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SARUSAWA CHAINSAW

 水面に反射した青空の中を飛んでいる。わたしはもうすぐ水死体になる。二つの瞳は開いたまま、わたしは水中に差し込む光を見る。はるか上空にはきっと大きな太陽がある。丸い光が見えるから。でも手を伸ばしても、指先がかろうじて水上の酸素を撫でるばかりだ。
 わたしは首を回す。仰向けの格好で水中を漂うわたしの背後には真っ黒い川底があるだろう。しかし底面は見えない。どれだけ目を凝らしても川水が目にしみるだけで、わたしの周囲を埋め尽くしている水の空間がどれほどの高さや奥行を持っているのか、わたしには見当もつかない。ただわかるのは、わたしは水死体になるまでのいくらかの時間をこのままで過ごすということだけ。
 わたしは思い返す。髪を鷲掴みにしたクラスメイトの少女の顔を。それは鬼でも蛇でもなく、女の子の笑顔だった。楽しそうに笑っていた。わたしは水を飲み込み、吐き出しながら「やめて!」と叫ぶが、彼女はただ笑うばかりで行為をやめようとはしなかった。わたしの後頭部をがっしりと掴んで、この川の水に押し付けた。数十秒ごとに力を緩め、わたしはその度に勢いよく頭を上げた。しかし力が緩む時間はわずかなもので、彼女はわたしの顔をまた川面に力任せに押し付ける。鼻水や涎や涙をだらだらとこぼしながら、わたしは彼女の利き腕にこもる力が弱まるのを待つことしかできない。
 時間の感覚はあまりなかった。しかしわたしが窒息する前に彼女は手を弱めた。支えを失ったわたしは浅瀬に沈んだ。彼女の手は完全に離れていた。身体に力を入れることすらままならないわたしの耳に入るのは彼女の話し声。穏やかな真っ昼間に彼女の声はよく通った。
「え? うん。ああ、大丈夫。何か泣いてるけど。泣いてるっていうか、はははは。うん。ああ。はいはい。うんそうそう。ああ、あるよね。うん。そういうの。え? はは、何それ。ていうか、早く来てよ。遅いよ。何やってんの? え? はあ? 嘘。ちょっと一回死ねよ、まじで」
 わたしは寝転ぶように倒れていて、半身が川に浸かっていた。耳に水が入ったからなのか、頭がやけに鈍くなっていた。ただ指先に触れた石の冷たさだけをはっきりと感じていた。ざらついた表面を握るように撫でた。苔でも生えていたのだろうか。所々ぬめぬめとしていた。
 真夏の白昼ではあったが、水は冷たかった。体温が少しずつ失われていくのがわかった。わたしはその石ころを握る。手のひらにぎりぎり収まらないくらいの大きさのそれを抱えるようにして、浅瀬に蹲ってみた。水とは逆に水底の泥はどこか温かかった。聞こえ続けている女の声から逃げるように水へ顔を押し付けた、自分から。唇の先に泥の感触があった。洗剤のような苦味を感じた。わたしは石ころを制服のスカートのポケットへ突っ込んだ。瞳を閉じたまま、周囲に転がる石ころを手探りで手繰り寄せ、ひとつひとつをポケットや、あるいはブラウスの中へ収めていった。地肌を濡れた石のざらつきがこすった。身体がはっきりと重くなっていく。このままわたしは沈んでいきたい。 「え? あれ?」
 川の深い方へと進んでいくわたしの姿が目に入ったのだろうか、彼女の声が聞こえた。その声には確かに焦りが含まれていて、裏返ってしまっていた。わたしがこのまま死んでしまえば、彼女達は何らかの罪に問われるだろう。だから焦っているのだろう。
 柔らかい足元が出し抜けになくなり、わたしは転倒した。それまではなだらかな下降線を描いていたのだけれど、そこで地面が断裂していたのか、いきなり深くなっていたのだった。無数の石ころの重みが加わったわたしの身体が深みに落ちていった。暗かった。光が見えなくなった、真っ昼間だっていうのに。分厚い水がカーテンみたいに視界と呼吸を遮っていた。でも、覚悟はできていたんでしょう? うんとわたしは頷く。けど、いったい誰に? 光が見えた気がした。
 手を伸ばすと、明らかに人の手が加えられた縁に突き当たる。つるつるのタイルがある。わたしはよじ登るようにして、水面から身を乗り出す。タイル張りの床がある。わたしはプールサイドにへたりこんでいる。しかしそこは市営のプールのような活気はなく、穏やかな沈黙に包まれている。ホテルか何かのプールのように思える。若い、きっとわたしと同じくらいの年の女の子がいる。彼女たちは言葉を交わさない。一人はプールサイドに座って、足を水につけている。耳に刺さったパールのピアスが光っている。もう一人は仰向けに寝転がっている、水面に。わたしはプールサイドに座っている女の子に歩み寄りながら声をかけるが、彼女は全く反応しない。わたしの声はこだまみたいに彼女の華奢な身体をすり抜けていく。「ダメだよ」。泳いでいる少女が言う。プールサイドの女の子とは対照的に長く、なまめかしい髪の毛が波紋みたいに水面に広がっている。「あなたの声は届かない。あなたは今はこっち寄りだから。ねえ助けて、右足が重いの」と言う。わたしは彼女に近づく、ゆっくりと。「悲しくはない。でもどうしてこうなっちゃったのかわからない。私は何?」。わたしは彼女へ手を伸ばす。そのとき、窓から差し込む太陽の光で輝いていた水面の向こう側が目に入る。彼女の右足には真四角のコンクリートブロックが括りつけられ、足首はバカになったねじみたいに捻じ曲がってしまっている。わたしははっと息を飲む。
「水の中から見えた太陽はとてもキレイだった。水でゆがんでキラキラひかって。ああ。キレイだったなぁ。本当にキレイだった。夢を見ているぐらいにキレイだった」  彼女はわたしの手をつかみ、プールへ引き込む。わたしはそのまま沈んでいく、深い水の中に。またあの暗いところに? 身を翻して、水面を見上げる。真っ白い太陽が見える。しかし届かない。身体が重くなっている。彼女に引きずり込まれ続けているわけではない。誰かに掴まれているという感覚はない。わたしは着ている衣に囚われている。幾重にも重ねられた衣の数は多く、それが身体の自由を奪っている。コンクリートの塊と同じくらいに重い。ただ、さっきよりも水が澄んでいる。だから水面の向こう側がはっきりと見える。プールサイドから彼女を覗き込んだときのように。
 水草が生い茂っている。深く大きな池にわたしは沈んでいる。浮き上がることはない。そもそも沈んでいるのはわたしではない誰かだ。わたしは和服を着たことがない。でも、実際にわたしの意識そのものは沈んでいる、この池に。小袿、緋の袴、官女の形で。
「帝様へ申し上げます。猿沢の池に到着致しましてござりまする」
 一人の男がこの池を覗き込んでいる。彼の輪郭は水の動きに合わせて揺れ動いている。悲しげな顔をしているが、そんな彼の顔を見ているとわたしも同じように胸が詰まる。いや、違う。悲しみを抱き締めているのは沈んでいる彼女だ。
「わが君様。帝様。采女は悲しゅうござりまする」
 彼女がそう口にすると、池の水が一気に口内へ侵入してくる。多くを飲み、咽てしまう。瞳から涙がこぼれるが、それはわたしが感じている苦しみからではなく、彼女の悲しみから溢れている涙だ。男は両手で池の水をすくいあげている、自らの手で。「わが君様。采女は今もこの水辺より、君をお慕い申し上げておりまする」。彼女の両目から零れた大粒の涙を多分に含んだ水を男は口に含む。「苦い水じゃの」。感情を押し殺したような声で紡がれる三十一文字を池のさざなみがかき消していく。わたしまでは届かない。しかし傅き役の女官が一人、わっと泣き崩れる。
 しかし池に沈んだ彼女の心は少なからず晴れやかになる。池にとどまる魂はわたしの意識を追い出そうとする。彼女の涙の匂いが遠ざかっていくのがわかる。わたしはそのまま仰向けになって、水中を漂うことで長い時間を過ごす。瞳は開いたまま、はるか遠い水面の向こうにある太陽を眺める。やがて風に揺れる水草が視界に入る。わたしは身を起こす。川岸には男たちの姿はすでになく、空ろな瞳の少女が泥だらけの手で水草を編んでいる。
「あなたは誰?」
 少女がそう問いかける。川の水面にその可憐な手のひらを押しつける。わたしも手を伸ばす。手のひらが水越しに重なり合う。体温は感じられない。彼女は寂しげに微笑む、わたしへ。それから岸辺の一点を指差す。人だかりの中で、少女が横たわっている。純白のドレスは泥で汚れ、たっぷりと水を含んだドレスや艶やかな黒髪が身体に張りついている。
「わたしは死んでしまった。いじわるな柳の枝。私はこの川に落ちてしまった、名前も知らないヨーロッパの川へ。でも水は私を受け入れてくれた。でもあなたは?」
 いつからか絡めあってい指先が離れる。細く長い彼女の白い指が遠くなる。透き通った水の中でわたしはじっと目を凝らす。わたしを取り囲んでいる泡をかきわけると、仰向けの体勢で水底に沈みつつある彼女の姿がある。驚いたように大きな瞳を見開いている。わたしは彼女の身体を受け止めようとする。しかし水中では思うように動けない。わたしは沈んでいく彼女を見つめていることしかできない。まだ意識はあるようだったが、運命の流れにさからおうとする意識はなく、ただ空気が続かなくなるのを待っているように見える。わたしは手を伸ばし、さっきみたいに彼女の手のひらに触れる。体温がまだ残っている。力のない彼女の瞳がわたしを捉える。その目はやっぱり寂しそうに笑っている。
 川岸ではざわめきが生まれている。柳の根元に残された花飾りを拾い上げた男は千切れたような布切れが枝に引っかかっていることに気づく。それが可憐な少女として慕われていた顧問官の娘の衣服の一部であるということを見過ごすことはできない。娘の名を叫ぶと、声を聞きつけた者たちが集まってくる。彼女の身体はじきに引き上げられる。彼女は安心しきったかのように、全てが終わった後の虚脱の色を浮かべ、ゆっくりと頷く。
 でも……わたしは?
 色素の薄い、悲しみでいっぱいになった二つの瞳が目の前にある。いつの間にやら、わたしは狭い地下水脈に入り込んでしまっていて、ひどく窮屈な格好のまま、差し込んでいる光を見ている。ほとんど魂のようになったわたしを無視して、水脈の水は光に向かって溢れ出している。冬を忘れるような陽射しへ向かって。決して届くことはないというのに。
 その光と水の中で女の顔が揺らめいている。黒い豊かな髪は乱れ、汚れてしまっている。彼女は溢れる泉へ手を伸ばし、水をすくっては顔を洗う。何度も何度も繰り返す。わたしは彼女の手のひらに触れようとする。大きな手のひら。ささくれ立って、ところどころに小さな傷がある。わたしの手は彼女のそんな手のひらを素通りする。膨らんだ腹がある。わたしの指先はその腹に触れる。生命のいぶきがそこにある。
 しかし、傍らには亡骸を抱き締め嗚咽する夫婦の姿がある。死んだ少女はわたしよりも年下であるように思えた。口から血を流し、上半身には土をかけられている。肌着のようなものしか身につけていない。太股までもが露わになっている。体温は完全に失われ、生命力を喪失した肌の一部は青白いどころか薄い紫色に変色し始めている。そんな彼女は両親に抱かれ、ほっとした魂が大声で泣きじゃくっているようにわたしには思える。
 わたしは泉から抜け出す。女は機械仕掛けの人形のようにただ泉の水をすくい上げ、顔を洗い続けている。身のケガレを落とそうとしているかのように。わたしは彼女に近寄り、腹に耳をあてる。鼓動が聞こえる気がする、小さな小さな鼓動が。
 彼女から離れたわたしは強姦され、棒で殴られて殺された少女の傍らに立つ。父親が身体を支え、母親が水で顔の汚れを取っている。今にも呼吸を始めそうなくらい、穏やかに瞳を閉じている。長い時間を地面に押し付けられていた足や腕とは異なり、顔だけは美しい少女のままだ。わたしはそのくちびるを指でなぞる。口元には乾いた血液がこびりついていたが、母親がきっちりと拭い取っている。
 父親の両手は血で染まっている。皮膚に今もこびりついているわけではないが、その手を血で染めた過去がわたしには見える。ごく近い過去。憔悴しきった表情で娘の亡骸を抱き締める男の無骨な手のひらに触れてみる。骨ばった、ごつごつとした手のひらに。太い血管が浮かんでいる。わたしは血管を指でなぞる。生きている人間の確かな躍動が感じられる。わたしは自分の左手を撫でる。死んだ人間のように冷たく、無感動だ。わたしはその場にしゃがみ込む。胸がひどく熱い。少女の遺体の真下から湧き出した水がわたしの足元に泉を作ろうとしている。
 刺すような冷たさの水はいつの間にか膝くらいまでに達している。わたしはしゃがみ込んだまま、その場を動くことができない。時間の感覚はほとんどない。とても悲しいと思える時間がただ過ぎていったように思えるだけだ。わたしは再び水に包まれる。柔らかい水の中は心地良く、瞳を閉じれば、すぐに眠りに落ちてしまいそうなくらいだ。しかし苦しさが生まれ始める。誰かの手がわたしの頭を押さえつけている。
「うん、なんか、あの片手で。うん。あははは。いや、楽っていうか、そんな力はないよ。ないって。うん。いやだからないって。ねえよ。え? はあ? え、来ないの? 嘘、来るって言ってたじゃん。あ? え? そうなの? 早く言ってよ。これ超一方的じゃん。リアルで人殺してるみたいじゃん。いや、笑えないから。イジメって言い訳通じないじゃん。あ、てめえ、切んなよ!」
顔を水に押し付けられたわたしの呼吸が乱れていく。わたしの呼吸、わたしのリズム。それらはどんどん失われて、まるでわたしがわたしでなくなっていくように思えた。  目を開いた。ぼやけた視界の先に、身投げする女の姿が見える。彼女の姿はぼやけているが、崖から飛び降りる直前に叫んだ声だけがはっきりと聞こえる。「あたし食ったよ。そして、生きたよ」。女はそう絶叫し、中空を舞った。
 わたしは自分の頭を押さえている腕を掴み、きっと振り返った。ぎょっとしたような顔で彼女がわたしを見下ろしている。ほんの数秒だった、わたしたちは見つめあう。言葉はない。わたしは彼女に体当たりをするようにして、川の浅瀬に押し倒す。水飛沫の一滴一滴が川に無数の波紋を作る。彼女の手を離れた携帯電話が川に落ち、沈んでいく。わずかに聞こえる音声が歪む。わたしは彼女に馬乗りになる。お互いに息が切れている。気管に入り込んだ水のおかげで、今もわたしはぜえぜえと息をしながら、ときたま咽込む。呼吸の荒さとは裏腹に無言の時間が過ぎる。
 やがてわたしは右手を振り上げる。水中で拾った手のひらサイズの石ころを握り締めている。彼女の顔に怯えの色が走った。しかし構わずにわたしは勢いよく彼女の顔面を殴りつけようとするが、逆に人間の身体の驚異を知る。彼女はわたしを突き飛ばして、逃げ出そうとする。わたしは尻餅をつく。彼女は走り出そうとするが足をもつれさせて倒れてしまい、それでも四つんばいになってできる限りわたしから遠ざかろうとする。
 慌てることはなかった。わたしは悠々と彼女の背後に歩み寄り、思いっきり腕を振り下ろす。頭皮がえぐれ、髪の毛ごと剥がる。水面に落ちた髪の毛の束から赤い血が滲み出る。彼女はがっくりとその場に倒れ、反射的に傷に手を伸ばす。指にべったりとついた血を見つめながら、「痛い。痛いよう。ママ、痛いよう」と口走る。わたしは構わずに両手で握った石ころで彼女を再び殴りつけた。三度四度と殴っている内に彼女は意識を失う。浅瀬に横たわり、びくんびくんと身体を震わせている。傷口からどぼどぼと流れ出している血液が川の水を淡い赤色に染めている。
 わたしは石ころを握り締めたまま、立ち尽くしている。呼吸のリズムは乱れたまま、一向に落ち着こうとしない。わたしは彼女を見下ろす。痙攣は小刻みになっている。寒さで震えているようにも見える。側頭部から後頭部にかけてぱっくりと割れていて、まるで石榴みたいだ。わたしは手の中の石を落っことす。わたしの手を離れた石ころはぼちゃんと水音を立て、水の中へ消えていく。
 こみ上げてきた吐き気に耐えられず、わたしはその場にうずくまる。少しの抵抗もできずに嘔吐を始める。胃液に赤いものが混じるまで吐き続ける。わたしは咳き込みながらも、水面に映る自分の顔をじっと眺める。おぼろげに映っているわたしの鏡像はまるで死人のスナップ写真のように見える。わたしは吐瀉物の海に倒れる。川の流れに運ばれていく汚物の底で、泣いていることにわたしは気づく。

(了)




≪参考資料、および引用≫

・『水の中の小さな太陽』 岡崎京子
・『ハムレット』 ウィリアム・シェイクスピア(河合祥一郎 訳)
・『ハムレット・マシーン』 ハイナー・ミュラー
・『大和物語』作者不詳
・『妹背山婦女庭訓』 立作者 近松半二
・『処女の泉』 イングマール・ベルイマン監督作
・『赤鬼』 野田秀樹
・『ライフ』(フジテレビ)


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