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The Rin Who Loved Me

1

 塗装が剥がれて鉄筋がむきだしになった階段を駆け上がった。雨がぽつぽつと降り出したところだった。直枝理樹は上着を脱ぎながら、短い廊下を歩いた。右手にはコンビニエンスストアのビニール袋があった。二階建ての古いアパートだった。今、彼は棗鈴と共にそこで暮らしている。もう数年になる。
 鍵を開け、玄関で靴を脱いだ。鈴は床に寝転がり、ビデオカメラを天井に向けていた。周囲には8mmのカセットテープが無数に転がっていた。理樹はただいまと言いながら、台所へ向かった。細切れにされた野菜や肉が散乱していた。コンロに置かれた鍋には薄い色の液体が入っていた。理樹はそれに小指をつけて舐めた。ただ塩辛いだけの水のように思えた。理樹は無言で、それを流しに開け、そこらに散らばっている肉や野菜を処分していった。
 台所を片付け終えてから、鈴の元へ向かった。台所とたった一部屋、それが二人の全てだった。コンビニ弁当を出し、箸を割った。弁当はもう冷めてしまっていたが、構わなかった。鈴がのそのそと身体を起こし、おかずを適当につまんで食べた。理樹はそれを咎めず、鈴が残したものを胃袋に収めていった。
 食べながら、テレビの電源を入れた。ブラウン管の古いテレビだった。ニュース番組が映し出されたが、色合いが歪んでしまっていた。青が強くなっている。調節をしようとテレビに這い寄ったとき、ぱらぱらと窓を叩く音が聞こえた。理樹は一瞬そちらを見やった。降り始めた雨の音が、はっきりと聞こえるようになっていた。
 食事を終えた理樹はプラスティックの容器を片付け、台所で水を一杯飲んで大きく息を吐き出した。生温い水だった。鈴はちゃぶ台を片付け、カセットテープを部屋の隅へよせてから風呂場へ向かった。テレビはつけっぱなしだった。鈴がシャワーを浴びている間、理樹は布団にうつ伏せになり、テレビの画面を見つめていた。
 頭にタオルを巻いたままの恰好で出てきた鈴と入れ替わるように理樹は浴室へ向かった。鈴の匂いが残っていた。理樹は服を脱ぎ、浴槽の縁へ腰を下ろした。鈴が入った後の、熱が立ち込めた浴室が彼は好きだった。
 鈴はパジャマに着替え、布団を敷いた。着替えたといっても、理樹が着なくなった長袖のシャツを着ただけで、下半身は下着のみという姿だった。テレビをつけっぱなしにしたまま横になり、またビデオカメラのファインダーを覗いた。浴室から出てきた理樹は頭を拭きながら、彼女の隣に座った。はねた水滴がレンズに付着した。鈴は何も言わずに手を伸ばし、理樹の腰の肉をつねった。
 反射的に振り返った理樹はむっとした表情の鈴と視線を交わした。彼女はパジャマの袖でレンズを拭いているところだった。ちょうどパジャマの裾がへそのあたりが露出していた。理樹はタオルを離し、彼女の腹部へ手を伸ばした。指先でそこをくすぐると、苛立ちを含んでいた彼女の表情は見る間に崩れ、とうとう堪えきれずに噴き出した。
 理樹は腹の部分に手を這わせ、肌に指を添えていた。指先を小刻みに動かすと、鈴はいやがるようにその手を払おうとした。しかし彼女に半ば覆いかぶさる姿勢になっている理樹は明らかに有利だった。鈴は理樹の膝を蹴っ飛ばした。バランスを崩した理樹は鈴の真横に仰向けに倒れた。すぐに顔を回した。目の前に鈴の顔があった。二人はしばらくの間、微動だにしなかった。ただ見つめ合っていた。
 そして唇を重ねた。すぐに舌と舌が絡み合った。どちらともなく始めた行為だった。鈴はビデオカメラを離し、理樹の後頭部に手を回した。そしてわざと自分に顔を押し付けるように力を込めた。理樹は驚いて目を見開いたが、すぐに表情を緩め、唇を離した。代わりに額を額にこつんとあてて、鈴が瞳を開くのを待った。
 少しだけ涙ぐんだような目だった。しかし彼女は柔らかく微笑んでいた。理樹は顔を離し、彼女のパジャマを脱がした。白い裸体に手を伸ばす前に、理樹は室内の灯りを落とそうと彼女に背を向け、蛍光灯から垂れ下がっている紐に手を伸ばした。鈴はそのときを見逃さなかった。身体を伸ばした理樹に後ろから両手で抱きつき、そのまま仰向けに倒れようとした。それはちょうど理樹が紐を掴んだ瞬間だった。理樹は鈴の力に身を任せたが、紐は握ったままだった。紐がぶちんと切れると同時に、室内の光が消えた。雨がガラス戸を強く叩いていた。いつの間にか、雨は本降りになっていた。

 スクリーンセーバーがブラウン管のモニターをぼんやりと漂っていた。机に置かれていた給与明細を見つめながら、理樹は指先でマウスをこつこつと叩いていた。かたわらに設置された電話機に目をやった。社員番号と『ログインチュウ』の文字が光っていた。電話機から伸びているコードは理樹の耳元へつながっていた。ヘッドセットは、最初は窮屈に感じたものだったが、今ではすっかり慣れてしまっていた。
 終業のベルが鳴った。理樹はヘッドセットを外し、パソコンの電源を落とした。それから立ち上がって、周囲を見渡した。その部屋には理樹がいたようなパーティションがいくつもあったが、他に人はいなかった。理樹は電気を消し、鍵をかけてから部屋を出た。歩き出そうとしてふと立ち止まり、強化ガラス越しにその室内を覗き込んだ。そこは『お客様センター』と呼ばれていた。今は真っ暗だった。八時三十分から十八時まで、理樹はそこで電話を待っている。
 エレベーターホールの脇にある階段で一階まで下り、警備員室に寄った。受付のガラス戸は半分ほど開いていたが、呼びかけても反応はなかった。理樹は手の甲でガラス戸を叩いた。しかしやはり反応は一切返ってこなかった。理樹はガラス戸を完全に開け、そこから警備員室に忍び込んだ。鍵を返したいだけだった。外側からはちょうど死角になっている、警備員が座っていればちょうど膝くらいの位置に鍵を収納するケースがあった。理樹はそこのフックに鍵を引っ掛け、警備員室を後にした。
 アパートまではオートバイで三十分くらいだった。理樹はヘルメットを外し、空を見上げた。雨が降り出しそうだった。赤信号で停止したとき、電気店が目に入った。量販店ではなく、個人営業のこぢんまりとした店だった。理樹はバイクを止め、店の前に立った。入口のドアのガラスはすでに破られていた。脱いだ上着を右腕に巻きつけて、枠に残っていたガラスを地面に落とした。
 内部は暗かったが、辛うじてカウンターの場所を把握することができた。カウンターの裏側に回り、懐中電灯を探した。すぐに見つかった。ブザーやカラーボールといった防犯用の道具といっしょに置かれていた。理樹は懐中電灯で店内を照らした。多くの棚は倒れ、ほとんどの商品は床に散乱していた。理樹は口元を押さえた。ひどくほこり臭かった。
 目に止まったのはビデオカメラだった。8mmのテープで録画する機種だった。理樹はそれを箱から出し、すぐに構えてみた。電池がないためにファインダーの向こうは真っ暗だった。箱に入っていた充電池を挿入し、アダプタのコードをつないだ。コンセントはレジの裏にあった。充電している間、8mmのカセットテープを探した。それはほどなく見つかった。カウンターに数個置き、よじ登ってそこに横になった。店内では、そこがいちばんマシだったからだった。電気のついてない電球を眺めている内に、彼は瞳を閉じた。
 短い電子音が静寂を貫いた。理樹は驚いて飛び起きたが、単に充電が完了しただけだった。腕時計を確認した。二時間くらいが経過していた。理樹はカセットテープをバッグに入れ、ビデオカメラを片手にその電気店を出た。
 アパートに戻る前に、近所のバーに寄った。そこはオカマバーだった。理樹は店の前にバイクを止め、ビデオカメラを構えたまま店内に入った。ファインダー越しに見えるのはきらびやかな照明だった。
「あら、理樹じゃない。ひさしぶりね!」
 宮沢謙吾がオカマになったのは三年前のことだった。最初はバーテンとして雇われたのだったが、当時店にいたオカマが一人、また一人といなくなっていき、バーテンとオカマを兼ねなくてはならなくなった。やがて店が若いバーテンを雇ったため、謙吾はオカマ専業という形になった。その頃には、彼の大部分はオカマになっていたから、特に問題はなかった。
「どうしてたの? 来てくれないと寂しいじゃない」
 理樹は苦笑いを浮かべ、カウンター席に座った。さほど大きな店ではなかった。カウンターには七席、他にテーブル席がいくつかあった。それだけのものだった。
「そのカメラ、かっこいいわね。小さなカントクさん」
 カクテルを作り始めた謙吾を尻目に、理樹は店内の様子を撮影した。説明書をろくに読んでいなかったから、一応テープは回っているようだったが、実際に撮影できているのかどうかはわからなかった。
 カランと音がした。一人の客が店に入ってきていた。男は椅子を一つ隔てた隣に座り、一瞬理樹をぎろりとにらんだ。それから「ビール」と言った。謙吾は愛想笑いを浮かべながら、瓶ビールの栓を抜き、男の前にグラスと共に置いた。男はグラスにビールを注ぎ、ひといきで飲み干した。それから「つまめるものないか?」と言った。
 謙吾は「ちょっと待ってね」と言いながら、男に背中を向けてしゃがみ込んだ。冷凍のフライドポテトが足元のケースに入っていたのだった。男はビール瓶を手に取り、中身を床へぶちまけた。カウンターが邪魔をして、その音は謙吾まで届かなかった。男はカウンターへ身を乗り出し、身体を伸ばして謙吾の後頭部を瓶で殴った。ごん、という音がした。謙吾はその場にうつ伏せに倒れた。男はカウンターの向こう側へ飛び降り、謙吾に馬乗りになってもう一度殴りつけた。今度は瓶が割れ、謙吾の頭部から血が吹き出した。男は返り血を拭いながら、またカウンターを乗り越え、店の外へ姿を消した。理樹はビデオカメラを置いた。
 肉眼で見えるのはバーの廃墟だった。理樹はカウンターを挟んで向こうにある棚からウィスキーのボトルを一本手に取った。そこに並べられている酒瓶はもうほとんどが空になっていた。足元には茶色く変色した血の跡がこびりついていた。理樹はウィスキーボトルをバッグに放り込み、ビデオカメラを持って、そのバーを後にした。

 薄目を開けた時点で、雨が降っていることがわかった。匂いが違っていた。水の匂いがたちこめていた。理樹は起き上がって、窓の向こうを見た。大粒の雨が窓に打ちつけられていた。近くの小学校には国旗が掲揚されていたが、この天候では運動会は中止だろうと思った。
 理樹は会社に電話をしたが、誰も出なかった。留守番電話に休む旨の伝言を吹き込んだ。それから台所で水を一杯飲んだ。塩素の臭いのきつい水だった。
 目を覚ました鈴は理樹からコップを奪い、同じように水を飲んだ。彼女は素っ裸で、髪の毛はぼさぼさだった。理樹は手ぐしで鈴の髪の毛を梳いてやった。彼女は気持ち良さそうに目を細めた。理樹はしばらくそうしていた。
 理樹の手はやがて髪の毛から彼女の身体へ下っていった。一瞬、鈴は理樹を見たが、すぐに正面へ視線を戻した。少し汗ばんだ肌に指を這わせると、彼女の身体が小さくびくんと跳ねた。理樹は手を鈴の顎にあて、自分の方を向けた。鈴は視線をそらしたが、構わずに唇を重ねた。鈴は片手を流しの縁に置き、もう片方の手は夢中で背後を掴もうとした。しかしそこには何もなく、辛うじて水道の蛇口が触れるばかりだった。蛇口が回って、水がどぼどぼと流れ出した。理樹は鈴を流しに押しつけるようにして、強く唇を押し当てた。それから唇だけではなく、全身を密着させた。
 温もりが伝わると、目覚めて間もなかった鈴の身体に熱がこもり始めた。吐息が漏れた。理樹は唇を離し、指先で鈴の唇をそっと撫でた。もう片方の手は彼女の下半身へ伸びていた。もっとも熱くなっている場所へ触れたとき、急激な眠気が頭を包み込んだ。最後に見たものは、台所の裸電球の灯りだった。それはひどく明るい白だった。理樹はその場に崩れ落ち、鈴はじっと彼を見下ろした。すぐにしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。聞こえる寝息はどこまでも穏やかだった。

 電車の座席に座っていた。理樹はゆっくりと目を開けた。目の前には見知った顔がいくつもあった。他は無人だった。彼と彼らだけがその車内にいた。棗恭介、井ノ原真人、宮沢謙吾、神北小毬、三枝葉留佳、能美クドリャフカ、来ヶ谷唯湖、西園美魚。
 理樹はビデオカメラを携えていた。目の前に座っている彼らの姿を撮影していた。窓から差し込む真っ白い光が強く、彼ら以外は何も見えなかった。八人は優しげに微笑んでいた。理樹は少しだけ口元を歪めた。顔はカメラに隠れているだろうが、その動きはきっと伝わっただろうと思った。
 電車が駅に到着すると彼らは一列になって降車し、階段へと姿を消していった。理樹は列の最後にいた最後の小毬の姿がフレームの外へ消えたところで、録画を止めた。電車が動き出した。無人の座席へ横になり、心地良い揺れに身を任せていた。

 目を覚ましたとき、棗鈴は理樹にまたがったまま眠っていた。理樹は彼女を抱きかかえ、体勢を入れ替えるように彼女を床に横たわらせた。それから身を離した。
 鈴にタオルケットをかけ、それで包むようにして彼女を抱き上げた。すでに時刻は夕方だった。まだ雨の音がしていた。少しも弱まっていないようだった。理樹は鈴を布団に寝かせ、何か食べ物を買いに行こうとジーンズを穿いた。上は何も着なかった。
 アパートの階段を降りたところでビニール傘を開いた。ところどころ穴が開いていた。さしてもささなくてもあまり変わらなさそうだった。

2

 絶頂に達した後のけだるい時間も、理樹がいなければ楽しくなかった。鈴は下着から手を抜き、台所へ洗いに行った。理樹が部屋を出て行ってから、おそらく数日が経過していた。数えていないから、正確なところはわからなかった。ついでに顔を洗い、ワイシャツの裾で拭きながらテレビの前へ戻った。
 8mmのビデオカメラをケーブルでつなぎ、撮影したカセットテープを再生できるようにしていた。画面に映し出されるものといえば、この部屋の内部ばかりだった。鈴はそれをぼんやりと眺めていた。
 腹が鳴った。部屋の中のものはあらかた食い尽くしてしまい、今は水でどうにか誤魔化そうとする日々だった。鈴は窓の向こうへ目をやろうとした。しかし濃紺のカーテンがその邪魔をした。辛うじて音だけが聞こえてきていた。雨の音だった。雨はもう何日も降り続いていた。
 鈴は床に横になった。天井を裸眼で見上げた。染みが広がっている。この部屋に住み始めたときから、それはあった。ごろんと寝返りをうって、仰向けになった。胸から腹にかけてから、床の冷たさが伝わってきた。ひんやりとして気持ち良かった。
 唇を尖らせて、玄関を睨みつけた。しんとしていた。自分の靴しか、そこには置かれていなかった。靴がある、と鈴は思った。最後に靴を履いたのはいつだったか、彼女は憶えていなかった。また寝返りをうった。天井が視界に広がった。

 細かな揺れで目を覚ました。鈴は電車に座っていた。手のひらに温もりを感じた。隣を見ると、理樹が正面を向いて座っていた。二人は手をしっかりと握りしめていた。鈴は何も言わなかった。ただ頬を理樹の肩にくっつけた。
 電車が駅に到着した。ホームは無人だった。ドアが開いても、乗車する者はいなかった。そのまましばらく電車は静止していた。発車のベルはなかなか鳴らなかった。
 理樹が立ち上がった。鈴はその手をしっかりと掴んでいたつもりだったが、不思議と彼の手は彼女の指の間からするりと抜けた。そのまま電車の外へ歩いて出て行った。ホームの半ばまで行き、そこで立ち止まって振り返った。
 そのとき発車ベルが鳴った。はっとわれに返り、鈴は立ち上がった。しかしドアは閉まり、彼女は電車の中に取り残された。理樹はまだホームにいた。じっと鈴を見ていた。徐々に電車が動き始めた。鈴は進行方向とは逆方向に走り出した。時折窓に張り付いては、後ろの車両へと走って移動していった。最後尾まで来たとき、理樹が階段を下りて行くのが見えた。鈴は窓に両手を叩きつけながら、理樹の名前を叫んだ。

 夕方だった。雨の匂いが失せていた。鈴は起き上がって、玄関へ向かった。恐る恐るドアを開けた。雨上がりの、土の匂いがした。鈴は部屋に戻り、着替えをした。何を着ればいいのか、それどころかどこに何があるのかさえわからなかった。
 目にとまったものを身に着けていった。スカートとレギンスを穿き、上は理樹のワイシャツのままだった。赤いネクタイがあったので巻いてみた。タンスの取っ手にかけられていたパナマ帽をかぶり、身の回りのものをバッグにつっこんだ。肩掛けのキャンバス地のバッグだった。
 着替えを終えた鈴は、ビデオカメラを片手に部屋を出た。一歩一歩確かめるように階段を下り、アパートの敷地から外へ出た。
 アパートの前の道路は片側二車線だったが、中央部分に車両の通行が不可能になるくらい大きなひび割れがあった。鈴はそれを迂回し、向こう側へ渡った。倒れていた歩行者用の信号をぴょんと飛び越えた。
 しばらく歩いて行くと、路上に倒れている人影が見えた。理樹だった。駆け寄った鈴は彼を仰向けに寝かせ、頬をぱちぱちと叩いた。反応どころか、弾力がなかった。いつもの感触ではなかった。鈴は理樹に口付けたが、唇もまたぶよぶよとしていて気持ち悪かった。
 鈴は彼のズボンとパンツを脱がせた。そして自分も靴とレギンス、スカートをその場に脱ぎ捨て、理樹にまたがった。腰を動かした。まったく反応がなかった。涙がこぼれた。手の甲で涙を拭い、なおも動かし続けた。下腹部にあるのは痛みだけだった。鈴は力なく理樹にしなだれかかり、動かなくなった胸を何度も何度も叩いた。なんで、なんで、と繰り返しながら。

 公園の砂場に理樹を埋めた。思っていたよりもはるかに重く、公園まで背負っていくのは重労働だったが、穴を掘るのはもっと大変なことだった。落ちていたスコップを使って掘ったが、すでに日が暮れてしまっていた。
 公園の入口に植えられている木の枝を折り、理樹を埋めた地点に突き刺した。しばらくは墓標代わりになるだろうと思った。それから、どこへ行こうと考えた。
 気が向くままに歩いていると、一軒のバーに突き当たった。ネオンが点滅していた。『KNIGHT CLUB BUSHIDO』とあった。鈴はその店に入った。中は無人だった。埃と蜘蛛の巣がひどく、床や壁は落書きだらけになっていた。鈴はビデオカメラを構え、ファインダー越しに店を見た。カウンターの向こうに見覚えのあるオカマがいた。そしてカウンターには理樹と見知らぬ男が座っていた。
 男がオカマに何か指図をしたようだった。オカマは彼に背中を向け、その場にしゃがみ込んだ。足元かどこかにあるものを取ろうとしているようだった。彼は背後にまったく注意を払っていなかった。理樹は――苦しそうにことの成り行きを見守っているばかりだった。
 ごん、という音が店内に響いた。ジュークボックスからはオールディーズが流れていたが、それよりもはるかにはっきりと聞こえた。男がカウンターに乗り、おかまの後頭部をビール瓶で殴りつけたのだった。それから男はカウンターの向こうへ降り立ち、瓶が粉々になるまで男の頭を殴り続けた。返り血が頬に跳ねるのを鈴は見た。
 動かなくなったオカマを尻目に、男は店から出ようとした。出口の近くにいた鈴を睨みつけ、逃げ出そうとするそぶりもなく、ひょこひょこと店を出ていった。鈴はレンズの矛先をカウンターに戻した。理樹はそこにいなかった。

 鈴は路上に立っていた。どの方向にも歩いて行くことができた。
 風が吹いた。降り続いていた雨のせいなのか、ひどく冷たい風だった。鈴は身体を震わせた。たまたま落ちていた布切れを身体に巻きつけた。少しはましになった。
 歩いている内に、ふと商店のガラスに映る自分が目に入った。拾った布は国旗で、彼女は日の丸にくるまれていた。鈴はカメラを自分に向け、笑いかけた。
「寒いな、理樹」
 そう呟いた。
 ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。頭の片隅に残る思い出を振り切るように、また足を動かし始めた。道路はどこまでも続いているように見えた。鈴はカメラをはるか前方へ向けた。しかしいくらズームしても、はっきりとしたものは何も見えなかった。

(了)

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