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hush, hush, sweet Kudryavka

 淀んだ雲が空を覆っていたが、雨は降っていなかった。能美クドリャフカは助手席に座り、薄っぺらいソフトカバーの本へ目を落としていた。日本語で書かれたものだったが、元はといえばロシア語だった。低い声で文字を読み上げた。
「その町ではどの家も内側から鍵かけられていた。その町ではなにもかも悪賢かった。町はかくさなかった、自己の痛ましい挫折を。挫折せぬものすべてに対する憎しみを。」
 濃紺のロガンは民家の前に停車していた。運転席に座った男はルームミラーの角度を変え、民家の様子を伺った。しんと静まり返っていた。男は煙草とライターをジャケットの内ポケットから取り出したが、ルームミラーを元に戻したときにクドリャフカが目に入った。苦笑いを浮かべて、煙草をしまった。
 民家の扉が開いた。背広の男が二人出てきた。二人はそれぞれ、意識を失った男の両手、両足を持っていた。そのまま男を車まで運び、一旦地面に寝かせた。トランクを開け、人ひとりが入るくらい大きな麻袋を引っ張り出した。埃が舞って、二人は咳き込んだ。手で周囲を軽くあおいでから、気絶した男を麻袋に入れた。男をトランクへ押し込み、二人は後部座席へ乗り込んだ。
「月曜日、これ強過ぎだ。」
 そう言いながら、スタンガンを運転席の男へ手渡した。月曜日と呼ばれた男はうっすらと笑みを浮かべて、それを受け取った。火曜日は笑い返して、座席のクッションに背中を埋めた。一方の金曜日は窓の外をぼやっと見ていた。そこはただの住宅地だった。しかし、見慣れたパリやアムステルダムの街並みとは異なっていた。
「あたかも焼き払われた町の星のない夜。静寂が偽りを喪失するよう――。」
 エンジン音がクドリャフカの声をかき消した。車は町の郊外へ向かって走り出した。途中で紙袋を抱えた小太りの女とすれ違った。
 女は立ち止まり、訝しげに車を見送った。車影はすぐに見えなくなった。女は再び歩き出し、勤め先の家の前に立った。そのとき、ドアが開けっ放しであることに気づいた。
 恐る恐る玄関へ向かった。居間からテレビの音が漏れていた。彼女は忍び足でリビングへ向かった。頭を撃ち抜かれた子供の死体が転がっていた。確認するまでもなく、この家の子だった。
 彼女は台所へ向かい、紙袋を置いた。野菜や果実がぎっしり詰め込まれていた。ポケットから無造作に金を出し、紙袋の脇に添えた。それから二階へ上った。階段はいつもよりも冷たく感じた。
 二階には書斎を兼ねた大きな部屋があり、そこがこの家の主人のものだった。しかし室内は無人だった。本棚に乱れはなかったが、木の椅子が倒れていた。彼女は椅子を起こし、ふと窓を見た。赤い色で星印が逆さに描かれていた。おそらくはスプレーペンキだった。
 身体が震え始めた。彼女は椅子に座り、前屈みになって床の絨毯をじっと見つめた。数刻の後、首をくくるためのロープを探すことを決めた。たしか納屋にあったはずだとぼんやりと思った。


 その女は汚れた布で目隠しをされていたが、母であることはすぐにわかった。灰色のコンクリートの壁の前に立たされていた。カメラが小刻みに揺れていた。それが周囲を取り囲む人々の足踏みによるものだとわかるまでにしばらくかかった。
 クドリャフカはバーカウンターに座っていた。町の郊外にあるダンスホールだった。携帯電話の液晶画面から顔を上げて、店内を見渡した。それなりに広い店だったが、今は営業をしていなかった。経営者はリンチで殺された。物資の略奪に数人の男が訪れて以来、ただ朽ちるのを待つばかりになっていた。
 店の中央にはステージがあり、そこでダンスが踊れるようになっていた。椅子はバーカウンターに沿って並べられていた。バンドが曲を演奏するスペースももちろんあった。そこは他の床よりも一段ほど高くなっていた。
 ワンセグ動画の一分四十九秒の箇所で乾いた銃声が鳴った。弾道はわからなかった。直後に母の身体から力が抜け、その場に崩れ落ちるのを見て、ようやく発射された弾丸がどこへ向かったのかがわかった。もう何十回も再生を繰り返していたが、母に死が訪れる瞬間だけは彼女の瞳にいつも新鮮に映し出された。
 カウンターの向こうのドアが開き、月曜日が姿を現した。カウンターの向こうは厨房になっていて、地下室への階段があった。拉致した男はその地下にいる。ワインセラー用の地下室だった。今ではワインは一本もなく、設備も取っ払われていて、ただ空っぽの空間が広がっていた。
 月曜日はクドリャフカが見ている携帯電話を覗き込み、「四人ですね。」と言った。彼が口にしたのは、クドリャフカの母を射殺した男の数だった。ぶれていてわかり辛かったが、確かに銃を構えた男は四人だった。
 事務所へ一旦姿を消した月曜日はマグカップを持って戻ってきた。ホットミルクが注がれていた。それをクドリャフカの前に置き、自分は上着のポケットから薬莢を出し、カウンターに置いた。この店へ着いたその日に壁にめり込んでいるのを発見し、ナイフでほじくり出したものだった。彼は暇を見つけてはそれをヤスリで削っていた。「手先はね、器用なんですよ。」といつか恥ずかしそうに言った。
クドリャフカがホットミルクを一口啜ったとき、火曜日がやって来た。背広の乱れを見せない月曜日とは対照的に、火曜日は上半身裸だった。汗で肌が湿っていた。左胸に彫られた逆さまの星印が脈打っているようにクドリャフカには見えた。彼は軽々とカウンターを乗り越えて、床へ大の字に寝転がった。目は開いたままだった。おもむろに口を開いた。
「歯一本で気ぃ失いやがった。」
 月曜日はマグカップを置き、クドリャフカの様子を伺った。彼女は携帯電話から目を離し、火曜日の次の言葉を待っていた。
「全然無事だよ。ああ、そうだ、金曜日が呼んでたよ。」
「わかった。」
 ヤスリをカウンターに置き、月曜日は厨房へと姿を消した。軽やかな動きで火曜日がそれに続き、「あ。」と声を上げてから、クドリャフカも二人の後を追った。
 階段を降り、廊下を歩いた。地下は暗く、他の三人のようにしょっちゅうは出入りしていないクドリャフカは手探りで足を進めなければならなかった。ストレルカやヴェルカが一緒だったなら、きっとわたしを導いてくれただろうと思った。途中、月曜日が手を添えてくれたおかげで、少しは楽になった。
 床で炎が揺れていた。金曜日が灰皿で何かを燃やしていた。三人に気づいた金曜日はカードの束を月曜日に投げてよこした。クドリャフカは金曜日の元へ辿り着き、彼の手元を見た。金曜日はあぐらをかいて、紙幣を火にくべていた。空っぽになった札入れが灰皿の脇に無造作に投げ出されていた。
 暗闇の中で揺れる炎は美しかった。彼は剥き出しの上半身にジャケットをつっかけていた。炎がたまに大きくなると、胸元がはっきりと照らされた。そこには火曜日と同じ星型の刺青があった。それは月曜日の左胸にも刻まれている。
 火曜日がライトをつけた。それは古臭い型のスタンドライトだったが、蛍光灯の電球は新しく、白く強い光を発した。金曜日の真向かいに男は横たわっていた。口には血だらけのガーゼが突っ込まれていた。二人の間で炎が揺れていたが、紙幣を焼き終えた金曜日は皮靴を使って火を叩き消した。焼きかすが宙に舞った。
 クドリャフカは携帯電話を出し、ワンセグ動画を再生した。三十七秒のあたりで銃を構えた四人の男の様子が捉えられていた。顔を確認した。間違いなく同一人物だった。しかし嬉しくも何ともなかった。
 男がうっすらと目を開け、うめき声を上げた。金曜日が「サヴァ。」と声をかけ、口のガーゼを取ってやった。男はきょとんとしていたが、やがて痛みを思い出したのか、顔を大きく歪めた。肩で息をしながら、「お前ら、何なんだ。」と途切れ途切れに言った。首元のネックレスが揺れた。月曜日が男の真横にしゃがみ込んだ。
「あんた、チェルヌシカを処刑しただろ。憶えてないか?」
「それがどうした。」
「この子、ルーシャの娘なんだ。」
 男の顔色が薄くなっていった。月曜日からクドリャフカへと視線が移動した。呆けたようにクドリャフカを見つめた。クドリャフカは何も言わなかった。しばらく見つめあった後、一切の言葉のないままにクドリャフカはそっと視線を外した。
「だからってお前ら。」
 そこで声は途切れた。それ以上の言葉は吐けないようだった。火曜日はつまらなそうにふんと鼻を鳴らして、厨房へ戻っていった。金曜日は男を見据えたまま、「クワ?」と促した。
 男はじろりとクドリャフカたちをねめ回してから、ようやく続けた。
「……こんなことしていいと思ってんのか?」
 月曜日は答えなかった。それを好機と判断したのか、男は早口でまくし立てた。
「それに、いまさらなんだよ。いつの話だと思ってんだ、あれ。だいたい俺一人どうこうするのに何日かかってんだよ、あんたら。」
「何言ってんだ、あんた。」
 月曜日の声はひどく冷たかった。
「あ?」
「あんたで四人目だよ。」
 月曜日は火曜日が持っていたスタンドライトへ手を伸ばし、地下室の中をゆっくりと照らしていった。部屋の隅で死体が三つ、静かに折り重なっていた。男が息を飲んだ。
 足音が聞こえ、徐々に近くなってきていた。月曜日はライトをそちらに向けた。火曜日が盆に包丁やキッチンハサミ、肉たたきなどを載せて、戻ってきていた。
 クドリャフカは立ち上がって、男に背を向けた。瞳はもう暗闇にだいぶ慣れていて、一階のフロアへ戻るくらいは簡単そうだった。火曜日とすれ違った。火曜日は「クーニャ、また後で」と言った。
「いや、ちょ、ま。」
 月曜日は金曜日に目で合図をし、クドリャフカの後を追った。小さな背中はちょっと目を離した隙に見えなくなってしまいそうだった。


 ボルシチを盛りつけた椀を運び終えたクドリャフカは額の汗を拭った。また火曜日がこの暑いのにボルシチかと言うだろう。どうせなら彼らに日本食を作ってやりたかったが、食材がなかった。彼らがロシアから持ってきていた材料ではボルシチしか作れなかった。それでもクドリャフカのボルシチは懐かしい味がするらしかった。「ルーシャ・イワノヴナもこんな味のボルシチをふるまってくれたことがあったんだ。」と月曜日は目を細めて言った。
 日本を出国してから、食は細くなる一方だった。この日も二口、三口食べただけで胸がいっぱいになった。疲労やストレスがあるのかもしれなかった。しかし日本に残ることを決めた日々に比べれば、今ははるかにマシというものだった。
 火曜日と金曜日は濡れたタオルで身体を拭きながら、厨房から出てきた。両腕や胸部、腹部に血がこびりついていた。といっても彼らの身体に傷があるわけではなかった。
 二人は自分の席について、スプーンを握った。火曜日は「うまいけど、飽きるよな。」と軽口を叩いた。クドリャフカはハードカバーの古びた詩集を開いていた。出国のときにルームメイトから貰ったものだった。火曜日がその様子に気づき、「クーニャ、また何か読んでくれよ。」と言った。火曜日は字があまり読めなかった。日本語でもいいから何か読んでくれと、子どものようにクドリャフカへせがむことがたまにあった。
「半分だけ ほしいのは そらあのクッション、その上では たよりなげな星 落ちていく星みたいに そーっとほっぺたにおしつけられた 指輪が きみの手にまたたいているのだから……。」
 適当に開いたページに書かれた文字を淀みなく読み上げた。火曜日はボルシチをがつがつと食べながら、それを聴いていた。日本語だから意味はわからなかったが、どこか優しげな眼差しを感じ取っていた。
 クドリャフカが詩集をカウンターに置いたとき、ホールの入口の扉が開いた。月曜日だった。彼はいつものように少し早足で三人の元へ歩いてきた。しかしその表情はいつもとは異なっていて、若干強張っていた。
「クワ?」
 ボルシチをとうに食べ終えていた金曜日が月曜日を見上げていた。その眼光は鋭かった。クドリャフカは厨房で汲んできた水を月曜日に渡した。月曜日は喉を鳴らして飲み干し、口を開いた。
「空港の封鎖が決まった。三日後だそうだ。この国はもう――。」
 月曜日は一旦そこで言葉を切ったが、すぐに続けた。
「俺たちはイワンと一緒に帰るんだ。」
「戻るのか?」
「そうだ。」
 火曜日は「あ、そう。」と笑みを浮かべた。
「クーニャ、君は日本に帰るんだろう。」
「え?」
「ここにはもういられない。旅券とかは心配しなくていい。イワンがどうにかするよ。それとも……俺たちと一緒に行くか?」
 クドリャフカはとっさに背後を振り返った。無人の厨房と地下室への階段があった。火曜日が笑い声を上げた。
「そうそう、忘れちゃいけないよな。」
「いずれにせよ、明後日には空の上だ。」
 三人は何事か話し合っていたが、クドリャフカの耳には届いていなかった。クドリャフカはじっと厨房の奥を見つめていた。あの男のうめき声が聞こえてきているように感じられていた。


 丸一日が過ぎていた。火曜日と金曜日は一足早くテヴアを後にした。結局祖父とは会えなかったが、「お元気で。」という伝言を二人に託した。
 月曜日は相変わらずカウンター席に座って、ヤスリで薬莢を削っていた。彼女に何かを指示したり、促したりすることはなかった。ただ一言、「後は自分で考えるんだ。」と言った。その言葉を受けて、クドリャフカは残されたわずかな時間を地下で過ごすことを決めた。
 地下は以前よりも明るく感じられた。暗さに目が慣れたためだろうと彼女は思った。床には彼のために持ち込まれた器具や簡単な食べ物、飲み物、あるいはろうそくなどが無造作に転がっていた。ナイフや拳銃まであった。
 男は力なく壁にもたれかかっていた。彼女が近づいても、ほとんど反応すらしなかった。両手と両足は鎖で繋がれていた。それは壁に繋いでおけるように、月曜日がわざわざこの場所に作ったものだった。
 クドリャフカは男の目の前にしゃがみ込んだ。母を射殺した男の一人が目の前で死にかかっている。他の三人はすでに死んだ。臭いがひどくなってきたので、すでに地下室からは運び出されていた。クドリャフカはマグカップに注いだ水を一口飲んだ。喉が鳴った。男がぴくりと反応したように見えた。床に転がっていたろうそくに火を灯し、男に近付けた。男は焦点の合わない瞳でクドリャフカを見据えていた。
 スカートのポケットから鍵を出した。月曜日から渡されたものだった。「後はクーニャ、君が決めなさい。」と彼は言った。こういうのをきっとおとしまえというのだろうとまるで他人事のようにクドリャフカは思った。
 手足の鎖を外しても、男は力なく項垂れたままだった。もう長くはないことは容易に窺い知れた。しかしクドリャフカは自分の手で結末を作ろうとは思わなかった。逃げているだけなのかもしれなかったが、自然の流れに任せるのも悪くはない。そう考えていた。
「さようなら。」
 クドリャフカはそう言った。男はわずかに顔を上げようとしたように見えたが、実際は音に反応をしただけなのかもしれなかった。クドリャフカは立ち上がり、踵を返して歩き始めた。わざと足音を立てるように強く床を踏んでいた。その音は遠ざかっていった。
 その場に残された男はほとんど身体を動かせなかった。しかし自分が自由になったことはぼんやりと理解できていた。しかしその自由の中でできることは何一つないようだった。身体を動かそうとして、うつ伏せに倒れた。金属片が床に落ちて、こん、と音を立てた。
 足音がまた大きくなってきていた。男は眼球だけを動かした。クドリャフカがすぐ近くに立っていた。彼女は男を抱きかかえて、胸元のネックレスをまさぐった。それは個人認識票だった。「どうして……。」と呟いていた。
 ふと床に無造作に置かれたままの拳銃が目に入った。特別仕様のチーフスペシャル、レディスミスだった。クドリャフカはずっしりとした重みのあるそれを拾い上げ、銃口を男の口へ突っ込んだ。それからまた「どうして……。」と繰り返した。


 月曜日は車の運転席で口笛を吹きながら、薬莢を削っていた。ダンスホールからクドリャフカが姿を現したとき、全てが終わったのだと実感できた。
 クドリャフカは助手席へ乗り込み、静かに座った。彼女は発車を待ったが、月曜日は一向に車を出そうとしなかった。
「あの……。」
「ここ、忘れちゃいけないよ。」
「忘れるわけ……ないじゃないですか。」
「そうじゃないよ。ここ、君のお父さんとお母さんが初めて出会った場所で、別れた場所なんだ。」
「え……?」
 クドリャフカはゆっくりと視線を動かした。それから車を降り、ふらふらとダンスホールの扉へと近づいた。音楽が中から漏れてきていた。驚いたように扉を押し開いた。
 ゆるやかなジャズの音色にあわせて、多くの着飾った男女が中央のステージで踊っていた。アナトーリィはカウンターで酒を飲みながら、彼らをぼんやりと眺めていた。ふと柱に寄りかかるようにしている女が目に入った。色の薄い、どこか頼りなげな女は憂鬱そうにグラスのアルコールをあおっていたが、やがて自分を見ている目線に気づいた。二人はほぼ同時に歩き始め、ステージの隅っこで視線をからめ合った。
「踊っていただけますか?」
「……喜んで。ちょうど退屈だったの。」
 アナトーリィもチェルヌシカもダンスのたしなみはなく、へたくそだった。しかしへたくそなりに楽しく踊った。チェルヌシカの額に汗が目立ち始めた頃、柔らかい声で彼女は言った。
「私、もうすぐ宇宙へ行くの。信じられる?」
「君、宇宙飛行士なのか?」
 ワルツにあわせてステップを踏みながら、アナトーリィは驚きを隠せずにいた。こんな可憐な女性が宇宙飛行士だとは思えなかったからだった。しかし抱き寄せた瞬間に感じた筋肉質の身体は、ただの女性だとも思えないものだった。
「そう。私ね、誰よりも星に近くなるのよ。」
「素敵だね。ねえ、名前を聞いてもいいかい?」
「ルーシャ。あなたは?」
「トーリャ。」
 二人は身体をぴったりと寄せ合い、穏やかなメロディーに身を任せた。一つの曲が終わり、バンドが次の曲へ移ろうとする。軽快なピアノの演奏が始まったときに入口のドアが開いて、銃を構えた男が数人、大股でホールへと入ってきた。
 バンドは構わず演奏を始め、ステージにいた人々は踊りを続けようとした。しかし一番前にいた男は天井に向かって発砲し、沈黙を呼び込んだ。今度は目の前に銃を構え、柱時計を撃ち落とした。人々は悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出して行った。アナトーリィとチェルヌシカは呆然とその場に立ち尽くしていた。しかし男の顔を見て、何が起ころうとしているのかを了解した。
 男は拳銃の銃口を手前に小刻みに動かし、チェルヌシカへこちらに来るように促した。チェルヌシカは頷いて、すぐにアナトーリィの顔を見た。そこには穏やかな笑みがあった。アナトーリィはチェルヌシカの頬を撫でた。彼の薬指にはめられた指輪の感触がひどく愛おしかった。同じ指輪がチェルヌシカの薬指にもあった。チェルヌシカはやがて男の元へ向かった。男は彼女を背後の男たちに任せ、その場を去ろうとした。が、すぐに振り返って、アナトーリィの眉間を撃ち抜いた。貫通した銃弾は彼の背後の壁にめり込んだ。
 入口のところに立ったままでいたクドリャフカは連行されていく母の姿をただ見ていた。チェルヌシカは一瞬だけ、クドリャフカと視線を交わした。彼女は首を振って、月曜日が待っている車を指差した。クドリャフカは頷き、車へ戻った。そこまでの道はひどく長く感じられた。助手席に乗り込み、月曜日へ発車を促した。月曜日は笑ってアクセルを踏み、人っ子ひとりいない空港への道を急いだ。


 寮の部屋はそのまま残されていた。すれ違う知人たちに軽く挨拶をしながら自分の部屋へ向かい、入った途端ベッドへ倒れ込んだのだった。すぐに眠気に包まれた。テヴアでは深い眠りに落ちたことはなかった。久方ぶりの熟睡のようだった。
 クドリャフカが寝息を立て始めた頃、西園美魚が紙袋を持って部屋へ戻ってきた。紙袋には古本がぎっしりつまっていた。彼女はその一冊一冊を丁寧に出しながら、ふとベッドで眠っているクドリャフカに気づいた。
「能美さん、帰ってきてる。帰った……?」
 美魚が首を傾げていると、携帯電話の着信音が鳴った。飾り気のないただの呼び出し音だった。美魚は鞄から携帯電話を取り出し、「あ、もしもし?」と言いながら部屋を出た。
 ドアが閉じられたとき、クドリャフカが寝返りをうった。首元にはネックレスがあった。銀色のチェーンに繋げられているのは薬莢だった。そこには星型が紋章のように刻み込まれていた。

(了)

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