも袖にされていた。どこまで本気なのかはわからなかったが、サイコキャンディをロハでハルナに与えているところを見ると、一度くらいはファックしたいと思っているのは間違いないだろう。肩掛けの鞄からビニールの袋を取り出した。ひとつひとつ包装された飴玉が入っている。大麻樹脂入りの特製キャンディ。
「いつか、うんって言ってね、ハルナちゃん」
「えー。やだ」
 袋を受け取ったハルナは、その流れで抱き締めようとするサルサをきゃあきゃあ笑いながらよけていた。
「あたし、サルサ好きだよ。レズじゃないからやれないけど。優しいし。優しくしてくれる人はみんな好き」
 かつては彼女からマリファナを買っていたぼくだったが、今ではドラッグを絶っていた。忙しくなった頃から距離を置くようになっていて、残っていたものはアルトゥーロに全部やった。アルトゥーロは「これすごいよ、田島。リマの純正がバカらしくなるね」と言った。
 復帰第一作の撮影こそすっぽかされたが、彼女をメインにした企画は続いた。企画単体のトップランナーとして捉えられることも少なくなかった。しかしフェテッィシュな魅力に反発するアンチの存在も目立つようになり、彼女の仕事は頭打ちのようになっていた。身体性のあまりの強さが彼女の単体への道を閉ざしていた。ぼくは頭を抱えていたが、ハルナは来る仕事をひたすらこなしていた。仕事がなくなることはなかった。需要は確かにあった。
「田島さん、あたし、今のままでもいいよ。あたしなんかがトップっておかしいもの」
 ハルナはよくこう言っていたが、社長もぼくも彼女がトップになれる素材だと確信していたし、彼女の魅力を認めようとしない、どうしようもないばかどもめと飲み屋でよくくだを巻いていた。
「今の仕事でも充分だよ、あたし」
 それが彼女の本心だったかどうかはわからない。性病に感染したことで弱気になっていた頃でもあったから、真情ではなかったのではないかとぼくは思っている。時折見せる、上から人を見下ろしているような強気の目線こそが彼女の本質ではないかと疑っていたし、だからこそ映像の中でのサディスティックな行動、言動に妙なリアリズムが伴われたのだろう。しかし、彼女は本当の暴力には弱かった。それはたぶん、人としてはまっとうな反応だった。
「早く来て! 田島さん!」
 そんな切羽詰ったようなハルナの声を聞くのは初めてで、ぼくは飲んでいたビールをこぼしてしまった。社長は目の前でげらげら笑っていた。取り落としそうになった電話を再び耳にあてると、もう通話は切れてしまっていた。何かが起こったんだと思い、店を飛び出した。ぼくたちは新宿の小便横丁にいた。社長を置いてぼくは小田急線に飛び乗った。
 駅から走ったぼくはふきだす汗にうんざりしながら、上着を肩にかけて、彼女の部屋のドアノブを握った。鍵がかかっていた。何度か彼女の低血圧は心配になるくらいのもので、朝早い撮影のときなどはぼくが起こしに行っていた。だからぼくは鍵を持っていた。部屋の中は真っ暗だったが二つの息遣いが聞こえていた。ぼくは電気のスイッチをつけた。
「田島さん?」
 ベッドにタオルで目隠しをされたハルナが縛りつけられていた。多少は見えるのか、それとも明るさを肌で感じたのか、第三者が現れたことに気づいたようだった。
 そしてベッドの脇には痩せた男が立っていた。まだ大学生くらいの顔をしていて、ぼくの闖入に驚いているようだった。右手にナイフ、左手にドライバー。ちょうどぼくの足元には安全ピンが落ちていた。
「お前、何だよ」
 ぼくが言うと、男は急に飛びかかってきた。咄嗟にジャケットを投げつけると、そのまますとんと転んだ。すかさず馬乗りになって、ナイフとドライバーを奪った。「お前ふざけんなよ、このクソガキ」。そう毒づいてから、左手の小指と薬指を折った。ぱきんと音がした。男は苦しそうに声を上げたが、表情を崩さずにぼくをじっと睨みつけた。
「何だよ」
「あんたこそ何だよ」
「マネージャーだよ。お前、何してんのかわかってんのかよ」
「……」
「ハルナとやりてえのか?」
 ぼくは男の右肩を外した。ばきんと音がした。ぎゃっと悲鳴を上げたが、やはり表情は崩さなかった。立ち上がり、男の顔面を何度か蹴り飛ばしてから、ハルナの目隠しや猿ぐつわを外してやった。男は倒れたまま苦しそうに唸っていた。
「やりてえんだろ? なあ?」
 男はぼくたちを睨みつけたまま、答えなかった。ぼくはハルナに訊ねた、「ハルナ、お前、こいつとやりたい?」と。ハルナは首を振った。男は顔色一つ変えない。
「やりたくないんだってさ。な? だからここからはビジネスの話だ」
「田島さん?」
「ハルナはやりたくもない男とやって金稼いでんだよ。お前とだってやりたくないけど、金が稼げるっていうんなら、それは仕事になるだろ? お前金いくら持ってんだよ、高えぞ、こいつは」
「ちょっと田島さん」
 ぼくは男のズボンのポケットを探り、財布を引っ張り出した。ナイロン製のおもちゃみたいな財布だった。中には六千円くらいが入っていた。ぼくは鼻で笑った。
「お前さ、こいつ一本いくらだと思ってんだよ。こんなんじゃダメだ。交渉決裂ってやつだ」
 男は無言のままだった。ぼくは笑顔で続ける。
「じゃあ、こっから先はホビーの話だ」
「ホビー……?」
 ぼくの語りに初めて反応を示した。ぼくは笑顔のまま続けた。
「俺はゲイなんだよ。でさ、お前みたいなやつとファックするの大好きなんだよ」
 馬鹿面っていうのは、そのときの男の顔みたいなものを言うのだろう。本当に呆けた顔をして、慌てて立ち上がって逃げようとした。ぼくはすかさず足を引っ掛けて、再び男を床に這わせた。
「ハルナ、お前デジカメ持ってたよな? あれ動画撮れたっけ?」
 ぼくを見る男の瞳に、その夜始めて怯えが生まれた。
「何だよ。大丈夫だよ。エイズの検査とか、ちゃんと受けてんだからさ」
 ぼくはベルトに手をかけた。男はのけぞって、ひっと息を吸った。ぼくがその身体に触れると、バッタみたいにびくんと跳ねた。「大丈夫だって」。ぼくは笑う。ハルナがデジカメで撮影を始める。

 その翌日の朝に男を部屋から追い出した。死人のような目をして、男はふらふらと歩き去った。それから数日くらいは、ハルナはひとりでいることへの不安を強く感じていた。ぼくの日課にハルナの送り迎えが加わり、睡眠時間が減った。しかしハルナのことを考えれば、たいしたことではなかった。二十代後半のぼくには体力は有り余っていたし、何よりモデルに気持ち良く仕事をさせることが求められていたからだ。
 その日もスタジオでのグラビア撮影をこなし、性病の再検査を終えてから、経堂のアパートまでハルナを送った。お茶でも飲んでいかないと誘われたが、次の日も朝から早かったので、早々に退散した。ハルナは寂しそうな顔をしていた。まだ不安は拭いきれていない。すでに本所に引越し先を見つけていた。それまでの辛抱だからと言い聞かせて、ぼくはハルナの部屋を後にした。
「鍵閉めても、誰か入ってくるんじゃないかって、すごい怖い」
「あたし、今まで全然何もしてなかったんだなってわかったよ」
 経堂の駅までの十五分くらいの道のりを小走りで急いだ。ちかちかと点滅している外灯があって、何か不穏なものを感じていた。夏だというのに、何故だか薄ら寒かった。不法侵入を許した夜、ハルナの部屋までに急いだときも同じような感覚があったことを憶えている。  曲がり角で、不意に男が姿を現した。その瞬間、外灯が消えていたためにその顔を確認することはできなかった。腹部に鈍い重さを感じた。外灯が元に戻った。不法侵入男が目の前にいた。ぼくの腹にはナイフが刺さっていた。目を見開いた男の表情は激情で満ちていた。 「お前、何だよ」
 ぼくの声はかすれていた。
「うるさい。あんたみたいなのがハルナをダメにするんだ」
「何言ってんだ、お前」
「俺はハルナのことなら何でも知ってるんだ。ピノが好きだってこと。チェリーカクテルのグロスをよく使ってるってこと。水だったらヴィッテル、緑茶だったら茶織、ジュースだったらトロピカーナのアップルが好きだってこと」
 男はそうまくし立てて、めそめそと泣き始めた。
「下着のことだってわかってるんだ。いつ生理になるかだって知ってる。だから俺はハルナをいたわってやれる、いつも」
 ぴんときた。
「ああ、そうか。お前か、ゴミ捨て場荒らしてたの。ストーカーでダストハントかよ、クソ野郎」
 そう言い終える前に、ぼくは激しく咳き込んだ。乾いた夏の夜の路上に血液が散った。
「俺はこんなにハルナのことを知っているのに、どうしてハルナは俺のことを知らないんだ。俺はハルナを愛してるのに」
 手に込められた力が強くなり、ぼくの腹部は焼けるように熱くなった。呻き声が他人事のように耳に届いた。唇からべったりとした血がしたたり落ちた。身体中から力が抜けていった。
「じゃあお前ハルナの本名知ってんのかよ」
 ぼくが、この世で最後に吐いた言葉だった。「え?」。男の顔から怒りが抜け、感情に一瞬の空白が生まれた。ぼくは男の手首を掴んで、無理矢理ナイフを引き抜いた。傷口から血や消化物がびちゃびちゃとこぼれ、ナイフには小腸が絡まっていた。ぼくはそれを奪い取った。
「ハルナの名前? 本名?」
 ぼくはふらつく手元、足元に限界を感じながらも、抱きつくようにしながら男に切りつけた。首筋に刃を強く押し当てて、一気に引いた。「え?」。男は何が起こったかを理解できていないようだった。首筋に手を当てた。温かい血液が指と指の間から溢れ始めた。
 ぼくたちは路上に倒れた。「あ? え?」と相変わらず男は何も理解していなかった。ぼくの下でロボットみたいに身体をぎくしゃくと動かしていた。たまたま、そう、それは偶然だった。男が無意識に突き出した手がぼくの腹部に突っ込まれた。何かにすがろうとしていたのかもしれない。吊り革に握るような仕草でぼくの臓物が掴まれ、かき回された。ぼくの意識はそこで途絶えた。その夜、ぼくは死んだ。

 その後、ぼくは自分の遺体が発見され、司法解剖され、やがて葬儀に回されるまでをまるで他人事のように見続けた。事件はぼくが被害者だということで終結した。通夜や葬儀は家族親類だけの集まりの中、ひっそりと行われた。
 ある夜、ハルナは喪服代わりの制服を着ていた。撮影で使ったものだった。たったひとり経堂の部屋で。社長からの、翌日からのスケジュール連絡の電話を切ってから、泣きじゃくり始めた。ぼくについてのほとんどの処理が終わった、ある日のことだった。泣きながら、部屋の中で暴れ始めた。テーブルをひっくり返し、衣類を床にばらまき、CDや本の棚を崩した。見る間に部屋はひどい有様になっていった。泣きながら、散乱した洋服やDVDに埋もれていた。その涙はしばらく流れ続けた。お前は床に落ちた一枚の写真を拾い上げると、ほとんど感情のこもっていない声で言った。「あ、懐かしい。これ最初に撮ったポラだ。憶えてる?」。ぼくの眼には、お前の涙が部屋に水たまりを作っているように見えていた。お前の部屋に残ったぼくの魂はそれをずっと眺めていた。水たまりの中でずぶぬれになったぼくの魂に染み込んだお前の涙のせいでぼくはそこから動けなくなって、残りわずか二年もない彼女の人生の顛末をただひたすら俯瞰することになる。

『アルトゥーロ』

 田島は死んだ。白鷺ハルナにその事実は重くのしかかっていて、彼の死以前と以降では表情や身体に明らかな変調が見受けられた。やる気のなさが他者への苛立ちにすり替わっていた。強い暴力を伴うセックスは、彼女のコンセプトではなかった。単体契約への道はさらに険しくなったように思われた。
「社長、あたしどうすればいいのかな」
 気を抜いていることが多くなり、現場での受けもあまり好意的なものではなくなっていった。と同時に彼女を中央に置く企画は少なくなっていき、出演依頼や面接の機会、オーディションでの合格も目に見えて減っていった。要するに仕事がなくなっていった。現場がなければ、直接稼ぎに影響が出る。事務所に来ては一日中時間を潰し、本所のアパートに帰る。そんな日々を送るハルナに社長の柳下は「お前、ちょっと休んだ方がいいよ」と提案した。
 その言葉を聞くと、ハルナは瞳に涙を浮かべ、うんと頷いた。

 三ヶ月の間、ハルナは完全休養した。買い物や娯楽で気を紛らわすことはなく、本所にひきこもっていた。ひとりで出歩くことの恐怖心を拭い去ることはできなかった。ハルナ自身もそれが良くないことであるとはわかっていたが、きっかけは何もなかった。訪れるものは社長かアルトゥーロだった。見放されているのか、両親が姿を見せることはなかった。
 その間に誕生日が訪れ、彼女は二十一歳になっていた。AV女優としての寿命はつきかけていた。新作を撮れないという状況が致命的だった。ネット上でも憶測や中傷が飛び交うようになっていた。そんなことを知らぬまま、彼女はベッドに横たわって、ただ追憶にふけっていた。

 きっかけは劇的な形で訪れた。
 その夜、アルトゥーロが訪れていた。彼は社長から合鍵を渡されていたので、「ハルナ、元気?」などと言いながら、ノックもせずに部屋の中へ入ってきた。飲み物や食べ物が詰まったビニール袋を手に持って。
 寝ていたハルナはパジャマ姿のまま、ぼさぼさの髪の毛を気にする様子もなく、台所までやってきた。寝惚け眼でアルトゥーロを見ると、「ありがと」と言い、またベッドに戻ろうとした。
「待てよ、ハルナ」
「何?」
 ハルナはあからさまに不機嫌な声色を出したが、アルトゥーロもまた不機嫌さを抱えていた。月を追う毎に減らされる給料の原因をハルナに見出していたからだった。当然といえば当然のことだ。数人のモデルのマネージングをしながら、こうしてハルナに差し入れを持ってくる。にもかかわらず給料が減っている。逆に肝心のハルナには毎月金が振り込まれている。モデル優先の仕事とはいえ、アルトゥーロは苛立ちを隠せずにいた。
「少しは感謝しろよな」
 アルトゥーロはペルー人ではあったが、日系だったために日本語をすんなりと憶えることができた。祖母が時折話していた言語が耳に残っていたからかもしれない。それがハルナには理解できなかった。浅黒く、眉も髭も濃く、彫りの深いラテンの男が日本語を――ときに自分よりも――うまく話せるアルトゥーロは苦手だった。他のモデルを食ったという話も嫌悪に花を添えていた。
「待てよ」
 そのアルトゥーロに腕を掴まれたハルナは「ひっ」と息を飲んだ。その表情が、つまりいつも強気で天真爛漫ともいえたハルナの顔に怯えの色が浮かんだとき、アルトゥーロの加虐性が鎌首をもたげた。ただひとりだけ関係を持っていないという事実もまた、火をつける要因だった。「やめて!」と逃げようとするハルナを突き飛ばし、床に押し倒した。
「アルトゥーロ……」
「いいだろ、別に」
 薄い生地のパジャマは容易に切り裂かれた。下着をつけていない胸が露出する。アルトゥーロは舌を這わせた。ハルナは気味の悪いその感触に身を震わせて、いやいやと首を振った。しかしアルトゥーロの腕は太く、目方もハルナの倍以上はあった。その屈強さはハルナの絶望を煽った。
 しかし、アルトゥーロがハルナ覆い被さったとき、耳たぶがちょうど目の前にあった。ハルナは目を見開いた。そして迷わず、食いついた。アルトゥーロは「ケ?」と声を発した。ハルナは躊躇することなく耳を噛み千切った。「ぎゃあ」とアルトゥーロは悲鳴を上げて、立ち上がった。ハルナには理解できない言語でわめき散らし、耳を押さえながら逃げ出していった。脱ぎっ放しのズボンだけが残された。ハルナはアルトゥーロの耳をぺっと吐き出し、その場にへたり込んだ。
 口の中に広がる血の味を噛み締めながら、ぶるぶると震えていた。それから、フローリングの床に落ちた耳を摘み上げた。それは作り物ではない、本物の人体の一部だった。指を離した。べちゃっという音を立てて、それは再び床に落ちた。ハルナは立ち上がり、携帯電話を手に取った。社長はすぐに出た。
「ハルナか? どうした?」
「社長……?」
「何かあったか」
「あたしさ、またやるよAV」
「え? あ、そうか、本当か」
「うん。もう大丈夫」
「そうかそうか。良かったなあ」
「それでさNGなくすよ、あたし。何でもやる」
「え? はあ? いや、でも……」
「あたし、大丈夫だから」
 そう言って、ハルナは電話を切った。すぐに社長からの着信があったが、テーブルに置かれた携帯電話を一瞥しただけだった。ハルナは壁に寄りかかり、しばらくの間、座っていた。ぼくはそんな彼女を見続けていた。

 ハルナの部屋を逃げ出したアルトゥーロは隅田川のほとりに辿りついていた。耳を押さえる手のひらに生温かい血液の感触があるのがわかる。聞こえる音のバランスが悪く、遊歩道に倒れ込んだ。平衡感覚が危うくなっていた。アルトゥーロは周囲を見回す。段ボールやビニールシートで出来た家が並んでいる。家主たちが自分を伺っているように感じられた。
「……俺はお前らなんかとは違う」
「あんた、大丈夫か」
「え?」
 アルトゥーロが顔を上げると、背広を着た男が顔を覗きこんでいた。真っ暗だったから、顔まではわからなかった。男は「怪我してるじゃないか」と言いながら、懐から携帯電話を取り出した。アルトゥーロははっとした。男は救急車を呼ぼうとしている。
「やめろよ、やめてくれ」
「え? すいません、ちょっと待って。え? 何?」
「保険証ないんだ、俺は」
「そんなことを言ってる場合じゃないだろう。怪我してるんだから。大丈夫か? あ、もしもし……?」
「やめろって。やめてくれよ!」
 這うようにしてアルトゥーロはその場から逃げ出した。ずるずると身体を引きずって、できる限り男から遠ざかろうとする。しかし男は数歩歩くだけで追いつき、現在位置を電話越しの相手に教えている。
「やめろって。俺は平気だ。平気なんだ!」
「はい、じゃあ、私も待ってます」
 錯乱したようなアルトゥーロを無視し、説明を終えた男は悠々と電話を切った。そしてアルトゥーロを見下ろし、「もう大丈夫だから。な? すぐに来るから」と穏やかに言った。アルトゥーロは男の左足を掴んで、引っ張った。男は仰向けに転倒し、後頭部を遊歩道のアスファルトに打ちつけた。一瞬の出来事だった。
「ふざけんなよ、ちくしょう。この国にいられなくなるじゃねえか」
 肩で息をしながらどうにか立ち上がり、動かなくなった男の顔を踏みつけた。唾を吐きかけようとしたその瞬間、背後から殴られる。決して強いものではなかったが、おぼつかない身体はあっさりとその場に崩れ落ちた。みすぼらしいなりの男が立っていた。ビール瓶を手に持っていた。
「何だ、お前は」
「ひ、人殺し!」
 アルトゥーロはホームレスに殴りかかろうとするが、足元がもつれてしまい、男にもたれるように転んでしまう。体臭に吐き気を催しながら、馬乗りになって顔を数度殴った。そして転がるビール瓶を拾い上げ、地面を殴りつけた。いい按配に底が割れ、尖った硝子が闇夜に光った。
 そのとき、サイレンが聞こえた。やかましいほどの迎えの合図だった。逃げ出そうとするが、路上生活者の男がアルトゥーロの足を掴んでいた。転びはしなかったが、振り払えるほどの力も残っていなかった。「人殺し! 人殺し!」と男は叫び続けた。血液がたまった耳元にやけにそれは響いた。サイレンはどんどん大きくなってきていた。
「うるせえよ……ちくしょう……だいたい日付が変わっただけじゃねえかちくしょう……ああ、うるせえ」
 そう呟きながら、アルトゥーロは無事な方の耳にビール瓶の刃を押しつけて、ぐりぐりとかき回し始めた。耳たぶが落ち、周囲の皮膚も裂けた。両耳の傷口が血液で満たされていくと同時に、彼にまとわりつく音は薄くなり、やがて静寂に包まれた。

 ハルナの出演作は再び増えていった。設定していたNGを少しずつ取っ払っていった結果のことだった。女優としての方向性も変えつつあった。年齢を重ねているのだから、それは当然のことだった。仕事の量は確実に増えていた。しかしハルナの顔に浮かぶ疲労の色も濃くなっていった。
「いや、やばいとは思ってたし、やめさせたいとも思った。もう引退時なんじゃないのって」
 あの社長が心配になったほどなのだから、相当ひどい状態だったのだろう。実際、ぼくが見ていたその頃のハルナはまるで生き急いでいるかのように、走り続けていた。その先にどんなゴールがあるのか、わからないまま。
「辞めるって一言も言わねえんだ、あいつは」
 社長は最後に一本綺麗なものを撮って、それを引退作にすればいいと何度も諭したが、ハルナは頑なに拒んでいた。
「社長、あたし辛くなんかないし、今までも辛くなんかなかったよ。生きてくだけで必死だから。人間がそういう生き物なんだって、やっとわかった。あたしバカだから、今まで全然わからなかったよ」
 アルトゥーロがいなくなり、事務所は社長がひとりで切り盛りしている状態だった。ハルナ以外のモデルは皆他の事務所に移るか、辞めてしまった。ハルナひとりが残っていた。経営自体も危なくなり、社長にできることはやはりハルナの引退と事務所を閉めるということだけだった。そして社長がしなくてはならないことは、自分の借金をどうにかするということだった。結局長い間のハルナの無気力状態から経営がおかしくなり、自転車操業がうまく回らなくなってしまっていたのだ。加えてぼくやアルトゥーロの不在や、ハルナの病的なまでの執着が社長を苛んでいた。
 そして借金。額は微々たるものだったが、再出発のためには明らかに邪魔なものだった。
 だから、わかるだろ?
 ハルナの引退作、借金返済、ままならないことへの苛立ち、未来を開く可能性。向かうべき道はたった一つだった。常識で考えればおかしな判断だったが、そのときは社長も混乱の中にいた。
 それにしても、これはそもそも何から始まったことだったっけ?
 ああ、誰のせいにすればいいんだろうね。

 社長がハルナに事務所移転の話を告げたのは春のことだった。西新宿のマンションでは家賃が高すぎるというのが表向きの説明だったが、実際は撮影のための空間が必要なだけだった。ハルナは何も知らない。
 引越しの日、ハルナは次々と運び出される荷物を見ながら、物思いにふけっていた。初めてこの事務所を訪れてから、四年が経過していた。ほとんどすっからかんの状態になったのを見計らって、社長は「行こう、ハルナ」と声をかけた。「うん」とハルナは頷いた。
 社長が運転する車は小滝橋通りから青梅街道に出て、しばらく経ったところで停車した。
「社長?」
「あれ、忘れてきたな。田島のピアス。壁に貼り付けといたんだけど」
「え? そうなの? 取りに行こうよ」
「……そうだな」
 ハルナは一見意味不明な社長の説明に疑問を感じることはなかった。車は事務所の入っていたマンションの前に止まった。「あたし、取ってくる」と車を飛び出してから、「どこにあるの?」と訊ねた。
「俺が座ってたあたりの壁だよ。きっとまだ貼り付いたままだ」
 社長は遠くを見ながら、そう答えた。ハルナの顔を見ずに、鍵を渡した。
ハルナはエレベータを待たず、外にある階段を駆け上った。ピアスなんてのが嘘っぱちであるということを疑いもせずに。見慣れたドアノブに鍵を差し込んだ。荷物は全て運び出されたはずの室内には一台のベッドが置かれていて、いくつかの照明機材が立ち並んでいた。カーテンは閉じられているが、照明のせいでひどく眩しい。
「え?」
 そして無人であると思われた部屋の中には数人の男がいた。
「誰?」
「あ、どうも、誠意プロダクションのものです」
「え?」
 身なりのいい男が答えた。黒いスーツが様になっている。
「よろしくお願いします」
「……何ですか、これ」

『スナッフ』

 後ろからいきなり現れた男たちに羽交い絞めにされ、ハルナは必死で抵抗するが、複数の男にかなうわけもなかった。スーツの男が注射を取り出して、ハルナの静脈に針を突き刺した。ハルナの身体から力が抜け、皮膚の感覚が薄れていった。しかし意識ははっきりとしていた。
「すごいっすね」
「うん。じゃ、あとお願いします」
 と、スーツの男は部屋の隅に行き、あらかじめ用意された椅子に座った。
 ハルナは洋服を脱がされ、ベッドに寝かされた。両手と両足を縛られる。瞳だけを動かして、周囲の様子を探った。カメラが用意されている。ビデオカメラと手持ちカメラ一台ずつ。ビデオカメラのファインダーを覗き込んでいる男が若い男を呼んで、「レンズ違うのあったろ。持ってこい」と指図している。
 ベッドの脇には白衣を着た男がいるが、医者には見えなかった。俳優だろうかとハルナは思った。そもそもこれは何なんだろうと彼女は思った。
「おい、暗いな、ちょっと。ろうそくか何かないか」
「ろうそくありますけど、ほら」
「バカ、垂らすやつじゃねえよ、照らすやつだよ」
 若い男がカメラマンに叩かれている。不貞腐れたように「ろうそくじゃダメでしょ」と呟く。呆れたようにカメラマンが「本当にバカだな、けっこうピンポイントで照らせて、いい絵が撮れるんだよ」と言い返す。
 やがて準備が揃ったのか、「じゃあ、始めます」とカメラマンが声をかけた。無精髭の男が手持ちカメラを構えて、すぐ近くに立っていた。「OKです」と答える。白衣の男が床に置かれたバッグからメスを取り出し、ハルナの肌に刃をあてる。その場に居合わせるスタッフのひそひそ声か聞こえる。
「すげえ、血管浮いてる」
「うわあ、やりやすそうっすね」
「内臓も見えそうじゃないすか。すげえや」
 最初に腹部が切開される。一筋の線が生まれる。血液が流れ出て、シーツを赤く染める。ひそひそ話はやがて静まり、白衣の男の一挙手一投足を全員が見守っている。カメラが回る音だけが鳴り響いている。

「ハルナ……すまねえなあ……すまねえなあ」
 社長が車の中で頭を抱え、呟いている。
「浮かんでくれ……浮かんでくれよ」
 涙が止まらない。自分が何をしでかしたのか、本当に理解しているのかどうかさえ疑わしかった。ただ、後部座席に置かれた札束だけが全ての回答であるように思えた。
そのとき、車の窓がこんこんと叩かれる。ぎょっとしたように顔を上げると、痩せこけた顔の女がいた。肩掛けの鞄が見えた。レバーをまわして窓ガラスを開けると、にこやかに声をかけてきた。
「あんた、買わない?」
「……何をだよ」
「わかってるだろ」
「……ああ、そうかもな」
 社長は諦めたように頷く。財布から金を出し、カクテルを静かに指差す。ブルーチア、スノーボール、HHディレクション。十数枚の札束と引き換えに、それらを手にする。女は笑顔のまま、立ち去っていく。その後ろ姿が見えなくなった頃、買い占めたカクテルを一気に口にした。

 ハルナの魂はもはや、この世にはない。抜け殻になった身体の解体だけが続いていた。ハルナの魂はぼくの隣に座って、その光景を見ていた。
「やっと会えたね……やっと会えた」
「ハルナ」
 ぼくたちは何年かぶりに会話を交わす。たった二言三言の会話。眼前ではハルナの手首が切り取られている。血管から血がどぼどぼと流れていて、シーツだけでなく、床にも垂れてしまっている。手首はすでに性器も切り取られた性器と共に、床に置かれたバケツの中に捨てられる。乳房や、いくつかの臓器も放り込まれている。
 ハルナの身体にはまだ生命が宿っている。だから生理的な反応をする。しかし打たれた注射による効果によって、痛覚やその他の感覚はひどく鈍いものになっている。生命が失われるほどのショックを感じられずにいる。だから彼女は行き続けている。
 魂はぼくに寄りかかるようにしている。温もりもクソもないが、存在の熱さを確かに感じている。ぼくたちはその場を立ち去ることもできずに、ハルナの断末魔を待っている。それが聞こえればきっと、ハルナの魂はここを去ることができる。
「おい、そろそろ切れるぞ」
「え?」
「ドラッグだよ。すげえぞ、悲鳴が。一気にローからハイだからな」
「マジっすか」
 何人かの男がどっと笑う。ハルナの魂は自分から顔を背けて、ぼくの肩口にすがりつく。
「手持ち、お前しっかり撮っとけよ」
「へーい」
 白衣はハルナの顔だけには手をつけなかった。その代わり、首から下はぼろ雑巾のようになってしまっていた。しかしぼくはそんなことになってしまったハルナの肉体に興味を示すことができなかった。ハルナの身体が抱えていた特権性は、ハルナの魂が失われた今、完全に損なわれてしまっていた。ただの容器に何の意味があるというのだろう。
「田島さん」
「あたし、綺麗かな」
「ああ」
「綺麗?」
「うん。お前はいつだって綺麗だよ、ハルナ」
「ねえ、田島さん、キスしてよ」
「やだよ」
 白衣が喉元にメスを差し込もうとした瞬間、ハルナの身体が魚みたいにびくんと大きく跳ねた。白衣の男がベッドを飛び降りる。両目がかっと見開かれ、絶叫した。しかしその叫びはかすれ声にとどまった。もはや大きな悲鳴を上げるだけの余裕は、ハルナの身体には残されていなかった。二分間ほど痙攣が続き、やがてハルナの身体はぴくりとも動かなくなった。
 男たちはそんなハルナの按配を確認しに近寄る。と、同時にぼくたちは懐かしさに満ちたマンションの一室を後にする。ハルナの魂がドアノブに手をかける。そして後ろに立つぼくに向かって、穏やかな笑顔を浮かべる。
 ここにすなわち白鷺ハルナ、享年二十二。


(了)

≪参考資料、および引用≫

「キリング・フォー・カルチャー」(フィルムアート社)
「興行師たちの映画史」(青土社)
「薮原検校」(新潮社)

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