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ぼくたちは、大川のほとりで溺れる。


 暮夜の墨田川沿いの遊歩道で女が携帯電話をいじくっている。真っ黒い空の下に広がる一級河川はまるで石油を流し込まれたかのようにどす黒く、底が見えない。時折遠くから首都高速道路を走る乗用車やトラックのタイヤが上げるヒステリックな悲鳴が聞こえたり、JR総武線の車両が橋桁を踏み鳴らしたりする他は本当に穏やかで、有象無象の人間どものざわめきは昼間とは対照的にどこにもない。そのとき夜の闇に漂っていたのは下卑た笑い声と情けない泣き声くらいの、平凡な人間ならば簡単にやり過ごしてしまうような些細な重低音のみだった。
 女はメールを打っている。液晶画面のバックライトが宵闇に薄らぼんやりと浮かび上がり、顎から上を照らしていた。彼女の履いているスカートは自意識とモラルの間で絶妙に折衷されている。短い丈から長葱のように白くて長い二本の足がにょきりと伸びていて、無造作に折り畳まれていた。彼女はアスファルトで整えられた地べたに直に尻をつけている。川岸はいつからか始まった区画整理によって、剥き出しの土がセメントに覆われた結果、無味乾燥な冷たい都市の景観を見せている。そこに彼女はあぐらをかいて、へたり込んでいる。昼間の間にしこたまためこまれた熱気が日暮れと共に吐き出されているため、コンクリートの冷たさは微塵も感じられなかった。梅雨明けの知らせもないままに夏へと突入した七月の夜、川田悦子は下着を窺われるのも厭わずにただ座っていた。彼女の視線の先には携帯電話の液晶画面があって、どこに住んでいるとも知れぬ自称大学生へと届けられるメールをひたすら打っていたが、やがて飽きたのか、彼女は数十万画素の解像力を持つカメラを起動した。手すりの近くでのたうち回っているみすぼらしい襤褸を纏った爺にレンズを向ける。レンズを通して見る景色はいささか不自由で、暗さに濁色が混ぜられているようだった。鼻歌交じりにレンズ越しの暴力を見ていた。「マリーアントム、アンクリスマスツリーアースモール」。弱々しい歌声を風が吹き消す。
 暴行を加え続けている男子の行動を彼女は不思議そうに眺めている。ワイシャツをだらしなく剥き出しにしたクラスメイトは体臭のきつい見ず知らずの乞食を蹴っ飛ばし、踏みつけている。そのたびに樽のように太いズボンの破れた裾が揺れ、悦子は酔いを覚える。瞬きを繰り返していると、立ち並ぶビル群の人工的な輝きの反射する隅田川が笑いかけているように見えた。液晶画面、クラスメイト、隅田川を見比べ続けて一時間、隣の男はまずそうに煙草を吸っている。菊地文夫はホームレスに暴行を加えている友人を見て、つまらなそうに鼻を鳴らす。退屈の花が大きく咲いている。夜更けの隅田川岸に情けない乞食の悲鳴が響くが、電車が通るたびに轟音にかき消されてしまう。誰にも届かないまま時間が過ぎて、絶望だけが深くなっていく。
 踊っているようだった。乞食も男子もコンクリートで完全に舗装された岸辺で躍動していた。乞食は何度も意識を捨ててしまおうと思ったが、なかなかうまく己の肉体から逃れることはできなかった。思考は薄汚いなりをした身体に留まったまま離れようとはしなかった。だからこそ痛みを感じ続けたまま、陸に打ち上げられた魚のように諦めきっていた。尚も意識がここにあるのは生命への執着が強いからなのかもしれない。なるほどと男は自嘲する。簡単に死んでしまえるのなら、物乞いにまでわが身を落とすこともなかっただろう。さっさと死んでしまえばよかったのだ。背中に抱えた痛みはもう取り返しのきかないくらいのものであるようだったが、痛みを感じている以上はまだ無事なのだろうと思うと、彼の手の中にある絶望は川底のように深くなった。それに比例するように、意識の水が拡散していく。やっとおれはおれの脳が生み出す不自然な操状態から離れられるのだと彼は手放しで喜んだ。嫌なものから逃げ続けてきた自分の半生の縮図を己の身体を使って再現させられていることに彼は気づかない。彼は数十年の無為な日々を誰かに踊らされることで消化したきた。苦痛なほど平凡でありふれた誰かの日々の果てに辿り着いたのは物乞いだった。暴行を加えられている自分が主体性を持っていないことに気づかぬうちに意識を失おうとしている男はあっという間に痛みを伴う現実に揺り戻される。全身が濡れていた。今まで自分を蹴っ飛ばして踏みつけて髪の毛を引っ張っていた者とは別の男子学生が桶を持っている。それは彼が隅田川の岸の一角に作り上げた、段ボールとビニールシートから成る家もどきの脇に置いてあるプラスティックの桶だった。雨水を貯め、もしものときのために生かそうと思っていたものだったが、皮肉にも今その水貯めは主人の念願でもあった気絶状態をリセットしてしまった。あいもかわらずつまらなそうな顔をして、少年はプラスティックの桶を放り投げる。
「天水桶なんてきょうび流行んないし、意味ないし、良かれと思って置いといたんだろうけどさ、なんだろ、なんかこういうの置いといても、今みたいに全部跳ね返ってくるんだよな」
 まくし立てると、文夫は遊歩道に据え置かれているプランターに足を踏み入れ、土をえぐって、倒れたまま素っ頓狂な顔をしている男に投げつけた。浮浪者にかけられた水は乾燥しきった土に一瞬で浸透し、混ざり合った両者は泥へとその形態を変える。身を丸めている男は顔も手足も着ているものも泥まみれになってしまう。自分がすこぶる惨めで情けない状態になっていることを理解していない浮浪者の脇にしゃがみ込んだ文夫はべたつく唾を吐きかける。汚い唾液が付着しても尚、男は夢を見ているかのようにぼんやりと周囲を眺めていた。文夫は眠っている子猫のように身体を曲げている男の脇腹に腰を下ろし、握った拳を振りながら「じゃんけん」と言った。傍らにいる男子が慌てて開いた手を示す。
「おお、大ちゃん残念。はい、じゃあジュース買ってきて。おごりで。俺と悦子と手前の分」
「そういうのは先に言おうよ」
「先に言えったって、お前ぇよ、じゃんけんなんて運だろ、運。心構えがあっても、そりゃ、結果は変わりゃしねえよ」
 へらへらと笑って「早く行け早く」と手を振る文夫に苦笑を返し、小林大輔は軽やかに走り出す。もちろん全力ではなく小走り程度で、しかしすぐに彼の姿は夜の闇に紛れてしまう。平成の世だというのに、夜の闇は深い。街灯が一定の間隔を空けて並んでいるが、その光源にはさほど意味はないようだった。見えるか見えぬかは気持ちの問題であって明るさの度合いではなく、この夜の文夫には一寸先は闇という言葉がまるで肉親のように近く感じられていた。走りながら小林大輔は口の中を泳いでいた唾を隅田川に吐き捨てた。中学の頃はサッカー部に所属していた彼は唾を遠くまで飛ばせる。口の中に拡散している唾液のかすを一点に集めて、まるでガムを捨てるように唾を吐き出す。すると遠くまで飛ぶ。唾液のきれが悪いとユニフォームなりスパイクなりパンツから露出した足なりにかかって自滅してしまうことがあるのだ。距離を出さなければ痛い目を見る。もちろん洗えばいいことなのだが、中学生のプライドは唾液のかかった姿を許容できない。そして高校生になった今もその無意味な子供っぽさは残留しているようだった。
 横たわったままの男は意識を取り戻してから、じっと息を潜めて、三人の若い男女の様子を探っていた。耳をそばだてて会話を盗み聞きし、話し声と足音から、男が一人どこかへ行ったと判断した。ゆっくりと薄目を開けると、欄干に身体を預けている少年がライターを弄んでいるのが見えた。目線を泳がせても、もう一人の姿はなく、先程のばたばたとした足音は二人分だったのかもしれない。滲む汗を掴むように手のひらを握り締めて拳を作る。浴びせられた水のおかげで彼は完全に覚醒していた。暴行による痛みは未だに全身を蝕んでいたが、逃げ出すくらいの余力はありそうだった。脇腹や腕にある痛みは彼が今まで感じたものとは異質のもので、いかさまこれが骨折なのだと彼は直感していた。しかし今逃げないでどうするのいうのか。
 男は頭の中で数を数える。静かに数字を思い浮かべて、呼吸を整える。二十まで数え、そこから逆に数を減らしていく。零になった瞬間に彼は立ち上がり、走り出すつもりだった。くしゃみひとつで事足りるようなわずかな数十秒間はそのときの彼にとっては数分、数十分、数時間だった。誰もいない遊歩道の沈黙が汗や唾を必要以上に分泌させる。五、四、三、二と数えたところで、男は首根っこを掴まれる。薄目の向こうに広がる景色には確かに少年は存在していた。ぼんやりと赤錆交じりの欄干に寄りかかっている、先程と全く同じ光景の中にいる。男は振り返ろうとする。振り返って立ち上がり、走り出そうとしたその瞬間、彼は背中に異物感を感じた。何かが薄汚い、垢の溜まった背中で暴れている。小刻みな震動が彼の背中をこすり上げ、バランスを崩させる。何でもないような地面のわずかなひび割れに足を取られ、男は転倒する。
「え?」
 そのとき文夫はホームレスの男が逃げ出そうとしていたことにようやく気づいた。しかし彼は転んで、苦痛に顔をゆがめながら背中をかきむしっている。そして悦子がそれを指差しけらけらと笑っていた。心底楽しそうな声を上げ、漫画のように大きく口を開けている。
「何だよ。どうしたんだよ」
 つられるような半笑いで文夫が訊ねるが、悦子は聞こえていないのか、笑い続けていた。指をさして笑っている。細く長い人差し指の先には悲鳴をあげながら必死に背中へ手を伸ばしている浮浪者の姿がある。文夫は何をそんなに暴れているのかを確かめようと思い、彼に歩み寄ろうとしたが、触角を毟り取られた蟻のように前後不覚の状態で転げ回っている男はまるで鼠花火で、危なっかしくて近付けなかった。
「おい、悦子。何したんだよ」
 そう訊ねても反応はやはりなかった。悦子には彼の言葉は届いていなかった。男の悲鳴が大きすぎて、彼の言葉を遮っているようだった。しかし周囲から誰かが現れるような気配はなかった。冷たいもんだと文夫は思う。周囲に建ち並ぶオフィスビルの中には明かりが灯っているものもあるし、普通の民家だってあるし、悲鳴や笑い声が聞こえていないわけでもないだろう。しかし誰かが駆けつけるまでには至っていない。子供の悪ふざけ程度にしか思われていないのだ。
 現在、浮浪者に与えられている苦痛は実際、悪ふざけに過ぎなかった。悲鳴が途切れてやっと、文夫は彼がもがいていた理由を知った。ぜえぜえと肩で息をしている浮浪者の背中からじいじいという油蝉の鳴き声がしていた。
「蝉かよ。お前蝉入れたのか」
 笑い疲れて腹部を抑えている悦子に問うと、にんまりと口元を歪めた。
「いいなあお前は。何かこう自由で」
 文夫は中年男のような声を上げながら、地べたに尻をつけてあぐらをかいた。昼間の太陽に熱せられていたアスファルトも夜の今は少々ひんやりしていて気持ちが良かった。薄ら笑いを浮かべて浮浪者を見下ろしていた悦子はどこからか長い木の枝を拾ってきて、男の背中を突っつき、元気をなくした蝉をたきつけていた。彼にとっては男の荒い呼吸だけが耳障りだった。それ以外は全てが調和しているように思えていた。
 遠雷が聞こえた。文夫は顔を上げて、墨汁で塗り潰したように真っ黒い空を見た。星も月も一切見えていなかった。分厚い雲が覆い尽くしてしまっているようだった。先程の雷から考えるに、一雨くるのかもしれない。そう思った文夫は浮浪者の背中に枝を突っ込んでいる悦子の二の腕を掴んで、引っ張り上げた。
「にわか雨かも」
「うん。雷。聞こえた」
 立ち上がった悦子は寝起きのように揺らめいた。力が全身に行き渡っていないような立ち姿だった。重心をあちらこちらへと動かしているように彼には見えた。白いブラウスが夜の闇の中で揺れる度にまるで幽霊でも見ているみたいな錯覚を抱く。何度見ても慣れない。そんな馬鹿げたものはいるわけがないのだとわかっているのに。
 文夫は口の中に溜まっていた唾を倒れたままの浮浪者に向かって吐き捨てた。すると悦子もその真似をした。しかし吐き慣れていないからなのか、唾液は全く飛ばず、彼女の口元から真下へ向かって伸びた。赤ん坊の涎のようだった。文夫はそれを見て「汚ねえなあ」と笑い、自分のワイシャツの袖で口を拭いてやった。夏だというのに、彼は長袖を着ていた。悦子は目を閉じて、拭かれるがままにしていた。  拭きながら文夫は「遅えなあ、あいつ」と呟く。一体どこまで買いに行っているのだろうかと思った。自動販売機なんてどこにでもあるし、文夫はあれが飲みたいと指定したわけでもなかった。お茶でも炭酸でも何でもよかった。ただ喉が渇いていただけだった。
 文夫と悦子は遊歩道に一定間隔で設置されてある休憩所のベンチに座った。四本の柱と三角の屋根があって、その下に木製のベンチが置いてある。壁のない掘っ立て小屋だった。相変わらず浮浪者は倒れたままで動かない。逃げる元気もなくしてしまったのかもしれない。
「雨降るの?」
「ばかだな。そんなん俺にはわかりゃしねぇよ」
「うん。そうだね」
 見上げた空は黒いばかりだった。ただ無為に広がる雲と雨雲の違いくらいはわかるが、こう暗くては空にある雲の様子は探れない。文夫は大袈裟に息を吐いて、ベンチの背もたれに全てを預けた。だらしなく足を伸ばして、目の前で寝ている浮浪者に「おっさん、なんかうざいからどっか行ってよ」と声をかけた。しかし浮浪者はぴくりとも動かない。文夫は再び唾を吐いて、尻のポケットに突っ込んであった煙草を取り出し咥える。半透明のプラスティックで作られた安物のライターで火をつける。ガスが切れているのか、なかなか炎は灯らなかった。ガス弁をいじくりまわしてみるが、火花が弾けるばかりだった。悦子はそれを見て笑みを浮かべた。「花火みたい」と苛立たしいくらいに澄みきった声を出して、文夫の肩に丸い顎を乗せた。「暑苦しい」と文夫が言っても、全く聞こえていないような様子のまま、彼女はその体勢を変えようとしなかった。文夫は派手に舌打ちをして、ライターを地面に叩きつけた。アイスホッケーのパックみたいにくるくると回転しながら滑っていき、やがて割れたアスファルトに挟まって動かなくなった。
 文夫が咥えた煙草を握り潰して投げ捨てようと振りかぶったとき、真後ろから声がした。「ふみちゃんふみちゃん」。驚いた二人が振り返ると、大輔がいた。大輔は二メートルほどのコンクリートの堤防の上で身を屈め、ちらちらと周囲を気にしている。
「お前何やってんだよ。遅ぇよ」
「あ、ごめん。ていうかやべえよ」
「あ?」
「警察いんだよ、あっちに。よくわかんねえけど、あいつたぶん、噂の暴力巡査だぜ」
「はあ? 何それ?」
「知らないの? 俺らみたいに夜中にうろうろしてる奴をシメてんだって」
「夜中っておいおい、今まだ、日付変わってねぇじゃんかよ。ていうか警察なの?」
「俺だってわかんないって。見たことないもの」
 飛び降りながら、大輔が言う。
「でもあんなボコっといて、見つかったらやばいって」
「乞食一匹でがたがた抜かしてんじゃねぇよ。でもまあ、雨降りそうだしなあ」
「そうそう。聞こえたろ、雷」
「濡れるのは嫌だしねえ」
 立ち上がった文夫は電車の座席に両膝を乗せて窓の外を見ている子供のような体勢だった悦子の手を取った。その瞬間、急に周囲が明るくなった。街灯のない遊歩道で視界の助けになるの月明かりくらいだったのだが、それとは違う真っ白い人工の光源がすぐ近くにあるようだった。空は曇ったままで、雲の切れ間から月影が覗いているわけではなかった。「おい。お前ら」と声がした。太く低い大人の声だった。
 だしぬけに大輔が二人の背を押した。そして「逃げよう」と小声で囁く。文夫は悦子を引っ張り、走り出す。それに大輔が続く。「待ちやがれ!」としっかりと通る硬質の声の主を文夫は見た。ほんの一瞬振り返って見てみたのだった。男の持っている懐中電灯の光は男自身の姿を微かに浮かび上がらせていた。表情まではわからなかったが、警官だった。ありふれた制服を身に纏い、懐中電灯をこちらへ向けていた。
男は長い足を一歩一歩と前へ運び始めた。革靴が発する硬い足音のテンポが速くなる。二、三〇メートルくらいの差があったが、追いかけられるストレスを初めて味わう文夫にとってはほんの数センチメートルのように思えた。「追いかけてきやがったぞ」とがなると、大輔が立ち止まり、ポケットに捻じ込んであった缶コーヒー三本を投げつけた。すぐに走り出したので命中したかどうかはわからなかった。「危ねぇな」と吐き捨てるような声が聞こえただけだった。
 三人は走りに走って、途中の橋を渡り、両国駅の前まで来ていた。駅前の広場は閑散としていて人の気配がなかった。身体を曲げて両手を両膝に乗せている大輔の肩を叩き、文夫は言った。「たまにはおもしれぇこともあんだよなあ」。そしてげらげら笑い出した。しゃがみこんでいた悦子も耐え切れないとばかりにくすくす笑い出す。それらはやがて大輔に感染し、三人は誰もいない両国国技館の脇で腹を抱えて笑った。ようやく午前零時になろうとしていた。
 その日が終わったとき、河内宗俊の腕に巻かれたデジタル時計の液晶画面が点滅した。缶コーヒーを投げつけられたところで追いかけるのをやめ、立ち止まったままだった宗俊は脱いだ制帽を手に持ち、苦虫を噛み潰したような顔でガムを噛んでいた。生意気な餓鬼共を取り逃がしたという悔しさでいっぱいだった。足元に転がっている缶を拾って、暴行を受けていた男の元へ戻った。男は手すりにもたれるようにして座り込んでいた。宗俊の足音が聞こえると、怯えるように彼を見た。
 薄汚い顔だ――と宗俊は思った。懐中電灯で顔と身体を照らすと、どういうなりをしているかがはっきりとわかり、嫌気がした。乞食だった。嘲笑うように鼻を鳴らして、彼はその場を立ち去ろうとした。倒れていたままならまだしも、自力で起き上がれる以上助ける義理はないだろうし、そもそも墨田川の両岸を不法占拠している輩の一人なのだ。道端に捨てられたごみをやり過ごすように、彼は男を全く無視した。しかし男は違った。宗俊の懐中電灯は彼自身の姿も照らしていた。男には彼が警官であるのかガードマンであるのかの区別はつかなかったが、少なくとも信頼できる人物であると判断できた。だから声をかけた。「ちょっと待ってくれよ」とかすれた声で、彼は宗俊に助けを求めた。しかし宗俊は完璧に無視した。まるで聞こえていないみたいにそのまま男の真横を素通りした。
「ちょっと待ってくれって。怪我してんだよ。あんた警官だろ」
「あ?」
 その口調は宗俊の癪に障った。彼は立ち止まって振り返り、つかつかと男の前に歩み寄った。
「何だって?」
 弱っている浮浪者の前に立ちふさがるように彼は立った。上から懐中電灯の灯りをあてて、見下ろす。息も絶え絶えの様子だった。力なく彼を見上げ、卑屈に笑って、言った。
「助けてくれよ。身体中が痛えんだよ。病院かどっか」
 言葉は途切れた。宗俊は先程拾ったコーヒーの缶で男の頭部を強打した。そしてべたついた髪の毛を掴み、二度三度と殴りつける。掴んだ髪の毛が抜けて、男は即頭部を地面に叩きつけてしまう。浮浪者は疑問なのか怒りなのか判断できない、くぐもった呻き声を上げて、動かなくなった。宗俊は顔面を踏みつけて、倒れた浮浪者の脇に座り、警棒の先端を彼の喉に押しつけた。呼吸音がかすれていく。
「なめんじゃねえぞ。乞食の癖に誰に指図してんだ。わかってんのかよ。あ?」
 宗俊は中身を浮浪者にふりかけた。たちまち甘ったるくて安っぽい匂いが漂う。小さな缶には大した量は入っていなかった。二つ三つ投げつけられたはずだったと思い返した。暗がりでは探すのは面倒そうだったので、河内はそこでやめておいた。空き缶を投げつけると、浮浪者の口から悲鳴のような吐息が漏れた。
 目を細めて周囲を探っていると、半壊したみたいに形を崩している段ボールと青いビニールシートを見つけた。景観を美しくするための植え込みと植え込みの間にそれはあった。「あれ手前の家か。答えろよ。おい」と腹部を蹴ると、男は微かに頷いた。
 宗俊はすだれのようにぶらさがっているビニールシートを掴んで、遊歩道の方へ投げ捨てる。むささびのようにビニールは舞い、そのまま隅田川に消えた。段ボールの中は小部屋のようになっていて、継ぎ目はどこも新聞紙や雑誌を貼り付けることで補強されていた。一八〇センチ近い宗俊にとっては狭苦しい箱庭だった。得体の知れぬ液体の入ったペットボトルやかびの生えたパンやしなびたレタスが無造作に置かれていた。内部を引っかき回しているうちに宗俊はお宝を見つけた。手のひらに乗るくらいのビニールパックで小分けされた真っ白い粉末があった。一つを破って開けて、小指の先で舐めてみた宗俊は楽しくて楽しくて仕方がないとでも言いたげな顔で笑った。まさに満面の笑みだった。
「おい、手前おもしれえもん持ってんじゃねえかよ。乞食の癖になんだ、これは」
 早足で近寄ると、男は力なく彼を見上げた。しかし宗俊の手にあるものを見た瞬間、逃げ出そうとする。宗俊は身を翻した男の首根っこを掴む。男の纏っていた襤褸は反発しあう二人の力に耐え切れず、破れる。必死の思いの浮浪者は手すりを乗り越え、川へ落ちた。波紋が大きく、どこまでも広がっていき、やがて水は静かになった。先程の表情から一転し、宗俊は苛立ちを紛らわせるために手すりを蹴りつけた。震動が空気を震わせて、彼の耳元をくすぐった。
「どうしようもなんねぇ屑野郎だな。死んじまえよ」
 そう川へ向かって言い放つと、ガムを吐き捨てた。そして浮浪者の住居を解体し、全てを川へ投げ入れた。全身を湿らす汗が余計に不快感を増幅させていた。彼は粉末の入った包みを大事そうに制服の胸ポケットにしまい、その場を後にした。
 足音が聞こえなくなると、この近くを根城にしている浮浪者達のざわめきが始まった。ビニールがかさかさとなびき、静寂に響く。目と鼻の先で起こった事態を確認するために覗き見をしては、小声で囁きあっていた。唐突な暴力に見舞われたものを助ける義理はなかったが、お互いが無事であるということに勝るものはなく、そのための情報交換は必要不可欠だった。「行ったか」、「もういねぇよ」、「あいつは」、「川だ」、「死んだんじゃないの」、「知らねぇよ」と細切れにされた言葉が飛びかった。
 それがぱたりと止んだのは、再び足音が聞こえたからだった。先程までの、拳骨で扉をノックするみたいな音とは違い、ゴミ袋を引きずっているようだった。不法占拠を続けている乞食どもは口はもちろん、身体の動きも止め、息を潜めた。
 歩いていたのはスニーカーを履き、ジーンズにシャツというごくありふれた格好をした少年だった。両足の歩みは曖昧で、靴底のゴムが乾いたアスファルトを擦っていた。歩きながら彼は腕時計で現在の時刻を確認し、ため息をついた。都心部の予備校へ行き、三コマの講義を受けた帰りだった。水野孝司はすこぶる憂鬱だった。家に帰りたくないと思ってゲームセンターをうろうろしていたら、いつの間にか午前零時をまわっていたのだった。孝司は脇腹を撫でる。きっとあざができている。顔を除いた全身にあるあざを数え直してみたら、どうなるだろうか。そう思った。
 隅田川近隣の高校へ通う彼は目下いじめにあっている。高校生にもなっていじめにあうとは思わなかったが、実際彼の日々は苦痛そのものだった。逆に放課後の予備校通いは気持ちが良かった。打ち込めるものがあるというのはすばらしいことであると彼は思う。孝司にとってそれは勉学だった。目的は何でもよかった。予備校講師の講義は高校教師のそれとは雲泥の差だったし、通っている生徒のレベルも違った。だからその空気の中にできるだけ長くいたいと思い、一人で時間を潰していたのだった。家に帰れば、風呂に入って、復習と予習を適当にし、寝るだけだった。窓から陽射しが差し込めば、憂鬱な午前と午後がやってくる。彼の一日が本当に始まるのはいつだって夕暮れ近くだった。
 孝司は眼鏡をかけ直した。つるに微細な歪みがあった。よく調べてみようと立ち止まったとき、何かを踏んだ。目を凝らしてみると、蝉の成虫が無様に潰れていた。気味の悪さを振り払うように彼は靴底を何度も何度も地面で擦ったが、何度繰り返しても体液や臓物が付着しているような気分になった。洗い流さないといけないな――彼は延々と続いている落下防止用の柵を乗り越えて、縁に立った。そして足を伸ばして、軽く水面に触れた。
 水面は軽く波打っていて、まるで真っ黒い巨大な生き物が蠕動しているようだった。湿らせた靴底を再び地面で擦った。両手で手すりにしがみつき、足を動かしている様は正しく奇妙そのものだった。しかし孝司には潰れた蝉のグロテスクな内臓を洗い落とすのが先決だった。ようやく満足して、もとの遊歩道に戻る。金属製の柵にもう一度だけ足を擦りつけた瞬間、柵の向こう側の地面に手が置かれた。最初はわからなかった。ペンギンの足音みたいだ――そのとき彼はそう思った。あるいは水を大量に含んだ布で地面を殴りつけているようだった。とにかく水気のある音だった。ぎょっとして振り返ると、柵の向こうから何かが現れていた。彼は腰を抜かしそうになった。今、柵に手をかけている。化け物だ――彼は思った。盂蘭盆が近いから、化け物の一匹や二匹いたっておかしくはない。
 だから慌てて背負っていたリュックサックを手に持ち、無骨な腕に向かって叩きつけた。二度目で片腕、三度目で両腕が離れ、それは川に落下した。孝司は茫然とした顔で一歩一歩後ずさり、すぐに走り出した。ひたひたと足音を立て、それが追いかけてくるような気がした。ほんの一瞬、彼は見ていた。それの頭部には髪の毛のない部分があった。河童だったのかな――そんな思いも走っているうちに消し飛んでしまった。かわりに舞い戻ってきたのはまた朝が来てしまうという生温い絶望だった。
 孝司が走り去って以来、その夜遊歩道に人の姿は見えなくなった。隅田川は物音一つ立てなくなった。やがて丑三つ時がやってくる。川岸を不法占拠している浮浪者どもの囁き声が完全に途絶える。ゆっくりと雨が降り始めた。地面を濡らし、そこを歩いた人間たちの痕跡を塗り潰していく。



 学校指定の白いワイシャツの裾をズボンに押し込んだままでいると息苦しくなる。文夫は喪服を着た人の群れに紛れ込んでいた。彼は喪服を持っていないから、学生服を着ていた。クラスメイトの中には馬鹿正直に上着まで着ているものがいたが、文夫は心の中で嘲っていた。もう真夏だというのに、黒く分厚い生地の詰め襟など着ていられるものか。実際その少年は滝の汗だった。あれは誰だったかなと思う。高校入学から三ヶ月以上が経っているというのに、彼はクラスメイトの顔と名前をあまりよく覚えておらず、夏休み突入とともにそれはますます薄れてしまっていた。しかし遺影の中で微笑んでいる少年の顔と名前は一致していた。水野孝司。俯き加減で自己紹介する彼の姿は文夫の頭の中に何故だか強く焼きついていた。癪に障ったからだ――文夫は思い返す。入学式直後のホームルームで行われた自己紹介のとき、水野孝司は確かに俯いていた。しかし目線は彼を見つめるクラスメイトに向けられていた。値踏みでもしているようだった。それが文夫にはたまらなく癪だった。だから彼が自死を選んだと聞いたときも、ああそうかと思うだけだった。
 「何で死んだのかねえ」と隣の大輔が何気なく訊ねてきたときも「さあどうだかね」と答えるだけで、それ以上考えようとしなかった。ただ思い出してみるだけだった。水野孝司はクラスで一等頭のいい男だった。しかし文夫の脳味噌に刻み込まれているのは数人の男子生徒に囲まれて、からかわれて、殴られて、蹴られている姿だった。それを遠巻きに見て、あれやこれやと話をしている女子生徒の姿もあった。文夫と大輔はスポーツ新聞を広げていた。悦子はメールを打っていた。教室の一部では嘲笑が溢れ、一部では脳天気な着信音が時折鳴っていた。それが日常だった。
 いじめを苦に自殺した。それが解答であるように思えた。
「しかしまあ、こう黒い服ばっかだと暑苦しいね」
「葬式だからしょうがねえんだよ。喪服は今しか出番がねえんだから、我慢しろよ」
「まあそうなんだけどね。あれ悦っちゃんは?」
「悦子? いんじゃねえの? そこらへんに」
「いやあ、なんか今日見てない気がしたからさ。いつも文ちゃんといっしょだしね」
「ああ、そうだ。あいつ今日制服じゃなくて喪服だぜ」
「え? そうなの」
「あいつん家、呉服屋だからな。マイ喪服持ってんだよ」
「マイ喪服かよ」
「持ってんだって。でも喪服だからよ、着る機会がねえんだな。だから誰か死なないかなーとか前よく言ってたぜ」
「馬鹿だ」
「馬鹿なんだよ」
 大輔は通夜の会場を見渡してみる。遺影の置かれた祭壇の前で坊主が念仏を唱えていた。大輔は文夫や他の生徒たちと同じく、弔問客の邪魔にならないような場所にかたまっていて、その制服を着たものの中には悦子の姿はないように思えていたが、文夫に言われて改めて探してみると、彼女は確かに会場にいたのだった。集団からは離れたところでぽつねんと正座していた。用意されていた座布団の上に彼女はまるで遺族の一人みたいに座っていた。
 大輔は首を傾げる。喪服をしっかりと着こなしていた。姿は凛としていた。しかし明らかに彼女は場違いだった。どうして一人であそこにいるのだろうかと思い、そう問うと、文夫は「さあ」と面倒くさそうに答えた。
「知らねえよ。直接聞いてみりゃいいじゃねえか」
「いや、でも」
「しょうがねえな」
 だるそうにしゃがみこんでいた文夫は立ち上がると、ぼんやりと坊主の後ろ姿を見つめている悦子の二の腕を掴んで引っ張り上げて、耳元で二言三言囁いた。からくり人形のようにゆっくりと文夫の方へ振り返り、悦子は「ごめんね」と俯いた。文夫が「いいって。いいから来いよ」と言うと、「うん」と頷く。文夫が元いた位置に戻ると、彼女もぴったりとついてくる。恋人同士というよりも親と赤ん坊のようだと大輔は感じた。悦子は文夫を信頼しきっている。頼りきっている。
 悦子を連れて戻ってきた文夫に大輔は「どういう手品だよ」と聞く。常日頃から好き勝手に動いているように見える悦子を傀儡師みたいに見事に操る。この瞬間もそうだった。悦子は文夫にくっついている。入学当初からそんな感じだったから、級友たちは今では誰もその姿を揶揄しない。それが当然のことであるかのように接している。逆にいえば、悦子のことは文夫に任せれば問題ないということだ。二人で一人というのは本人たちからしてみれば不名誉なものであるのかもしれないが、悦子は気にする様子を全く見せないし、文夫はあきらめきっているように彼女のそばにいる。「別に」と答えた大輔はそっぽを向いて、ポケットに手を突っ込んでいた。そして「だりぃ。一服してくる」と言い残して外へ出て行ってしまった。大輔は座り込んで頬を膨らませている悦子の隣に同じようにしゃがんだ。
 彼女は横目で大輔を見たが、興味なさそうに視線を外し、喪服の袖から携帯電話を取り出した。「自由だねえ」と呟いて、大輔は文夫が帰ってくるのを待つ。悦子と二人では間が持てない。どう見ても彼女は脳が足りていなかった。級友たちも教師たちもまるで腫れ物に触るかのように彼女との間を計っている。別け隔てないのは文夫だけだった。実際はどうなのだろうか。携帯メールで遊んでいる彼女は同世代の女子と見比べても大差ないように見えるが、文夫と二人で何事か話しているときなどはただにこにこと頷きながら笑っているだけなのがもっぱらであるし、授業中はいつも余所見をしている。やはり足りていないのか。
 考えているうちに文夫が戻ってくる。と同時に集団が動き始める。焼香の時間が始まったようだった。文夫は尻を床につけてしまっている悦子を立たせると、自分の前に押し出した。そのまま彼女の背中をとんとんと小突きながら、他の弔問客やクラスメイトたちの流れに潜り込んでいった。
「やべー文ちゃん。俺焼香の仕方わかんねえよ」
「ばか。そんなのは気持ちの問題だろうがよ。前の奴の真似すりゃいいんだよ」
「気持ちの問題って。俺知らねえもん。水野なんかと付き合いないし」
「だからそれっぽい雰囲気出してりゃいいんじゃねえのか。俺だってそうだし、悦子なんかもっと接点ねえよ。あ、そうだ」
「何?」
「さっきよう」
小声で話している二人の前で背の低い悦子が背伸びをしていた。彼女の前にいる制服姿の女子に盟が背後の動きを気にするが、それが悦子であるとわかって慌てて前を向いて知らないふりをした。それを視界に入れていた大輔はふんと鼻を鳴らした。一方文夫は全く気にせず続ける。
「沢口たちいたぜ。来るんだな、あいつらも」
「沢口?」
「外にいたよ。沢口と葛西とあと誰だっけ。あ、名前忘れたわ。まあ戻ってくるときはいなかったから帰ったのかもしんねえけど。お前あいつらと仲いいんだっけ?」
「中学一緒なだけだよ。別に仲いい訳じゃない。まあ知り合いだし、義理くらいはあるんだろうけど、あいつら別におもしろくないし」
「違えねえ。おいおい高校生にもなっていじめかよ、って感じだよな」
 「ああ」と頷く。大輔も文夫と同意見だった。いじめなんてくだらないと思う。それは道徳や正義感から派生した思考ではなく、『ださすぎるから』という自分が他人にどう見られるかを最大限に想像してみた末のものだった。それに加えて、彼にはある思い出があった。幼少の頃一緒に遊んだ年長の子供がいたのだった。名前は覚えていないが、「こーちゃん」と呼んでいた記憶があった。こーちゃんは大輔よりもかなり年上で、彼が小学校中学年の頃、すでに中学生か高校生だった。身体が大きく、力もあった。大輔は彼にかなり懐いていたのだが、ある日どこかへ引っ越していってしまった。それからしばらくして、大輔はこーちゃんがいじめにあっていたと知る。考えてみればそうだった。中学生や高校生にもなって、近所の子供と遊ぶわけがない。つまり友達がいなかったのではないのかということだ。そこまでをかいつまんで話してみると、文夫は「ははは」と笑った。
「そりゃお前、お前とつるんでたからハブられたんじゃねえの」
「何で?」
「だって、近所の子供といつまでも遊んでるような奴、気味悪ぃじゃんかよ」
「そりゃそうかもしんないけど」
 大輔はこーちゃんの顔を思い出そうとする。しかし浮かんでくるのは大きな背中ばかりだった。
「まああれだな。いじめのきっかけなんて何でもありってこったろ。うんこ漏らしたとか階段から落ちたとか募金して赤い羽根貰ったとかな」
「違えねえ」
 と、大輔は文夫の口調の真似をする。
 彼らの焼香は恙無く終わった。大輔は自分のことよりも、悦子が何かしでかさないか心配だったのだが、彼女は大輔や文夫よりもずっとうまく焼香をこなしたのだった。先程座布団に座っていたときの所作といい、焼香の仕方といい、悦子の普段の行動は脳が足りないと思わせるに充分であるはずなのに、時折見せる仕草は育ちのいい、元々備わっている品のよさのようなものがあった。それは大輔や文夫にはないものだった。
 そのまま三人はどこかへ繰り出そうとしたが、喪服の悦子を連れ回すわけにもいかないので、いったん着替えに帰ることになった。悦子の家は大きかった。団地暮らしの大輔にとっては一軒家の時点で大きな家なのだが、その上悦子の家は長屋のように広かった。そして悪くない古臭さがある。「早くな」という文夫に悦子は「うん大丈夫」と答え、裏口へ消えていった。羽毛のような声だった。
 二人はシャッターの前で待っていた。そこは昼間は呉服屋の軒先だった。文夫は地べたに座ってシャッターに寄りかかり、大輔はその傍にしゃがみこんでいた。他には誰の姿もない。人も犬も猫もいない。時刻は九時近くだった。文夫は悦子が最近よく歌っている鼻歌を真似してみる。「メリーエントム、アクリスマスツリアスモール」。
「何それ?」
「知らねえよ。悦子がたまにふんふん言ってる歌だよ」
「なんか聞いたことある気がする」
「だから悦子がたまに歌ってるんだって」
「あ、そっか」
「夏なのにクリスマスか。あいつはほんとに勝手だなあ」
「でも、悦っちゃんってほんとにいいとこのお嬢さんだったんだな」
「ただの呉服屋だぜ」
「いやあ、俺から見ればよ、ばかでかい家だよ」
 大輔は数歩前に歩いてから振り返り、改めて軒先を見てみた。八百屋や魚屋のそれとは違って見えた。生まれてからずっと狭い団地で暮らしてきた大輔にとっては城に等しいくらいだった。
「こういうとこで育ったから、悦っちゃんってあんな感じになったんかな」
「あんな感じって?」
「自由気ままっていうか、自分のことしか考えてないっていうか、うまく言えないけど」
 ぶつくさと言う大輔に文夫は「違えよ」と短く言葉を吐いた。そのたった四文字の言葉はひどく鋭利な発音でもって、大輔の耳に届けられた。高校の入学式で大輔は文夫に出会った。そのとき文夫は悦子の手を引いて、どこの教室に行けばいいのかが書かれた紙を張り出している校庭の一角に急いでいるところで、初日から遅刻寸前という有様だった。大輔も同様だった。本来なら賑わっているはずの掲示板の前は閑散としていた。文夫と大輔は番号を探し、悦子はふらふらと掲示板の周囲を歩き回っていた。そして二人はほぼ同時に自分の学籍番号を発見し、「A組か」と口にし、視線を交えたのだった。「A組?」、「ああA組。え? A組?」、「A組、A組」。三人はそれから急ぐわけではなく、悠然と教室へ向かった。自己紹介をすまし、へらへらと笑いあった。「今日遅刻したって遅刻にはなんねえよ。そういうもんだよ。初日祝いで、ちゃらにしてくれんだろ」と言う文夫には根拠のない力強さがあって、大輔はその一言で文夫を気に入ったのだった。以来の関係だが、先程の「違えよ」は今まで聞いたどの言葉よりも鋭く、冷たかった。
「悪い」
「いや、いいけどさ。あいつ昔はあんなんじゃなかったからよ。結構気の利く女だったんだよ。呉服屋の娘だけに」
「そうなの? 意外」
「一年半くらい前によ、人殺しあったろ。寺と八百屋で。わかる?」
「親殺して逃げたやつだろ。知ってるよ。超有名じゃん。大学生と中学生の女の子だろ」
「それの中学生の方さ、悦子の親友」
「え? まじで?」
「で、俺のクラスメイト。マジ知り合い。まあ、いろいろあったのな」
 足を伸ばして、頭の後ろで両手を組んでリラックスしている文夫は昨日の夕飯のことでも話しているみたいに簡単に口にしたが、大輔にとっては青天の霹靂に等しかった。彼氏の両親を殺した女子中学生はちょうど大輔と同学年で、区は違うものの、彼の通っていた中学校とは隅田川を挟んでいるだけで大して離れていなかった。誰もが興味を持ったし、あの二人は気違いだと全否定するものもいれば、同調してしまうものもいた。知らないほうがおかしい事件だった。しかし時の経過は事件を風景に埋没させていった。今あの寺は、八百屋はどうなっているのかとふと気になった。
「いっそ気違いの方が」
「え?」
「あ、そうだ。全然関係ないんだけどさ」
 思い出したように、文夫は続けた。
「沢口たちさ、なんか怪我してたぜ」
「怪我」
「うん。顔とか」
「そうなの?」
「ありゃ、あれかな。水野の親父か誰かにやられたのかな」
「え、何、いじめのことバレてんの?」
「自殺だろ。遺書くらい残すだろ」
「あ、そうか」
 「まあどうでもいいけどねえ」と言いながら、文夫は曲げていた膝を伸ばした。ズボンのポケットから煙草を取り出すが、くしゃくしゃに潰れた包みの中は空っぽだった。舌打ちをして、投げ捨てる。からすが泣いた。真っ暗だから全く気づいていなかった。二人は同じタイミングでびくんと身体を震わせた。しばし無言になる。
「さっきさ」
「ん?」
「こう言ったんだよ。お前が傍にいてくれないとやだって」
「何の話だよ?」
「お前が聞いたんだろうがよ。俺が悦子呼びに行ったときだよ」
「ああ、はいはい。ええ、そんな恥ずかしいことを?」
「でもそう言うとおとなしくなるから」
「のろけんなよ」
 と、砂利を拾って文夫に投げつけようとしたとき、「気をつけなさいよ」という声がした。二人は同時にそちらを見る。着替えた悦子と母親がいた。どこかやつれたような女だ――大輔は目をそらす。
「あ、文夫ちゃん。よろしくね」
「はいはい。おまかせを」
 悦子は長いスカートを履いている。ちかちかと点滅を繰り返している頼りない街灯の下、ちびの少女が立っている。母親は何度か会釈をしながら、裏口の方へ消えていた。悦子は小股で歩み寄る。
「頼られてんじゃん」
「俺いい子だもん」
「いい子はホームレス襲わねえよ」
「いやあ、今時のいい子はわかんねえんだよ。常識じゃ計りしれねえんだよ」
 「なあ。そうだよなあ」と悦子にふると、悦子は首を傾げた。
 三人はひっそりと静まり返っている道を歩き始める。影がとても大きくなっていた。悦子が文夫のワイシャツの裾を掴む。彼は通夜の会場から数歩離れたところでワイシャツを引っ張り出していたのだった。彼らは徐々に深くなっていく夜の世界を歩く。「文ちゃんどこいくんだよ」、「さあね。決めてねえよ」、「悦っちゃんはどこ行きたい」、「わかんない」、「お前の好きなとこでいいよ」、「俺だってわかんねえよ」、「行きたいとこの一つや二つねえのかよ」、「オランダのサッカー見てえなあ」、「そういうこと聞いてんじゃないんだよ、ばか」、「大輔、ばかばか」、「悦っちゃんまでひでえや」などと一文の価値もない、くだらない会話を続けながら。



 水野孝司は十六歳と五十六日で死んだ。夏の夜のことだった。彼は自分の足音の響きだけを耳に入れながら、非常階段を駆け上がった。そうしないと決心が揺らいでしまいそうだった。
よく晴れた夜だった。星がすこぶる綺麗に見えた。階段の途中でふと立ち止まり、空を見上げてみる。意識して上空の情景を見ることなど、はたしていつ以来だっただろうか。視線を上から下へ下ろした。地面に引かれた白線が鉢巻のように小さく見える。放置自転車はミニチュアだった。彼は再び足を動かし始めた。屋上まではすぐだった。鍵がかかっている格子の扉を乗り越えて、殺風景な屋上に出る。風が吹いた。地上とは強さや冷たさが違うように思えた。夏だというのに、その瞬間吹いた風は身をきるような冷たさだった。
 しかしそれは冷風だったわけではなく、彼の身体が濡れていただけの話だった。数十分前にかけられたシンナーはまだ気化していなかった。匂いがした。脳味噌を酔わす匂いだった。それを頭の上からたらしたときの沢口の顔は無邪気だった。故に絶望がより深くなった。一番高いビルから身を投げようと思ったが、どのビルが最も高いものであるのか、見当もつかなかった。三角関数は咀嚼できても、重力加速度については完璧に理解していても、近所のビル一つ一つの区別は全くつかなかった。だから侵入が容易そうなビルを選んだ。豆腐のような色をしているように思えたが、暗かったので実際のところどうなのかはわからなかった。自分の死に場所の色すらも見えていないなんて滑稽だ――と自嘲した。
 死について真剣に考えたことなど一度もなかった。それどころか自分が自分を殺す羽目になるなんて夢にも思っていなかった。孝司はいじめを受けながらも、内心では彼らを嘲っていた。何の悪事もしていない、純粋な、無垢な、潔白な自分を一方的に破壊しようとする彼らこそが歪んでいて、見てみぬふりをする輩も同罪で、孤高を貫く自分自身を誉めていた。だがそれも結局は助けて欲しいのに誰にも言えないだけの話だったのかもしれない。やれやれだ――孝司は首を振った。己の人生のゴールが乾いたアスファルトになるとは思ってもみなかった。屋上からでも干物のように乾いている地面が見える。まるで彼の血液を欲して手招きしているようだった。
 飛び降りなくてはならぬ――手すりに触れると、生々しい冷たさが伝わってきた。ふやけそうになっていた彼の脳味噌を否応なしに覚醒させるが、飛び降りなくてはならぬという強迫観念を払拭するまでには至らなかった。実際問題、彼の決断は間違っていたといえる。シンナーを頭から浴びようが、大便を食わされようが、公然の場で自慰行為を強要されようが、何も死ぬことはない。生きていればどうにかなることだってあるのだ。生きてさえいれば。しかし彼は死を選択し、数分後実際に命を落とす。この世に別れを告げてからの道行きは誰にもわからぬ。だから彼の選択が正しかったのか間違っていたのか、完璧な審判を下せる者はいない。
 彼は風雨の影響で所々崩れている縁に立った。足元に感触は一切なかった。不思議と膝が笑い出すようなことはなかった。中空にいるようだった。風の音だけが聞こえている。縁に腰を下ろし、数日前の、隅田川に靴底を浸した夜を思い出した。そのときはわずかな波の振動が足の裏にあった。しかし今は何もなかった。人間には触れることのできぬ空気だけがみっしりと空間を埋めていた。
 もしも自分が沢口たちにとっての空気であったなら、あるいは死を選ぶことはなかったのかもしれないなと思った。高校で、孝司は彼らに存在しないものとして扱われていた。彼の机を蹴り飛ばしながら「ここ誰も座ってないよなー」、彼のロッカーを無理矢理こじ開けて中身を撒き散らし「おかしいなあ。何か入ってるじゃん。ここ空きロッカーじゃねえのかよ」、胸部や腹部や大腿部を殴って蹴って「何かある。ここ何かある。透明人間いんじゃねえのこの教室」。存在しないものであるのにもかかわらず、彼らは的確に孝司を攻撃した。存在しないものがそこに存在していると彼らはわかっていたのである――そこまでで思考を止めた。馬鹿どもの思考回路に周波数を合わせる必要はない。馬鹿が伝染するだけだ。
 足音が聞こえた。錆びた鉄の非常階段を上がってくる音だった。鈍い鐘の音が木魚のテンポで鳴っていた。彼は振り返る。息を切らした警察官が立っていた。表情は制帽で隠れているが、鋭い眼光が彼を捉えていた。孝司を無言でねめまわし、「何をしてるんだお前は」と口を開いた。夜によく通る声だった。孝司は答えない。説得されない自信があった。全く揺らがないのであれば、会話の必然性はなくなる。札束を山羊に食わすようなものだと思ったから、彼はそっぽを向いたまま、無視をした。
「しかとかよ。なめんじゃねえぞ。手前が死のうが生きようが俺の知ったこっちゃねえんだよ」
 低く、どすの利いた声色に孝司の肩が吊り上げられた魚のように跳ねた。
「面倒くせえんだよ。こんなとこで飛び降りなんてよ。悪いこと言わねえから、電車乗ってどっか別んとこ行ってくれねえか。台東区じゃねえとこで死ねよ。ていうか何だよこの臭い。臭っせえなあ。手前か?」
 気分が高揚しているのか、警察官はべらべらと好き勝手に話していた。そうすることで思い止まらせようとしているのかもしれぬと、孝司は夜の向こうを探しながら、だんまりを続けた。
「トルエンか? 薬やって飛び降りか。はははは。どうしようもならん屑野郎だな」
 警官――河内宗俊は足音を殺して近寄っていった。わざと実のない話を大声でしていた。幸いにも少年は河内の行動に全く気づいておらず、手を伸ばせば肩口をつかめる位置までたやすく近寄ることができた。そして、「救い難えやつだよ、ほんとに」と呟いて、肩を掴んだ。再び孝司の肩はびくんと跳ねた。声だけではなく、実際に他人の肉体の感触が突然現れたために先程よりもそれは確実に大きく、座っていた彼はバランスを崩してしまう。
「暴れんじゃねえぞ。死ぬ気もねえくせにこんなとこに来やがって。ビルってのは部外者立ち入り禁止なんだよ。手前みたいなのに何言ったってわかんねえだろうけどな」
 河内が掴んだTシャツの襟ぐりはびっしょりと湿っていた。そこから強い臭いがした。
「お前何だよ。トルエンかぶったのか」
 と、一瞬河内は力を緩めた。
 孝司はその一瞬を逃さなかった。ぶらぶらさせていた足でビルの側面を蹴った。飛んだ。河内は掴んだ襟ぐりを離すまいと片手にありったけの力を込めたが、Tシャツの生地が伸び、やがて破れた。いっさいの障害から解放された孝司は飛翔した。数秒にも満たない初めての快楽だった。その刹那は永遠に続くように思えた。永遠の中で彼は自分の誕生を見た。母親の性器から現れた自分は猿のようだった。人生で、最初で最後の走馬灯は己の誕生から始まった。羊水をたっぷり浴びていた自分の過去とシンナーをたっぷり浴びている現在の自分の間に大した違いはないのではないのか。それから幼い自分の微笑ましい姿を見ていた。ホームビデオのようにところどころで視界がざらついた。やがて脳内に広がる一大パノラマの中で、彼は小学生になり中学生になり高校生になった。小学校中学年あたりからそれは映像から写真になった。ピクチャーショーだった。静止画がスライドのようにどんどん入れ替わっていく。現在に近付けば近付くほど画像は鮮明になっていた。やがて自慰をしている自分の写真が現れた。それから視線を外した瞬間、孝司は血塗れになった。頭が割れて、脳漿が飛び散った。
「死に急ぎやがって。ほんと、どうしようもなんねえ野郎だよ」
 捨て台詞を吐いて、河内は非常階段を降りた。二車線の道路に即頭部を置いた死体があった。脳味噌が吐瀉物のようにぶちまけられていた。少年はぴくりとも動かない。即死だったのだろう。あるいはそれはそれでよかったのかもしれない――中途半端に生かされるほどの悲劇はないのだ。
 河内は無線機を手にとって、口元に近づけた。自殺志願者を発見、静止を振り切り、飛び降り即死。簡単に説明すると、血の広がるアスファルトから離れ、電信柱に背中を預けた。胸ポケットからペンライトを取り出して、しばらくの間割れた頭を観察していた。即頭部を構成する管がぶちぶちと途切れてしまっている。管の中を流れる血液や体液が溢れている。河内には怒りや憎しみの感情がこぼれだしているように見えた。それが気化して、人間は死ぬ。



 たかだか数百円の時給をちまちまとためこむのに嫌気がさしたから、美人局をしてみようと思ったのだった。出会い系サイトの存在はとても好都合だった。悦子にメールを送ってきた数人の馬鹿どもの中から数人を選び、メールの交換を続けた。二週間ほどで露骨に食らいついてきたのが自称大学生のヤマサキケイジだった。ヤマサキが大学生であるかは文夫にとってはどうでもいいことだった。大事なのは金を持っているか、そして弱そうな男であるか。その二点だった。出会い系に手を出している上に、頻繁にセクシャルな話題を持ち出す時点でもうほとんど男として終わっていると文夫は感じた。彼は逐一悦子に送られてくるメールを読んでいた。たまに腹を抱えて笑った。大輔はさすがにひいていたようだったが、成功のあかつきにはとりあえず三人で豪快に飲み食いしようと思っていた。金の使い道はそれくらいしか考えていなかった。
 二人はラブホテルにいた。日暮里の駅前にある薄汚い外壁のホテルだったが、内部は意外にも小洒落ていた。悦子は大きなベッドの端にちょこんと座り、ヤマサキ宛のメールを作成していた。暗い室内に携帯電話の液晶がぼんやりと浮かび上がっていた。そして天井には天の川を模した絵が描かれていた。それは蛍光塗料のようなもので塗られていて、まるでプラネタリウムのように発光していた。見上げている文夫に気づいた悦子は同じように天井を仰いだ。「わあ」と嬉しそうに声を発した。文夫が室内の照明を強くしようとすると、とたんに不機嫌になった。
「何だよ。へそ曲げんなよ」
 と、文夫は後ろから彼女の方に手を回した。鎖骨に触れた。「文夫」と悦子が言った。
「明るくしないでね」
「テレビは?」
「うん。いいよ」
 悦子は一度も文夫の顔を見なかったが、全ての体重を彼に預けていた。肩甲骨が彼の胸部を撫でていた。
 文夫は枕元に置いてあったリモコンに手を伸ばした。空調や照明を調節する機材に立てかけるように置いてあったそれは昔のSF映画の小道具みたいに四角張っていて、分厚かった。早速テレビの電源を入れると、ブラウン管の中では全裸の男女がまぐわっているところだった。
「ばか」
「うるせえなあ。いいじゃねえかよ」
 文夫はチャンネルを回していたが、結局アダルトビデオを流しているチャンネルでその指を止めた。手持ち無沙汰に見ているだけだったのだが、下半身が熱を帯び始めていた。文夫は憎々しげに舌打ちをした。
「どうしたの?」
「何でもねえよ」
 苛立ったように答え、もう一度「何でもねえんだよ」と吐き捨てた。赤ん坊みたいにそっと寄り添ってきた悦子に触れられた途端、彼の性器は萎えた。彼女の髪を撫で、文夫は大きく長くため息を吐き出した。わざとらしいほどに。
 日暮里駅前にあるファミリーマートで夕食と朝食を買い、ラブホテルの受付で宿泊料を払ったら、文夫の財布は信じられないくらいに軽くなった。今悦子はビニール袋の中からバナナを取り出して、食べている。コンビニでたまにバナナを売っているのを見て、はたして誰があんなものを買うのだろうかと思っていたのだが、自分の恋人がそうであるとは想像もしてなかった。しかし悦子はうまそうに食っている。つられるように文夫も食ってみる。適度な歯応えと濃厚な甘味が口内に広がった。一八〇円なら安いものだな――と文夫は思ったが、スーパーマーケットなどで一房数十円で叩き売られているのを彼は知らない。当たり前のことながら、彼はバナナの相場について無知だった。食い終わって、文夫はバナナの皮を適当に投げ捨てた。どうせ自分の部屋ではないし、掃除だって仕事の一つなんだろうから構わないだろうし、とんでもない変態プレイの痕跡が残っているのに比べれば、バナナの皮なんてかわいいものだろうと勝手に決め付けた。悦子も真似をして、バナナの皮を投げ捨てる。文夫は少し後悔してしまう。悦子にはだらしない真似をしてもらいたくないと常日頃から思っていた。
 のこのことホテルにやって来たヤマサキケイジはメールでは大学生という話であったが、見た目は中年の男だった。髪は薄くなっていて、小太りだった。悦子と文夫を目に入れて、しきりと不思議がる。「おかしいなあ。君だれ? 男の子いるなんて聞いてないよ」と文夫に話しかけてくる。アルコールが入っているようで、声が少し裏返っていた。酒の力に頼らなければ援交の一つもできねえのか――文夫は顔を歪める。それから少しだけ心が軽くなった。こういうどうしようもない大人でよかったと思った。ためらわずに金を巻き上げられる。気が楽になる。隣の悦子を見る。瞳に怯えの色が混ざっていた。文夫は悦子の前に手をかざして、「おっさん」と口を開いた。
 渋谷や代官山のようなところにあるラブホテルでは許されないことなのかもしれないが、二人が利用している日暮里のラブホテル『ペドロパラモ』では木戸銭さえ払えば途中入場も途中退場も持ち込みも、とにかく何でも許可された。三人、四人と利用者が増えるごとに宿泊や休憩の値段が上がっていくラブホテルもあるが、『ペドロパラモ』ではそのようなこともなかった。だから文夫は安心してヤマサキケイジを呼び出したのだった。その旨を伝えておいたから、ヤマサキケイジも安心して来たのだろう。心底馬鹿だ。状況を飲み込めていないヤマサキケイジには年長者の威厳も糞もなく、酔っ払った、ただの丸腰の猿だった。
「あんた騙されたんだよ。俺たちに。わかってないのか?」
「僕が? 騙された?」
「美人局って知らないの?」
「何を言ってるんだ君は。出てってくれ。僕は彼女と約束したんだ。君が悦子ちゃんだろ。僕にはわかるよ」
「そいつは俺の彼女なの」
「だからどうしたんだ。僕は君とは何の約束もしてないし、聞いていない。僕は彼女と」
「うるせえなあ。信じらんないくらい阿呆だな。生きてる価値ねえよ。少し考えりゃわかんだろ。あんたははめられたの。俺たちに。わかんねえかなあ」
 文夫は頭を抱える。酔っ払っているからなのか、それとも元からこういう思考回路なのかは判断できないが、理屈が通じていなかった。力で反抗されるかもしれないとは覚悟をしていたが、話の通じない馬鹿がやって来るとは思ってもいなかった。そして言葉が通じないのなら、殴るしかないと思った。短絡的な思考ではあるが、他に手段は選べないし、不安げな悦子の顔を見るのは辛かった。
 しかしそれは彼の犯した過ちになってしまう。大の大人だから構わないだろうと、予告なしで顔面を殴った。男はふらついて二歩三歩後退し、落ちていたバナナの皮で足をすべらせて転倒した上に、頭を柱にぶつけて昏倒した。文夫は無意識に「あ。やべ」と声を出す。
「おいおい。バナナで滑る奴初めて見たぜ。おい、おっさん。平気か?」
 ヤマサキケイジは答えない。ぴくりとも動かない。
「え。嘘だろ。おい」
 足でうつ伏せの男を突っつくが、動かない。肩は辛うじて上下しているが、かすかに聞こえる呼吸音はひどく頼りなかった。
「まじいぜ」
 文夫はとっさに男の身体をまさぐり、財布を見つけ出す。中には福沢愉吉が何人もいた。ほくそえんで全て抜き去り、振り返る。「悦子すげえぞ。十万くらいある」と笑いかけると、怯えの表情が消えた。
「十万円?」
「十万とんで三千円でございます。じゃ、帰ろうか」
「うん」
 何か重荷から解放されたような悦子を見て、文夫はほっとする。これだけで十万とはちょろいものだが、もう一度やるかと問われれば、考え込んでしまうだろう。悦子の不安の表情は彼の喉を締め付ける。
 受付の無愛想な中年女に「もう一人朝までいますから」と言い残し、ホテルを出た。周囲は雑多な飲み屋や風俗店の並ぶ路地だった。文夫は悦子の手を握り、駅へ向かう。悦子はぴったりと寄り添い、文夫と全く同じ歩調で隣を行く。通行人は酔いどれや中年の男女が多かった。渋谷のラブホテル街とは一味も二味も違っている。
 大輔を電話で呼び出して、何か食いに行くかと思い、携帯電話を引っ張り出したところで人にぶつかった。ラブホテルから出てきたカップルだった。ラブホテルの入り口はどこも一様に出入りを隠すように設計されているため、文夫には男女がいきなり壁の中から現れたように感じられた。
 俯けていた顔を上げると、二十代中盤くらいの目つきの悪い男とまだ幼さの残る少女がいた。文夫は頭を下げて素通りしようとするが、悦子が「由美ちゃん」と声をかけた。少女の方が目を驚いて見開いた。「川田さん?」。
「うん」
「あ、菊地君」
「西田さん?」
 クラスメイトの西田由美子がそこにいた。隣の男は何も言わずに、二人をじっと見ている。姿形を思い出そうとしているように文夫には見えた。嫌な汗がじんわりと肌を湿らすのを感じた。
「俺、君たちと会ったことあるかな。何か見覚えがあるんだけど」
 声を聞いた瞬間、文夫はその男がいつか隅田川で追いかけてきた警官であると直感した。低く通る声はあのとき聞いた「待ちやがれ」と全く同じ声質を持っていた。
 だから文夫は悦子の手を引いて、何も言わずに駆け出した。



 JR浅草橋駅で降りて、隅田川へ向かってビルとビルの間をくぐりぬけていくと、シャッターの下りたコンビニエンスストアにぶつかる。数年前に店主が失踪して以来そのままになっている店で、夜になるとどこからかやって来た中学生や高校生がたむろすることで地元では有名になっていて、早く潰して何か別の店なり公園なりを作ってしまえばいいのだという話になっても、土地の権利の関係上なかなかことがスムーズに進まずに、結局現在までその話は頓挫したままであるというのがもっぱらの噂だった。シャッターには大きな落書きがあり、朝になると空き缶や煙草の吸殻や食い散らかしたカップラーメンなどが散乱していて、からすにとってはいい餌場になっている。近隣の住民は泣き寝入りをしていた。度々警察に被害を訴えたが、重い腰はなかなか上がってはくれなかった。
 そのコンビニエンスストア跡地にたむろする餓鬼どもは犬猫畜生にも劣る存在で、害にしかならぬ、縛り上げてさらしものにしてしまえば、幾許か社会への貢献になるのではないのか――河内宗俊は心の底にある黒い衝動を抑えきれずに、夜にいた。ビルの陰に彼は混ざり込んでいた。数歩歩けばコンビニエンスストアの裏に出る。正面では屑どもがどんちゃん騒ぎだ――裏には俺がいる。河内は特殊警棒の感触を確かめる。ほどよく手に馴染んでいる。
 彼らは河内の革靴の音に全く気づいていないようだった。河内はコンビニエンスストアの陰に隠れ、彼らの様子を窺った。男が四人、女が二人。いずれも子供のようななりをして、けらけら笑いあっていた。先日隅田川で乞食を襲撃していた三人組とは別の集団だった。河内は一番近くにいた少年に近寄ると、警棒で右頬を思いっきり殴打した。少年は衝撃に耐えられずごろごろと地面を転がり、何が起こったのか少しもわかっていない様子で「え? 何? あれ痛え。何だこれ」とまごついていた。河内は尻餅をついたままの少年の顔面を爪先で蹴り飛ばした。少年は真後ろに倒れて、パーキングブロックに後頭部をぶつけて昏倒した。すぐ近くで花火に火をつけようとしている金髪の少年が凍りついていた。河内は彼に早足で近付き、花火とライターを奪い取り、点火してから背中に差し込んだ。白いタンクトップが派手に輝いた。ぎゃあぎゃあ喚きながら両手を背中へ伸ばす。河内は無防備にさらされた鳩尾に拳骨を捻じ込んだ。一瞬彼は熱さを忘れて、膝から崩れ落ち、動けなくなった。熱さは戻ってきていた。しかし身体はいうことをきかず、呼吸を取り戻すので精一杯だった。
 二つの攻撃は充分すぎるほどの影響を彼らに与えた。残りの四人は一様に呆けていた。二人が何故に倒れたのか理解できていなかった。動けないでいる四人の中央に歩み出た河内はライターを地面に叩きつけた。プラスティックが弾けて、止まっていた四人の時間が動き出す。
まず長い髪の少女が一人逃げた。河内はそれを阻もうとしたが、思いの他滑らかだった黒髪を掴みそこなってしまう。彼女はヒールの高い靴を脱ぎ捨て、転びそうになりながら夜の町に消えていった。他の三人はそれを茫然と見送る。河内は少年の肩を叩く。振り向いたところを警棒で殴る。鈍い音に反応したもう一人の少年は腰砕けの状態でありながら、言うことを聞かない腰から下を引きずりながらあとずさって、ばねのように反転し、駆け出した。助けに呼びに行くのではなく、この場から姿を消したのだ。河内はそう思った。あの餓鬼は戻ってはこない。
「お前ら、見捨てられたんだぞ。わかってんのか。わかんねえよな。屑だからな」
 肘を突いて起き上がろうとしている少年――沢口義男のこめかみを蹴りとばす。少年はごろごろ転がって、咽た。河内は唯一手を出していない少女を見る。少女は腰が抜けたような体勢になって、奥歯をがちがち鳴らしながら、ことの行方を見ていた。尻餅をついている地面に染みが広がっていた。失禁するくらいだから、あの少女には逃げ出す根性などないだろう――そう確信し、警棒で仰向けに倒れた少年の額を殴った。
 複数の足音が聞こえた。一人は河内に焦げた背中を見せていて、もう一人は顔を見せていた。葛西恭平は河内に飛びかかり、彼を地面に倒すことに成功した。背後からタックルを受けた河内はそのままの勢いでうつ伏せに倒れる。葛西恭平は攻撃の手を緩めず、臀部を踏みつける。続けて蹴りを食らわそうと振りかぶった瞬間、河内の右手が彼の軸足を払った。勢いよく転倒し、形勢が逆転する。汚れたコンクリートで顔を擦った河内はひりひりと焼けるように痛む頬や鼻の頭をさすりながら、仰向けになった葛西恭平の腹部に腰をおろす。
「ありがとうよ。これで正当防衛だ」
「あんたが先に手え出したんじゃねえか」
「そうだよ。でもどっちを信じるんだろうねえ。夜中に花火で遊んでるくそ餓鬼どもと警察官」
 葛西恭平は言葉を失った。
「手前らの言うことなんか誰も信じねえんだよ。そんなこともわかんねえのかよ。救えねえな」
 色を失った少年の顔に唾を垂らし、河内は一撃一撃を確かめるかのようにゆっくりと顔面を殴った。鼻が折れて、口内が何箇所も切れた。顔のいたるところが青黒く変色した。涙がそこをつたう度に葛西恭平は痛みを感じるのだった。
 抵抗しなくなった少年を捨て、河内は沢口義男に再び近付いた。彼は立ち上がって、河内を睨みつけていた。手には折り畳みナイフが光っていた。
「ナイフかよ。女々しいやつだな。拳で勝負できねえのかよ。できねえな。弱虫だもんな」
 その言葉にキレた沢口義男は握りしめたナイフを突き出し、突っ込んできた。河内から受けた暴力の影響があるのか、その動きはひどく散漫で、河内にとっては避けるのもいなすのも容易だったが、彼はその一閃を甘んじて受け止めた。河内の右頬に傷が走って、血液が垂れた。
 それを見て、沢口は「ひい」と引き攣ったような声を上げた。手先が震えていた。河内はナイフを握った手のひらを蹴り上げた。銀のナイフはフリスビーのようにくるくると回転しながら飛んでいき、どこかのパーキングブロックにぶつかって止まった。
「ほっぺた切っただけでびびってんのかよ。やる気がねえんなら得物なんか出すんじゃねえよ」
 河内は膝を鳩尾に叩き込んで、体勢を崩したところを狙い、首を特殊警棒で殴った。葛西への攻撃のおかげで両の拳は軽く麻痺していた。
「殺さないよ。お前らみたいな屑どもは一生馬鹿みたいに働いて、社会に尽くすべきなんだと俺は思うわけだよ。お前らの納める税金で俺はお前らみたいな糞野郎どもを取り締まってんだから」
 再び日に身体を沈めた沢口の顔面を踏んで、投げ捨てた煙草でも消すみたいに足首を動かした。それから体勢を全く変えていない少女を見る。視線を投げつけられただけで、少女――西田由美子は肩を震わした。彼女は泣いていた。顔を饅頭みたいにしわくちゃにして泣きじゃくっていた。
「おい、お前。こいつらと一緒に補導されたいか。助かりたいか」
 西田由美子は首を振るばかりで、どちらを選択しているのかまったくわからなかった。それが癪にさわった河内は彼女の頬を引っぱたいた。
「どっちだよ。答えろ。口で言え」
 「いや。いやです」と西田由美子は震える声で言った。言葉に涙が混ざっていて、聞いた傍から意味が薄れていった。こいつもどうしようもならんなあ――河内は帽子をかぶり直す。「携帯持ってるか」と問うと、弱々しく頷く。そのまま何もしないので、「出せよ!」と怒鳴る。「ちょいと考えりゃわかんだろ。足りねえのか。おつむが」。
 西田由美子は恐る恐るスカートのポケットに手を突っ込み、ストラップを大量に結び付けている携帯電話を取り出した。手渡されたそれはかすかに湿っていた。河内がその原因が漏らした小便であることに気づくのに大した時間はかからなかった。「おお汚え」と呟きながら、その携帯電話の番号をメモする。
「そのうち電話するから、今日はもう帰れ。帰っていいよ。汚えからよ」
 目を見開いたままの西田由美子は這うようにして帰っていった。脱げてしまった片方の靴や鞄はその場に放置されたままだった。全く手のかかる女だ――河内はそれらを拾い、店の裏手の方にまわって、隠した。
 コンビニエンスストアの正面に戻ると、二人の少年は仲良く並んで倒れていた。沢口の方が葛西の元に這い寄ったようだった。葛西の肩をさすっていたが、全く反応していない。逃げようともしねえでおめでてえ奴らだよ――と河内は口元を歪ませた。足音を耳に入れた二人は、きっと河内を見る。あれだけ殴られてよくもこんな元気が出せるものだ。その執念を勉学なり部活動なりにぶつけられればあるいは――そこで河内は頭を振った。この屑どもに同情の余地はおそらくない。
「あんたお巡りの癖に何考えてんだ」
「何も考えてねえよ」
「ただじゃおかねえぞ。気違い」
「だったら今やれよ。まだ元気あんじゃねえのか。それともあれか。口だけか。手前らはいつもそうだな。口ばっかで何もできやしねえ」
 「てめえ」と叫んで立ち上がったところを、警棒で殴った。鼻骨が折れる音がした。真っ赤な血液をだらだらと流しながら、葛西の上に重なるように倒れた。狙うのは容易だった。沢口の動きは亀のようにのろく、何の計算も立てずにただ河内をめがけて拳を突き出しただけに過ぎなかった。
「お前らが何言っても、悪いのはお前らになるんだよ。わかってんのか。無駄な抵抗ってやつだな。俺をどうにかしてえんなら、化け物の一匹でも連れてきやがれ。手前らみてえなへたれにゃどうにもできねえよ」
 河内は残された花火のパックや水の入ったバケツを集める。飲み物や食べ物の詰め込まれたどこかのコンビニエンスストアのビニール袋の中にはトルエンの壜や合法ドラッグの類もあった。それを見て、河内は苦笑する。
 彼は無線を手に取った。その行動を通して先日の投身自殺を思い出してしまい、少しだけ嫌な気分になったが、その思いもすぐに消し飛んだ。無線機は故障していた。うんともすんともいわず、熱を発しもしない。体当たりされたときかもしれないな――すぐに理由を探り当てた。そして一つの事象に突き当たる。自殺した少年はトルエンを頭から被っていた。その後の警察の調べで彼はいじめを受けていたとすでに明らかになっていた。この屑どもが無関係とも言い切れない。
「お前ら、こないだ自殺した餓鬼知ってるか?」
 二人は答えない。だんまりを決め込んでいるのではなく、口を動かすのも苦痛のようだった。河内は唾を吐く。
「まあ、いいや。関係ねえしな」
 河内は二人に近付いて、再び数度蹴りつけた。呻き声を漏らすだけで、いっさいの抵抗はなかった。河内は胸ポケットをまさぐって、ビニールの小袋を取り出した。それを無抵抗の少年に握らせる。沢口も葛西も自分が何を持たされているのかわかっていなかった。真上から聞こえる河内と誰かの通話からそれが何であるのかの見当をつけたが、どうでもいいことだと思った。
「無線機壊されちゃって。はい。傷害、銃刀法違反、麻薬所持ってとこですかね。二人はシメたんですけど、四人逃げられました。すいません。すぐ応援来てくださいよ。え? ああ、はい。二人は大丈夫です。ぼこぼこにしときました。はい? はい、大丈夫っすよ。だって俺顔切られたんですよ。しょうがないじゃないですか」
 河内は折り重なった二人の上に座った。肉の椅子で彼は煙草を吸った。一仕事した後の一服は至福の味だ――一つ屁をこいて、笑った。



 すぐさま電車に飛び乗れたのは、あらかじめ切符を買っておいたからだった。メールでのやりとりのみであったからどんな男が現れるとも知れぬので、滞りなく逃げられるように、日暮里駅の改札を抜けてすぐに切符を購入したのだった。文夫は自分の頭の切れの良さに感心する。ホームには入ってきた電車は山手線内回りだった。本来は秋葉原でJR総武線に乗り換えなければ家に帰れないのだが、二人は構わずそれに飛び乗った。池袋や新宿や渋谷に用事があったわけではないが、無駄な時間を過ごすのも悪いものではないと思った。車内は空いていた。二人は車両の一番はじっこの、三人掛けの椅子に睦まじく座った。間もなく、頭を文夫の肩に預けて、悦子はこっくりこっくり眠ってしまった。文夫は週刊誌の中吊りを見ながら、悦子の携帯電話を睨みつけていた。もしかしたらあの男からの連絡があるかもしれないと内心びくついていたのだが、携帯電話はうんともすんとも言わなかった。やがて緊張も解け、文夫は自分の電話から大輔に首尾よくいったとメールを送った。
 両国駅で降りて、墨田川沿いを歩いていた。特に用事はなかったが、帰宅する必要も感じられなかった。悦子はぴったりと彼に寄り添って、鼻歌交じりに歩いている。一時間近くの間電車に揺られて眠っていた悦子は元気いっぱいといった按配だった。旧安田庭園の脇を通り抜けると、蔵前橋が見えてくる。昼間は短い散歩コースの体を示しているが、夜は少し不気味だった。
 文夫の安いビニールの財布には今十万円以上の金が入っている。財布そのものの十倍二十倍以上の額だった。そう思うと少し身体が震えた。ひょっとしたら俺はとりかえしのつかねえことをしてしまったのかもしれねえが、もともと俺も悦子も手遅れみてえなもんだったんだから、今さらどうとも思わずに、なるように任せておけばいいんだろうが、そううまくもってけねえもんだなあ――複雑な思いが渦を巻いていた。
 とりあえずは何かうまいものでも食おう――文夫はそう決めていた。大輔に送ったメールの返事はまだ来ない。大輔のことだから、自分たちを探し回っているのかもしれない。頭上の首都高速を走る車の騒音がその夜に限ってやけに耳障りだった。
「悦子。焼肉としゃぶしゃぶと寿司ならどれがいい?」
「お蕎麦食べたい」
「安上がりな女だな。もっといいもん食おうよ」
「ビーフン」
「だから日頃食えないもんにしようって」
「はなまるうどん」
「麺類ばっかだな。はなまるうどんなんかいつでも奢ってやるよ」
 奢ってやると聞いて喜ぶ悦子に文夫はそれ以上何も言わなかった。無邪気に喜ぶ彼女の姿を見ているだけで満足だった。どこに行くかは大輔と相談すればいい、どの道彼女はついてくるし、何を食べても最終的には必ず満足するのだから――何を食べに行くか、結局は大輔の返信待ちだった。
 厠橋の中央部分で二人は立ち止まった。若者の襲撃に怯える浮浪者たちでさえ眠りについてしまいそうなくらいに深い夜であるように文夫は思えた。実際彼にも少々の眠気があった。夜には慣れているはずなのに、不思議と身体が睡眠を欲しているようだった。疲れているのだろう。かつあげや万引きから一つレベルを上げた罪を犯して逃げてきたところなのだから。罪だ――唇だけを動かしてみると、自分がとんでもない大罪を犯したような気になってしまった。文夫は携帯電話でインターネットのニュースサイトを見る。ニュース速報、社会一覧という項目の隅々に目を通すが、ラブホテルで死体発見というニュースはなかった。ほっと胸を撫で下ろした瞬間に着信音が派手に鳴って、文夫は携帯電話を落っことしそうになってしまう。うなぎでも掴むみたいに電話を握りしめる文夫を見て、悦子が声を上げて笑う。
「何だよ。笑うなよ」
「文夫、私、海に行きたいな。ご飯は別にいらないから」
 はにかむようにそう言う悦子の見ていると、それもいいなと思え始める。
 照れくさそうに頭をかいて、液晶画面を覗き込む。新着メールが一通と表示されている。開くと『今どこにいんのよ』というシンプルな文面があった。大輔はメールを打つのが面倒くさいと常日頃ぼやいていて、自分が打つときは本当に短い、千切りみたいなメールになる。伝われば問題ないと彼は開き直っていて、殺風景な本文でもそれはそれで個性なのかもしれないなと文夫もあまり気にはしていなかった。文夫自身も返信メール作成が面倒くさかったので、すぐに電話をかけた。すると呼び出し音もそぞろに興奮した様子の大輔が受話器越しにまくし立ててきた。
「いくら? いくらだったの? すげえなあ。文ちゃんまじすげえよ」
「ああうるせえうるせえ。耳元でがなんなよ」
「どこにいんの? 行くよ、すぐ」
「今、厠橋。お前は?」
「俺今亀戸。バイト終わったとこ」
「じゃあ、あれだな。くるわ橋の袂にいるよ。首都高の下んとこに」
「わかった。すぐ行くよ。原付だからまじですぐ」
 通話を終えて、文夫は携帯をジーンズのポケットにしまった。二年くらい前に買った代物で、いい具合に色落ちしている。買った当初はだぼだぼだったが、背が伸び身体もがっちりしてきた今はちょうどいいサイズになっている。膝小僧のところに開いた穴から時折風が入ってきて、夏の暑さを和らげくれていた。
 段ボールの家が並んでいる遊歩道に辿り着いたとき、男の姿が見えた。最初はホームレスのたぐいかと思ったが、違った。男は立ち塞がるように橋の袂に立っていた。「見つけたぞ」という低音の発声はまさにあの男だった。声を聞いて、文夫は絶望的な気分になった。どうしてこうなってしまったんだろう。見つかるにしても早過ぎる。もう少しモラトリアムを味わっていてもいいんじゃないのか神様――文夫は天に唾を吐きかける。
「逃げきれると思ってたのか。信じられん馬鹿だな。お前らみたいな単細胞は同じとこに集まってくるんだよな、たいてい。こことか、あの腐ったコンビニの前とかよ」
「うるせえ、お前だって馬鹿だろ」
 そう吐き捨てて、文夫は悦子の手を取り、一目散に橋の向こう側へ走り始めた。しかし、段差に躓き体勢を崩し、しまいには悦子ごと転んでしまう。それを見た河内宗俊は転んだ二人に近寄って、思いっきり嘲笑った。文夫はすぐに半身を起き上がらせて、河内と悦子の間に身体を滑り込ませる。彼の目線から悦子を守るかのように。そして言う。
「あんた、何なんだよ。俺がなんかしたって言うのか。何もしてねえだろ」
「本当に何もしてねえのか」
「してねえよ。日暮里くんだりうろついてて、何ができるってんだよ。いい加減にしろよ。警察だからって何でも許されると思うなよ」
「おうおう、威勢がいいや。じゃあ聞くが、何で手前ら逃げたんだ。やましいことがねえんなら、逃げる必要なんかねえだろう」
「あんたが追っかけて来たからだろ。あんたみたいなでっかいのに追っかけられたら誰だって逃げるだろ」
「ああ言えばこう言う。いちいちうるせえ小僧だな」
 コントラバスのような声だった。河内は一歩前に出て、文夫の踝を踏みつけた。軽く立てていたいきなりの圧迫にほんのり捻じ曲がり、すぐに激痛が彼の神経細胞を恐慌状態に陥れた。折られた――と一瞬は思ったが、膝下の感触は激痛に隠れながらも確かにあって、捻挫程度で済んだのかと場違いにも安堵した。背後の悦子が「やめてよ」と泣きそうな声を出す。
「ちくしょう。あんた警察の癖に。ちくしょう。俺が何したってんだ。言ってみろよ!」
「知らねえよ。知らねえが、手前は何かしらやってんだろ」
「誰だって何かしらやってるぜ。真っ白い人間なんてどこにいるんだ。ああ? いねえよ」
 よくもまあ口からでまかせを次々と――文夫は頭上を仰いで、軽くにやけた。絶体絶命の状況ではあったが、どうにかなるのではないのかという根拠のない希望があった。左膝はべらぼうに痛んだが、それでもまだ生命は彼の血管の中を走り回っていたし、そもそも警察官は自分を怖気づかそうとしているだけで、殺そうとしているわけではないと見当をつけていた。
 問題は補導だった。例え一時的なものであっても、それだけは避けたかった。
 河内は文夫の胸倉を掴んで、顔面に一発拳を叩き込んだ。
「小賢しい猿だな。手前もどうせ口先だけの空っぽなんだろ。ったくよお、生きてるだけ無意味だっつうの」
「生きようが死のうが俺の勝手だろ。あんたに口出しされたくないね」
 そう言って、口の中に溜まった血液を河内に向かって吐き出した。河内は瞳を閉じて、動きを止める。そのときがりがりと彼の腰元から音がした。文夫のTシャツを離し、制服の袖で顔を拭い、河内は無線を手に取った。小声で何事か話しているが、曖昧すぎて何を言っているのか、文夫には全くわかっていなかった。鼻血と口内の出血のおかげで、呼吸が少し困難になっていた。
「高校生くらいの男女が逃げた。そうすか。はい。わかりました。気をつけます」
 無線を切って、「日暮里で」と呟く河内を見て、全てが露見したと直感した。しかし逆に言えば、今文夫の行いを知っているのは河内だけということになり、この目の前の男をどうにかすれば、まだまだ猶予期間を過ごせるのではないかと思ったが、それはおそらく最大の難関だった。一八〇くらいの男をやり過ごし、少なくとも片足を捻ってしまっている状態で、泣きじゃくる少女を連れて逃げられるのかと問われれば、否と答える他はない。
 しかしどうにかしなければ、ここで襤褸雑巾のようになった挙句、補導だ。
「あんた、さっき一緒にいたの西田由美子だろ。知ってるぞ」
「だからどうした。名前なんざ知らねえよ」
「俺は知ってるぞ。クラスメイトだからな。いいのかよ、警官が援交なんかして」
「援交じゃねえよ。示談だよ」
「はあ?」
「いちいちうるせえよ。俺のことはどうでもいいんだよ」
 もう一度胸倉を掴み、河内は粘性の強い唾液を文夫に垂らした。
「小生意気な餓鬼だ」
 と吐き捨てたとき、文夫は力を振り絞って「大輔!」と叫んだ。鈍い音がして、河内が倒れる。制帽が飛んで、隅田川に沈んでいった。倒れた河内の向こう側に、パイプ椅子を持った小林大輔が立っていた。
「文ちゃん大丈夫?」
 恐る恐る訊ねてくる大輔に文夫は「何とか」と弱々しく答える。
「何だよ、その椅子は」
「いや、あっちに並んでた奴失敬してきた。花火大会あるじゃん。それのじゃねえ?」
「あ、なるほど」
 ふと文夫は背後の悦子を思い出す。忘れていたわけではなかったが、自分の痛みを優先していた。振り返ると、体育座りで泣きじゃくっている少女がいた。文夫はそっと肩を抱いてやり、背中を二度三度撫でてやる。
「おい、悦子。もう大丈夫だって」
「何が大丈夫だって?」
 背中を蹴られて、二人はごろごろと地面を転がった。破れたジーンズから露出した膝小僧がすれて、うっすら血が滲んだ。慌てて振り返ると、河内が立ち上がっていた、その背中越しに驚いて腰を抜かしている大輔がいた。
「呑気過ぎんだよ手前ら。さっさと逃げんのが筋ってもんじゃねえのかよ」
 怒りのせいなのか、言っていることが文夫には理解できなかった。彼が驚きのあまり声を失っていると、我に帰った大輔が、河内の両足を掴んでいた。
「離しやがれこの糞餓鬼」
「逃げろ。文ちゃん」
「でも、お前」
「いいんだ。俺こいつに用あるし」
「え?」
「沢口たちぼこったのこいつなんだ、俺知ってる。だから」
 そこで息を大きく吸って、
「こいつだけは許せねえんだよ。だから早く逃げて。あとは俺が」
「なめんじゃねえぞ」
 大声を張り上げた大輔の頭部に拳骨を食らわし、彼の両腕を引き離そうとするが、大輔の手はスッポンの口のようにしつこかった。 「文ちゃん。早く。どうせ夏休みだし、盆時だし、一週間くらいどっか遊びに行っちまえ」
「悪ぃ、大輔」
 文夫は足を引きずりながら歩き出す。両手で顔を覆って、幼児のように泣いている悦子の背を押し、浅草方面へ消えていった。
「離さねえか!」
 河内は全身の力を両足に集中させて、大輔の両手を振り払う。そして欄干に背中をぶつけてうずくまる大輔の頭にかかとを落とした。
「野郎。なめやがって。大した勇気だな、おい」
 痛みは否応なしに大輔の意識を覚醒させた。立ち上がって、当て身を食らわす。パイプ椅子での一撃が効いているのか、河内の動きに躍動感はなかった。
「お前なんで沢口たちをシメたんだ。俺聞いたんだ。気違いの警官にやられたって。お前だろ。お前しかいないもんな」
「手前に関係ねえだろう」
「関係ねえよ。お前みたいな奴は許せねえんだよ」
「俺だって手前みてえなのは許せねえさ」
 隙を見て大輔は転がっていたパイプ椅子を掴む。そしてそれで河内の額を殴りつけた。額が割れて、血液が鼻の頭を境に二つの川を作った。大輔は攻撃の手を緩めない。肩口を殴り、腹部を蹴り上げ、もう一度頭部にパイプ椅子の足を叩き込んだ。それでも河内は倒れなかった。義経を守りために仁王立ちのまま死んだ弁慶の伝説もあながち嘘とは言い切れないのかな――そんなことをふと思った。
 最後にパイプ椅子を投げつけると、ようやく河内は地に沈んだ。肩で息をする大輔は慌てて携帯電話を取り出して、文夫宛のメールを作成する。『返信ご無用。グッドラック』と本文に打ち込み、送信する。液晶画面の中で、犬の郵便配達員が手紙を咥えて駆けていった。
 一息ついて、原付を置きっ放しにしておいたビルの隙間に戻ろうと元来た道を歩き始める。河内の背後に近寄ったとき、足音は首都高速からの騒音に紛れていた。たまにはいいこともあるもんだと上空を仰いだ瞬間、彼の足を誰かが掴んだ。くそったれ警官――と直感した。橋の上には他に誰の姿もなかった。
 見下ろすと、血塗れの顔をした警官が彼の足首を掴んでにやけていた。執念だけで動いているように見えた。寸前まで異常な興奮状態にあった大輔だったが、一度河内を倒したことによって、緊張は解けてしまっていた。だから彼はすくんでしまった。まるで恐怖映画の一場面みたいだった。河内のては足首から膝、腰、胸部と、徐々に彼の身体を這い上がってくる。鮮血を流し、意識だって半分は失われているような彼をここまで駆り立てているのが一体なんであるのか、大輔は想像もできず、する余裕もなかった。自分よりも大きな男に、蛇のように絡まれている。
 無骨な指が彼の頬に達した。瞬間、彼の感情が沸騰した。大輔は警官の頭を掴んで、鉄の欄干に何度も何度も叩きつけた。河内は声を漏らさなかった。気を失っていたのかもしれなかった。しかし大輔の恐怖は収まらず、河内の身体を担いで、川に放り込んだ。真っ黒い水面が波打って、波紋が満月のように大きくなって、やがて消えていった。
 男の思い身体を投げた反動で、大輔は厠橋の真ん中に尻餅をついた。やっちまった、停学とか退学じゃすまねえ、へたしなくても少年院、絶対しばらく出てこれねえし、俺の一生終わったな――と様々な思いが去来した。それでも後悔と同じだけ、愉快な気持ちもあった。くそったれお巡り、くたばりやがった。ざまあみやがれ。
 とぼとぼと歩いて、原付を止めておいたビルへ向かう。しかし不法駐車したところまで行く必要はなかった。ほとんど無音の路上の真ん中に、残骸と化した彼のバイクが転がっていた。慌てて駆け寄って、様子を確かめる。どこから直せばいいのかもわからないくらいの有様だった。一体誰が――と周囲を見た瞬間、ようやく事情を飲み込んだ。彼は殺気立った浮浪者たちに囲まれていた。一言の弁解も発することができぬままに、彼は後頭部を殴られ昏倒した。
 大輔が気を失ったころ、水の中に落とされた河内は意識を取り戻していた。真夏といえど、川の水は冷たかった。昼間ならまだしも、夜には熱がなかった。冷水をかけられたような感覚を抱いて目を開くと、すぐにヘドロで汚れた水が目に入り、開いていられないほどだった。彼はパニックを起こさぬように細心の注意を払い、水面まで上昇した。大きく呼吸をすると、気が楽になった。あとは川岸まで泳ぐだけだ。彼は隅田川のほとんど真ん中にいた。厠橋の橋桁に掴まって一息つく。そのまま浅草側まで泳ごうと思った瞬間、彼の足が引かれた。  最初はヘドロか藻が絡んだのかと思ったが、何かに掴まれているような感覚があった。そのままぐいと彼は河水の中に引っ張り込まれていく。水中で彼は目を開けた。相変わらず河水は目に染みた。河内は胸ポケットからペンライトを取り出して、水中を照らした。そして絶句した。
 七月中旬から、季節は盂蘭盆だ――隅田川の水底が見えた。数えきれぬ死体が沈んで、手招きしていた。焼けてただれた死体が河内を見ていた。盆時だから帰ってきやがったのか――異常な光景をあっさり受け入れようとしている自分に唖然とする。そしてこれから自分がどうなるのかも察しはついた。無様な死に方だ。きっとこのまま誰にも気づかれぬまま、数十年を過ごすのか。因果応報とはこのことか。  いよいよ息苦しくなってくる。死にたくないという気持ちが強くなって、自分の足を掴む死体を蹴ろうと照らした。いつか川に逃げ込んだ浮浪者だった。そうかい、あんたやっぱり死んだのかい――心の中で嘲笑う。そして足をぐるぐると回転させた。手のひらが解ける。まだ俺は死にたくない――生存への渇望が強くなった。あの糞餓鬼なんぞ、もうどうでもいい。俺は生き残る――水面をばしゃばしゃと叩き、自分が川にいることを誰かに報せようとしたが、両岸共にひっそりと静まり返って、この世の終わりが来たかのようだった。
水面に顔を出した。息をした。淀んだ空気を吸った瞬間、彼は先程よりも強く引きずり込まれた。数メートル、確実に川底に近付いていた。ちくしょうあの乞食め――と再びペンライトを向けた。そこにいたのはあどけなさの残る眼鏡の少年だった。「手前は自分で」と口を開いた。それが間違いだった。一気に水が肺に入り込み、酸素が水面へ逃げていった。ペンライトを捨てて、河内は無我夢中で暴れるが、少年のものとは思えぬ力が彼の足首をむんずと引っ張り、川底へ沈め、それから一切の水音を立てなかった。



 海を見たいと悦子は言った。だから二人は東京湾を目指していた。夜も更けて、バスも電車もなくなっているから、頼れるものは己の足のみだったのだが、文夫の踝の状態は悪かった。彼は悦子の肩を借りている。悦子の、涙や鼻水で汚れた顔が彼の目と鼻の先にあった。  大輔は今どうしているのだろうか。文夫は考える。グッドラックと書かれたメールの着信以来、何の音沙汰もなかった。返信ご無用とも書かれていたため、彼は返信をしていなかった。そもそもびっこをひいて歩くので精一杯の現状では、どこかで休まなければメールは打てぬ。しかしもたもたしているとあの警官がどこからか現れそうで不安になる。それは悦子も同様だった。
「悦子、海はあるけどな、岬はねえぞ」
「うん。わかってる」
「悦子、ごめんな。こんななりになっちまって」
「うん。平気」
 泣き言は言いたくなかったが、ついつい口をついてしまうのだった。
 墨田川沿いをずっと下っていき、二人は日本橋に辿り着いた。空が白む前に東京湾まで行って、それから――文夫も悦子も何も考えていなかった。ただお互いの温もりを感じていた。それだけが信じられる全てであるようだった。へこたれそうな文夫を元気付けようとしているのか、悦子が鼻歌を歌い始める
「now we are tall , and christmas trees are small」
 沈黙の帳が下りた夜に彼女の声は凛と響いた、ように文夫には感じられた。今までは曖昧に聞こえていた発声ははっきりと届いた。
「but you and i , our love will never die」
「ビージーズかよ。泣かせるね、悦子ちゃん」
「うん」
「悦子」
「うん。何?」
「俺、お前が傍にいてくれないとやだ」
「わかってる」
 丑三つ時の年には人の姿はなかった。残業ばかりのサラリーマンの一人や二人いてもおかしくなかったが、支えあって歩く少年少女の邪魔をしないために姿を消しているかのようだった。信号を無視する。車通りもなかった。交通標識と勘と潮風を頼りに、二人は歩いていた。ぴったりと寄り添い、まるで一つの生き物のようだった。
「文夫」
「何だよ」
「海、まだ?」
「まだだよ。しばらくかかるぜ。疲れたか?」
「大丈夫」
 口を聞くのも億劫になっていた。疲労が頂点を極めていた。それでも文夫は歯を食いしばって、足を進めた。悦子もやはり疲れていたが、彼女は文夫とは違い、傷を負ってはいなかった。
アスファルトの弾力のなさが足に負担をかけていた。歩を進めるたびに踝のあたりが鉛で殴られたように痛んだ。どうして人間はこんな不便なものを作るのだと誰彼構わず呪詛を投げつけたくなる。
「悦子」
「なあに?」
「負けてらんねえな」
「何に?」
「わかんねえけど」
 負けてらんねえよと声を張り上げる。夜更けのオフィス街に反響するが、反応するものはなかった。悦子だけがくすくすと笑う。つられて文夫も吹き出す。足音と笑い声が山彦のように木霊して、その瞬間都市の風景は一瞬野性を取り戻した、ように思えたが、すぐに無機質な鉄筋コンクリートの姿を思い出してしまう。
 日付をまたいで、彼らは歩き続けた。その歩みは亀のように遅いが、わずかながらもしっかりと進んでいることは確かだった。磯の香りを辿っていけば、いつか必ず海に出ると信じ、文夫はあっちこっちと方向を指示する。悦子は黙って従う。彼女が方向音痴であること文夫は知っている。そして文夫自身も方向音痴だった。悦子よりはましだったが、地図なしで目的地に着いた例がなかった。加えて、一度訪れた場所でも平気で忘れる。悦子は基本的に覚えない。だから高校の入学式の日に遅れたのも当然といえば当然だった。
 しかし文夫は今確信していた。似たり寄ったりで特徴のない道を取捨選択している直感と潮風を感じ取っている本能を信じていけば、必ず東京湾に出る。海を見ることができる。一番初めの朝日を浴びることができる。人だって犬や猫と同じ畜生なのだから、もう少し本能を信じてみてもいいはずなのだ――良識や道徳や人情と同じくらいに信じてもいいものは確かに胸の中にある。悦子の肉体の熱が肩や腕をつたって下腹部に届いて、久しく抱いたことのなかった彼女への性的衝動が蘇りつつあった。
 これが最後になるのかもしれないな――と文夫はそこはかとなく感じた。
 夜は彼女と眠っていたい。



(了)

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